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友愛と正義

みなさま

後期の授業もたけなわ、毎年そうなのですが、泥縄で必要文献を読み漁る日々で、
なかなか時間が取れずにいます。が、重要な議論ですし、思いついたことを書き
留めておくことは、いつか必ず役に立つものです。今の自分にできる範囲で応答を
試みようと思います。とはいえ、現時点では思いつきを書き連ねるに終わりそう
です。

掲示板に貼り付けようと思ったのですが、どうにも難しく、長く、読みづらく、
失礼ながら添付ファイルで送らせて頂きます。

[添付]: 39743 bytes

守永直幹 2018/11/21(Wed) 21:22 No.157 [返信]
正義と友愛(1)浦井先生
正義と友愛(1)浦井先生

>西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、一層立ち入れば
>「そもそも主語というものを必要とはしない」そのような意味での「述語的」論理という
>ものを考えているのではないか

ずいぶん読み返していないので、大雑把な話になってしまいますが、西田はまさに「そも
そも主語を必要としない」境地を理想としているように思います。主語なき述語の世界が
理想ではないか?

たとえば「我と汝」という論文で、我と汝の奥底を掘って行ったら共通の基盤に出会う、
と言ってたような。その深みに向けて晦渋な議論を繰り広げる。でも、方向が逆ではないか。
私たちはそもそも我も汝もない世界を生きていて、我や汝はそこから派生する制度にすぎ
ない。むしろ我や汝が共有する社会にこそ考えねばならぬ問題がある。謎がある。

我を言葉と論理で掘り抜いても、無が待つだけではないか。というか、実際に彼は無と
出会うのです。差異の論理を振り回した挙げ句、差異なき境地を夢見る。そんな論じ方の
帰結として、一切は無だと観じるに至る。そこに諦念と悲哀が漂う。本来、我と汝の関係に
は友愛があってしかるべきなのに。

>ホワイトヘッド的な緻密な立場というもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、
>これは以前からずっと気になっております。

ホワイトヘッドは言葉と論理の限りを尽くし、ヨーロッパ世界全体を説得せんとした。彼の
置かれた立場や教養が、緻密で厳密な語り方を強要した、という側面は確かにあるでしょう。
他にも、もっと多様な語り方があり得たはずです。この件にかんしては後で触れます。

>cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
>調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どういう
>位置にあるのか。これは「真」という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味
>からしてもです。言い換えれば、「幸福」ということについて、ということです(ちなみ
>に、経済学的に言えば、これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくる
>かと思います。)

幸福にかかわるのが経済学だとしたら、至福を問うのが哲学だと言えるかもしれません。
また「調和」は真善美という高度な理念ではなく、「友愛」amitiéという素朴な視点から
考えるべきではないか。これもまた以下で触れることにします。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 09:43 No.158
正義と友愛(2)村田先生
>今の私の職場(短大の保育科)で求められる教育内容にも、「遊びと言葉」というテーマ
>は合致してきます。「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域
>が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました

なるほど。教育の現場で、これらの諸概念を掘り下げ、かつ試すことは大いに意義があり
そうです。

とはいえ私が問題にしたいのは、もっと原初的な場で何が起こっているか?です。子供の
世界は大人により守られている。そうではなく、誰も守る者のいない世界、神にすら見放
されたような世界で何が起こっているか?

ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会
のルールを学ぶ上でとても役立つ。社会に出て行くためのリハーサルであり、本格的な冒険
を前にした小手調べであると、とりあえずは言えるでしょう。学者のやる学問も、大方は
この範疇を出ないでしょう。ホイジンガやカイヨワの遊びにかんする議論はもっぱらこの
次元の遊びにかかわる。

この意味での遊びと、ニーチェやハイデガー、バタイユ、オイゲン・フィンクらが説く遊戯
としての存在、ないし遊戯としての世界は位相が違う。こちらは実存主義的な世界遊戯と
でも言うべきものですね。区別が必要です。

ところで世界の場合も社会の場合も、たんなる遊びとか、そのルールとかで済まない次元が
出てくる。すなわち《法》とは何か? この肝心の問いが上記の「実存主義」のグループに
はまったく無かったのではないかというのが、かねてよりの私の疑念です。

あらためて浦井先生のお言葉を引用しますと、それは以下の「菱木先生の問い」と関わる。

>菱木先生の問い、そのような遊戯が、どのように「例えば美ということとして成り立つ
>としても、世における善といったことと調和するのか」という問いであった(……)
>この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和するのか、という
>ことになるようにも思われます。

この意味での「調和」は、たんなる遊びの規則に留まらず、もっと根源的な法の問題に抵触
するはずです。真・善・美というギリシャ的な理念は、その背景として法への問いとセット
になっていた。プラトンもアリストテレスも「法とは何か」と問うています。子供の遊び
から大人の遊戯へ、ひいては「仕事」への移行にあたり、この問題が問われねばならない。

しかるに20世紀の実存主義の流れにおいて、それが問われることはほとんどなかった。
ニーチェの「力への意志」がナチスに利用され、ハイデガーが積極的にそれに加担すること
になったのは、おそらくこの問題と関わっている。存在への問いには、法への問いが欠落
している。

>言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこに
>すでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉
>以前の世界です。

言語以前の世界が「原初的」な世界だと私は思いません。そもそもホワイトヘッドなら、
そうした言い方を拒むはずです。いまだシンボリズムが十全な形で到来していない世界に
も因果効果が働いている。原始的とも思える生物にも現前的直接性への視界が開けている。
そこには私たちがいまだ言葉や記号として表現できずにいる象徴体系が歴然と存在する。

この意味での象徴体系は動物とも共有可能なもので、たとえば公園でボールを投げると
飼い犬が喜び勇んでそれを取ってくる。大得意で飼い主の足元に置く。この遊びに言葉は
介在しませんが、たしかに濃厚なコミュニケーションが成立している。子供たちの素朴な
遊びも、これに近い。親と言葉で話す以上に、彼らはペットの動物たちと意思を通じ合わせ
ている。言葉が発達し、大人になるにつれ、そうした身体言語を介した全方向的なコミュ
ニケーションを私たちは忘れてしまう。動物と話せなくなる。

もっと大局的に見て、そもそも宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの
精緻な法則性を示している。そこにはほとんど遊びはない。過酷なまでの法則が支配する
世界です。この宇宙で、ある種の「自由」を享受できるのは、人間や動物のような高度に
有機組織化された存在だけです。自由とは、ひいては遊びとは高度なルールを前提とした
戯れであり、途方もなく贅沢な営為なのです。

バタイユのように一切は戯れだと言い切ってしまえば、世界は極めて解り易くなる。これに
対してホワイトヘッドは生成消滅する世界の理(ことわり)を求めた。サイエンスの発達と
ともに、世界を動かす法則に関する知識は深まる一方ですから、彼の理論もまた複雑化を
余儀なくされる。しかるに哲学が何かしら意味ある営みたらんとする限りで、こうした複雑
化・精密化は避け難いと、おそらく彼は覚悟していた。

上で浦井先生が指摘された「ホワイトヘッド的な緻密な立場」、それはこの問題と関わる。
かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以前の次元で作動
している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化せんとしていたからだと私は
思います。そうすることでインド=ヨーロッパ語族的な主語―述語論理を突き崩そうと
企てた。それは論理を貫徹するような形で遂行されるほかなかった。

これは西田哲学の行文が晦渋なのと性質が異なります。西田には、この意味での身体性や
象徴体系への理解がほとんどなかった。たとえば、かれの「行為」の概念はあまりに抽象的
です。そうであるがゆえに、やたら小難しい議論を際限なく繰り広げることになったのでは
ないか。それが私の西田および京都学派への現状での評価です。

>遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な
>構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。

ここで村田先生が仰っていることはまさにその通りなのですが、ホワイトヘッドにおける
論理の要請は、その根底に身体や環世界への透徹した眼差しを前提としている。それは論理
や体系性をそれ自体として第一義的な目的としていたわけではない。あくまで結果として、
そのような表現をせざるを得なかったということだと思います。そこには倫理的な要請が
あった。それが後楽園の学会で私が言わんとしたことです。この点が、これまでホワイト
ヘッド学会では全く論じられてこなかった。

>人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても(……)
>もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポ
>ーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようと
>しているのです。

ホイジンガは確かにそう考えていたように思います。私もバタイユをやっていた頃は似た
ようなことを考えていました。しかし今は違う見方をしています。根源的なものは遊びでは
ない、と思うようになった。それはホワイトヘッドの影響かもしれません。根源的なものは
秩序への意志ではないか。宇宙はまず秩序を求めたのではないか。そう思うようになった。
なぜ秩序が必要か。それは生存のためです。

>この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを
>意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動
>(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。

ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的なものとは創造、ないし創造への衝動で
しょう。それをcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、そこに創造されるものとは
宇宙の秩序です。宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。
最初に遊びがある、という言い方をホワイトヘッドは絶対しないはずです。

秩序への要請こそが有機体の哲学の核心にあるものです。むろんそれは旧弊な秩序を墨守
することではあり得ない。宇宙は新しいものとして創造され、新しさへ向けて不断に前進
する。その前進の過程に関わるものが冒険であり、冒険の中に遊びを見ることはむろん可能
です。が、根源的なものはあくまで秩序である。そして秩序は合理的なものでなければなら
ない。さもなければ無です。合理的なものであるかぎり、それは理論的に解明できる。これ
がホワイヘッドの信念だと言えましょう。

『過程と実在』の心臓部は命題論だと私が見るのは、それがまさに秩序生成への鍵概念と
なるからです。人間社会の秩序は命題の設定から始まる。命題は法として共有され、社会を
有機組織化する。それがなければ社会は存続できません。私たちはまず生きねばならない。
生きるためには食べねばならない。遊びが可能になるのはずいぶん後の段階です。

愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせるかという課題を担う。
法学は社会を暴力から守り、いかに安定的に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前
に迫りくる死や病いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。というか、
遊びではとうてい済まない。

>まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出す
>ことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけ
>ではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発
>性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それが
>ホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼は
>あまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。

「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』なんだと思います」
というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホワイトヘッドの体系から、こうした論理
を導き出すのはかなり無理があり、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要が
あるのではないか?というのが私の印象です。

>「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておく
>べきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった
>「余剰」も、何世代か先に体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そう
>なったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、
>広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、
>その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな
>風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。

ここで村田先生が仰っていることはまさに至言と言うほかありませんが、私たちとしては
ホワイトヘッドの体系性への要請が、秩序への強烈な意志から来ていることを忘れるわけ
には行かない。それが遊びといかに折り合えるのか。実際には、そんなに簡単なことでは
ないのではないか。

むしろ私たちがホワイトヘッドから学ぶべきは、その体系性への意志、秩序への渇望の方
なのではないか。むろんそれは素朴な理性礼賛とは縁もゆかりもないものです。また、極東
小国で思索する私たちが、その挙措を単純にまねることも意味を成さないでしょう。私たち
は自分なりのやり方で、ありうべき秩序への問いを洗練させねばならぬ。それこそが今の
あからさまなポストモダン状況、ないし土俗性への回帰とも言うべき悲惨な状況において
求められていることです。

>ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々
>思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で
>一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界との
>あわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。

>言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえた
>かもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしま
>う、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。
>無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャル
>としてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界
>が広がっているように読めます。

>それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論
>を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように
>思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み
>方ができそうなところが出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的
>抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていく
>ようなところがあります。

>守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとの
>ことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に
>切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論
>とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、
>ぜひ。

以上の「リクエスト」、まさに我が意を得たりという感があります。今どうこう言えません
が、将来の宿題とさせて頂きます。ただし、いささか難しすぎる要求です(笑)私としては、
遊戯の哲学者としてのホワイトヘッドという解釈を貫徹するには、まさに村田先生こそが
このリクエストに自ら応えるべきではないか?という感想を持ちます。ぜひ。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 09:48 No.159
正義と友愛(3)村上先生


>「思うに命題とは、その意味を共同で担保し、限定し、未来に手渡そうとする善意志なき
>ところでは、無意味に堕すものなのだ。命題の文言に意味が内在しているわけでは更々
>ない。共同の努力なきところでは、あらゆる命題は無意味の淵に沈む」

>「未来の法を構想する企て」としての哲学につながって行くと思うのですが、ここでおっ
>しゃる善意志というのは、「万人にとっての普遍性」を持つものである、と考えてよろし
>いでしょうか。

「万人にとっての普遍性」であり、なおかつこの要請は人間社会を超えて、生命世界全体を
牽引すべきものであるとホワイトヘッドは考えているように思います。そこにベルクソン
との接点があり、また両者の独特の進化論的発想につながって行くはずだと考えています。

ところで “pro-position” という概念ですが、以前に村上先生から質問を受けたということ
もあり、上記の「善意志」との絡みで若干の補足を試みておきます。

この語は伝統的に「命題」と訳されてきましたが、それで良いのかどうか実は問題です。
原意から考えると、命題とは各人の視座から見て取った世界の像(ライプニッツのいう表象)
を切り閉じして「前に置くこと」、それにより世界を枠取りし、見えるものと見えないもの
を線引きすることです。そこには積極的(ポジティブ)な抱握と、消極的(ネガティブ)
な抱握が生じる。

命題化とそれに伴う概念化により、世界は図式化され、デザインされる。そうした命題化へ
エネルギーを供給するのは欲求であり、ひいては欲望です。一切は流動的な多様体の中で
生じている。いくつもの活動が相俟って、活きた有機的な組織体が立ち上がる。それが宇宙
の実相です。

「前に置く」pro-position と「上に投げる」super-ject は密接に関わる1つの事態です。
前か、上かの違いはありますが、それはどちらも脱―自的な運動を表わす。反復される《自》
を出、生成として前へ、上へと超脱する。そこから見えた情景が命題化される。その意味では
命題化こそが存在するものの本質的な働きです。人間とは命題化する存在だと見なすことが
できます。のみならず生命それ自体に、そんな運動性があるのではないか。生命は、今際
(いまわ)の際に世界をありのままに見ようと欲する。

前に置かれたものは、自らを他に示す。たとえ提題者が個人でも、命題は万人に共有され
ねばならない。すなわち「公的」でなければならぬ。命題を介して私たちは自らを表現する。
表現の核心には必ずや命題が抱懐されている。人間とは、ひいては生命とは、主体である
と同時に自己超越体である。それは命題化により前進する活動体なのです。

ところで主体とは同時にネクサス(隣接体)でもあります。主体と主体の間には絆が想定
される。絆とは法でもあり得ますが、まず第一義的に「友愛」(フィリア)と見なさねば
ならない、というのがアリストテレスの主張です。

ところで、ホワイトヘッドの挙げる卓越した文明の5要件には肝心の自由・平等・友愛が
含まれていない。あまりに当然と考えたのか。しかるに平和も美も、自由や平等ひいては
友愛という基盤なしには存立し得ないはずだ。友愛なき平和などあり得ない。そして法、
法における正義なしには。

ようは、ホワイトヘッドの文明の5要件は最高度に組織化された社会の話で、文明そのもの
の基礎要件ではない。

17世紀の天才の世紀を言祝ぎ、近代科学の同伴者であろうとしたホワイトヘッドには
「友愛」という次元への理解がなかった。ルソーへの関心も薄い。英米系の哲学者だから、
ということもあるのでしょうか。これにたいし、たとえば同時代のフロイトは、ひどく
倒錯した形ではあるにせよ、父殺しにおける兄弟の共犯性に着目している。

友愛は正義に先立つと喝破したのがギリシャのアリストテレスでした。近代の曙にあたり、
その重大さに気づいたのがモンテーニュで、16世紀ルネサンスの偉人です。『自発的隷従
論』で知られる、無二の親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーをペストで失った彼は、故郷の
尖塔に引きこもり、友愛という概念を手掛かりに世界全体を問いにかけることを決意する。
それが『エセー』という企てでした。

ところが、17世紀科学革命を牽引したデカルトやライプニッツは、そんな人間的な問題
など歯牙にもかけなかった。むしろ前世代のモンテーニュを小馬鹿にしていた。機械主義の
時代が始まります。

18世紀に入って、ルソーが改めてこの問題を取り上げ直したと言えます。が、友愛におけ
る透明性の概念(スタロバンスキー)を無自覚に国家規模に拡大してしまったために、後世
に大いなる禍根を残すことになった。フランス革命の思想家&革命家たちは友愛を兄弟愛
(fraternité)と解釈し、いわば「義兄弟」の契りを交わす。そのあげく兄弟による父=王
殺しという、まさにフロイトの図式通りの蛮行を行なうことになる。

これを痛烈に批判したのがイギリスのエドマンド・バークで、その保守主義の流れを引く
ホワイトヘッドが、友愛概念を歯牙にもかけないのはどこか頷けるものがあります。

19世紀はニーチェしかいません。20世紀のファシズムと大衆消費社会の時代、ニーチェ
の影響のもとにバタイユとブランショが改めて友愛を問う。

むろん、このリストにマルクスの名を忘れてはなりません。来たるべきヨーロッパ、来たる
べきコミュニズムは友愛の成否にかかわる。デリダが晩年に考えていたのはこのことです。
私たちは「女」の、そして「動物」の友になれるか?

アリストテレス=モンテーニュは、2つの体が1つの魂を共有するのが友愛だと断じて
います。これにたいしてデリダ『友愛の政治学』は「差異だ、差異だ」と言い募るばかりで、
いっこうに話が噛み合わない。モンテーニュの読解としても至って底が浅い。

とはいえ、そこにニーチェからシュミットに至る「敵の政治学」を対置するのが、この人の
真骨頂でしょう。また、そんな分岐の起点としてアウグスティヌスを召喚するところに虚を
突かれました。デリダは気づいていないようですが、この神学者は友愛を記号化したのです。
それが以後のヨーロッパ文明の動向を決定づける。

去年に引き続き、人間・動物・機械というテーマで授業を始めたのですが、機械の裏面が
友愛だと見なすと大変面白いことになる。実際フーリエにおける社会とは愛の機械である。
これはヨーロッパ近代の極めて重要な動線なのですが、ハイデガー=デリダの視野には
全く入っていない。科学史&技術史にさっぱり関心がないのです。

その対極に、山本義隆の畏怖すべき労作『16世紀文化革命』がある。文化をあくまで技術
革命の視座から見る。この革命をもっぱら牽引したのはアカデミズムの外にいた商人や
医者や技術者です。この点をもっぱら強調する。しかるに、それは否定すべくもない。と
いうか、否定する者など誰もいないでしょう。それは結局16世紀ヨーロッパ技術史に過ぎ
ない。

やはり16世紀と言えば、モンテーニュやラブレーです。あるいはシェークスピアやセルバ
ンテスです。かれらが引き起こした精神の革命ともいうべきものが16世紀ルネサンスで、
その意義を改めて科学史や技術史との関係から考えないといけない。それは哲学的にやる
しかない。この意味での「哲学」が山本さんの本にはない。あくまで思想史にすぎない。
思想史でしかないという点で、それは日本の旧弊な大学的知の枠内にとどまっている。

などという議論を思いつきで話し始めて、このままでは授業が混沌状態に陥りそうなので、
あまり深入りはせず、このテーマは来年に回そうと思っているのですが、いい機会ですので、
ここで若干紹介しておきました。

ごく大ざっぱな触りにすぎませんが、言わんとするところは、真・善・美といった高尚な
理念とは別に、アリストテレスにはもっと根源的な倫理の次元における友愛への注視が
ある。それは正義、いいかえれば法との関係で考察されねばならない。この点にようやく
思い至ったという次第です。



本日は平常授業がお休みで、若干時間に余裕があり、この機会に書けることを書いておく
ことにしました。公的な生活ばかりか、遺憾ながら私的生活も混沌状態に陥りつつあり、
今日でないと無理っぽいので、乱文乱筆を顧みず、掲示板にアップしておくことにします。

**

貼付ファイルだけでは不親切かと思い、若干筆を入れ、掲示板にも貼り付けておくことに
します。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 10:01 No.160
Re: 友愛と正義(2)村田先生
守永先生が私(村田康常)に宛てた投稿(「正義と友愛(2)」)は、たいへん参考になりました。応答すべき点も多く、論点をきちんと把握し整理した上で1つずつ答えていくべきところですが、そのための時間も手間もかけられない毎日で、たいへん雑な文章になってしまいますが、これ以上の彫琢は断念してひとまずの応答をお返しします。かなりの長文で、読むのに時間がかかりますが、お時間のあるときにご笑覧ください。


まず、秩序の創造がホワイトヘッドの哲学の主眼点だという守永先生の論点は、ホワイトヘッド読解のいわば王道で、ほとんどの研究者がまさにここを主題としてそれぞれの視点からホワイトヘッド解釈を行ってきました。創造性と調和(あるいは創造性と秩序)をいかに論究するか、がホワイトヘッド哲学の、そしてホワイトヘッド哲学解釈の、ど真ん中の主題です。これから守永先生がホワイトヘッド哲学の中に秩序への意志を看取しながら論究していく先が、とても興味深く、議論の筋道を凝視していたいです。


遊びについては、守永先生のおっしゃることは、3つの論点以外は大賛成です。

世界も社会も実存も、守永先生が言うように、遊びのようなレベルでは済まない、切実でのっぴきならない側面や、鉄面の論理がある。そこは確かです。ただし、そういう論理性も、遊びという活動が包摂してしまう、というところまで「遊び」概念は広げられると私は思っています。真面目さも、論理も、少し深い相まで降りると、遊びとは対立せず、むしろ遊びに包摂されていきます。
ちょうど、ヘラクレイトスの「火」が、表面的にはロゴスと対立するものでありながら、「永遠に生きる火」のメタファーが示す躍動し渦巻く宇宙全体のその旋回する姿自体がロゴスだと論究されていくことによって、「火」の躍動がコスモスすなわち美的秩序の宇宙のロゴスとして示されるのと類比的です。遊びも現象の表層では真面目と対立しますが、生死がかかったような真面目で真剣な活動そのものもまた「遊び」概念のなかで捉えるような観点に立つことが、ホイジンガの到達点でありフィンクの出発点だったと思います。

遊び概念に照らしてホワイトヘッドを読解しようという今回の私の議論も、まず、そういう「遊び」概念の深まりに立つことから出発しました。ですので、守永さんが最初に、子どもの遊びの世界は大人によって秩序づけられ守られた世界の中で成立している、という理解を立てて、そこからホイジンガやフィンクへの言及を含む議論全体を組み立てている点は、賛同できません。常識的にはその通りなのかもしれませんが、そういう秩序のなかでの遊びが成立するプロセスそのもの、遊びを成り立たせる秩序自体が成立していくプロセスそのものが遊びだという、そういう観点に立たなければ、ホワイトヘッド宇宙論を遊び概念で論究することはできないでしょう。人間の文化的な生活も文化そのものも生み出すような世界の諸活動を遊びと捉えるような、そのような意味での遊び概念まで降りていくのが、ホイジンガの議論であったし、そういう遊び概念を前提として宇宙を論じたのがフィンクだったし、ホイジンガのそういう到達点を批判しながら遊びの文化哲学を展開したのがカイヨワでした。

遊びも真面目な活動も、一切の活動を成立させる秩序の生成する創造活動そのものが、遊びである、ということが、彼らが(ホイジンガは最終的に、フィンクは論究すべき前提として、カイヨワは批判的に、そしてベンヤミンは批判しつつ立ち返るべき原点として)共有している「遊び」理解の大づかみな概観です。そして、そういう遊び理解に立てば、なぜホワイトヘッドの宇宙論が遊びの宇宙論なのかも見えてくると思います。「常識的」に見られた遊びや子どもの生活の成立してくるプロセスやその根底に開けている世界を問うことで、子ども理解も遊び理解も深まる、そして、その深まりはホワイトヘッド読解にもつながっていく、というそういうところで私はこの夏以来、ワクワクしています。

守永先生の議論はいつも目まいがするほど面白く、示唆に富むのですが、今回の遊び議論では、出発点のところで、ホイジンガでもカイヨワでもフィンクでもベンヤミンでもなく、常識的な狭い遊び概念をもってきて、結局、論理や真面目さやのっぴきならない生死の世界の切実さとは切り離され、対比されたものとしての遊び、という見方しかできなくなってしまった点は、物足りなかった(すみません!)です。

むしろ、なぜバタイユの蕩尽や遊戯では不十分なのか(なぜバタイユが守永さんにとって遊戯の哲学としても、経済の哲学としても不十分なのか)、その点を論じていただくと、遊戯の哲学とも、またおそらくはバタイユと経済学に関する議論とも、接点が出てくるとともに、守永先生のバタイユ批判を経由したベルクソン論、ホワイトヘッド論にも展開する議論となるのではないかと期待します。

バタイユはさておき、西田幾多郎は私もいつかまた正面に据えて論じたいです、私の大学院のときのホワイトヘッド体験はいつも西田哲学とホワイトヘッド哲学の対話という主題をめぐっていたので、いつかその原点に帰りたいと思っています。

また、ホイジンガやカイヨワの系譜と、ニーチェやハイデッガーやフィンクの系譜とは、守永先生がおっしゃるとおり、確かに大きな違いがありますが、強い接点も見いだされると思います。ホイジンガのホモ・ルーデンスは、最初に遊びと真面目や切実さを対立させて、その対比によって遊びを定義してから議論を開始しますが、最後には、真剣な真面目さや切実さで勝負する世界も含めて、人間が文化的な存在として生きている宇宙全体が遊びだという観点を拓こうとしています。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の末尾で次のように述べていました。

「人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見いだす。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ『すべては遊びなり』がのし上がろうと構えている。」

「すべては遊びなり」とはどういう社会、どういう自然、どういう宇宙なのか。少なくとも、それは旧約聖書「伝道の書(コヘレトの書)」の「空の空なるかな、すべては空なり」という世界、守永先生の言葉とは少し違う意味かもしれませんが、神にまで見捨てられた世界を示した言葉として2千年間キリスト教文化圏に響いてきた言葉が示すような、そんな世界に代わる世界だということをホイジンガは最後に示そうとしています。「すべては空」の神なき世界に代わって、確かに神なき世界であったとしてもそこに満ちた創造活動を形容するには「すべてが遊びなり」の世界とみるような少し積極的な観点を示そう、というのがホイジンガの結論部分だと思います。結論部分なので、彼自身は、「すべてが遊びなり」という観点から論究された自然哲学や宇宙論を示してはいませんけれども、しかし、遊戯の宇宙論を展開したフィンクに連続していくホイジンガの観点がここに確かに示されていると思います(もちろん両者の違いは守永先生が示したように明確ですが)。

ここで「すべてが遊びなり」というホイジンガの最後に提示した積極的観点が、この「世界に満ちている生成消滅の創造活動」を示すメタファーだと理解すれば、これはフィンクの遊戯の宇宙論やニーチェ、ハイデッガーの遊戯の存在論(生成論)にも通じるし、またホワイトヘッドの宇宙論にも通じると思います。

「遊び」を、高度に秩序づけられた舞台でなければ成立しえない、守られた活動性と見るような限定的な視座から解放したのが、ホイジンガでした。そして、そんな風に「なんでもあり」のところまで到達してしまった「遊び」概念を、もう少し文化的な事象を論じることのできるレベルまで引き戻した(つまり『ホモ・ルーデンス』の最終到達点を、この本の中盤の文化論の地平まで引き戻した)のが、カイヨワです。しかし、カイヨワも人間が人間以外の何か(自然とか聖なるものとかおそらくは機械とか)と触れあい交わりあう活動や感覚をほぼすべて遊びと呼んでいますし、考えられている以上にカイヨワの世界は「すべてが遊びである」という世界に近いと思います。

遊びは、規則のなかで成立する活動である以上に、規則を成立させる活動だということは、ホイジンガもカイヨワもアンリオもベイトソンも強調しています。そこに、秩序のなかで成立する活動性が、また、旧来の秩序を超えて新たな秩序を創造する活動となる、というホワイトヘッドの創造性/調和の議論が見えてきます。ホワイトヘッド宇宙論が遊びの宇宙論であるというのは、そのような意味です。

守永先生に基本的には賛成ですが、おかしいな、と思う3つの点のうちの1つが、こういう「遊び」概念についてです。守永先生はカイヨワもホイジンガもフィンクも知悉しているので、遊びを「大人によって秩序立てられた世界のなかではじめて成立するような子どもの遊び」として見る見方をはみ出しながらこれを包摂するような彼らの議論に立ってみた方がよかったと思います。

ホイジンガの「遊びは秩序を創造する。遊びイコール秩序である」(ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社、講談社学術文庫、2018年、31ページ)という言葉とその前後の箇所では、遊びを可能にする秩序とともに、遊びによって成立していく秩序が語られています。言い換えると、遊びは、規則によって制約された自由な活動であるとともに、自由な活動によって規則を生成させていく活動でもあるということです。

遊びを成立させる秩序を論じようとすると、その秩序を成立させる活動としての遊びが見えてくる、という遊び概念の広がり・深まりが、ホイジンガやカイヨワやフィンクなどに見られる共通点です。

ホイジンガは端的に「遊びはすべて、なによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。せいぜいそれは遊びの義務的焼き直しにすぎない」(ホイジンガ、前掲書、26ページ) と言っています。日本の絵本の歴史を開拓してきた老舗出版社「福音館書店」の編集長・社長だった松居直は、保育士や幼稚園教諭に向けた雑誌の連載のなかでホイジンガのこの言葉を引用して、「子どもは遊びによって自由になり、その中で創造性を発揮します。遊びの中で好奇心を働かせ、独創性の芽を自発的に育てているのです。自発的な遊びによってこそ自由をしるのだといっても過言ではないでしょう」(松居直『絵本の現在 子どもの未来』日本エディタースクール出版部、2004(1992)、14ページ)と述べ、さらに、保育者と保育を志す者たちに向けて、「それゆえにこそ、教えられたり、管理されたりしなければ遊べない子どもたちは、すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失しているのです。大人が安全性を過度に意識しすぎることによって、制約され、管理されている現代の幼児の遊びは、幼児教育をなしくずしにしているのではないでしょうか」(松居、前掲書、14-15ページ) と警告しています。だからこそ、保育・幼児教育の現場から遊びをもう一度考えるときに、ホイジンガ、カイヨワ、ベンヤミン、フィンク、あるいはフリードリヒ・フォン・シラー、さらにはベイトソンやチクセントミハイ、梁塵秘抄から北原白秋、谷川俊太郎まで、遊びの哲学のさまざまな系譜を総ざらいしながら宇宙の創造活動それ自体が遊びであるというところまで徹底してみる必要があると思われるのです。

子どもの生活や保育・幼児教育の現場において、遊びの宇宙論という観点から遊びを捉えなおす必要があると私が主張するのは、守られた遊びや作られたルールや整えられた環境や所与のシステムの中でのゲームといった意味での「制約され、管理されている現代の遊び」の蔓延(子どもの生活のなかにも大人の生活においても、個人の趣味的活動においても社会の生死をかけたような真剣な営みにおいても)によって、遊びがもつ想像力と創造性が、「なしくずしに」なっているという危惧があるからです。うまく言えていませんが、そういう危惧と、しかしそこに何か新しい面白さの種のような、創造性や想像力の飛躍に結びついていくような期待とがあるから、遊びの宇宙論が保育や幼児教育や子どものケアにも、ホワイトヘッド哲学にも、つながっていくという強い予感を抱くわけです。

> ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的な
> ものとは創造、ないし創造への衝動でしょう。それ
> をcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、
> そこに創造されるものとは宇宙の秩序です。宇宙の
> 秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決して
> その逆ではない。最初に遊びがある、という言い方
> をホワイトヘッドは絶対しないはずです。

このように守永先生は書かれ、また、投稿された「正義と友愛(2)」の冒頭部分では「子供の世界は大人により守られている」あるいは「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会のルールを学ぶ上でとても役立つ」と書かれています。このような意味で、秩序によって守られ、大人によって、社会のルールによって守られたものとして「遊び」を捉えているかぎり、それは「せいぜい遊びの義務的焼き直しにすぎない」とホイジンガが切り捨てたような遊びの派生形態であり、そのような観点からは、上記のような遊びのもつ「自由」や、所与の秩序からの逸脱と新たな秩序の「創造」といった特徴は見えにくくなってしまうおそれがあります。遊びには、守られ、ルールによって制約されつつ秩序づけられてはじめて成立しうるという限定性あるいは制約性と、そのような制約を脱して新たな秩序をめざそうとする自由とのコントラストがあます。このコントラストにおいて根源的な創造性が具体化され現実化される、という洞察は、まさにホワイトヘッド哲学の主張するところです。守られ、教えられ、管理され、制約された条件においてしか遊べないとしたら、子どもたちも大人も、「すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失」している、と言わざるをえません。

守永先生が示したような常識的に理解された範囲での遊び(秩序・大人・社会のルールなどによって守られて成立する遊び)を遊びの第一の相と呼ぶとすると、その相を成立させるための創造活動もまた、遊びと呼ぶべき活動であり、ひとまずそれを第二の相と呼ぶことにします。第一の相での遊びは、深刻さや真面目さや切実さといった概念と対立する活動ですが、第二の相はそれらをも包摂するような秩序創造という意味での遊び概念ということになります。それは、それ自身と対立するものも包摂するような創造的な活動ですが、そこには、全体として最終的な活動目的となる「何のため」が欠けている。あるいは、かりそめの「何のため」が第一・第二の相において見えていたとしても、その底のところでは、究極の目的も根拠も基盤も安定した大地も秩序もない活動性の大きな渦のようなものが広がっている。それは、なじみのものへの愛着を抱きつつも、それを超え出て「新しさ」を求めていく衝動、としか呼べないような匿名の活動性です。それを「空なるかな」と見るのではなく「遊び」と見る、といういわば第三の相の「遊び」概念、遊びの形而上学的宇宙論とでもいうべき概念が開けている。

第一の相は、守永先生が言ったような「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係」であるという遊び理解、「秩序が成立して初めて許される」ものとして遊びを理解するレベルで把握されている遊びです。それはホイジンガが議論したレベルですらなく、むしろホイジンガもカイヨワも、そのような第一の相の遊びが成立するための秩序を創造する活動まで含めて、遊びと呼んでいる。この、自らが成立する条件にもなる秩序を自ら創造する活動性、というのが遊びの第二の相です。そして、その第二の相の遊びとしての秩序創造の活動そのものには、それを成立させるような秩序立った場はない、世界は秩序を生み出す遊戯的な創造活動の渦だ、という意味での遊びの宇宙あるいは宇宙の遊びというのが第三の相です。

そこまで遊びの論究を深めていこうというのが、フリードリヒ・シラー、ニーチェ、ホイジンガ、カイヨワ、フィンクなどの「遊びの哲学」の系譜です。その系譜が示すこうした第二、第三の相の「遊び」概念は、ホワイトヘッドの宇宙論における創造性の解釈に使える、というのが、私の見立てです。

フィンクは「世界は遊ぶ」と言っていますが、これも、第二、第三の相で遊びを見ている見方です。そして、第一の相の秩序によって限定されつつ秩序によって守られた人間の遊びは、第二、第三の相での「世界の遊び」から論じられなければならないとしています。

「世界は遊ぶ。しかし、人格としてでも、「仮象」や「非現実性」や空想的舞台をかち得るというように遊ぶのでもない。われわれが世界の遊びを語ろうとするなら、われわれは人間の遊びの遊び構造を決定的に改め考えねばならず、しかもこの遊びが世界の支配から派生したものである場合の諸特徴において改め考えねばならない。」(フィンク『遊び―世界の象徴として』千田訳、320ページ)

私も、保育や幼児教育で遊びを論じる時には、一度、遊びの宇宙論という相に立って、そこから論じなければならないと思います。遊びを、大人の作った秩序ある世界のなかで守られた単なる児戯と見るような視点を捨てて、そういう第一の相での遊び理解も到達点に含んだ、もっと大きな世界の活動性として見るような、ホイジンガの到達点、フィンクの出立点、ニーチェの観点に届こうとする試行錯誤のなかで遊びを考えてみると、子どもの遊びの世界も(私には)よりリアルで面白く深く見えてくるし、そもそも世界ぜんたいをよりリアルに面白く深くとらえる視点が開けていくように感じます。
その開けていく先で、ホワイトヘッドの宇宙論とも深くつながる(ベンヤミンともかかわる)創造性と秩序の両方に触れながら両方を含んだ宇宙が見えてくるように感じます。遊び概念をそこまで拡大延長していくのが、今の私のねらいです。

ここがおそらく守永先生の「(宇宙の)創造的衝動=秩序(への意志)」という理解と、「(宇宙の)創造的衝動=秩序ないし調和への意欲=遊びの源泉」という私の理解とが重なる点であるとともに、分岐する点でもあるのでしょう。秩序立った宇宙としてのコスモス(秩序としての宇宙)を新たに意欲する創造性の宇宙的衝動によって生起する、「遊び=秩序を創造する活動」に満ちた宇宙(創造活動の場としての宇宙)という理解は、世界が新しさへと創造的に前進するプロセスを論究するホワイトヘッド宇宙論の中心的な主題に迫る可能性をもっていると確信しています。

これに関連して、守永先生の書かれたことで首肯できない記述があったので、少し触れておきます。それは、経済学や法学や医学が生死にかかわることを扱う真剣勝負の世界だから、学問には遊戯性があるなどとは言えない、遊びとは対極の真面目なことを、真面目に議論しているのだ、という論旨です。

> 愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせ
> るかという課題を担う。法学は社会を暴力から守り、いかに安定的
> に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前に迫りくる死や病
> いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。とい
> うか、遊びではとうてい済まない。

生死の壮絶な営みも、食うか餓死するかの営みも、遊びどころじゃない、というのはその通りなのですが、その言葉は学問の言葉ではなく、生死や食うか飢えるかの局面での言葉です。同じ局面からは、真面目に学問やっているどころじゃない、という言葉だって切実な叫びとして出てくるでしょう。ここで守永さんが遊びを否定する言葉は、そのまま、学問を否定する言葉にもなりえます。

生死がかかっているような営みであっても、その営みを学としては「遊び」という観点から見ることの意味はあるし、たとえばそのように見ることで何かが見えてくるのではないかという探求が学問であって、必死の営みは「遊び」ではとうてい済まないといった常識的な枠組みに固着した観点からの学問は勉強の対象ではあっても、研究の営みではないのではないでしょうか。もう一度言いますが、生死の営みも、その営みがかかった学問の営みも、宇宙の遊びという観点から遊び戯れと捉えるような観点から論究することが、学問を論究する学としての哲学の営みの1つとして成立するはずです(その論究に可能性があるのかどうかといった問題は確かにありますが)。そして、そうやって遊び概念で括ることで、守永先生も認めるような、遊び概念につながっている想像力や自由、創造性、秩序の創発と発展と頽落と破壊、そこに見られる関係性とプロセス、美と真、そしておそらくは倫理性などが一つの観点から見えてくるでしょう。そこまで拡張すると、それはもはや「遊び」という言葉で呼ぶ必要がないのではないかという異論もあるかもしれませんが、この異論に対しては、ある語をその通常理解されている意味の範囲を超えて適用していくことがホワイトヘッドのいう思弁哲学の想像的飛躍の論理であり、そこで彼はまさにこうした想像力の飛翔による適応範囲の拡大と越境を「遊び」という語で表現している、と言うしかないです。

守永先生は次のように書きました。

> 「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』
> なんだと思います」というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホ
> ワイトヘッドの体系から、こうした論理を導き出すのはかなり無理があ
> り、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要があるのではな
> いか?というのが私の印象です。

私は逆の印象をもっています。もとの学会発表原稿では、想像力の議論を主題にして論究していますが、確かに、自由と限定性のコントラストをしっかりと踏まえる必要はあります。守永先生が逆の印象をもたれたのは、私の言葉不足が主な原因ですが、もしかすると守永先生が今回の「正義と友愛(2)」の議論の最初のところで、遊び概念をホイジンガやフィンクに依らずに限定的に理解してしまったために、その概念でホワイトヘッドを解釈するのは無理があると思えてしまったからではないでしょうか。ホワイトヘッド哲学を規則や秩序への意志に貫かれた論理体系と見ているかぎりは、遊びとのつながりは見えにくいのかもしれません。

しかし、新しい秩序を創造する活動には規則性や法則性とともに、それをすり抜けたり裏をかいたりする活動としての「遊び」の要素が不可欠で、そこを宇宙の創造性の焦点だと見るのは、ホワイトヘッドの哲学のど真ん中を射抜く解釈じゃないかという自負はあります。遊び概念を根源的な活動性まで拡張することは、そんなに特殊な議論ではなく、シラーもホイジンガもフィンクもベンヤミンも、ほぼ同じ方向で拡張させています。そうやって再定式化された遊び概念は、ホワイトヘッド解釈にはかなりぴったりくると思っています。また、きっと幼児教育や保育における遊びの議論にも(そして子ども理解にも)風穴を少し開けられそうな観点が見えてくるだろう、という期待ももっています。

ただし、遊びの哲学者としてホワイトヘッドを解釈するには、文献の裏付けがちょっと弱いです。私が見るかぎりホワイトヘッドは、“play”という語を重要なところで2回だけしか使っていません。いずれも、『過程と実在』の第一部第一章、思弁哲学の方法としての「想像力」や「直接経験の観察」に関する箇所です。

少なくとも、この2か所では、「遊び」という語を想像力の躍動する「遊び」という意味でホワイトヘッドは使っている、ということは確かです。しかしそれ以上、遊びの哲学との直接的な関連を文献で裏付けるのは無理なので、あとは解釈するわけですが、私は、十分見込みがあると思います。なぜなら、ホワイトヘッドの哲学は、秩序を創造性の成立条件として見るような創造性の理解にとどまらず、むしろ、創造性を究極的なものと見て根源に据える立場であり、秩序ある宇宙の宇宙論を語るのではなく、秩序の創造プロセスとしての宇宙を語る形而上学的宇宙論の哲学だからです。宇宙論だけでなく、遊び概念からホワイトヘッド哲学に接近するアプロ―チはまた、彼の教育哲学を介して、保育・幼児教育にもつながっていく可能性までもっているとも思います。



続いて、守永先生に賛同できない第2点ですが、言葉が発せられる以前の経験の世界をホワイトヘッドは「原初的」とは呼ばないとされた点です。彼が決してこういう言い方をしないと守永先生がおっしゃるのは間違いではないかと思います。命題や言葉や意識が成立する以前の経験の世界を分析しながら、それを「原初相(primal phase)」と呼んだのは、ホワイトヘッド自身です。そのような意味での経験の「原初相」の論究は、ホワイトヘッド哲学においてむしろ中心的な論題でした。経験の契機が成立するプロセスの論究は、ホワイトヘッド哲学の主題で、身体性を論究するwithnessの議論とか、象徴とか命題とかいろいろなかたちで論究されていますが、それらの核となる経験の分析は「抱握理論」で提示されています。この抱握理論では抱握というプロセスないしは関係性の具体的事実が、原初相と派生相、補完相に分けて分析されていて、だいたい「命題」の成立する混成的抱握の成立までが「原初相」に相当します。

こうしたホワイトヘッドの議論を踏まえて、またジェイムズの純粋経験論、西田の原初相という語も意識して、私はこれまで、言葉や分別知としての意識が成立する以前の直接経験(純粋経験)の世界に関して、経験の「原初相」とか「原初的」という言い方をしてきました。もちろん、ここで言う原初的とか(言葉以前の)経験の原初相というのは、決して原始的とか文化以前とか、あるいは禅仏教的な分別知以前といった意味ではありません。

言葉以前の世界が原初的だといった言い方をホワイトヘッドはそもそも拒むはずと守永先生がおっしゃったのは、ホワイトヘッドに即して言えばむしろ逆で、言葉以前の経験の原初相の豊かさを論究するのがホワイトヘッド哲学の中心的な主題だったと言わなければならない。言葉が成立する以前の直接経験の世界においては遊びと形容すべき創造活動が渦巻いている、それは自らの成立条件である秩序を脱して、新たに秩序を創造する活動性である、この直接経験の世界は抱握理論においては主として「原初相」の分析において扱われている、そしてこの原初相の分厚さを緻密に論究しつつ派生相・補完相へのプロセスを描くことがホワイトヘッドの主題だというのが私の論点です。言葉以前の経験の「原初相」という語が示す世界をあまり単純に考えてしまうと、確かにこの主張を批判したくなってきますが、ホワイトヘッドは、言葉が成立する以前に実に分厚い経験の相があると考えていて、まさにその豊穣さを分析するために『過程と実在』の第二部をすべて使い、また第三部の前半もこの経験の原初相の分析にあてられています。命題論も象徴理論も身体性に関する議論も、抱握理論における原初相の分析も、すべて、言葉が発せられる以前の経験の原初相の論究として見なければならないと思います。また、そこから派生相・補完相に向かっての経験の展開を論究していくところは、現象学や認知哲学にも通じる面白さがあるので、そこで経験のより高次の相で秩序が生成され意識的な立場が現れてくるプロセスの論究も遊び概念のなかで見ていきたいと思います。

守永先生の議論のなかで違和感をもった3つ目が、宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの精緻な法則性を示しているという点についてです。ホワイトヘッドは、この精緻な法則性とコントラストを描くような「偶発性」や「撹乱する要素」に注目しています。これは、「ゆらぎ」とか「遊び」と言っていい。時計仕掛けのごとく精緻な法則性を示していると見える宇宙であっても、ホワイトヘッドは、この宇宙の精巧な運行のひとつひとつの契機を構成するアクチュアル・エンティティのうちに物的な極だけでなく、概念的な極も(微細ではあるが)見出しています。そういう両極性のゆえに、宇宙には、精緻な法則性とともに、常にゆらぎや偶然性がある。

すべての事物や出来事には、法則やそれがそれ自体であるといったアイデンティティなどの因果的で物的な限定性があって、この物的な限定性の効果をホワイトヘッドはアクチュアル・エンティティの「物的極」の働きとしました。また他方で、こうした限定性とは対照的な新しさへのゆらぎがあります。この対照性は、「アクチュアル・エンティティの心的極と物的極という二極性」、あるいは「自由と限定性」といった対概念をなす主題のかたちで『過程と実在』に何度も登場し、ホワイトヘッドはまさにそこを論究します。

この点に関して、さまざまな議論をホワイトヘッドは展開していますが、ごくごく簡略化して言うと、自由なゆらぎは、概念的な極の働きによります。そして、概念的な極の働きが極端に大きくなっているのが、人間や動物のような高次の有機体です。言い換えると人間や動物においては、自由と限定性のコントラストが極大になっていて、自由な活動性がほぼ絶えず湧出しているのです。しかし、人間や動物に限らず、程度の差はあっても、一切の事物や出来事が両極性をもったアクチュアル・エンティティとそのネクサスであり、したがってそこには程度の差はあっても自由と限定性のコントラストが見出されます。言い換えると、自由な活動としての創造活動は、確率や複雑さはどんどん低くなりますが、人間や動物だけでなくすべてのネクサスやアクチュアル・エンティティに見出されるものだとされています。私たちの今の文脈に引き付けて言うと、自由な活動としての遊びやゆらぎは、特別に高度なルールや精巧な秩序が成立していなくても、たえず生成消滅しているといえます。そういう意味で、時計仕掛けの機械論的宇宙ではなぜないのか、を論究するのが、ホワイトヘッド宇宙論の最大のねらいだったと言えます。

守永先生が示されたのは、この自由な創造活動が、単に何かが精緻な法則性を逸脱しながら動き回っているといった「盲目的な」乱舞にとどまらず、まさに秩序を目指し、しかも「新しさ(novelty)」としての秩序を目指した活動である(のはなぜか、またいかにしてか)、という論点です。遊び概念からホワイトヘッドを解釈するとき、ここが急所になる、という問いかけは、私は大事に受け止めて、数年単位の時間をかけて取り組んでいこうと思います。

この宇宙が唯物的機械論の宇宙ではなく、新しさへの創造的前進のプロセスであるということを論理化することが、ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論の主題であり、そこで、厳格な法則性を逸脱するような偶発的で撹乱する要素において顕著に見られるような自由な活動(と、この活動による新たな秩序の創発)を論究するのが、彼の有機体の哲学の一方の特質です(もう一方には、論理化をうながすが論理では捉えきれないような価値的・美的な直観という事態があります)。そして、そこに、身体性の問題があって、これは象徴理論や命題論と並行して論じられるべき問題です(ホワイトヘッド自身は身体論をwithness(witnessではなく、「でもって性」「をもって性」とでも訳すしかない語)の議論から出発させて、有機体と環境、象徴、命題と続けて論じています)。

遊びは宇宙の秩序が確保されて初めて許されるような、そういう第一の相の遊びだけではない。最初に遊びがある、という言い方は私はしていませんが、確かにそのように言ってもいいし、それはホワイトヘッドの創造性の哲学に合致すると思います。秩序が確保されたところに初めて許されるような遊びの表層とは別に、その根っこを見ていくと、遊びにはもっと深い相があることが見えてきて、フィンクが言ったような、世界それ自体が遊ぶといった見方が出てきます。こういう遊び概念に照らしてみることで少し見えてきたような世界の創造活動こそが、上で言ったような意味での経験の「原初相」だ、という考えは、ホワイトヘッド哲学の読解としてほぼど真ん中ではないかと思います。ホワイトヘッド宇宙論では、いきなり宇宙の秩序が主題となるわけではなく、その秩序が生成するプロセスの論究が主題です。秩序と創造性の両者を見ながら、創造的に前進する宇宙の秩序形成のプロセスを理論化する諸議論をなるべく統一的に理解したいというのが、私の読み方の基本です。

守永先生の議論に寄せて表現してみると、以下のような感じになると思います。経験の原初相においていきなり秩序が立ち現れているわけではなく、新たな秩序を目指す関係性の複合体が旧来の秩序を新しさの誕生する場として享受し(enjoy)つつ、新しさへの創造活動はその旧来の秩序が許す活動としてというよりもむしろこの所与の秩序を脱していく方向で活動を展開する。そこでは、秩序よりも創造性が主導的です。

反対に、秩序が先にたって創造性が背後に退くような局面では、同一の秩序の反復のなかでの活動性として、頽廃とか麻痺とか退屈とかばかり生まれてきて、そういう宇宙は柔軟性を欠いて固まってしまって新しさがなかなか出てこない。ホワイトヘッドはあちこちで、そういう疲労したり頽落したりした宇宙や生活への危惧を表明しています。

確かに、守永先生が言ったような「宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。」といった遊び概念(第一の相での遊びの理解)でもってホワイトヘッド宇宙論を解釈することはできないでしょう。ホイジンガもカイヨワもフィンクもそういった遊び概念は認めはしますがあまり重視していませんし、むしろそのような遊びが遊びとして派生してくるより一般的な活動を遊びとして論究することが彼らの主題でした。彼らが探求したのは、秩序をめざす宇宙の衝動としての遊びであり、秩序が確保されて許される遊びという第一の相は、このような根源的な相における遊びから派生してくる嫡子にすぎません。ですから守永先生の言葉は逆で、宇宙の遊びとしての創造性があって、初めて秩序が生成する。決してその逆ではない。そう考えないと、創造的衝動/秩序への意志と言っても、その言葉が描く秩序ある宇宙としてのコスモスは固まってしまって、結晶化した宇宙しか見えてこなくなるように思われます。

あたかも時計仕掛けに見える広大な宇宙のなかで、地球の生命圏のように、ほんとうにほんの一部にすぎないような領域であっても、生命が生きる場を拓いていくためには、どうしても根源的な相での遊びが、つまり時計仕掛けの法則性や厳密な因果的限定性の束縛を脱するような自由な創造活動としての遊びが、必要です。そこを論究するためにこそホワイトヘッドは緻密な論理性と、美的な感性との両方を必要としたのだと思います。そして、規則や秩序や論理性や緻密さも十分に重要なのですが、ホワイトヘッドにとっては美的な感性において宇宙が開示されるという側面の方がはるかに重要だったのだろうと思います。

ホワイトヘッドは緻密さを重視する論理家でありつつも、その本性はむしろロマンティストです。近代科学の席巻した時代、プリンキピア・マテマティカによって自分が切り拓いた現代論理学が哲学を乗っ取った時代に、この美的世界の実在を表現するのは韻文の詩とともに緻密な論理体系だという確信をもって、緻密であっても汲み尽くすことのできない探求美的形而上学的宇宙論を無理を承知で緻密でかつ開かれたままの論理体系によって暫定的に表現することを目指したのです。その探求を彼自身が「ロマンス」と呼んだのでした。


守永先生が、

> かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以
> 前の次元で作動している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化
> せんとしていたからだと私は思います。そうすることでインド=ヨーロッパ
> 語族的な主語―述語論理を突き崩そうと企てた。それは論理を貫徹するよう
> な形で遂行されるほかなかった。

とおっしゃっているのは、まさにその通りです。ベルクソン的な「しなやかな動作」をホワイトヘッド哲学において論究するためには、象徴理論、命題論、身体論を読み解いていく必要があります。

守永先生にいただいたご指摘はとてもありがたく、自分の議論がどういう問題をもっているのか、どういう理解のされ方があるのか、はたまたどんな可能性が内蔵されているのか、いろいろと勉強になります。


最後に、ホワイトヘッドの「命題」について。

命題論は、私も発表原稿にして学会発表したことがあります。2015年に立正大学で開かれた「アメリカ哲学フォーラム」で命題論をメインにして、言葉以前の命題の成立と多世界論というのをテーマにシンポジウムで発表しました。要するに今回守永先生にリクエストしたテーマです。しかし、あの学会は学会誌がなく、論文にはなっていません。しかも私は、守永先生のとは違う切り口で、先行する世界の物的抱握とそこに例示された永遠の客体あるいはそこに例示されたものとコントラストや関連性のある永遠の客体とを抱握するハイブリッドな抱握として、価値や意味をもった事実の事柄が成立する、という切り口で命題論を論じていて、その主眼点は、価値や意味の内在する事実の世界の論究にありました。主語―述語の形式で言葉が発せられていく以前のところで命題を論じるという点では、あの発表は守永先生と同じ問題意識をもっていました。

今は、想像力あるいはイメージと、象徴作用あるいはシンボルという対比を、命題・言葉・意識が成立していくプロセスの原初相から補完相まで貫く遊びの創造性といった観点から考えたいと思います。問題圏は重なりますが、守永先生は、ベルクソンの図式論や多様体論も視野においた命題論を論じられる可能性をもっていますし、ホワイトヘッド解釈の最大の問題点の1つでもある善・悪(と真や美とのからみも)を論じるという主題もあります。ですから、いつかお時間ができたときでいいですから、ぜひ、お願いします。

ここまで不十分にしか答えられず、申し訳ありません。説明不足の部分は、今後の課題といたしますが、わずかでも参考になる可能性があるものとして、遊びの哲学関連で最近私が書いたものが、Cinii ArticlesとかGoogle Scholarで検索すると、名古屋柳城短期大学の機関リポジトリに載っています。ここでの議論に関係する主題をホワイトヘッドやホイジンガやフィンクやベンヤミンやベイトソンとからめて書いていて、一部は答えになるものもあるかと思いますので、もしお時間があれば(とっても忙しそうですが)、見てみてください。
村田康常 2018/12/02(Sun) 01:21 No.162
スパム投稿への対策について

先日から、スパム投稿が多数見られるようになってまいりまして、個別対応
してきたのですが、昨日かなり連続した迷惑投稿があり、ご心配おかけ致し
まして、まことに申し訳ございません。9月25日の文字化けした投稿は全
てスパム投稿です。

現在は削除いたしましたが、投稿時の自動配信をさせて頂いている先生方に
は、そのまま投稿のお知らせメールが届いてしまい、ご迷惑をおかけ致して
おります。まことに申し訳ございません。

対策には投稿時の制限、自動配信の中止など、不便をともなうところもあり、
少し移行に時間をかけて、様子を見る必要があるかと思われます。
どうかご勘弁のほどお願い申し上げます。

浦井 憲 2018/09/26(Wed) 19:39 No.136 [返信]
日本語の文字制限について
今のところ、日本語で投稿していただく際に、文字制限は入れておりません。いくつか
の英単語とロシア語のフォント、ほぼ日常的には使いそうもない漢字フォントに絞って、
投稿制限をかけております。

もしも、ご投稿の文章が文字制限で連続的に跳ね返されてしまうような状況があり、上
述のような内容にもお心当たりが無い場合、メールにて当方にご連絡頂ければ幸いです。
また、もしよろしければ当方が掲示板にはアップしますので、メールにて内容をお送り
下さればと思います。どうかよろしくお願い申し上げます。
浦井 憲 2018/09/26(Wed) 19:58 No.137
Re: スパム投稿への対策について
浦井先生

後期開講を控え、ただでさえ慌ただしいこの時期、掲示板への
「攻撃」で要らぬ手間をおかけすることになり、恐縮至極です。

どうやら私の投稿がきっかけになったようですね。ちなみに私個人
に関しては、迷惑メールを徹底的に除去する設定にしております
ので、ご心配には及びません。

ただ残念ながらネットに関わるかぎりで、いや広く言論に関わる
かぎりで、この手の煩わしさは避けがたいと言うこともできます。

日本の言論状況を鑑みるにつけ、こうした掲示板での思索の営みは
重大な意味を持つと、以前から私は考えております。くりかえし
「攻撃」を受けること自体が、その重要性を証明するものです。

浦井先生の誠意とご助力は貴重で、かけがえの無いものです。深く
感謝申し上げるとともに、ご厚意を無にしないように、私たちも
また微力ながら、この共同の探究の企てを盛り立てて行きたいと
存じます。
守永直幹 2018/09/27(Thu) 12:25 No.138
本日3件スパム投稿がありました
本日、一件目ですぐに対応できれば良かったのですが、幾分対応が遅れ、3件許してしまいました。
今のところ執拗に入れてきた、辞書には無い英単語を投稿禁止ワードにすることで対応しています。
これでおさまってくれれば良いのですが。すみませんが、ご迷惑おかけ致しております。
浦井 憲 2018/11/01(Thu) 23:56 No.144
セミナー「文明と経営」その後

2017年5月6日(土)、村田晴夫先生(桃山学院大学名誉教授)をお迎えして
日本大学で行われたセミナー「文明と経営、その哲学的展望に向けて」を受け、
特にそこから提起された問い:

   私たちはそれぞれ専門を異にしますが、それぞれの学問にとって
   「具体性」とは何か、その具体性を置き違えるとはどのようなこ
   とか、学問における具体性置き違えがどのような帰結を文明社会
   に引き起こすか、具体性を置き違えないとはどのような学的態度
   ・方法なのか、そのためにどうすればよいのか(村田康常氏)

について、引き続き考えていくためのスレッドです。

【参考資料】
村田晴夫「文明と経営、その哲学的展望に向けて」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/DocMurata1.pdf
守永直幹「象徴としての人間」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaNingen.pdf
守永直幹「生命と象徴」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimei.pdf
村田晴夫「守永氏の「生命と象徴」に応える」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyMorinaga.pdf
村田晴夫「浦井先生の 5.22 コメントに触発されて思うこと」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyUrai.pdf
浦井 憲「ここまでの見取り図」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/UraiMitorizu.pdf
浦井 憲「ここまでのまとめ:学問と倫理」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/UraiGakumon.pdf

浦井 憲 2017/06/04(Sun) 22:49 No.1 [返信]
塩谷先生のコメント書き起こし
塩谷賢氏の5月6日セミナー最終ディスカッション時におけるコメントの書き起こしです。ご本人から、聞き取った人の判断で用いてもらって良いとのご許可を頂きましたので、以下にアップロードさせて頂きます。

塩谷賢氏セミナー時コメントの書き起こし http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/ShiotaniComment.pdf

 具体性は「在る」のか、という三井先生の問いから出発し、それでも「主体の成り行く」ところに具体性を認め、「関係性」ということを手掛かりに、そして具体性の Misplaced ということが仮に必然であるとしても、それでも幾分「マシ」な Misplaced ということを模索していく、そういう期待を我々は持って良いのか。当方からそのような質問をさせて頂きました。続いて田中裕先生から、「理論」における、具体性の置き違えの必然といったことのお話があり、それに続く形で頂戴したコメントです。

 村田晴夫先生のコメントを挿んだものです。再度見直しますと、村田先生にお答え頂いた「人間」の置かれる「場」こそ、確かにヒエラルキーと、その循環という「関係性」の下で捉えられた場であります。しかしそれは、鳥瞰的に捉えられたところの、「人間の置かれる場」であるとも受け取れます。ここで「具体性の Misplaced」ということが問題となる、まさにその場は、その「人間の置かれた場」というよりも、その「人間」の「主体性」にとっての「場」であり、鳥瞰的に捉えられた場とは、少し異なるのではないか。つまり、もちろん同じ場ではあるのですが、それを鳥瞰して外から眺めた場と、その鳥瞰された中に(人間の一人として)入り込んで、眺めた場は、異なるものとして扱うべきではないか。そういうことではないでしょうか。

 そして、そのレベル(つまり具体性の Misplaced というレベル)の具体性を取り扱うにあたっては、鳥瞰的に配置されたところの位置としての場(その存在あるいは実在)ということと独立に、むしろその「鳥瞰された主体の立場から見た場」の問題として、鳥瞰されたレベルのものの存在あるいは実在の問題から自由な形で、いわば関係性のみに関わる問題として、取り扱うことができるのではないか。そうであるとすれば、具体性の存在という問題と、具体性の Misplaced という問題は区別して考えることができるし、またそうするべきではないか。塩谷先生の問題提起を、幾分私なりに都合良く引き寄せて捉えている可能性はありますが…そういうことではないかと、引き続き考えてみます。
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 22:55 No.2
その他の資料
この掲示板では添付ファイルとしてワード文書、PDF、TXT、PPT、その他画像ファイルなども指定できます(約800KBまで可能です)。しかし、掲示板の仕様で添付ファイルは1つに限られており、また過去ログに入ってしまうと、添付文書は消えてしまいます。

そこで、基本的な資料については、こちらで数理経済学会のサーバーに保存し、ここからリンクを張ります。

村田晴夫『《アンデレクロスの八章》「世界の市民」に向けて』http://center@ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataEssay.pdf

守永直幹「生命と機械の間で」
(1)企業と主体の変容 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimeiKikai-01.pdf
(2)機械とは何か http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimeiKikai-02.pdf

村田晴夫『「文明と経営・生命と象徴から学問と倫理へ」――浦井憲先生の整理を受けて、改めて考えること(1)――』http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataGakumonRinri-01.pdf
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 23:27 No.3
投稿に関する留意点
以下、このスレッドにおける返信は左上の「返信投稿」ボタンを押せば、返信投稿用のフォームが出てきますので、そこにコメントを入れていただけば良いのですが、その後、投稿にあたっては、

  タイトルの右側にある 「投稿する」 ボタン 

を押して下さい。間違って、左上の「返信投稿」ボタンを再度押してしまうと、折角のコメント内容が消えてしまいます。ご注意下さい。その他何か気の付いた点があれば、随時ここに追記していきます。
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 23:42 No.4
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生
お忙しいところ、このような掲示板を立ち上げていただき、心から感謝しております。また、先生に整理していただいた今までの議論の見取り図も大変参考になります。全体を通じてじっくりと読ませていただき、いずれ議論に参加していきたいと思います。取り急ぎ御礼まで。
三井 泉 2017/06/06(Tue) 19:08 No.5
塩谷先生のセミナー時のコメントをアップロードしました
上記 No.2 の記事に、塩谷先生のコメントへのリンクを貼りました。

 三井先生、ご投稿有難うございます。No.2 の記事にも書いたところですが、三井先生からのご質問をきっかけに、当方にとりまして重要な問題が、きわめてクリアーになってまいりました。非常に有難く思っております。引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2017/06/07(Wed) 22:40 No.6
Re: セミナー「文明と経営」その後
お知らせ

村田晴夫先生先生から、下記の本をいただきました。その末尾に下記のようなエッセイが掲載されております。本掲示板上の議論とも関連すると思いますので、参考までにお知らせ申し上げます。尚、このエッセイ全文の本掲示板への公開については、村田先生に許可をいただければ幸いです。本書は、私の先輩でもある谷口照三先生からもいただいておりますので、村田先生からいただいた分を、浦井先生にお渡ししたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

谷口照三、石川明人、伊藤潔志編著『自由と愛の精神−桃山学院大学のチャレンジ−』大学教育出版(2016)所収

村田晴夫著『アンデレクロス』(桃山学院大学広報第96−112号,2000.10〜2003.12)のエッセイ

目次
第一章:現代文明と教養
第二章:地域社会と世界市民のために
第三章:文明の変貌と転換
第四章:「自由」と「愛」について
第五章:「愛」そして「開く」ということについて
第六章:「自由」と「愛」と「家庭」
第七章:「生きられる学問」のために
第八章:世界の平和そして愛

ご参考までに
三井 泉 2017/06/08(Thu) 15:09 No.7
村田晴夫先生の「世界の市民」に向けてのエッセイ
三井先生、情報有難うございます。当方も本日大学で、村田晴夫先生からお送り頂いた本を受け取りました。村田晴夫先生、大変有難うございます。さっそく勉強させて頂きます。

 本の第2章と付録のエッセイのうち、もしお許しいただけるならば、付録のエッセイの方を、私の方でPDF化し、こちらの掲示板から皆が見ることのできるようにアップ致します。
浦井 憲 2017/06/09(Fri) 14:33 No.8
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

さっそく私のエッセイをアップして頂き、ありがとうございます。
浦井先生にお手間を取らせることになり恐縮です。

先日の村田先生からの質問に応え、私なりの考えを述べたものです。
あと数回ほど続きます。学会発表のための準備でもあります。

この際、件の「具体性置き違い」にかんしても、ホワイトヘッドの
文脈に即した議論をすべきかも?などと考えています。

この言葉はベルクソン批判の文脈から出てきて、以前も論じたことが
あるのですが、その再検討を始めると、かなり長くなりそうです。

ところで、PDF化したエッセイですが、行間が狭く、文字が読みづらく
ありませんか?設定上こうなってしまうんですかね。もし何とかなる
ようなら、行間を少し広げて下さるとありがたい。

それと表題が「機会」となっております。「機械」の誤植です。

次回は「機械とは何か」について論じます。機械論の系譜を遡ると
なかなか厄介なことになりますが、今回はごく手短かに。送付できる
のは来週になろうかと思われます。

学会発表の際は、この件を少し突っ込んで論じようかと思っています。
ホワイトヘッドのみならず、ベルクソン哲学の再検討が必要です。
ドゥルーズ+ガタリにも継承される、きわめて重要な問題です。

有機体論と機械論を接合しようとしたのがドゥルーズ+ガタリでした。
ここらの流れがよく見えてきて、個人的には裨益されることの甚だ多い
議論の機会となっています。

[添付]: 20737 bytes

守永直幹 2017/06/10(Sat) 12:08 No.9
村田先生、守永先生投稿ありがとうございます
村田先生からご承諾いただき、エッセイ『《アンデレクロスの八章》「世界の市民」に向けて』を上記 No.3 記事にリンクします。村田先生における「人間」観、「世界の市民」に向けた「自己生成」ということがエッセイとしてまとめられており、貴重な資料と思います。個人的には、4章で述べられている極めて脱存在論化 (de-ontologizing) された「愛」(自我の放棄)と「自由」(自己を確立)という対蹠的な取扱いに、感銘を受けております。そして、それらの葛藤と調和ということを倫理・道徳における根源的なものとして捉えるという6章の視座に、大きな問題「普遍的な倫理」ということに向けた、可能性を感じております。

 守永先生、有難うございます。村上さんが対応して下さいましたが(なぜ訂正できたのか不明ながら)、タイトルの誤変換申し訳ありません。PDF 文書の行間も含め、再アップしました。守永先生のお話は、常に聖と俗が混交してそこが魅力なのですが、今回のテーマはいよいよその真骨頂という気がいたします。J.R.Hicks が良い理論(モデル)とはどのようなものかについて、それが現実と乖離していることによって、なぜかという「良い問いを導く」モデルのことである、と分類したと思います。経済学は当初からこの現実との乖離問題に悩まされたが故に、早くから体系化を余儀なくされたのかも知れません。まさに、批判されるためにこそ、体系化はなされて来た。ところが近年では、学の側にそのような「体系化を逃れる」ことによって、批判を交わそうとする向きがあるように思います。これは学としては、衰退というべきであろうと思っておりますが、いかがでしょうか。続く「機械」について、これは私の興味からは「普遍的言語」と極めて密接に関わるものと、引き続き楽しみにしております。

 村田先生から、当方のまとめに向けて、更に応答を頂戴いたしました。ご検討いただき、大変恐縮です。まずはゆっくりとご教示いただいた内容をかみしめつつ、またまとめてご連絡申し上げる所存ですが、問題の中でも、その最後の「B関係性」、そのまた最後の部分の「学問の自由」にかかわるところのみ、少し述べさせていただきます。

 上記、守永先生の今回の文章中にもありましたが、哲学の役割として、専門知の限界を見破るということ、これは大事なことと思います。そして、同時にそれは「論理」あるいは「論理学」のような位置づけのものに向けても、なされねばならないと思います。したがって、村田先生のご指摘、

> そこには学問の自由という問題が出てくることにもなる。
> これはこれで非常に大きな問題ではあるが、ここには一種の相対性があるのではないだろうか。
>どこまで行っても、絶対と言える学問はあり得ないということではないだろうか。

につきまして、まったくその通りであります。私が「学問」という表現で括ったところは、とりあえず「ひとつの論理--思考の普遍的必然的な法則--を共有するような範囲」ということで、これはとりあえず「現状の」と取っていただく以外無く、相対的と言う以外ありません。そして、それについて考える場は、当然哲学であろうと思います。

> 哲学として語ること、これがこれからはより重要な学的営為と期待されるのだと、私には思われる。

しかし、この「哲学として語る」とは、あくまで「学」として語るという意味で、どういうことなのか。それが当方におきましては「学の場」という問題意識です。私には、そのことが、守永先生におかれては「機械」というテーマ、そしてまた一方では、村田先生の、上にも述べた「愛」と「自由」における、いわば「de-ontologizing」ということに、深く関わっているように思われます。

 まさに、このことが、学問という立場における「愛」(学問が、自らの限界を自ら知ることをもって、自我を放棄すること)と、「自由」(学問が、そのような自らの問いを立てることで、自らを確立すること)として、学問内在的に捉えられる「倫理」として、把捉できるのではないかということです。少し、綺麗にまとまりすぎて、怖い気もしますが。
浦井 憲 2017/06/10(Sat) 18:14 No.10
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

前回の続きをお送りします。お手数をおかけしますが、アップして頂くと
励みになります。この後も何回か続きそうです。

「つづく」としたものの、その後「機械」という問題について、考えたり
読んだりしていて、きわめて巨大な問題であることが判明しました。

というか、これまでなぜ気づかなかったのか不思議です。もっと若ければ、
人生を捧げてもいいぐらいの大問題でした。残念至極です。

あまり話を広げるわけにも行かず、どこかで収斂させねばなりません。
学会発表でその一端を開陳したあと、今年後期の授業で「生命と機械」
と題した授業をやろうと思っています。


守永直幹

[添付]: 38142 bytes

守永直幹 2017/06/22(Thu) 00:48 No.11
守永先生 「生命と機械の間で」(2)機械とは何か のPDFをアップしました
守永先生の「生命と機械の間で」の(2)機械とは何か のPDFリンク
を No.3 その他の資料 記事に追加しました。


これは以前から一度、守永先生のご見解をお伺いしたかったところで、
大変興味深いです。

そうするとやはり、機械と生命を(定義的に)分かつところは、目的
に合うようにつくられているかどうか、といったあたりになってくる
でしょうか。するとそれはもうほとんど「何らかの言語でプログラミ
ングされている」ということ、あるいは材料が組み合わされて、どの
ような働きをするかについてのアルゴリズム的なフローチャートが書
ける、その意味で「設計図がある」ということとほぼ同義ではないの
でしょうか。

問題は、そのようなプログラミングの「言語」として何が認められて
いるのか、ということになってくるのではないでしょうか。ですから、
「人間」にとって、そのような普遍的「言語」あるいは普遍的「論理」
の可能性を、部分的にであれ(例えば有限の代数とか)手にしている
と考えるならば、少なくとも「人間」にとっての機械の定義は、明確
になる、というように、当方には思われます。

また、上のような(機械の定義というような)問題を取り扱うために、
哲学的議論の重要性については決して疑うところではないのですが、
その「哲学的議論」ということの何であるかについて、限定が一切無
い形で当該の議論に挑むよりも、私は敢えて「哲学的議論」とは何か
という限定を付けて挑む方が(学問の自己組織化という意味で)実り
があるように思えます。その意味でも、普遍言語もしくは普遍論理と
でも申し上げた方が誤解が少ないかも知れません、そのようなものが
まずは根底にあるのだという立場を取る方が(これは学問ということ
の範囲を、定義的に象徴システムの中で限定することにつながって来
ると思いますが)望ましいと考えます。それによって学問という自己
組織化において、学問の自由、そして学問による学問の否定、という
ことを通して、学問的な当為が得られるということの方が、望ましく
思われます。

「哲学的議論」ということに上述した限定を加える問題は、村田先生
に申し上げた「哲学として語ること」への限定としてもあるべきでは
ないかと考えます。村田先生におかれては、「人間」は成り行くもの
として、「愛」および「自由」もまた、極めて普遍的な関係性として
取り扱っておられるわけですが、そのような普遍的な関係性としての
取扱いを要請することが、即ちそういった限定に相当しているのでは
ないでしょうか。そしてそれは、学問が学問自体を肯定、そして否定
する場でもあると思います。
浦井 憲 2017/06/25(Sun) 03:20 No.12
Re: 機械と普遍言語について
浦井先生

さっそくエッセイの続きをアップして頂き、ありがとうございます。

いまだ全ての議論を尽くしたわけではありませんが、現時点で答えられる
範囲で、浦井先生のご質疑に答えようと思います。

いささか長くなり、掲示板に貼り付けるのが躊躇われたので、添付
ファイルでお送りします。

[添付]: 17994 bytes

守永直幹 2017/06/26(Mon) 21:36 No.13
村田晴夫先生と守永直幹先生のコメント
 村田先生から、守永先生の「機械とは何か」、およびそれに対する当方の意見に向けたコメントを頂戴しました。以下にリンクします。

・村田晴夫『守永直幹先生の《生命と機械の間で》(2)「機械とは何か」そしてそれに対する浦井憲先生のコメントを読む』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataMorinagaUrai20170626.pdf

 また、守永先生から上に頂いた当方の No.12 の意見へのコメントもPDF化しましたので、以下にリンクいたします。

・守永直幹『機械と普遍言語』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaUrai20170626.pdf

 いずれのコメントも、時間的経緯が明確になる方が良いと思われましたので、No.3 ではなくまずはこちらの記事にリンクいたします。(ご要望、必要に応じて No.3 にもリンクを貼ります。)

 ご教示大変ありがたいです。また精読の上、ご連絡申し上げる所存ですが、まずはリンクのお知らせ、ならびに御礼まで。
浦井 憲 2017/06/27(Tue) 00:28 No.14
Re: セミナー「文明と経営」その後
村田先生

私のエッセイに懇切な感想を頂き、まことに恐縮です。

ご返事を掲示板に貼り付けようと思ったのですが、どうも長くなると
読みづらいように思います。今回も添付ファイルでお送りすることに
しました。

[添付]: 19716 bytes

守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:24 No.15
Re: セミナー「文明と経営」その後
村田先生/莫大数と無限

*添付ファイルと同じ内容を試しに掲示板に貼り付けてみます。見づらいようなら
消去します。


私のエッセイに懇切な感想を頂き、まことに恐縮です。

そう言えば、ベルタランフィがいましたね! かれは現代的なシステム有機体論を提起し、
ロボット・モデルを徹底的に批判していました。『人間とロボット―現代世界での心理学』
という本もあります。うっかり失念していました。

近年の脳科学や認知科学の興隆で、その壮大なシステム有機体論はすっかり忘却の彼方に
追いやられてしまった感があります。が、『一般システム理論』(1968年)〔長野敬・太田
邦昌訳、みすず書房、1973年〕は、このジャンルの20世紀における広がりを概観する
上で必読の教科書であり、名著だと思います。

なるほど、細部の知見やデータに関しては古くなったのは事実でしょうが、かれが提起
した大きな枠組みとヴィジョンは乗り越えられていない。というか、その仕事を受け
継いだ現代的なシステム有機体論が構築されるべきだと私は思っています。

村田先生がご指摘なさった莫大数の問題はたしかに重要です。そこでの文脈を要約すると、
以下のようになります(22-4頁)。

オートマン理論の基本命題とは、有限個の言葉(ないし記号)で定義可能な事象は
オートマン、たとえばチューリング・マシーンで実現できるというものです。定義上、
オートマンは有限個の事象なら実現できるが、無限個の事象は実現できない。

では、それが無限ではなく、莫大な数であったらどうか。要素の数がさほど多くなくても、
相互作用するシステムでは演算過程で莫大な数が出現し、チューリング・マシーンでは
処理し切れない。システムは破綻する。

そうした工学的システムとは異なり、有機体システムは自己復元する機能を持つ。それは
オートマンには備わっていない開放システムである。

チューリング・オートマンがいかに現代的な意匠を取ったとしても、なんらかの攪乱要素
に出会うと自己調節ができず、失敗する。また計算に必要な段階数が莫大な数の場合も、
うまく行かなくなる。

オートマンのような閉鎖的システムではない、開放的なシステムとして一般システム論を
構想するとき、どうしても「階層秩序」の概念が要請される。

ここでベルタランフィは、ボウルディングの図式を紹介しています(25頁)。そこでは
「静的な構造」「時計じかけ」「調節制御機構」「開放システム」「下等な生物」「動物」
「人間」「社会=文化システム」「シンボル・システム」といったシステムの主要レベル
の見取り図が提示されている。

とりわけベルタランフィが生命現象の研究から出発して、シンボル・システムを重視して
いたことを私としては強調しておきたい。ホワイトヘッドの構想と極めてよく似ています。

上記の文脈で、ベルタランフィは無限集合の問題と切り離して莫大数の問題を論じて
います。数学的には、どうしてもこの問題が出てくるのでしょうが、私の関心は別の
ところにあります。

現代の情報機械は、二進法的なモデルをすでに超えつづある。近いうちに量子コンピュー
ターで駆動するようになるでしょう。ベルタランフィは、チューリング・マシーンで莫大
数を扱おうとすればテープが足りなくなるから無理、と冗談を言っていますが、いまや
人類はそれを容易に扱える方途を手にしつつある。その結果、はじめて正面から「無限
とはなにか?」が問われることになるのではないでしょうか。

そして、これは村田先生が指摘される宗教の問題と関わると私は思います。自然は無限で
あり、宇宙は無限であり、神は無限である。「無限」というヴィジョンを持つに至ったのは
生命世界で人類だけだったのではないでしょうか。

ジョルジョ・アガンベン『開かれ――人間と動物』(岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社)は、
ハイデガーの動物論を引き、人間は動物との関係で人間生成するという事実を細々と
論じています。

私の考えでは、動物は世界に充足しているが無限という概念を持たない。ゆえにハイデガ
ーの言葉を用いれば「世界貧乏」(Weltarmut)である。人間はこの窮乏を引き受けつつ
人間生成する。ハイデガーの言葉を用いれば「現存在化」するわけですが、それはあくま
で無限との関係で言えることであり、この問題を存在論的差異に還元してはならない。

人類文明はいかに無限を縮減するか考え、いくつものスタイル、ないしタイプを創出して
きた。宗教に関しては一神教モデルや多神教モデルが挙げられる。宗教とは無限との応接
であり、応答だったと言うことができます。

莫大数が計算可能になり、真の無限が文明に流入するとき、これらの旧い宗教モデルは
用を為さなくなるのではないか。というか、至るところで宗教の無効化が進行していて、
それは無限の現前を人類が予感している。いや、実感しつつあるからではないでしょうか。

宗教について語るべきことは多々あるでしょうが、それこそ「莫大」な議論を要すことに
なりそうです。今回は、これ以上の論及は控えます。

ベルタランフィのシンボル論と、ホワイトヘッドのそれとを比較する試みは、いずれ
ちゃんとやるつもりです。
守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:27 No.16
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

貼り付けてみましたが、どんなものでしょうかねえ?
守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:29 No.17
守永先生、投稿有難うございます
守永先生、投稿有難うございます

このくらいなら、私には問題なく思われます。有難うございます。

 一昨日水曜日、阪大では6月度の方法論研究会をいつものメンバーで開催しました。追って、その際の議論を踏まえた形で、機械の問題、普遍論理の問題について投稿いたします。私も同程度の長さにはなると思います。

 すみません。返信投稿のやりかたをしくじったので、再投稿です。
浦井 憲 2017/06/30(Fri) 02:02 No.19
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (前編 1/3)
先週水曜日の阪大での方法論勉強会の議論を踏まえて書かせて頂こうと思って
おりましたもので、大変遅くなってしまいました。

当日、勉強会では村田先生の「アンデレクロスの八章」エッセイの紹介を中心
に、合わせて当方の普遍論理についての話(この掲示板における)をさせて頂
いたところです。長くなりますので (前編 1/3) (中編 2/3) (後編 3/3) と3
回に分けて投稿します。(前編 1/3) は、先週水曜日の議論、特に竹内先生と
福井先生から出た質問にお答えするものになります。中編および後編は、村田
晴夫先生ならびに守永直幹先生に向け、お応えするところです。



竹内先生、福井先生をはじめ、当方が「普遍論理」あるいは「普遍言語」とい
う概念を用いて何かを言わんとする場合、いくつかの誤解があるということを
強く感じました。まずそれを先に申し上げます。私は「数理が論理を普遍的に
網羅する」というようなことを考えているのでも、また言いたいのでも、決し
てありません。しかしながら、論理が数理によって描き尽くされるということ
が考えにくいとすると、それと同じ程度に、数理、少なくとも有限代数--小学
校低学年の算数--程度の数理に含まれる論理を、認めない論理というものも、
考えにくいと思います。

理性ということを考えていく上で、そういう共通部分を理性の中に見出してい
くということは、理性における理、rational つまり ratio の意味から考えて
も、数学的なもので(上に述べたような、たとえば小学校2年生までの算数に
内包されているような論理、といった形で)合意というか、説明することが、
最も理解される可能性が高いと考え、普遍的論理ということを述べる上で数理
ということに言及しています。このような普遍的論理(共通部分)を認めると
いうことは、普遍的論理そのものの限界を、明らかにできる可能性とつながり
ます。それを語る言語もまた必要ですが、望ましいのは普遍的論理の範囲内、
つまり自己言及的に語ることができるということです。そして、そのことを通
じて、学問において(つまりその普遍的論理を用いる学問である限り)、何が
「できないか」を、学問内在的に明らかにしていくことができます。ゲーデル
の第一、第二不完全性定理は、その特殊例になって来ると思います。

村田晴夫先生の言われる「システム不完全性の原理」というのは、従って私に
は大変納得のいくものです。村田先生はこれを、人間あるいは組織が成り行く
becoming ということやホワイトヘッド哲学的なものを背景にした原理として
扱っておられると思います。当方は、そのような原理が一般的に成立するため
の条件を(数学的あるいはできるだけ普遍的な形で)模索したいと願っており
ます。


私が、数学的、すなわち言語的、論理的な段階において(普遍的という言葉を
用いて)この問題を取り扱いたいというのには、以下のような意味もあります。

竹内先生および福井先生には、村田先生のアプローチを含めて、これが「シス
テム論的アプローチ」であるという強い印象をお持ちであるようです。

私はこういう話を、例えば「システム論」といった俯瞰された分野での一見解
という形で片付けることには反対です。これは学問を含めた文明そのものに向
けての話であり、そのためには科学方法論や、哲学そのものという舞台で、論
ずる(議論の場として)必要があると考えています。私が普遍論理に拘る理由
は、まさしくそこにあります。「システムの不完全性の原理」といったものは、
これは、普遍論理にかかわる普遍論理のみによる定理である、という形にする
ことが望ましいと考えています。論理を用いる学問的言説である限り、例外と
なることなど無いということです。学問という世界そのものも、当然その対象
に含まれるのであり、その下で「学問が学問を学問的に否定する側面」という、
絶対的な話がここで出てくる可能性があると、私は思っております。

こういう、いわば絶対的な話というのを、もしかすると嫌っておられるのかも
しれません。しかし、これは最後の後編で語ることになりますが、そういった
絶対的な話が「一切無い」とすることにもまた、一種の落とし穴がある可能性
について、考えて頂きたいと思います。絶対的な話というのも、一つくらいは
あっても良いのではないでしょうか。



次に、これは福井先生と私が共通して疑問と捉えているものですが、村田先生
のアンデレクロスにおける「真善美」の捉え方についてです。ホワイトヘッド
哲学的なものをベースに、村田先生はこれらが究極的には一致するという立場
を取っておられます。ホワイトヘッド哲学の上であくまで話をするという場合
であれば(このあたり当方まだまだ不勉強で申し訳ありませんが)良いのかと
思われますが、ホワイトヘッド哲学の素人からすると、「真善美」が一致しな
かったらどうなるのか、という疑問が出てまいります。

私は、これは一致というよりも、整合的である、つまり究極的に真も善も美も、
それぞれが追求して出てきたことを、互いに尊重し、共存できる、という意味
ではないか、と捉えております(不勉強にて甚だ恐縮ながら、またご教示頂け
れば幸甚に存じます)。

そのような立場からすると、学問的な立場を突き詰めて得られた結論が、例え
ば「善」のすべてではないにしても、その一部を形成するということは、認め
られて良いということになります。私の議論においてはそれで十分であります
し、また乗っかっている哲学的前提としても、むしろ緩やかなものになるよう
に思います。そういう解釈でも構わないか、一度、これはご教示いただければ
有難く存じます。



前編の最後に、これは特に福井先生、竹内先生に向け申し上げるべきことです
が、村田先生の「システムの不完全性の原理」について、誤解があると思われ
ます。あそこで村田先生が「前に」進むとか、あるいは「グローバル化」、と
いったことに重く関連させて不完全性の話をしておられるように読めてしまう
のは事実ですが、必ずしもそのように読む必要はないと思います。むしろそう
読まない(脱存在論化する)方が望ましいと思います。今日の歴史的事実とい
う存在の上で、これを読むのではなく、学問的に(哲学的に)「問う」という
こと、その行為自体を通じて、そうした存在を脱存在論化することによって、
我々が「既に置き違えている具体性」に関するところを、可能な限り取り払う
ことができ、またそれが必要なのではないかというのが、私の見解です。

また、福井先生の言われた、de-ontologizing することと、エポケーしたとき
捉えられなくなる問題についてですが、それがあることも全くそのとおりです
が、しかし、それも今ここでの問題の本質にはならないと考えています。ここ
で問題となるのは、例えば私の場合、とりあえず「普遍論理」なるものの存在
を横において、学問の形式について捉えようとしているわけですが、ところが
それで出てくる結論もまた、まったく形式の中で閉じた、学問の形式について
の結論です。故に、そこに内容を後から何か付け加えたとしても(論理自体が
それによって変容するというような事態--それがどういう事態か、すくなくと
も学問では普通生じないのではと考えて良いと思いますが--が生じない限り)
結論はまったく変わらない、そのような場所で話をしているということです。

そもそも、網羅的な話をしようというのとは真逆の話ですから、こうした議論
には捉え損ねているものがあるのではないか、ということそれ自体が、深刻な
(その議論にとって悪い意味での)問題になりません。むしろ「こうした議論
が捉え損ねているものがある」ということこそ、結論です。その意味で、竹内
先生にも福井先生にも好意的に捉えて頂ける可能性があるのではないでしょう
か(ここでいきなり好意に頼るのも、変な話ですが)。

(前編終わり)
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:29 No.20
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (中編 2/3)
中編です。ここからは、守永先生および村田先生から頂戴した先の応答に即し
て書かせていただきます。

中編では特に守永先生に向け、機械の定義について、当方の見解を述べさせて
頂きます。



守永先生におかれては、機械の能力が人間を越えるということ、あるいは見分
けがつかなくなるということと、機械の定義が困難になるということが、幾分
混同して用いられているように思われます。私の立場は頭からそう定義すべき、
というものです。故に守永先生の立場に対して、これはむしろ提案と言うべき
かもしれません。


自動生成であろうと、学習であろうと、遺伝子云々であろうと、プログラムを
勝手に改良するアルゴリズムであろうと、いずれにしても、その基になるアル
ゴリズムがあるのであれば、設計図が存在することに変わりはなく、その機械
を野放しにして、動きが分からなくなったからといって、それを生物扱いする
ことは無いのであって、その意味から「機械である」ということの定義は明白
です。量子コンピューターなどと言っても所詮はただの並列計算ですし、そこ
には巨大な有限と無限の間の、決して超ええることのできない断絶がある、と
考えてしかるべきです。

有理数の全体が実数直線の上でスカスカであるように、我々が知りたいこと、
問うべきことの数は明らかに実無限以上の濃度で存在し、対して我々が数理的
に解決できる問題の数は、どのように膨大なデータを用いようと、いくら巨大
になろうとも、高々有限です。

作者が不明で、挙動も残念ながら解析不可能なコンピューターウィルスが生物
と呼ばれるべきかどうか、議論の必要は無いと思います。単に仕組みの分かる
人が現実としていないということと、その内容を論理で汲み尽くせない(機械
ではない)ということは混同されるべきではありませんし、その区別を危うく
するような事例は、挙げていただいたものを含め、私の知る限り、今のところ
生じていないと思います。


ですから、人間と全く区別のつかないロボットが、人間の感情と全く区別のつ
かないようなものを持って、ある日人間を襲い始めるなどということがあった
としても、全然不思議ではありませんが(そして、SFではなく、もう既に現象
として、それはとっくに起こっていることなのでは、とも思いますが)そして
人間の定義も、種々モノの定義さえも、全然明白ではありませんが、それでも、
「機械の定義だけは明白」と言うべきだと私は思います。言い換えれば「仕組
みが明白(現実的にという意味ではなく、明白にしようと思えば、原理的には
できるという意味で)だから機械である」ということです。



しかし、同時に守永先生の問題としておられる「機械の定義」ということが、
もう少し深い意味を持って来るということも否定できません。上の言葉で言う
と、では「明白とはいったいどういうことか」という問題です。そして、この
ことは簡単に解決する問題ではありません。これが、私が「普遍言語」あるい
は「普遍論理」ということで問題にしたいことです。「明白である」とはどう
いうことか、それを(一部でも良いので)明白にしようというのが、普遍言語
ということです。そういうものがないと、「何が機械なのか」ということも分
からなくなるということになります。




ついでに、いくつか(これは脈絡のない独り言も含めて)メモ的に書かせて頂
きます。


・ちなみに2045年問題についてですが、たかが計算と論理の組み合わせで
得られるという意味での知性であれば、超えたいというなら超えさせておけば
良いのであって、その時こそ、カント的な意味での理性>悟性を超えた、真の
知性の何たるかが問われる時であり、楽しみです。しかし結局はそういう興味
深いことは起こらないと思います。話をいろいろ見聞きしていると「知性」の
定義すらろくにできていないままで、知性を超えるとかまったく意味不明です
し、加えて人間の知性を超えたら人間より優れたものを作り出すというのは当
たり前というかほぼ定義通りであって、単なる言葉の遊びのように思われます。


・たとえば、ありとあらゆることがロボットによって可能になるというのは、
かなり定義矛盾に近いものだと思います。誰か一人でも「ありとあらゆること
がロボットによって可能になるのは嫌だ」と思っているなら、「その人を喜ば
せること」が可能になるためには、「ありとあらゆることがロボットでは可能
にならない」、ことであるからです。福井先生などは、いやそういうことまで
含めて、そういう人も満足させてしまうほどに、全能のロボットを作ることが
できるようになるに違いないと言われます。私も、それは幾分否定しません。
しかし最終的には、新たな不満が容易に出てくるでしょう。人は、自分でやら
ないと満足しないもので、何かに助けてもらっていると考えるだけで、不満に
なる生き物です。ロボットの定義が「プログラミングされたもの」である限り、
人がロボットによって満足のすべてを与えられることはないわけです。


・黒魔術化というのは、どうすれば良い結果が出るか(例えば勝負に勝てるか)
ということについて方策が無いこと(例えばこれはロボット同士で戦わせたら、
何のことはない単純なトリガー戦略を持たせたら結局は一番生き残ったとか、
そういう意味で)と読みます。そのことと、プログラムが無いということは全
く別問題であって、時間さえかければ「なぜそのような動きをしたのかは」必
ず解析でき、説明でき、納得できます。つまり、AIがなぜ「予測し得たのか」
は分からなくとも、「なぜそのように予測したのか」は明確に説明できるとい
うことです。それがすなわち「機械」ということだと思います。

(中編終わり)
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:32 No.21
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (後編 3/3)
後編です。普遍言語について、守永先生と、また村田先生から頂戴した問いに
応えるという形で、まとめさせて頂きます。



普遍言語というのは、本当に普遍でなくてはなりませんから、守永先生も含め
て万人に納得していただけるものでなければなりません。守永先生は映像と言
われました。私は、それでもまだ不十分と思います。それはまだ対象物であり、
主語となるもの、そこに深く関わり、重く乗っかっております。そういうもの
ではなく(従って「言語」ではなく「論理」の方が、いくぶん誤解無く伝わる
かと思うというのは先日の連絡でも述べたところですが)、いわば主語あるい
は目的語中心の文法のあり方に対して、述語部分の働き方を記号的に抽出し、
それらの、対象物への働き方についてのみ捉える、というような形でしか、明
確には扱えないと思います。西田が「場所の論理」と言ったものは(全然明確
ではないですが)非常に近いように思います。

守永先生が「問う」ということそれ自体を問うのが目的だと言われましたが、
私も、まさにそのあたりが注目すべきところであると思います。

問いを立てるということ、つまりそのような「作用」のレベル、いわば学問
が学問であるための「関係性」のレベル、そのようなレベルに、普遍言語と
いうこと(何度も書いたとおり、これは普遍的な言語というよりも「普遍的
な論理」と言った方が幾分誤解が無いかもです)を見出したいです。

「問う」こと「そのもの」が、私も「学問」の目的と呼ぶに相応しいと思い
ます。「知る」こととも言えますが、知る前に、問いがあるように思います。

哲学の「学」ということに「制約」を与えると、強いて述べましたが、それ
はそのことにむしろ警戒していただきたいと思ったからです。同時に「それ
を通じて初めてできることがある」、ということも、強調したかったからで
す。制約を入れないと、自由がすべてになってしまい、村田先生の表現を使
わせて頂くと「自由と愛の葛藤」が生じないことになります。あるいは制約
を曖昧にしておくと、その葛藤が骨抜きになります。実際、その曖昧さ故に、
葛藤は学問の外に追いやられてしまいます。


これは前編で竹内先生、福井先生に向けて申し上げた「絶対的」な話を一切
「無い」ものとして排除する立場の落とし穴、でもあります。曖昧なままで
学の限界を語っても、それは学問の外側の話であり、既存の学問にとって、
それは「思惟の怠惰の褥(Hegel)」となるのみです。学問世界が真に葛藤
するべきところでは葛藤せず、手近な問題を解いて遊んでいる、そんな世界
になります(現に多くの分野でそうなっていると思います)。


誤解を避けるために敢えて申しますが、こんな学問しか認めないということ
をしたいための制約ではありません。しかし、学問とはこういうものでしか
ないのだから、諦めるべき、という制約ではあるかと思います。そのような
諦めによって、むしろ象徴システムという表現で言えば、象徴システム全体
の重要性を強調することになる、そして学問を含めて、種々自己組織化の、
他には代え難い役割を強調することにもなる、そのようなための制約です。

不変言語のその全容は不確定かもしれません。確定させる必要も無いと思い
ます。また、その制約も、守永先生が考えておられるより、ずっと緩いもの
で、守永先生ご自身も、ずっと無意識に保持しておられるものである、逆に
そうでなければならないと思います。



村田晴夫先生の補足して下さった問いに応えつつ、全体をまとめます。


> 問題は浦井先生も仰るように、その「哲学的議論」とは何かを論ずるときの言語と論理
> であると思います。あるいは価値観を排除した語りでしょうか。
> 例えば、「機械とは何か」という問題について論ずるときに、価値観を出来るだけ抜き
> にした議論がまず基礎になければならないでしょう。「出来るだけ」と限定したのは、
> 絶対ということが保証されないからです



> 普遍論理を数学などに現れている論理、あるいは内包されている論理、と解してよいで
> しょうか。
> この辺りのことを含めて、普遍言語あるいは普遍論理とはどういうものであるか


有難うございます。村田先生から問いかけならびにヒントをいただいて、ここ
までも書いてまいりましたように、かなりこの問題が、私自身の中でも明確な
ものとなり、まとまって来たように思います。ご教示心より感謝申し上げます。


村田先生が「哲学として語る」ことにおいて上のように述べられた


> 価値観を排除した語り


ということについて、そのための方策の一つが、私は「関係性」化するという
ことだと思っております。「関係性化する」ということ。これは特に20世紀
中盤以降、普遍的な論理ということを考える上で、まさしく鍵といいますか、
有力な道具あるいは方針になって来ていると思います。数学においては圏論、
社会学においても関係性的転回といったものがそれに当たると思います(西田
と「脱底(存在論)化 de-ontologizing」については、田中裕先生の論文を、
大変参考にさせて頂きました)。

そして、数学的な論理、これが、その普遍的な論理の一部を形成することは、
ほぼ疑い無いように思われます。

「数学」というと、守永先生に限らず、私の周辺の多くの先生方が眉を顰める
と思いますが、ここは、幾分そうならざるを得ません。もっとも、かなり厳選
されるべきですし、厳選された後も、変更の余裕を持たせるべきであろうと思
います。そして、その全体を完全には確定すべきでない、と思います。何度も
申し上げた通り、しなくてもできることがあると考えております。

学問というものが学問的に(その成り行く自己組織化の中で、解けない問題と
して)永遠に追求すべき問題は、実はそのようなものをどう確定するか、そこ
に尽きてくるのではないかとも思われます。


しかし、今の所(幸か不幸か)部分的にはですが、かなり限定されて来ている
ようにも思います。

機械(ロボット)の定義も、今日のコンピュータープログラミング言語という
ようなところ(もう少しダイレクトにはCPUを制御するところである機械語)
に依存してくることを思えば、結局は有限の代数(つまり小学校低学年までで
習う加減乗除に含まれる論理)あたりは、普遍論理というべきものを構成する
道具として、ほぼ確定してきている…のではないか、と考えます。

ありとあらゆる学問とのかかわりになりますが、すべての学問が、自分の背後
で用いている論理を、隠れたものまできちんと認識して、出してくれば、共通
項も、明らかになると思います。(もちろんそれでも、議論が尽きるわけでは
ありません。)


有限代数などに内包されているレベルの論理と、具体的対象物に関する価値観
(それは具体性の置き違えが生じている可能性を否めない)を可能な限り排除
するための「関係性」化(脱存在論化)というアイデア、これらを通じて「問
う」ということそのもの、あるいは「知る」ということそのものを、学問に於
ける最も基本的な行為あるいは働きとして位置付ける、そのようなところが今
のところ、普遍論理を構成するための最小限の設定ではないかと、考えており
ます。

これまでは、ゲーデルの哲学や西田の哲学などを通じて、漠然と数学的な圏論、
トポスといったものが、そういうものになるのではと考えていたのですが、こ
の度の議論を通じて、そういったものから何を厳選して抽出すべきか、一段と
ターゲットが定まって来たように思います。更に整理しつつ、もうしばらく、
きちんと考えて、詰めていきたいと思います。


浦井 憲
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:34 No.22
Re: 普遍言語とはなにか
浦井先生

*普遍言語とはなにか

一読してみたのですが、私の理解した限りでは、やはり浦井先生にとっての普遍言語は
「数学的な論理」に尽きているように思われます。もしそうだとすれば、やはり余りに
狭い言語理解ないしシンボリズム理解ではないでしょうか。

そもそも浦井先生が「普遍」という言葉をどういう意味で使っておられるか、いっこうに
腑に落ちません。

誤解のないよう申し上げますが、おそらく数学を否定する人間も、論理を否定する人間も、
ここにはいないと思います。

なるほど世の中に「お前は論理的じゃない!」と他人を攻撃する人間は幾らでもいますが、
「オレは論理そのもの、数学そのものを否認する!」と過激な主張をするような論者には
1人も出会ったことがありません。

それどころか今の地球上には、そんなラディカルな人間が1人も居なくなってしまった
のではないかと危惧されます。むしろそんな事態をこそ私たちとしては憂えるべきかも
しれません。

誰ひとり数学および論理の有効性を疑うわけではない。そのうえで、数学的論理がどう
いう意味で「普遍的」と言えるのかを浦井先生ご自身の言葉と論理で端的に説明して頂き
たい。それは必ずしも自明なことではないからです。ここでの説明では、私には納得が
行きません。

私がつねづね疑問視しているのは、数学や論理の力を過大視する風潮が世にあることです。
それらの人々を見るにつけ、そもそも記号体系への理解が狭すぎるのではないか?と
思っています。

「普遍言語」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべるのはライプニッツです。先便
でも少し言及しました。

もう少し説明を加えておきますと、この哲学者は何らかの記号体系を用い、他人の頭の中
に具体的な像を描き出せると信じていたように思われる。それが「表象」です。この表象
を以て、いかなる機械でも造り出し、使いこなせる。しかも、この表象は万人に共有可能
です。ライプニッツの表象の宇宙に「窓」は存在しないのです。

その際に用いる記号システムが数学である必要は必ずしもない。「中国の漢字を使えない
か?」と研究したりしている。これがいわゆる「ライプニッツの普遍計画」と呼ばれる
ものです。「表象」という用語は誤解を招く。いっそ「映画」とでも言ったほうが解り
やすいと、私は先に述べました。

映画でも、マンガでも、イラストでも、アニメでもいい。広い意味での現代の「ユニバー
サル・デザイン」は人間の身体や動作に根差した記号体系を前提にしていて、これは普遍
言語の一種だと見なせます。この意味での普遍言語がとりわけサブカルチャーを通じて
世界を1つに結びつつある。それはAV(オーディオ・ヴィジュアル)革命とも呼べる
ものです。

いまだ19世紀的な言説空間に自足する知識人が、20世紀に始まった、この巨大な知的
革命からすっかり取り残され、反動的な集団を形成しつつある。このことを私は危惧し、
色々な形で警鐘を発してきたつもりです。

むろん表象の体系だけでは自ずと限界があります。言語や論理、ひいては数学の重要性は
否定しようがない。問題はその先にあります。

「普遍言語」と言うからには世界の誰にでも通じる言語でなければなりません。もしそう
だとすれば、数学が普遍言語のわけがない。

たとえば、この機械を動かす仕組みはこれこれだと数学的に説明するより、映像で見せ、
目の前でやって見せた方がはるかに話は早い。浦井先生がいくら易しく数学的・論理的に
説明されても、私にはさっぱり通じないわけです(笑)そんな言語は、いささかも普遍的
ではない。

そんな身体言語では機械の原理が理解できず、生産過程がブラックボックス化してしまう
ではないか!と怒られそうですが、まさに!それが近代文明の帰結です。高度機械文明で
はもっぱら機械を使用した大量生産が行なわれるが、現場では機械の作動原理が見失われ
がちです。労働者は日々モノを生産するが、それがどのように造られるか、本当のところ
を誰も知らない。

たとえば今の自動車は各部位のコンピューター化が極端に進み、全体の構造を把握して
いる人間がほとんど誰もいないらしい。ひとたび誤作動を起こすと、壊滅的な事態に陥る。

この問題が究極的な形で現われたのが原発事故でした。想定外の事故が起こったとき、
東電の技術者には適切な対応が全くできなかった。慌てて設計図を探したが、どこにも
見つからない!という体たらく(笑)

身体=映像言語は、技術的・専門的かつ数学的な言語に伴われねばならない。両者は
クルマの両輪です。どちらか一方に偏ることなく、双方を有機的に結合する技術知が
求められている。

以上のごときものが、私にとっての(来たるべき)普遍言語のイメージです。

さて、もっと狭く絞り込んでみましょう。たとえば数学は物理学や化学、ひいては生物学
等においても使われる。ゆえに普遍言語だと見なすことは可能かもしれません。

ならば物理学を数学に吸収することができるでしょうか?あるいは化学を?まして生物学
を数学に吸収することは無理でしょう。数学は(英語がそうであるように)理系分野に
おける【共通言語】の1つには違いありませんが、決して【普遍言語】ではない。

物理化学現象を数学に還元することはできません。いちばん無理なのは生物学です。DNA
分析などは数学的にやるしかないでしょうが、今なお地球上で新種が発見され、それらを
分類せねばならぬ。そこで必要とされるのは生物の体の構造であり、生態です。目の前に
いる生物の姿や像を克明に観察し、それが生きて動いている環境を調査せねばならぬ。
これは数学的には絶対無理です。だからと言って、生物学そのものが無意味なわけでは
全くありません。

フーコーが『言葉と物』で強調していたエピステーメーの図式を用いるなら、タクシノ
ミア(=分類)とマテーシス(=数理)の対立は還元不可能ということです。

近代の始まりにあって、ライプニッツのような哲人はタクシノミアとマテーシスの双方の
学問に通じ、その両立不可能性を熟知していた。だからこそ記号により表象を立ち上げ、
それを共有するという構想を抱き、分類の知と数理の知を和解させようとしたのではない
か。記号を表象化し、表象を記号化する。これは確かに普遍言語の企てと見なせます。
なるほど17世紀には夢想に過ぎませんでしたが、現代においては必ずしも夢物語とは
言えなくなっている。

浦井先生は圏論がご専門(の1つ)ということもあり、代数学の普遍性を強調される傾向
があるように見受けられます。ならば代数学は数学の内部において普遍言語と言えるの
だろうか。たとえば代数学によって幾何学を吸収し、説明し尽くすことができるだろうか。

じつは、この点を論じているのがホワイトヘッド『数学入門』で、この数学者の答えは
「不可能だ」というものです。

幾何学の問題とは、煎じ詰めれば「序列」(オーダー)の問題であり、そのかぎりで代数的
に処理できるのは言うまでもない。しかるに、幾何学的問題を扱う際に私たちはどうして
もある種の「例」が念頭に思い浮かぶ。自分にとって特権的な「絵」に拘束されがちで
ある。それを代数構造に還元するのは不可能だと、この数学者は示唆するのです。

私はこれを「イメージ」の問題、あるいは「場所」の問題と考えます。幾何学の対象は
一定の場所を持つ。もっと言えば、場所なき場所を持つ。それはどこかに具体的に存在
する場所ではない。ゆえにイメージと言うしかありませんが、にもかかわらず、幾何学が
幾何学たるかぎりで、この見えない場所を還元できない。

この意味でのイメージ=場所とは、存在論に抵触する問題でもあります。なるほどホワイ
トヘッド哲学は有機体の哲学であり、それゆえに関係論的な哲学ですが、関係に還元し
得ない「イメージ/場所/存在」という問題を決して手放していない。それが彼の哲学の
深遠なところで、そこから実存論的なホワイトヘッド解釈が生まれてくる余地がある。

ただ残念ながら『数学入門』では、このアポリアを「示唆」するだけに終わっています。
この時代ホワイトヘッドは弟子のラッセルとともに『数学原理』(プリンキピア・マテマ
ティカ)の刊行を開始し、その第1巻が1910年に出ています。一般向けの著作『数学入門』
を出版するのは翌1911年です。『数学原理』の企てが破綻し、ラッセルらケンブリッジ・
サークルと決別し、単身アメリカに向かう。その過程で、この数学者は哲学者としての
思索を深めて行くことになります。

ここまで書いてきて、はたと気づきましたが、ことによると現代の経済学者にとって数学
の有効性ひいては普遍性が切実な問題として感じられる、という事情があるのかもしれま
せん。とりわけ浦井先生にとってそうなのかも知れない。とすれば経済学者としての立場
を踏まえ、数学が普遍言語たり得るか、どこかで具体的に論じる必要があるでしょう。

素人としての私に言わせてもらえば、「数学だけで広い世の中ぶった切るなんざ、しょせん
無理の皮でしょ?」という冷淡な回答になります(笑)申し訳ない。


** 機械、我らが隣人

「機械であることの定義は明白だ」と繰り返されていますが、むろんのこと機械にかん
する明白な定義は様々に可能でしょう。

注意して頂きたいのは、ここで私が明晰判明な定義を試みているのでは些かもなく、いか
に機械的なものが私たちの現代生活を侵食しているかを描き出そうと努めているに過ぎ
ない。別の言い方をすれば、機械的なもののイメージの外延を確かめようとしている。
たとえば機械の持つ正確さが、いかに私たちの生活を歪めているか。たとえば、テイラー
の管理主義が工場労働者にとっていかに過酷極まりないものだったかは、よく知られて
います。

機械が人間に従うのでなく、人間の側が機械に従わされる。いつしか人間性そのものが
機械化される。心理学のような「御用学問」が、それを正当化する。

この点についてはベルタランフィ『人間とロボット――現代世界での心理学』(長野敬訳、
みすず科学ライブラリー)が、苛烈な批判を繰り広げていました。ヨーロッパ人である
彼は、移住先のアメリカ社会がすっかりロボット・モデルで洗脳されていることに我慢
ならなかった。悪罵の限りを尽くしている(笑)

「今日の心理学が人間自身による人間の自画像を作りあげて、社会の方向性を決める第一
級の社会的な力となっている」ことが問題だと彼は指摘します(同上、16頁)。

>ロボットとしての人間像は、現代という時代の時代精神を科学に投影したものである。
>基礎的な理論的概念というものはどれも煎じ詰めればそうした投影なのだ。人間は機械
>であり、プログラムに乗せることができる、人間機械はどれも組立ベルトから出てくる
>自動車のように千辺一律である、平衡あるいは快適が最終価値である、行動とは最小の
>出費で最大の利益を上げようとする一種の取引である――こうしたことは、商業主義の
>社会の哲学を余すところなく映し出している。刺激と反応といい、入力と出力といい、
>生産者と消費者といってもどれも同じ概念を違う言葉で表現しているまでのことだ。
>伝統的心理学の基本概念は、まさに商業主義の「金銭哲学」(ヘンリー)そのものである。
>広告屋の哲学には「脳の箱」(ブレインボックス)というやつがある。これは、心理学者
>たちの暗箱(ブラックボックス)である。(同上、16-7頁)

工学機械が私たちの社会、ひいては私たち個々人に与えた影響には空恐ろしいものがあり
ます。私たちは日常、機械のごとく正確無比に作動するように強いられ、それができない
モノは不良品として弾かれる。あるいは病気や老齢で以前のように動けなくなると捨て
去られる。エコノミストは「もっと稼げ、もっと社会の忠実な機械になれ!」と獅子吼
する。

近年の情報機械の発達は、新しいロボット・モデルを構築しつつあります。私たちを取り
巻き、私たちを従わせるのはもはや工学マシンではなく、脳モデルに従う情報機械です。
その(悪)影響はかつての工学機械より遥かに深甚になりかねない。まさしく魂そのもの
を奪われかねない。それが私の危惧です。

>時間さえかければ「なぜそのような動きをしたのか」は必ず解析でき、説明でき、納得
>できます。つまり、AIが「なぜ予測し得たのか」は分からなくても、「なぜそのように
>予測したのか」は明確に説明できるということです。それがすなわち「機械」だという
>ことだと思います。

ここでの浦井先生の自信が、どこから湧いて出てくるのか、私には理解しかねます。
というのも、現実社会では「時間」の問題は大きい。というか決定的です。無限に時間の
猶予が許されるわけでは当然ない。時間は限られているのです。

一定の時間内に解決し得ない問題は、解決可能な問題とは言えない。100年先に解決
可能であろうと請け合うのは単なる予言であって、合理的な見通しとは言えない。

ここでも原発と同じことが言えるでしょう。技術者たちは10万年先には何とかなるはず
だと言う(!)しかし、10万年先に人類が存続している可能性は極めて薄い。そんな
問題は解決可能とは言えないのです。

碁や将棋の対局で、棋士は無際限に考えているわけには行かない。たとえば1分将棋に
なると、その場でほとんど即答が求められる。株式や商売でも、素早く有効な解を出した
者が勝つ。なるほど「時間さえかければ」相手の動きを理解できるかもしれませんが、
その前に取引きが終わってしまう。そうしたら負けなのです。身の破滅なのです。

機械が人間を凌駕する速さと正確さを駆使するようになれば、人間の負けです。浦井先生
がご指摘なさるように、機械が人間を襲い始める現象はもう「とっくに起こっている」。
襲われて、死にかけているのに「あと3年あればオレは奴らのことを理解してやったのに、
残念!」と嘆いたところで無意味ですよね? そもそも3年で本当に理解できるかも定かで
ない。敗者は舞台から放逐されるのです。

こちらが時間をかけて理解しようと頑張っている間に、機械の方はじっと立ち尽くして
待っていてくれるわけではありません。機械の問題はたんなる理論的・数学的な問題では
なく、現実の労働現場の問題と密接に関わっている。

機械を理解する以前に、それをコントロールする必要がある。たんなる「理解」によって
は機械という現実を支配できないのです。

それこそが社会的問題の特性であり、広い意味で政治の問題だと私には思われる。私は
機械と社会の関係を論じているのに、浦井先生は機械と数学の問題に話を持って行こうと
する。ゆえに議論が噛み合わないのです。

さらに言えば、機械と人間の関係をたんなる「理解可能性」の問題にしてしまうと、
最終的には人間もまた機械だという結論に落ち着いてしまうのではないか?

ヒトゲノム計画は完了し、いまや人間の遺伝情報はほとんど解っている。いいかえれば、
人間は人間を理解できる。実際に人体の複製技術は急速に発展しています。時間さえかけ
れば、おそらく人間は人間を造れるようになる。「な〜んだ、人間は機械じゃん!」という
話になってしまうのではないか? いや、そういう軽薄な論者はもう沢山います。

機械はいよいよ人間に近づいて行くでしょう。それは避けられない。で、私としては
「機械が生命のはずないではないか!」などとは思いません。

私の立場は「機械を人間と截然と区別し、差別すべきだ」というものではありません。
むしろ逆に、機械もまた共存すべき地球上の生命と認めるべきではないか、というもの
です。そのうえで、この新しい隣人の危険をつぶさに知る。楽観も悲観もせず、ありの
ままを見て考えることが必要だと思います。


*** 真・善・美について

ご論文において村田先生はホワイトヘッド文明論を踏まえ、真・善・美が、とりわけ美に
おいて統合されると述べられ、大学教育におけるアートの重要性を強調なさっています。
私としても満腔の同意を惜しまぬところです。

ただ個人的には、その美の概念についてホワイトヘッド学会で何度となく問題にしてきた
経緯があります。端的に、ホワイトヘッドにおいて美とはなにか。この肝心な点について
彼のテキストは極めて曖昧なのです。

ここでは詳論を控えますが、かれは具体的な美術や芸術を念頭において語っているのでは
なく、自然美の本質を捉えようとしている。自然とは無数のアクチュアル・エンティティ
が生起し、結合し、消滅して行く舞台です。そこには無数の契機とパターンが顕われる。
それらをリズム論的に捉えようとするのがホワイトヘッドの有機体論です。生起したもの
が成功し、自らの運命を成就するのが美だと彼は思っているのではないか。そして美は
たちまち崩落し、悲劇に飲み込まれて行く……

美はつねに破滅に晒されている。一種の悲壮美ないしバロックの美学がホワイトヘッド
文明論の核心にある。そのことの当否は、もっと広い見地から論じられねばなりません。
守永直幹 2017/07/06(Thu) 19:52 No.23
Re: 普遍言語とはなにか
投稿してみましたが、やはり掲示板の形式だと、長くなりすぎかもしれませんね。

この掲示板の仕様なんですが、行間隔をもっと広げることはできないんですかね?
行と行がびっちり詰まって、老眼にはかなり読みにくい。

もし何とかなるようなら、設定を少しいじって頂けると有難いです。
守永直幹 2017/07/06(Thu) 20:04 No.24
守永先生ご投稿有難うございます
やや長いですが、まあ…良いのでは無いでしょうか。

有難うございます。

返答に少し時間を頂きますが、一点のみ。数学…を普遍言語であるなどと、私は思っておりませんし、そのように申し上げた覚えもありません。加えて言えば、数学とは何か…について、数学者でも簡単には言えないはずで、そう簡単に「数学」とは云々、と言うことはできないと思います。

私は基本的に、守永先生のご意見に反するところはなく、どちらかというと守永先生の世界観を支持したいのですが、それをご理解いただいているのかどうか…どうも各所で誤解が生じているのではないかという心配もあります。

まあ、ともかく、もう少し熟読して、お返事書かせていただきます。取り急ぎ、御礼まで。
浦井 憲 2017/07/08(Sat) 07:13 No.25
Re: 浦井普遍言語の謎
浦井先生

>数学を普遍言語であるなどと、私は思っておりませんし、そのように申し上げた
>覚えもありません。

そうなんですか! おかしいなあ?

>普遍言語というのは、本当に普遍でなくてはなりませんから、守永先生も含め
>て万人に納得していただけるものでなければなりません。守永先生は映像と言
>われました。私は、それでもまだ不十分と思います。それはまだ対象物であり、
>主語となるもの、そこに深く関わり、重く乗っかっております。そういうもの
>ではなく(従って「言語」ではなく「論理」の方が、いくぶん誤解無く伝わる
>かと思うというのは先日の連絡でも述べたところですが)、いわば主語あるい
>は目的語中心の文法のあり方に対して、述語部分の働き方を記号的に抽出し、
>それらの、対象物への働き方についてのみ捉える、というような形でしか、明
>確には扱えないと思います。西田が「場所の論理」と言ったものは(全然明確
>ではないですが)非常に近いように思います。

多分ここがいちばん詳しく書かれている部分のように思いますが、具体的にどういう
言語なのか、さっぱり判りません。それで何らかの数学的イメージで考えておられる
のではないかと思った次第です。

>もう少し熟読して、お返事書かせていただきます。

あまり内容が混み行ってくると、書くのが負担になるのではないかと危惧します。
無理にならない程度で、ご返答を頂ければ幸いです。私もそうさせて頂きます。
猛暑が続き、何かと大変ですし、読み捨てて頂いても何ら問題ありません。

じつはデカルトの人間=動物機械論にかんして、新しい発見があったので、
それについて少し書かせて頂ければ、と思います。

だんだん最初の目的から逸れていますが、最終的には収斂するはずです。
学会発表を控えているので、この機会に自分の考えをまとめたいというのが
私の偽らざる意図であります。

ご迷惑かもしれませんが、見守って頂ければ幸いです。
守永直幹 2017/07/08(Sat) 12:12 No.26
Re: 暑中お見舞い申し上げます
浦井先生、および皆さま

そういえば忘れていました。

暑中お見舞い申し上げます。
守永直幹 2017/07/08(Sat) 12:14 No.27
Re: 添付ファイル「普遍言語とはなにか」
浦井先生

先の投稿、たしかに掲示板では長すぎるかもしれません。

添付ファイルを送っておきますので、掲示板の方を消して
頂いてもけっこうです。

どうやら自分で消去するためには暗号キーを必要とするようで、
よく解りません。

そこらへんの判断は、そちらにお任せします。

[添付]: 38400 bytes

守永直幹 2017/07/08(Sat) 13:24 No.28
村田晴夫先生からご投稿頂きました
 村田晴夫先生から、本日ご投稿を頂きました。以下にリンクを貼らせていただきます。

村田晴夫『浦井先生から頂いた問いについて 2017年7月9日』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyUrai20170709.pdf

 まことに有難うございます。「真善美」の一致について、大変参考になります。ホワイトヘッドと西田から来るところなのですね。また、論文をご送付頂けるとのこと、心より感謝申し上げます。大変有難く、引き続き勉強させて頂きます。

 また、上記ご連絡の中でご質問頂きました『脱底化 de-ontologize』について、当方が参考にさせて頂いた田中裕先生の論文はネット上で公開されている…のかなと思われますので、以下にリンクを貼らせて頂きます。

田中裕『絶対無の創造性と矛盾的自己同一 西田哲学から歴程神学へ』東西宗教研究 第 14–15 号・ 2015–2016 年、pp.77-104
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/4519

 p.80 に、まず存在の脱底化(de-ongologizing)が出て参りますが、p.95 の L.J.マリオンによる神概念の脱存在化といったあたりを通して、最後の場所的弁証法に至るまで、大変興味深く勉強させて頂きました。

 村田晴夫先生からのご教示ならびに資料を頂戴し、また、守永先生ならびに諸先生方へのご返答を準備させていただく中で、私自身の中でこれまで数十年もやもやしていた問題が、日毎にクリアーになっていくのを実感しております。感謝に耐えません。

 梅雨も終わりに近づいているのではと思われますが、むし暑い日が続きます。どうか皆様ご自愛下さい。
浦井 憲 2017/07/09(Sun) 20:59 No.29
プログラムの存在と機械の定義(おそらく解決です)・普遍言語についての現状報告
 守永先生と話がまったくかみ合わず、どうもおかしいと思っていたのですが、ようやく思い至りました。どうやら守永先生は機械ということの外延的定義について述べておられ、私は内包的定義について述べている。守永先生は外延的定義が困難になりつつあると述べておられ、私は内包的定義が明白であると述べているだけなので、話がかみ合わなくても何ら問題はなく、まったく整合的であるということではないか、ということです。

 私は、機械の定義における外延的な困難さは、既にチューリングテストといったことが言われた時代から(人間がどうかということを含め)疑うところ無いものと考えておりますもので、守永先生が外延的定義という意味で、機械の定義の困難さを述べておられるのであれば、それに対する反対意見は一切持ってはおりません。

 一方、内包的定義については、これは帰納的関数といった概念が定式化された時代から、ほぼ明晰な事柄であると認識しております。これ以上明晰にする必要も無いと私自身は考えておりますが、これがなお不明晰であるとすると、これは大変深い問題であるということになり、普遍的言語といったことを持ち出さねばならなくなります。

 従いまして、もしも守永先生のご関心が、上記のとおり外延的な定義ということのみにあるとご判断されるようであれば、以下に私の述べる内容は、基本的に放置して下さって構わないのではないかと思われます。

 もしそうではなく、内包的定義についても拘りがあるのだ、ということであれば、以下もご一読下さい。



 さて、内包的定義が難しいという問題であるとすると、私の立場が守永先生と異なる点を明らかにするには、まず普遍言語(正確に述べると、その一部)という概念を明らかにせねばならないと、考えております。

 しかしその前に、普遍言語の謎ということをいったん離れ、機械の定義の問題の一歩手前、プログラムがあるということについても、整理確認をしておかなければ、話がこんがらがる一方のように思われますので、まずそれをしておきたいと思います。それほど長くはなりません。


 問題が、学という立場を通した普遍的な論理ということについてそれを認めるのかどうか、というところにあるのではないか、と私が申し上げるのは、まず次のような意味からです。つまり「明らかな仕組み」といった言葉を用いる際の「明らか」とはどういうことか、ということについての問題だという意味です。その話も、いずれはせねばならないのですが(そしてそれこそが普遍言語ということと関係するわけですが)、守永先生が問題と考えておられることに、それ以外の話が少なくとも含まれてはいないか、当方に若干その懸念がありまして、まずそのようなものを取り払わせて頂きたく、願っております。

 それは、次の点です。

  機械の動きが「現実として」説明できない、ということと、機械が
  プログラムに基づいて動いているのではない、ということが混同
  されていないか。

現実的には、今目の前にある時計にしても、それが一年後にコンマ何秒遅れるか進むか、その動きを精確に把握し、また説明することは不可能と思われます。しかし、時計に設計図があり、あるいはその明らかな仕組みを規定するプログラムがあるということについて、疑いを入れることは無いと思います。

 プログラムがあることは、「その挙動を納得のいく明らかな形で理解できる」ということであって、「現実的にその精確な動きを予測・説明できる」ということとは全く別の問題であると言うべきです。

 もし、上の混同が無いとすれば、機械というのは設計図がある、プログラムがある、その挙動を決めるアルゴリズムがある、プログラミング言語で書かれたソースがある。いずれにしても、そういう「明らかな仕組み」に従って動いている。それが機械の定義(内包的定義)ということで、現状、何ら問題無いと思います。



 上の内包的な定義に沿って、外延的な定義を得られるか、というのは、全く別の問題になるわけで、そうすると人間も所詮機械ではないのか、という外延的な問いは、問いとしては十分あり得る問いであり、単に未解決であるということです。おそらく永遠に未解決であろうと思います。

 なぜなら、内包的定義が上のものである限り、「人間が機械であるかどうか」は、今現在のところ何とも分からないものの、もしそれが将来的に「明白に分かった」場合、その瞬間から、人間はその自らの「明白な仕組み」を「明白に理解」することにより、その「明白な仕組み」では語りきれないような、複雑な行為を取ることができるようになる。つまりはそのような「明白な機械ではなくなる」可能性があるという、矛盾を孕んでいると思われるからです。上のことを厳密に述べるには、もちろん上の「明白」とはどういうことかが明白にならねばなりません(つまり普遍言語とは何かということが必要になって来るということです)。

 しかし、仮に普遍言語とは何かが「完全には」決定されずとも、以下のようなことは言えるかもしれません。

  事象として、人間が自らをかくかくしかじかの機械であると知り、
  かつまたそのままである、ということはあり得ない。

なぜなら、上述した「矛盾を孕んでいる」という部分を成立させるための論理は、普遍言語の全体でなく、まず一部であっても可能であるということが十分にあり得るからです。

 もし上記矛盾を成立させることができるとすれば、その下で人間は「その明白な仕組みを明白に理解した場合には、そのような機械ではなくなる」ということで、あり、少なくとも「そのような機械である」ということの直接的な否定ですから、まさに、そのような機械ではないわけです(まさに人間は「成り行く」ものだということです)。

 一方、「その明白な仕組みを明白に理解していない」段階では、文字通り、その明白な仕組みを明白に理解してはいないわけで、よって、いずれにせよ上記の事柄、

  事象として、人間が自らをかくかくしかじかの機械であると知り、
  かつまたそのままである、ということはあり得ない。

ということです。



 私は普遍論理の「一部」という言い方をしてまいりましたが、未だそれが何かということについては、明らかにしておりません。しかし、今や、結論からお迎えする、ずるい手段ではありますが、次のように考えていると言うことができます(結論からお迎えというのは数学の常套手段ではあります…)。

  上に述べた「上記矛盾を成立させることができる」最小の論理。
  それこそが、普遍論理の一部と呼ぶに、相応しく思われる。

これは、人間が「成り行く」ものであるということを示すための最小の論理、と言い換えることもできるかと思います。上で言う「最小」性については、数学的に(例えば公理ということによる具体性をもって)厳密に述べることもできますが、そもそも「数学が普遍的かどうか」という以前の問題を扱おうとしている状況において、そのようなことをしてもあまり説得力が無いと思われますので、いわば「もっとも控えめな」くらいに捉えて頂ければ幸いです。

 故に、まずは「上記矛盾を成立させる」ための見通しを立てるのが、現状では私にとっての先決問題となっております。少しだけ書いておくと、ゲーデルの第二不完全性定理を、可能な限り「関係性」のみに基づいて証明すること、それがどこまで可能かということ、そのことを用いて、普遍論理に接近しようと考えております。



 当方が普遍言語(学として持つべき制約)を重要と考える根拠は、決して上の事柄(機械の内包的定義や人間の「成り行く」性質の叙述)にとどまらず、先に3部に分けて投稿させて頂いた内容と重複しますが、村田晴夫先生の言われる「システムの不完全性の原理」そして「自由と愛の葛藤」へとつながるものと考えております。上で「人間」に対して述べた内容は、組織一般において、その目的や何らかの価値の追求といったことを通じて、その組織の「成り行く」性質の叙述、そしてシステムの不完全性の原理、そして「愛」、「倫理」へとつながるはずです。もちろんこのあたり、今回ご教示頂いた「真善美」の一致問題を関連させつつ、更に整理していきたいと考えております。
浦井 憲 2017/07/11(Tue) 03:08 No.30
上記投稿 No.30 での一ヶ所文字訂正
 すみません。当初の投稿時、一ヶ所「内包的」と書くべきところが「内縁的」になっておりました。また、一ヶ所改行が不適切なところもありました。現在の投稿文では修正済みです。
浦井 憲 2017/07/11(Tue) 03:23 No.31
「真善美の一致」と「哲学的営為」、そして「学に対する学」ということ
村田晴夫先生に向け「真善美」の一致ということについて当方からの質問をさせて頂いたところ、早速に先生のご論文を送付頂きまして、火曜日大学にてこれを受け取り、大変興味深く拝見いたしました。今現在、一層詳細に勉強させて頂いておりますが、『組織における美と倫理』組織科学Vol.33(2000) に先生の書かれた内容、また7月9日に頂戴したご投稿の内容をもって、ほぼ当方の疑問は氷解し、また当方の問題意識についても、一層明解な位置付けが可能となって来たように思われます。ご教示心より感謝申し上げます。

 上記論文において、基本的には西田哲学(善の研究)の立場から、「真善美」は「知意情」という、あるいは「思考、意志、想像」という、言うなれば役割分担をもって、組織の「成り行く」ところ、その「営為」に資する(前提となる)ものとして、位置付けられていると拝察いたしました。

 このような意味における究極の「真善美の一致」は、例えば「一致しなかったら」などという「言語分別」の前提のところにある一致であり、そのような分別の成立する世界そのものの全体的統一、調和のための契機として述べられた「究極の一致」として、あらゆる二元論的対立の以前にある、斉物的一元論とでも言うべきものとして、把握できると思います。

 おそらく誤解を恐れず思い切って簡単に述べさせていただけるなら、先の投稿にて当方が質問させて頂いた際(前編1/3)の「整合的である、つまり究極的に真も善も美も、それぞれが追求して出てきたことを、互いに尊重し、共存できる、という意味ではないか」という解釈も、許されるのではないかと、今は捉えております。真善美を各々追求することの全体としての調和ということ(それらの自己組織化としての世界の肯定ということ)とほぼ同義であると、捉えております。



さて、それではその文脈の下、当方の「普遍言語」の問題がどのように位置付け可能であるか、整理が一層できてきたように思います。

 村田先生が、やはり先の7月9日の投稿で述べて下さった点、

>  私が先の研究会で提起した類似の問題は「経営哲学とは何か」という問題であった。
>  それに対して私が出した答えは、〔1〕経営の意味を探究すること、〔2〕経営学の
>  方法論を論じ、探究すること、〔3〕経営者の哲学を探究することの3領分をその領
>  分として、これらの3領分は究極的には一致する、ということであった。それはまた
>  自己批判の可能性をも内包していて、自己言及あるいは自己組織化の条件を満たす
>  と思われる。
>
>  しかしこれは「経営哲学」という限定があっての論述である。このような限定、あ
>  るいは制約、があって「学」あるいは「哲学」を語ることができるのではないだろ
>  うか。

まさしく、村田先生の言われる部分に、当該問題の骨格が存在していると思います。

 村田先生は「文明と経営」において「哲学」という言葉を用いるにあたっては「学に対する学」という意味で、用いておられます。加えて学問での「具体性」ということについては、「主体の成り行く」ところに見いだすという立場を通しておられます。

 これらを合わせて考えると、「経営学における具体性」は、すなわち「経営学の成り行くところ」に他ならず、それを学として考えるのが「経営哲学」ということになると、当方理解しております。

 このような文脈において、村田先生は「哲学的営為」ということについては、それを「学」そのものということと、微妙ではありますが、やはり分けて考えておられるのかなと把握致しております。というのも「営為」とは、やはりその社会の中、自然の中、全体性の中においてそれこそ「学の学として成り行く」ところになされるものであり、決して(いわば思考、論理、分析、推論といった)「学」という知的活動の範囲内のみで、行われる事柄ではないからです。

 哲学的営為とは、従って哲学という「知」的活動そのものを含め、またその「善」的、「美」的活動まで含めた言葉であろうと考えられます。もちろんその重要性について、これから先(学問もまた「成り行く」ということの意味から考えて)疑いないものと考えます。当方はここで、村田先生の用いられる組織という概念を、いわば「学界」とでもいうべきところ(組織)に適用して述べていると申し上げると、通りがいいかも知れません。

 一方、当方が「普遍言語」といったことを問題とし、述べようとしている内容は、この「哲学的営為」という文脈で言えば、哲学における、狭い「知的活動」の範囲内で、何ができるのか、何をすべきか、その役割について述べようとしている、そのような位置付けになるかと思われます。

 村田先生が、7月9日投稿にて当方の質問を以下のように、

>  学とは何かを問うことは哲学の領分である。しかし、浦井先生の問題提起は、
>  その哲学における「自由」と「制約」を問うている。

言い直して下さったところですが、当方の述べる哲学における「自由」と「制約」は、従って村田先生の言われる「哲学的営為」の重要性とも、またその広い意味、即ち「善的活動」「美的活動」を含めたものとも整合的たらんとする、「知的活動」内の問題と、言えると思います。整合的たらんとするというか、むしろ、その「整合性」こそが、その主張内容と言えるとも思います。

 つまり、そういった「学に対する学」、「哲学に対する哲学」ということを考える場合、そこでの「知的活動」としての思考、論理こそが、普遍論理という位置付けになるのではないかと思います。また、それもまた「成り行く」ものである限り、少なくともその全体が明確に定まっているという必要はなく、またそうでない方が自然でもあります。そしてその普遍言語の普遍言語らしさとも言える「明らかさ」、「明晰さ」といったものは、「美的活動」によって、その広い「哲学的営為」の中で、評価される他無いと思われます。そして、「善的活動」としては、まず第一にその学問が自らの根拠を自らに求めるところ、すなわち「自由性」の意志として、既に原初的には現れていますが、それは最も原初的なものと言えるところに過ぎません。それに引き続いて(普遍言語の例えば一部をもって)「愛」が明らかにされ、またそれとの葛藤(これこそが、先の投稿で述べた、その限界をいい加減にすれば、葛藤もまたいい加減にもなるところですが)が明かになるにつれ、自己批判を通じて社会全体における「責任」が、またそれを通じて新たな「善的活動」の広がりが、見いだされることになると思います。それはまた「美的活動」にも戻っていくことになります。(一つをいい加減にすると全てがいい加減になってしまいます。)

 従って、美はこうした普遍言語の成立に必要であり、普遍言語は自由(という原初的な善的活動意志)と愛の葛藤を通じて、善的活動の豊かさにとって必要であり、そうした豊かさはまた社会全体との調和ということを通して、美的活動と関わるというのが、この「学に対する学」という層における、「学の成り行くところ」と言えるのではないかと、今はそのように考えるところです。

 以上、村田晴夫先生の「組織における美と倫理」にそのまま乗っからせていただく形で、思いつくままにともかく書かせて頂いたところですが、少し時間に焦って結論を急いだ部分もあるのではないかと恐れます。ゆっくり時間をかけ、更に検討させて頂きたいと思います。細部、いろいろと不十分な点不明確な点など、皆様方にぜひご指摘、ご教示いただければ有難く存じます。
浦井 憲 2017/07/13(Thu) 06:45 No.32
Re: セミナー「文明と経営」その後
みなさま、たいへんご無沙汰いたしております。

掲示板の投稿、たいへん面白く拝読しています。今もときおり二読・三読しています。

「日本ホワイトヘッド・プロセス学会 第39回全国大会」のご案内をさせていただきます。今年は、奈良県天理市の天理大学で10月14日(土)〜 15日(日)に開催されます。

初日のシンポジウムでは、守永直幹先生がシンポジウムで「生命哲学」をテーマにお話される予定です。このスレッドでの守永先生の議論の中でも、少し触れられていましたが、これまでの守永先生の議論は、おそらくこのシンポジウムに向けた準備という意味ももっていたものと思われます。下に案内とプログラムを貼ります。

ご都合の良い方、ぜひご出席下さい。


日本ホワイトヘッド・プロセス学会 第39回全国大会 プログラム

日 程: 2017年10月14日(土)〜 15日(日)
会 場: 天理大学 研究棟・3階

10月14日(土)
< 理事会 > 会場:第4会議室
時間:11時30分 〜 13時30分

< 公開講演 > 『「いのち」と医療』
会場:第1会議室
時間:14時 〜 15時
講演者
吉田 修(天理医療大学学長)

< 公開シンポジウム > 『「いのち」をめぐって―生命哲学と生命倫理の諸問題―』
会場:第1会議室
時間:15時15分 〜 17時45分
提題者
林 貴啓(立命館大学)
守永直幹(宇都宮大学)
田中 裕(上智大学)
司会
荒川善廣(天理大学)


< 懇親会 > 会場:心光館
時間:18時 〜 20時
       会費:4000円(予定)&#8195;
10月15日(日) 

<研究発表>(発表35分、質疑応答15分)

発表グループ1(会場:531演習室)

10時 〜 10時50分  
山浦雄三  「よく生きる」〜ホワイトヘッドの倫理の方位
司会・コメンテーター:谷口照三

10時50分 〜 11時40分  
猪原政治  企業の社会的概念の考察 ―ホワイトヘッドの思想をもとに―
司会・コメンテーター:谷口照三

(昼食休憩および総会:総会については下記参照)

14時 〜 14時50分  
Mア要子  ホワイトヘッドにおける美的調和と人間形成について
司会・コメンテーター:乘立雄輝

14時50分 〜 15時40分
大厩 諒  ジェイムズの哲学観 ―四つの特徴と根本的経験論―
司会・コメンテーター:乘立雄輝


発表グループ2(会場:533演習室)

10時 〜 10時50分  
飯盛元章  自然法則は変化しうるということについて
    ―ホワイトヘッドの「宇宙時代」とメイヤスーの「事実論性」の考察をとおして―
司会・コメンテーター:本郷 均

10時50分 〜 11時40分  
清水友輔  自然における超越と関係
    ―ホワイトヘッド哲学における「宇宙時代」の複数性について―
司会・コメンテーター:本郷 均
(昼食休憩および総会:総会については下記参照)

14時 〜 14時50分  
佐藤陽祐 過ぎ去ったものたちはどこにあるのか
―ホワイトヘッド哲学における「過去」について―
司会・コメンテーター:田中 裕

14時50分 〜 15時40分
有村直輝 ホワイトヘッドにおける神と両立不可能性
司会・コメンテーター:田中 裕

< 総会 >
会場:第1会議室
時間:13時 〜 13時50分
村田康常 2017/09/26(Tue) 00:36 Home No.52
村田康常先生、ご案内有難うございます
ホワイトヘッド・プロセス学会のご案内、まことに有難うございます。

学期の始まりが例年より早く、今週末から既に講義が始まるようです。恥ずかしながら昨日になってそれを知り、
慌しくしております。

ホワイトヘッド・プロセス学会の方は、地元奈良でもありますし、ぜひとも参加させて頂きたく思っております。

守永先生のご報告を含め、皆様方のお話をお伺いできる機会を大変楽しみに致しております。
浦井 憲 2017/09/27(Wed) 15:23 No.53
2018年3月9日セミナー『貨幣・価値と事実の「関係性」』その後

2018年3月9日、方法論部会セミナーでのご報告、ご講演、ディスカッションに基づき、その
全体まとめとして、またこの先の一層の発展に向け議論を深めて頂く目的で、このスレッド
を立ち上げました。

特に、前年から引き継いだお話として村田康常氏(名古屋柳城短期大学)に方向付けて頂
いたテーマ「価値ある事実:ホワイトヘッドの多即一の論理」に向け、経済学側からは神谷
氏による「貨幣価値の非決定性」、そして塩澤氏の顕示選好とベイズ統計モデルといった
観点から、「具体的に」切り込んでいくことができればと思っております。

当日は、全体ディスカッションの時間を、特にこの総合的な問題に費やすことができればと
願っておりましたが、幾分時間不足になってしまいました。当方の力量不足、お詫び申し上
げます。また、当日のセミナーにご参加頂けなかった方々も大勢おられますので、ここで再度
議論を深めることができればと願っています。


当該セミナーに前後して、私と鈴木岳氏、長久領壱氏、守永直幹氏、塩谷賢氏、村田康常氏
の間ではメールでのやりとりがなされておりまして、その内容をお伝えすることも、ここでの
大きな目的です。その内容を含めて、以下まずは当方のここまでの理解として、独断を恐れ
つつ、(1)セミナー前、(2)セミナー時、(3)セミナー後、それぞれについて、この先の議論の
きっかけになるのではと思われる内容をまとめてみました。不十分があると思いますが、叩き
台として頂ければ有難く存じます。


(1) セミナー前のやりとり: 「主体」について、鈴木氏ならびに守永氏の問題提起。村田氏「具体性を置き違える誤謬」の二つの意味。

(2) セミナー時のやりとり: 「数」の取扱い、またそれを含めたホワイトヘッドとベルクソンの違いについての守永氏の問題提起。

(3) セミナー後のやりとり: カント的「近代」との対置。経済学における「貨幣の価値の非決定性」の意味と「具体性を置き違えの誤謬」。


それぞれについて、以下3つの投稿を続けます。

なお、当日の配布資料を除きましては、私が村田康常先生から頂戴したメールの文章を除い
て参考資料等まだ一切挙げておりません。まずは投稿者のご判断で投稿時の添付ファイルと
して下さい。ご要望に応じて、以下URL(数理経済学会ホームページのセミナーメニュー)

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html

からご覧頂ける当該セミナーの広報欄に、セミナー後の追加的資料としてアップロードさせて
頂きます。

浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:34 No.55 [返信]
(1). セミナー前
当日参加をお願いした一部の方々と、事前の簡単な打ち合わせをおこないました。そうした
中、今回を経てまた次回以降に引き継ぐべき重要な論点も存在しているように思います。以
下その詳細をまとめます。

鈴木岳氏からの経済学理論における「主体」の取扱いについての問題提起に端を発する形
で、更に守永氏からはそれを一層深める形でホワイトヘッドにおける「主体」の取扱いについ
ての問題提起があり、フッサール的な超越論的主体、デリダの差延等、「主体」概念とそれに
まつわる問題をいかに、どこまで取り扱うか(取り扱わないか)が議論されました。守永氏の
ご忠告にもかかわらず、主体の問題にこだわったというわけでは無いのですが、一応これは
大切な論点と思われます。マクロ経済学における「ルーカス批判(合理的な期待とは何かと
いう問題を含めて)」、あるいはゲーム理論における「合理性の共通認識」といったことが、
この問題と関わると思います。これらは、そもそも「社会認識」とは何かという問題として経済
学理論(あるいは Weber にまで戻るとすれば社会科学一般)の根底に存在しており、そして
いわゆる「経済人」という概念においては、そうした部分が理論上(一つには困難ということ
もありますが、一つにはそれが「役に立たない」という理由によって)空白のままになっている
と思います。合理的主体の合理的とはどういうことか、合理性の共通認識という場合の合理
性とはどういうことか、そうしたことを空白のままに、経済学的には「主体」agent 概念が与
えられる以上、これが超越論的にも subject と捉えられることは、経済学理論の専門家に
於いてはありえないことで、しかしながら、言説として、これが一般的な知として広がった際
には、そこに大きな乖離が生ずるのは間違いなく思われます。(これは別の機会でですが、
葛城政明氏より、私が関心と問題意識を持っているところは、agent でも subject でもなく、
self ではないか、agent - self - subject をきちんと分けた方が良いというアドバイスを頂き
ました。そうかもしれません。というか、それらは少なくとも究極においては、一致せねばなら
ない、と当方が考えているのは間違いないです。)

「貨幣」というものを理論が取扱うにあたっては、そのような空白部分が理論内部に持ち込
まれてくることを余儀なくされるところがあり、そのことが経済学理論から本質的な貨幣の
問題を遠ざけているのではないか、そういった論点が重要になってくるように思います。これ
らが、ホワイトヘッド的な「具体性を置き違える誤謬」という問題(経済学理論を「具体例」と
するならば)に関わってくるのではないかと考えます。


村田康常氏からは、まず「具体性を置き違える誤謬」について、それを二つに分けるべきとい
う示唆を頂きました。以下、村田氏のメールのその部分を抜粋します。


   「具体性を置き違える誤謬」というのは、2つの意味があります。

   まず、それは「研究者の倫理」程度のことを言っているのだ、という大雑把な理解です。
   これは間違っていません。「具体性を置き違える誤謬」は、科学の方法を用いる者に
   とって、いわば当たり前のことを言っているわけです。

   …

   このように見てしまうと、「具体性を置き違える誤謬」というのは、かなり粗削りな考えだ
   ということになります。しかし、そのような粗削りで雑駁な考えであるために、具体性を
   ホワイトヘッドは価値と事実が受肉するという出来事の関係性の内に求めている、と
   いった彼自身の哲学内部の事情からはある程度切り離して、科学哲学や科学方法論
   の一般的な議論の中で語ることができる考えでもあります。

   そして、このホワイトヘッド哲学の内部事情が、「具体性を置き違える誤謬」という考えの
   2つ目の意義です。


上記のような観点から、(1)粗削りな研究者倫理、(2)ホワイトヘッド哲学の内部事情、という
ことを分けて考えたいと思います。つまり、「具体性を置き違える誤謬」について、経済学でも
良く言われるように、理論が現実と乖離していないか、常に注意しましょう、という当たり前の
こと(もちろんそれは最終的には最も大事なことかもしれないのですが)から一歩進んで、更
に深い問題、価値が事実から切り離せないということそのものに問題を見出す方向、そして
「具体性を関係性の内に求める」ということと絡めて、議論を深めたく思います。

また、ホワイトヘッドにおいて「主体」がどのように扱われているかについて、村田康常氏は以
下のようにまとめて下さっています。


   ホワイトヘッドの「主体(subject)」「客体(object)」という語の使用は、カントの主-客構図
   を批判するために使われていて、いわばカントの構図をひっくり返した存在論・認識論の
   構築を目指していたために、かえってデカルト/カント的な語彙のまま残されている、と
   いうことです。守永さんがおっしゃっていたように、subject / objectには、行為論的な文脈
   では「主体/客体」、認識論の文脈では「主観/客観」と訳される傾向に即して、ホワイト
   ヘッドでは「主体/客体」という訳語が当てられています。


これは当方の理解ですが、ホワイトヘッドにおいては具体性を関係性の内に置こうとすること
と相俟って、「認識」ということも「行為」もしくはプロセスとして、それこそ「多即一」的に扱わ
れる、ということかなと、思っております。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:41 No.56
(2). セミナー当日
当日の配布資料は以下URL(数理経済学会ホームページ Seminar Menu)から Download
できる形になっています。

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html

全体ディスカッションの時間を独立して確保することができず司会の不備を反省しております。
個々のご報告ならびにご講演内容についての詳細をここでまとめるということは、私の力量を
越えておりますので、全体を通した総合という視座より、簡単にキー概念的なところで、まとめ
ます。

塩澤康平氏のお話: 「表現」として得られるデータ(例えば価格と需要量のみといったもの)
から、その背後にある構造(何人のどのような人々が合理的に行動した結果であるというよう
なもの)を取り出すということです。この問題を、真実というべきものがあって、それに近づく
と考えるなら、今回の話には直接つながらないのですが、「合理化」ということ自体そもそも
一つの架空のお話に過ぎないという立場で考えれば、積極的にそうした「価値」を取り込む
ことで、始めてモデルが作れる、という話として、関わって来るかと思います。

神谷和也氏のご講演: 「貨幣」の持つ「交換の媒体」という特性に特化した基本的なモデル
(サーチモデル)の下で、「貨幣の価値の非決定性」について、実験を含めた考察です。この
場合、貨幣の価値が Focal Point として(つまり参加者の思惑の一致のみで)決まるという
ことがポイントで、それならば思惑が一つ変われば、均衡すなわち貨幣の価値も変わるという
ことであり、言い換えれば指揮者がいるのといないので大違いということです。貨幣について
は市場ではなく、政府の役割を認めるという立場になります。今回の話との関連で言うと貨幣
の価値が、標準的な経済理論が主体 agent として想定する(欲望の記述も含めた)ものの
「事実」だけからは決まらず、その主体の subjective なところ、そのマーケットを見渡す主観、
のようなところ、価値判断といったものに、必ず関わるということになります。

村田康常氏のご講演については、ご本人から事前に頂戴していたメール文での今回ご講演
の要点と思われるところを、以下そのままご紹介させて頂きます。


   ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論では、価値が受肉した事実の世界を存在論的・認識論的
   な角度を絡み合わせながら描いていると思います。事実への価値の受肉はどこでおこるのか。
   認識主観において、というデカルト以来の(特にヒュームとカント以降の)近代認識論の潮流
   に抗して、ホワイトヘッドは、まずは諸事実は価値と不可分に結びついて生成するという存在論
   を展開します。主観的偏重のない「なまの事実そのもの」といったものを認識することができな
   いのと同様に、主観的な価値評価の観点を離れた普遍的な「価値そのもの」をそのまま認識
   することはできません。価値評価は、認識される客体から認識する主体への関係性の中で成立
   します。そこに、主観的なパースペクティブの多様性に応じた、価値評価の多様性が生じます。
   問題は複雑ですが、今回注目したいのは2点です。

   まず、価値判断や価値評価を入れない「事実そのもの」を、客観的なものとして、つまりいかなる
   認識主観にも同一の認識をもたらすような仕方でアクセスすることが可能なものとすることを
   ホワイトヘッドは否定しています。そのような仕方で没価値的な事実そのものとしての対象(客体)
   にアクセスするような認識の成立こそが科学だとするような科学理解を否定するわけです。「没価
   値的な事実」は高度な抽象化だという主張が、このような批判の根拠になっています。気をつけ
   なければならないのは、ホワイトヘッドが、価値を脱色された「なまの事実そのもの」という認識の
   成立を否定しているのではなく、そのような認識は高度な抽象化の産物であり、そのような認識
   だけに基づいて何らかの判断やアクションをその対象に及ぼす場合、そのような判断は価値と不
   可分に結びついた事実の具体性を見誤っているがゆえに、場合によっては破壊的に作用すること
   すらある、ということを彼は主張しているということです。

   次に、価値判断の多様性と同様に、価値と不可分の事実についての認識も多様だという認識の
   多元論は、知の相対性とともに、知の途上性をも主張しているということです。ホワイトヘッドは、
   不可知論を主張しているのではなく、最後究極的な唯一の知といったものはフェイクだと言って
   いるのであり、知の営みは常に途上であり、創造的に前進しつつある、ということを主張しています。


今回のご講演では、当方司会の進め方が悪く、議論という形で上記問題を皆で論ずるというところ
に至らなかった感が強いので、この点、ぜひともこのBBSで補足できればと願っております。これに
ついては、セミナー後のやりとりがありますので、そちら(次の投稿)に続けます。

最後に、当日のディスカッションからは、特に守永先生からご指摘のあった、ホワイトヘッドにおける
「数」の取扱いについて、ということを、議論の出発点として挙げさせて頂きます。「具体性を置き違
える誤謬」については、ベルクソンからの影響、あるいは塩谷先生のご指摘ではジェイムズからもと
のことですが、特にホワイトヘッドにおいては、「数」の取扱いについて注目すべきところがあるので
はないかということでした。これもまた、セミナー後のやりとり(次投稿)にて改めて触れさせて頂く
ところですが、ホワイトヘッドとベルクソンの関係は、今回議論の大詰めに関わる問題として、大変
興味があります。守永先生どうか宜しくお願い致します。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:43 No.57
(3). セミナー後
すでに一週間を過ぎてしまいましたが、その間、また数名の先生方と、メールを通じたやりとりをさせて頂き
ました。


まず、村田康常先生からは、以下のようなご連絡を頂きました。


  発表では、みなさまと議論したかったことがいくつもありましたが、私の説明の拙さのせいで、「具体性
  を置き違える誤謬」は当たり前のように科学者や哲学者みんながやっている、というところだけで議論
  が膠着してしまって、その先に十分に進めなかったのが、本当に申し訳ないです。

  その先で論じたかったのは、なぜこんな「具体性を置き違える誤謬」に気を付けるといった当たり前の
  ことを科学や哲学が留意しなくてはならないのか、それは科学や哲学といった学問の世界にだけ固有
  の事情ではなく、人間の経験や認識そのものに関わる問題ではないのか、というところでした。


当日の話を更に発展させて行く上で、以下の論点を挙げさせて頂きたく思います。

セミナーでは、特にホワイトヘッドとベルクソンの「違い」に話が行ってしまった感があります(もちろんそれは
非常に興味深い点です)が、むしろ「ホワイトヘッド&ベルクソン&ジェイムズ」をひとまとめにして、「カント的
近代」と対置させる、そのことの方に当方が司会として誘導すべきであったと反省しております。

この点は、哲学の方々には当然すぎると思われるところかもしれないですが、それ以外の方にとっては全然
自明ではなかろうと思います。村田康常先生ご指摘の論点も、まずこれを前提にしておかなければ、「近代」
科学の根底にある問題という形で、議論が進まないのではと思います。「具体性を置き違える誤謬」の現代
における意義、ということを考えるならば、その点が必須であったであろうと、思われるということです。

また、それを前提とすれば、ホワイトヘッドとベルクソンあるいはジェイムズ等との違い、ということにも、却って
その意義がともなってくるのではないか。「近代」との対決、と捉えるならば、ホワイトヘッドとベルクソンの違
いということにもまた、相互に補完的なものとして、位置付けることも可能になってくるのではないかと、その
ように予感しております。


続けて、守永氏から、神谷氏の「貨幣価値の非決定性」について、その意義についてのご質問があり、以下
のような形で(あくまで当方の理解する一つの意義として)お答えしております。

「貨幣の価値の非決定性」の一つの意義について、これはいわば神谷氏の取り扱うような純粋な交換のみ
を基調とするモデルにおいて「さえ」、貨幣の価値が(純粋な事実判断=ファンダメンタルズのみによるとい
うよりも)人々の Focal Point として定まるという他ない、ということが言えているということです。

今日のマクロ経済学では、貨幣の価値というものが「純粋な事実判断から決まるものであり、そこに人々の
価値判断的要因の入り込む余地は無い」としておきたい、というのが主流の考え方になっています。それに
対して、このようなシンプルなモデルでも、非決定性が出る(この場合非決定性とは、ファンダメンタルズ=
事実に関する判断のみでは決定できない、という意味です)というのは、一つの重要な批判になってきます。
(もちろんマクロの主流派は、こうした問題についても、世代重複モデルといったもの等々を通じて、そうでは
ないモデルがあるということを十分知っており、その上で、こちらのモデルで「良いのだ」という立場を取って
いるだけですから、そういう反例が一つ増えたからといって、直ちに影響があるということではありません。)

今日主流派のマクロ経済学はそういうものですが、一方で、かつて1970年代頃までのマクロ経済学の主流
(ケインズ経済学)の基本的な考え方はそうではなく、まず将来の不確実性ということに本質的な意味があ
るものとして捉え、貨幣はそのことと結びついて本質的な意味を持つ、その場合に政府の指揮が有効である、
という路線でした。例えば Focal Point というのは誰かが指揮をすればそこに向かうということであり、指揮
者が必要、あるいは指揮者に意味がある(政府の役割を認める)、という方向の議論になります。ケインズは、
そのような立場の方が一般的と考え、自らの理論を一般理論と唱えたわけです。(この反対は、もちろん市場
が第一であり、政府は基本的に市場の働きを乱すな、という方向の議論になります。)

普通に考えれば、ケインズ的な(一般的な)考え方の方が、常識的と言わざるを得ないと思います。

では今日の主流派が上のような立場を取る理由は何かと考えますと、その一つとしては、おそらく「理論家が
自らの結論に責任を取らねばならないということに直面した際、はっきりと分かっていることだけに着目して、
分かっていないところについては、議論の対象としないということを、選びたがる」からではないかと、これは
経済学者という集団の内側から見ていて、私の印象に過ぎないと言われればそれまでですが、そのように思
います。

いわば「具体性をわざと置き違える」ことで、自らの発言の道徳的責任を回避しようとする傾向、と言えるの
ではないかと思います。そのような傾向(暗黙的な価値判断)が、経済学のような現実社会およびそこでの
政策と密接に関わるような社会科学においては、その学者集団の主たる潮流をそもそも作り上げる(これは
専門家というものが作り上げる、今日の学問あるいは科学という「科学観」からして決して無視できない重要
なファクターであると思いますが)際に、働きがちということでしょうか。

また、言い換えるとこれは、「いかなる場合でも具体性を置き違えざるを得ない」ということ(社会科学の出発
点として、Weber 的には当然のこと---価値自由という言い方をするにせよ、価値を置かざるを得ないという
ことは当然のこととして認めているという意味において---であったと思うのですが)を忘れ、「いっそ具体性
を置かなければ誤謬に陥らない」、と考えるかの如くに、「具体性を置かないという選択肢」を安易に手にし
得ると考える誤謬、のように思います。この誤謬の背後に、学者という道徳的責任、ひいては学問という場所
の問題があるのではないかというのが、当方においては前年から気になっているところでもあります。

誤解を恐れず申し上げれば、この「学問」という「場所」の問題に立ち帰るなら、我々には「拠り所とするもの」
が、あると言わざるを得ないのではないか。それはおそらく知ることそのものであり問うことそのものであり、
そのような表現の自由そのものの拠り所でもあると思います。それが「多即一」の話ではないかと私には思
われ、また、守永氏の言われるベルクソンとホワイトヘッドの違いということについては、「数」ということがそ
のこと(拠り所とするもの)とどのように関わるか、という重大な話につながると思っております。


以上、叩き台として頂ければ幸い、ここまでのまとめです。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:46 No.58
追記: ホワイトヘッドとM.ウェーバー
当方がすぐ上の投稿にありますような形で急にM.Weberを出してしまったところで、守永先生より、追加的
な問題提起を頂き、ホワイトヘッドとM.ウェーバーの比較というのも、近代化論という枠組みで可能ではない
かとの問いかけを頂きました。

有難うございます。Weber については、当方も書きつつ気になっておりました。思えば、「社会」の「科学」を
成立させるために事実判断と価値判断を明確に切り分けた Weber と、今回の話は方向性としては真逆の
ものなので、自然に出たわりに、整理が必要と感じておりました。

守永先生からはメモをファイルで頂戴いたしまして、また必要に応じてアップロードして頂ければと思います
が、なるほど、Weber における理念型の位置付けが現在の問題と直結しているように思われます。そして、
それは、論理実証主義や分析哲学においては純粋な分析判断とか、言語といった概念に対応するところと
して洗練化されるところとなり、そうしたものが20世紀的科学の基礎となり、20世紀の経済学などがそこ
にそのまま乗っかった、と思います。

しかしそもそも経済学などは、Weber が基礎づけようとした「社会」の「科学」そのものですので、「近代」の
「科学」の問題点を明確にしようとするのがホワイトヘッドの意図にあったとするならば、まさに今日経済学
に見られる問題点には、正しくその近代の科学の問題点が明らさまに浮き彫りにされている、ということが、
あり得そうに思います。今回の「貨幣」における問題点などは、そういう意味で恰好の題材であると思います。

もう一点、大きな流れで言うと、ウェーバーにおける理念型、論理実証主義における言語、そして多即一の
「論理」というものがあるように思います。この点極めて興味があります。何とぞ宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:51 No.59
Re: 2018年3月9日セミナー『貨幣・価値と事実の「関係性」』その後
浦井先生、諸先生

セミナーと、その前後の議論の動きが一目で解るようになっていますね。
これ自体がなかなかの労作と言えそうです。とても参考になりました。
まことに、ありがとうございます。

ところで私は今、このセミナーで話題にしたホワイトヘッドとベルクソン
の関係について、とりわけ「具体的なものを置き違える誤謬」を巡って
論文をしたためております。

このキャッチフレーズについて調べ、考えを深めるにつれ、これは容易
ならざる深い根と広がりをホワイトヘッド哲学において持っていると
確信するに至りました。

締切が月末迄で間に合うかどうか解りませんが、好い機会なので、それを
仕上げるのに全力を注いでおります。そんなわけで、この論考が完成する
まで、自分がこちらの掲示板に投稿するのは無理だと思われます。

逆に、それなりの形ができたら投稿して、皆さんのご批評を仰ぐことも
考えております。

ホワイトヘッドについて、あるいはベルクソンについて、ずいぶんと
あちこちで発表したり、論文を書いたりしてきました。新しい資料も
どんどん出つつありますが、ここらで自分の考えをまとめておかないと
もう後がないと些か焦っております。

ではまた後で。近いうちに。
守永直幹 2018/03/22(Thu) 15:10 No.60
3月9日セミナーのその後(具体性置き違えの誤謬と多即一)
ジョイント・セミナーでの議論全体がこのBBSで要約され、さらにその前後のメールでのやりとりも網羅されて、全体が通覧できるようになりました。守永先生がおっしゃるように、浦井先生のたいへんな「労作」の恩恵は、とても大きいです。感謝いたします。

3月9日のジョイント・セミナーで私は、予定していた発表をうまくこなすことができませんでした。これは、ひとえに私の発表のまずさのせいで、司会を務めてくださった浦井先生には一切責任のないことです。

そこで、このBBSをお借りして、セミナーでは用意していたけれどもうまくお伝えできなかったことを言葉にしておきたいと思います。幾人かの先生方にはすでに3月11日付けのメールで書きました内容で、少々長文ですが、このあとの議論に何かつながっていけばと思います。

まるで3題噺のように、「価値と事実の二元分裂という図式の批判」「具体性を置き違える誤謬」「ホワイトヘッド哲学の多即一」というテーマをつなごうとして、詰め込みすぎた観がありましたが、そのうち後者2つがどう繋がるのかは、セミナーではほとんどお話できませんでした。「多即一」の「即」をbeないしはequalと解するのではなく、becomeとかbecomingと解する、というのが私の話のオチになるはずでした。以下で、そのオチまでの話を書きます。

「具体性を置き違える誤謬」という考えは、科学や哲学がその方法によって何を捨象しているのか、何をエポケーしたのか、を常に意識しなければならない、という当たり前のことを言っています。しかし、それは厳密には不可能な話です。何を捨象していたのかをリストアップし尽くすことはできません。明晰判明な理論が捨象しているのは、ほとんど現実世界のまるごと全体です。逆に学問的関心と方法によって掬い出され、選択され強調されたのは、その中の、主題に関連するごくごく一部のことにすぎません。他のほとんどが「雑音」や「誤差」として消されています。「ラボ」とか「実験室」とか「サンプル抽出」とかは、この多様な世界のほとんど全体からなるさまざまな「雑音」を消して研究の主題となる領域だけを選択的に残す努力の一つです。先日の塩澤先生の統計学のお話は、そういう研究の「努力」を劇的に効率化するための従来の手法に対して、より具体性をもたせるためにギリギリの効率化よりもある程度の手間をかけた方がよい、ではどれだけの手間をかけるのがよいのか、といった方向での意欲的で可能性の高いチャレンジだと思いながら拝聴しました(違っていましたらご指摘くださるとありがたいです)。

科学も、哲学も、それぞれの専門に応じた方法によって、数えきれない「多」から、慎重に「一」を生成しています。そしてその方法は、絶えず吟味され改良されています。

そうやって、学知において、「多」から「一」が生成するというプロセスが繰り返されるのだと思います。その「一」には、しかし、マスクされ誤差や雑音として消去された数えきれない「多」が、微かに反映しているかもしれません。手持ちの方法ではその痕跡が認められなくても、それらの「多」が消されてしまったわけではないことを、方法を用いる者は知っておかなければならないというのが、「具体性を置き違える誤謬」という考えの訴えるところです。発表では、これを便宜的に「第一の意味」と呼びました。それらの「多」は、研究をはじめたときの最初の環境設定のところでエポケーされていただけなのです。それでも、保留され排除されたそれらの「多」なるものの余韻というか痕跡というか微弱な影響連関は、理論として提示された「一」が前提としているものであり、この「一」の中にいろいろな仕方で反映されています。一つ一つを読み取るにはまた別の方法によって膨大な費用と手間と時間と努力を傾注しなければならないような無数のものが、生成してきた一つの理論、一つの命題、一つの学説の中に、あるいはその余白にあります。

ホワイトヘッドはこのように「一」なる統一体がそれ自身を超えた「多」なるものの全体を含み、その「一」のパースペクティヴからこの「多」を表現している、という多即一的な観点をライプニッツから引き継いでいます(ライプニッツはいわゆる『モナドロジー』14断章で、モナドを「多を含み、表現する一」としての「1つの実体」と呼んでいました)。科学や哲学の1つの命題あるいは理論も、宇宙全体を前提としています。「ある特殊科学の領域を構成する事実の1つの類は、宇宙に関するある共通の形而上学的前提を必要とする」(PR 11. 邦訳18)とホワイトヘッドは述べて、「命題を現実世界におけるその体系的脈絡から引き裂くことはできないというこの学説」(PR 11. 邦訳18)が科学と哲学の基本的な在り方を規定しているとしています。言い換えると、科学や哲学の「命題は、その意味のうちに前提されているあるタイプの体系的環境を要求するがゆえに、部分的真理を体現することができる」(PR 11. 邦訳18)ということです。

直接経験の個々の契機を凝視すると、その個別的な契機のうちに個別的限定性を超えた全体的な関連が見出される――個は全体を含み、全体を表現しており、一は多を含み、多を表現している、言い換えると、多は一の内的構成要素となっていて、世界全体が1つの経験の契機のうちに含まれている。これは、西田幾多郎の言葉を借りて、ホワイトヘッド哲学における「多即一」の論理と私が呼んでいるものです。ホワイトヘッドは、次のように述べています。「われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、その理解は、それ自身を超えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に、そしてその限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていくということである。」(PR 14. 邦訳23)

ちょうど、空中を落下する水滴の表面に周囲の全世界が映し出されているように、個々の「一」のうちに、それと関連する全宇宙の「多」なる要素が、その「一」の固有のパースペクティヴから映し出されている、といったイメージです。手間ひまを惜しまなければ、その水滴がいかなるパースペクティヴからいかなる世界を映しているかを観察することも可能です。一のうちに多を、個のうちに全体を見ることができる、ということは、私たちの認識だけでなく、科学や哲学などの学知においてもいえるはずだ、というのがホワイトヘッドの信念です。

そして、こうした学知の生成のプロセス、「多」から「一」が生成するプロセスは、認識のプロセスそのものについても言えます。というか、私たちの認識のプロセスが、そもそも、現実世界の判別もできないような無数の与件からいくつかの要素を選択し、意識においてそれを強調し補正し解釈もしていると言った方がいいでしょう。そこにも「多」が「一」になる、というプロセスが絶えず起きています。注意してよくよく見ると、その「一」には、マスクし排除した無数のものが反映しているのが分かるかもしれません。その「一」は、「多」を含み、「多」を代表する「一」(「多」を表象する「一」)、「多即一」の「一」だということ、こういうことがホワイトヘッドを読みながらみなさんに伝えたいと思っていたことです。「抱握(prehension)」とか「合生(concrescence)」のプロセスというホワイトヘッドの独自の術語は、このことを意味しています。私たちの経験は、現実世界の「多」なる与件が、「今、ここ」において「一」なる経験の統一体へと生成していく瞬間瞬間のプロセスの連続だということです。

ホワイトヘッドやW. ジェイムズが指摘するように、私たちの経験の各場面も、自分でそのとき意識している範囲というのはものすごく狭いけれども、その一場面一場面を克明に凝視し、ものすごい試行錯誤の手間や努力を傾注すれば、どの場面にも無数の連関があり、その連関はそのシーンを超えて空間的にも時間的にも因果的にも連想的にも広がっていって現実世界のほぼ全領域に及んでいくということが、見えてくる(かもしれません)。

たとえば、先日、阪大のジョイント・セミナーですばらしい経験をした、あの一瞬一瞬の中にも、メンバーのそれぞれの、そこに至るまでの膨大な経験やその経験をもたらした状況の重なりや広がりがあり、メンバーとは認識されないような要素、たとえばキャンパスのたたずまいとか会議室の内装や備品とかあの日の天気とか朝刊の報道とか誰かの不在欠席までもが、その一瞬一瞬の経験を構成する要素になっている。議論された言葉だけでなく、たとえばマイクの電源のオン・オフも、発表者や聴衆の表情やしぐさも、資料のフォントサイズやレイアウトなども、議論の方向を左右した要因だった可能性があります。たとえば私はレミオロメンの「3月9日」を聴きながら研究棟までの坂を登ったのですが、それがセミナー中もずっと心の中に鳴り響いていました。そういった混然となった無数の要因もひとまず情的・雰囲気的に背景的なトーンとして漠然と感じながらも、意識は研究発表の議論のそのつどの焦点に向けられたり、理解のための努力に向けられたりしていました。

このように、漠然としたものも判明なものも含めて無数の「多」が、その大半を背景へと退きながら、前景に「一」の焦点的領域を形成していきます。つまり、「多」が「一」となる、という瞬間瞬間が連なりながら、その前景的な「一」の連続性が生成します。たとえば、坂を登る途中、音楽を聞きながらその後の発表で話そうと思っていることに意識を集中している。そのような経験の持続というか連続性は、「多」が「一」へと生成する瞬間瞬間の出来事の連なりで、いわば、非連続のものの連続です。そして、その一つ一つの契機の中に、背景へと追いやられた無数の「多」があります。その「多」にも関係性の濃淡があって、前景的なものに濃い関連をもっていてすぐ近くに感じられる要因から、ごくごく薄く間接的な関連がかろうじて認められるかもしれないようなはるか彼方の要因まで様々です。

このような、多が一になる、というのは、認識のプロセスだけでなく、万有の存在のプロセスでもある、というところまで議論を拡大すれば、それでホワイトヘッドのプロセスの哲学の要点は尽くされたといってもいいと思います。まるで仏教哲学のようですが、「今、ここ」での私も、今、開花しようとしている桜の一輪一輪も、一切が、それぞれのおかれた現実世界の「多」なる要素を受けて生成していく新しい「一」だということです。これをホワイトヘッドの「多即一」の論理と呼ぶことが許されるなら、「多即一」の「即」は、becomingということで、「一即多」の「即」は、increaseということになるでしょう。

この関係性は、おそらく現実世界の全体に及んでいます。比喩的にいえば光円錐の内側のように、あのときのあの場での私を頂点にしてはるか彼方の半影のように霞んでいくかぎりない領域の全体が、あのときの私という「アクチュアル・エンティティ」の「現実世界(actual world)」だということです。

・・・・・・長文、失礼しました。
村田康常 2018/03/22(Thu) 23:28 No.61
Re: 社会と価値
ただいま鋭意、論文作成中なので、ここでの議論に参加はできないと思われる
のですが、折角ですので先に浦井先生と村田先生宛てに送ったメールを掲示板に
アップしておこうと思います。

その前にホワイトヘッドにおける「価値」の問題について、私の観点から若干コメント
しておきます。主著『仮定と実在』の第3部・第2章・第3節においてホワイトヘッド
は「価値づけ」の問題を扱っています。

邦訳下巻では「概念的感じの主体的形式は《価値づけ》という性格を持っている」
(437頁)とされます。感じはフィーリングで、私は「実感」と訳したほうが良い
と思っています。で、この概念的感じをホワイトヘッドは別のところで、古い哲学
用語なら「欲求」と言うかもしれないと述べている。平明に言いかえれば、私たちが
主体として何かを欲求するとき、そこには必ず価値づけを伴う」というわけです。
当たり前です!

価値づけは個人の感性を超え、永遠的客体と関わる。これはプラトンならイデアと
呼んだようなものです。ホワイトヘッドは価値付けが3つの特徴を持つと言います。
これもまた、私が絶望的なまでに単純化してみましょう。

1)実感が主体を伴うとき別の実感ないし主体と関わる。――いいかえれば欲求は
他者の欲求を欲求するというわけです。

2)価値づけにおいて永遠的客体が対象に侵入する。いわば欲望の対象になり、
利用しうるものと見なされる。

3)価値づけられた対象を利用することに意味が付与される。そこにおける永遠的
客体の重要性が強められたり、弱まったりする。――いわば価値が上下に変動する。

がっかりするほど当たり前のことを書き並べているのですが、ホワイトヘッドと
しては価値について一言せざるを得なかった。それは実感が主体という統合された
形式を経て、永遠的客体と関係を結ぶ。そうした統合のプロセスにおいて、統合し
得ないものがポロポロ出てくるわけで、それらを価値論的に整序する必要がある
からです。

価値は公的なもの、あるいは社会的なものと関わります。『過程と実在』に伏在する
大きなモチーフは、私ごとにすぎぬ実感がいかに社会化されるかを解明することです。
至るところで公/私の区別が説かれる。そして最終的に勝利を収めるのはつねに「公」
なのです。そして公的なものとは幾何学的なものである!ようは数学だ、と言うの
です。許せませんね!

この件は余り注目されることがありませんが、ホワイトヘッド哲学の肝とも言うべき
点です。ここではあまり深入りできません。いずれ論文に書くつもりです。さぞや浦井
先生を喜ばせるかと思うと、いささか残念です。

「私」が1だとすれば、公は多でしょう。私が多に繰り込まれる過程がプロセスだと
言えなくもない。とはいえ、それはあくまで公であり、一定の社会です。それもまた
1である。

ここでのホワイトヘッドの議論が怪しいのは、私と公をつなぎ、媒介するものとして
本来なら無数の社会的階層があるはずなのに、その意味での社会学的展開に(ベルク
ソン同様)失敗している、と私は見ます。というのも、ホワイトヘッド文明論では、
社会的統合の原動力として、社会的闘争ではなく、むしろ美の創造や平和が説かれる
からで、そこには私と公の弁証法的なダイナミズムがそこにはない。この点が例えば
マックス・ウェーバーあたりと比較すると顕著な特徴です。

さて以下で村田先生宛てと、浦井先生宛てに送ったメールを2通アップしますが、
私には上記のような問題意識がある。それをお含みの上、読んで頂ければ幸いです。
守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:50 No.62
Re: 美と価値
村田先生、諸先生

当日言いかけて、経済学者のいる席であまり深入りしても?と思い、飲み込んだ
質問があります。それはムーアの『倫理学原理』にかんしてです。価値と事実を
二分し、人間における価値の問題を自然科学的なもの(「自然主義的誤謬」)から
切り離すことで彼が擁護したのは美であり、その審美主義的態度がケンブリッジの
知識人サークルに人格的な影響をあたえた。とりわけケインズらの青年層を魅了
した、というのが教科書的なストーリーだったように思います(違ったかも?)

功利主義に還元されることなき美という理念は、必ずしも目新しいものではなく、
ヨーロッパの近代美学における基本的主張と見なせます。それに改めて燃料を
投下した、というにすぎない。ホワイトヘッドはまさにその潮流のど真ん中に
いました。

ホワイトヘッド形而上学の最後の言葉は神でも論理でもなく、端的に《美》だと
私は思います。もっと言えば、美の創造である。創造されるべきものは美である。
一即多の論理をホワイトヘッドから取り出すにしても、かれはそれを価値論的
体系に結びつけるのではなく、何よりもまず美に結びつける。美は通常の価値を
超えています。むしろ価値そのものを担保するものです。

なのに「美とはなにか」という、この肝心な点がホワイトヘッドの体系においては
余りに曖昧かつ抽象的で、不限定である。そう私はホワイトヘッド学会で告発して
憎まれてきました(笑)それは恐らくケンブリッジ・サークルで共有されていた
審美観があって、あらためてそれを説明する要を彼が感じなかったからでしょう。
古い世代の人だから、それで済んだ。

しかるにベンヤミンのいう「複製技術時代」の現代に生きている私たちとしては、
もはやそんなオリジナルとしての美、あらゆる価値の源としての美というプラトン
主義的な理念は受け入れがたい。美と価値をめぐるヨーロッパの伝統的な思想を
脱構築する必要があるのではないか。これが以前からの私の主張です。

ホワイトヘッドの哲学を価値論的観点から読み、これを経済学とつなげるという
アイデアは、ノーマン・ブラウン『エロスとタナトス』Life Against Death(1959)
が手をつけていますが、これはあまりにフロイト的で、性革命を通じた体制への
異議申し立てという臭みを拭えない。明らかに時代的な限界を感じさせ、今と
なってはちょっとどうか?という感があります。これをもっと現代的な観点から
やり直す、という企ては必ずや意義のある仕事になるでしょう。



当日も申し上げましたが、数ひいては記号(シンボル)という問題を巡って、
ホワイトヘッドとベルクソンは鋭く袂を分かちます。このことはようやく最近に
なって私にもだんだん解ってきたことで、以前は似たようなものだと錯覚していた。
ベルクソンが曖昧にしている部分をホワイトヘッドが厳密に記号化したのだ、と
いうぐらいの認識でした。

しかるに両者には明確な立場の違いがある。それがシンボルとイメージの対立と
いう問題です。アクチュアル・エンティティと純粋持続の対立と言ってもよい。
ベルクソンが「エンティティ」(あるいは real thing)という概念の使用を自らの
体系において許すとは思えない。ベルクソニスムの最後の言葉は精神であって、
決してモノではない。

ホワイトヘッドの「具体者を置き違える偽り」というのは、なかなかよくできた
キャッチフレーズで、ごく一般的に用いて、社会科学が得てして陥りがちな過ちを
上から目線で告発するには便利な言葉だと思われます。が、ひとたび具体的なもの
とは何か、抽象とは何かと疑えば、はなはだ問題含みとなる。

当日、塩谷先生はウィリアム・ジェームズからの影響について一言されましたが、
多分あったとしても微弱なもので、ここでの具体と抽象を巡る議論はベルクソン
『時間と自由』に由来すると断言できる。というのも、ホワイトヘッド自身が
該当個所でベルクソンの名前を挙げているからです。

知性による自然の「空間化」をベルクソンが批判したのは正しいが、そうした
空間化はちょっとした歴史上の「偶発時」にすぎず、知性はこれを注意深く
避けることもできると『科学と近代社会』で述べている。ベルクソンは反知性
主義だというラッセルの非難にいわば言質を与えているわけです。

この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。

今にして思うと、ホワイトヘッドはベルクソンから決定的な影響を受けている。
それを無意識のうちに抑圧しようとして、こんな乱暴な挙措に至ったのではないか。
今回『時間と自由』を読み返し、以前の自分の読解はそこでの含みのある論述を
単純化しすぎていた、と気づきました。すぐにも論文を書こうと思います。

ベルクソンは科学による自然の歪曲を非難したのは事実です。しかるにそれを
放置したのでは全くなく、だからこそ逆に「持続」概念を提起したのです。そう
することで、自然科学による「具体者を置き違える偽り」を克服せんとした。
知性には何もできないと白旗を掲げているわけでは豪もありません。

とはいえ、もっと深いところでベルクソンが知性批判ないしヨーロッパ近代の論理
中心主義の批判を遂行しているのは事実で、この肝心な点をホワイトヘッドは見ない。
おそらく気づいてもいない。それが甚だ問題です。

処女作である『時間と自由』で、若きベルクソンは科学の根底にある数学、そして
数学の根底にある数と幾何学の問題と正面から対決を試みる。そもそも数とは何か?

この件にかかわるベルクソンとホワイトヘッドとの関係は甚だ問題含みで、いま
鋭意、論文作成中です。
守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:53 No.63
Re: ホワイトヘッドとM・ウェーバー
浦井先生、諸先生

>「いかなる場合でも具体性を置き違えざるを得ない」ということ
>(これは社会科学の出発点として、Weber 的には当然のことであった
>と思うのですが)を忘れて、「いっそ具体性を置かなければ誤謬に陥ら
>ない」、と考えるかのごとくに、「具体性を置かないという選択肢」を安易
>に手にし得ると考える誤謬のように思います。この誤謬の背後には、学者
>という道徳的責任、ひいては学問という場所の問題があります。

近代化論という枠組みから、ホワイトヘッドとマックス・ウェーバーを比較する
のが可能ではないか?と思い至りました。が、とうてい今ここでやるわけには
参りません。ただ若干のメモのようなものを書き綴りましたので、参考までに
添付ファイルでお送りしようと思います。

[添付]: 27623 bytes

守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:56 No.64
Re: 価値と貨幣
肝心なことを書き忘れました。

なぜ哲学者たちが価値について論じると過度に抽象的になるのかと言えば、
彼らの視野に貨幣が入っていないからだと思います。

貨幣は言語とともに古い。あるいは、それ以上に古い。人類の最も原初的な
シンボリズムの1つです。むしろ「最古」と言うべきかもしれません。

ホワイトヘッドが価値を論じるとき、それを自らのシンボル理論と結びつける
べきだった。その必要を感じなかったのは、貨幣のシンボリズムの持つ呪力とも
言うべきものを彼が知らなかったからだと思います。

ならばマックス・ウェーバーは?と言えば、先の『客観性』論文で、経済学者が
貨幣の起源を探究しようとしないのは怪しからん!と難じてはいるのですが、
ならば肝心の御大はどうかと言えば??
守永直幹 2018/03/23(Fri) 03:12 No.65
Re: 美と価値:守永先生のご質問に応えて その1
守永先生のご投稿、いつもながら面白く、ワクワクしながら拝読しました。美の問題について、また数の問題について、守永先生のご質問にお答えしなくてはならないのですが、その前に、これ2つの質問の前提となっていたホワイトヘッドとベルクソンの読解について、気になっていたことがありまして、こちらからも1点、質問と要望をお伝えします。

「RE:美と価値」で、守永先生は、ホワイトヘッドのベルクソン引用について次のように書かれています。

> 当日、塩谷先生はウィリアム・ジェームズからの影響について一言されましたが、
> 多分あったとしても微弱なもので、ここでの具体と抽象を巡る議論はベルクソン
> 『時間と自由』に由来すると断言できる。というのも、ホワイトヘッド自身が
> 該当個所でベルクソンの名前を挙げているからです。
>
> 知性による自然の「空間化」をベルクソンが批判したのは正しいが、そうした
> 空間化はちょっとした歴史上の「偶発時」にすぎず、知性はこれを注意深く
> 避けることもできると『科学と近代社会』で述べている。ベルクソンは反知性
> 主義だというラッセルの非難にいわば言質を与えているわけです。
>
> この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
> こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
> 一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。
>
> 今にして思うと、ホワイトヘッドはベルクソンから決定的な影響を受けている。
> それを無意識のうちに抑圧しようとして、こんな乱暴な挙措に至ったのではないか。

ホワイトヘッドが「具体性を置き違える誤謬」という考えを最初に述べる際に、ベルクソンに言及して、ベルクソンのいう「空間化」が、抽象的なものを具体的なものとみなす人間の認識上の誤謬の典型例だと言っている箇所について、守永さんは、批判を加えています。ベルクソンは「空間化」などと言っていない、言いがかりだ、というのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。今パッと手元にあるベルクソンの翻訳を見てみても、こんな箇所が目に留まります。

「さて、空間が等質的なものとして定義されるべきだとすると、逆に、等質的で無際限ないかなる媒体も空間だということになるように思える。というのも、等質性の本義がここでは一切の質の不在に存している以上、等質的なものの2つの携帯が互いにいかにして区別されるかは分からないからだ。にもかかわらず、ひとはこぞって、時間を、空間とは異なるが、空間と同様に等質的で無際限な媒体とみなす。こうして等質的なものは、それを満たすのが共存(coexistence)であるか継起(succession)であるかに従って、二十の携帯を帯びることになる。たしかに、時間を、諸々の意識状態がそこで展開されるかに見える等質的な媒体たらしめるとき、まさにそのことによって、時間は一挙に与えられる。ということはつまり、時間は持続から引き剥がされることになろう。このように少し反省してみるだけで、われわれは、ここで自分が無意識のうちに空間に舞い戻っていることに気づかされるはずだ。」(意識に直接与えられたものについての試論、第二章、ちくま学芸文庫から出ている合田正人・平井靖史訳で113ページ)

こういった議論を中心に、この第二章、ひいてはこの『試論』全体について、「時間の空間化」と解釈するのは一般的な読解だと言えます。特にホワイトヘッドが誤読しているとか、言い掛かりをつけているとも思えません。

むしろ、ホワイトヘッドの科学批判は、守永さんがセミナーでの質問の中でおっしゃっていたように17世紀の科学だけに向けられているというわけではありません。どの時代の科学にも、また哲学にも、この誤謬に陥る危険があるというのがホワイトヘッドの主張するところでしょう。それだけでなく、注意して読むと、ホワイトヘッドは、近代科学批判の中で登場させた「具体性を置き違える誤謬」という考えを、科学に限った話としないで、おそらくベルクソンと同じような広い射程で展開しています。この「誤謬」の考えと取り組む中で、科学批判からその前提となっている認識批判へと考察が広まって、『過程と実在』に展開されるような、象徴・命題理論や抱握理論を核としたプロセスの哲学の洞察が具体化され定式化されていったのだと思います。このあたりは私の発表でも中心のテーマだったつもりなのですが、もっと議論を彫琢しないといけませんね。

ホワイトヘッドがベルクソンについて言っている「空間化」とは、そのような言葉としては登場しないのかもしれませんが、『意識に直接あたえられたものについての試論』英訳で『時間と自由』ないし『時間と自由意志』という表題でも知られている第一作での議論が念頭にあるのは明らかです。そのなかでも、一般に「時間の空間化」が議論されているとされるのは、第二章「意識的諸状態の多様性について―持続の観念」が、ホワイトヘッドの念頭にあったはずです。不勉強にして、ベルクソンが「空間化」という語を使っていないのかどうか知らないのですが、一般には、この第二章を中心にした持続の観念の議論は「空間化された時間」と「持続」とを対置して、前者の「空間化された時間」を批判しながら、後者の「持続」を論究していくというように読解されていると思います。

「時間の空間化(あるいは等質化)」、「空間化された時間」という読解は、言い掛かりや粗雑な引用というよりも、むしろ極めて一般的なベルクソン読解ではないでしょうか。確かに、ホワイトヘッドが、彼の重要概念になっていく「具体性を置き違える誤謬」を最初に導入するところでベルクソンに言及しながら、原典の箇所を参照したり引用したりせずに「空間化」とだけ言っているのは、粗雑だと言われても仕方ないでしょう。しかし、おそらく、当時も一般的に『試論』の第二章は「時間の空間化」への批判をバネにした「持続」の論究と解されていたのだと思います。

ベルクソンが「時間の空間化」を厳しく徹底的に批判したのと同様に、ホワイトヘッドも「具体物の抽象化(とそれにともなう抽象物を具体的なものと思い込むこと)」を批判している。両者には、知性が犯しがちな認識上の陥穽を指摘しつつ、そこからリアリティを論究するという同じ思弁が働いています。ですから、ホワイトヘッドはこの「具体性を置き違える誤謬」を導入する際に、同じ批判を行って、同じ方向をめざしていた先達であるベルクソンに言及したのでしょう。

ベルクソンは、「時間を空間化して認識しているのに、その空間化された時間を真の時間だと思っていること」を徹底して批判しながら、「持続」の考えを論究していきます。一方、ホワイトヘッドも、「具体的なものを抽象化して認識しているのに、その抽象物を具体的なものだと思っていること」を批判しながら、彼自身の「プロセス」や「抱握」の考えの論究に入っていきます。
たとえばホワイトヘッド研究でも知られる中村昇先生もこんな風に言っています(この先生の書く本は素晴らしいです)。

「『試論』の第二章は「純粋持続」が登場する章であり、この本の著者がもっとも力をいれた部分だ。だが同時にこの章は、ベルクソンの「空間論」が展開されているところでもある。「純粋持続」と「空間」とは、表裏一体なのだから当然といえば当然だろう。ベルクソンとよく比較されるホワイトヘッドも、この「純粋持続」と「空間」との関係を「具体性置きちがいの誤謬」の例のひとつとして示していた。つまり、もっとも具体的なありかたである「純粋持続」が、いったん抽象化されて時計や数直線上にあらわれる「時間」になると、後者の方が具体的なものだと勘ちがいされるというわけだ。」(中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』講談社メチエ、53ページ)

この文章が出てくるベルクソン本の章タイトルは、ずばり「空間化」です

むしろ、問題は「空間化」という語をベルクソンが使っていないとか、知性が必然的に空間化の誤謬に陥るなどとはしていないといったことではなく、空間をめぐる議論の中でベルクソンが、多の問題、つまり多様性と単一性の問題、守永さんの注目する「数」の問題を扱っている点です。これは、ホワイトヘッドが、「具体性を置き違える誤謬」の議論の中で、実体概念とならんで特に「単に位置を占めるということ(simple location)」について論究していることと重なります。Simple locationは、私見ですが、まさに、空間化の問題(ホワイトヘッドでは、延長連続体の空間化・時間化の問題、あるいは、抽象的な「点」や「線」等が物質の運動を数学的に記述する際に導入される問題)を扱っています。ホワイトヘッドは初期の頃からこの問題を数学的にどう扱うかということに取り組んできました。

たとえばホワイトヘッドのケンブリッジ大学時代の論文「物質世界の数学的概念について(On Mathematical Concepts of the Material World)」(1906年)では、「物質世界の古典的概念」に批判が向けられています。「物質世界の古典的な概念」とは、物体(matter)の構成要素である存在(entity)ないし究極的素材が「空間の点(point)」および「時間の瞬時(instant)」を占有する「粒子(particle)」であるという考えに基づいて物質世界を理解するような概念構成を指します。近代の数学的自然学あるいは近代自然科学は、客観的実在を、空間的な点と時間的な瞬時を占める基本的粒子によって構成される物質的世界のことだとみなす暗黙の前提に立っていたというのです。議論の道具立てとしては、数論だけでなく、幾何学、射影幾何学等々が用いられていて、私にはたいへん難しい議論ですが・・・ (“On Mathematical Concepts of the Material World,” 1906, in Alfred North Whitehead: An Anthology, selected by F. S. C. Northrop & Mason Gross, New York; The Macmillan Company, 1953. (「物質世界の数学的概念について」藤川吉美訳、『初期数学論文集』ホワイトヘッド著作集第1巻、橋口正夫、松本誠、藤川吉美訳、松籟社、1983年、所収)

この問題に取り組んだ先達者としてライプニッツの名前が挙げられています。そのことは前に私も「ホワイトへッドとライプニッツ」という論文で書きました。ベルクソンも、数学的手法こそ用いていませんが、同じ問題に取り組んだ先達として『科学と近代世界』で言及されたのだと思います。ベルクソンが『時間と自由』で数、多、などの問題を空間論において扱ったことは、『科学と近代世界』でベルクソンの「空間化」に言及したときにも当然ホワイトヘッドの念頭にあったはずです。なにしろ、同じ問題(延長ないしは持続ないしは含み含まれ合う関係性ないしは継起するプロセスが、離接的な多が単に位置する均質な空間・時間とされていくという問題)にホワイトヘッドは初期の数学論文群において取り組んでいたのですから。

そうすると、知性批判のところだけでホワイトヘッドがベルクソンに言い掛かりをつけているとするのは問題だと言わなければなりません。純粋持続だったはずのものが等質な空間に置き換えられていくというところで「数」や「多」に関するベルクソンのものすごく魅力的な議論が出てきますが、これに対応するのが、ホワイトヘッドの初期の数学・応用数学の仕事のかなりの部分だと思えます。

こうしたことを考えると、ホワイトヘッドが、ベルクソンから受けた決定的影響を抑圧しようとして乱暴な挙措に出た、といった批判は、的はずれではないかと思います。むしろ、ホワイトヘッドに対する批判よりも、守永先生のベルクソンに対する読解の中に、とても斬新な論点が伏在しています。つまり、ベルクソンの、特に『試論』の、分けても第二章では、一般に考えられているのと違って「空間化」といった議論はされていない、という論点です。これは、私の不勉強もあるのでしょうが、これまで誰も言ってこなかったことではないかと思います。

守永先生には、この点についてぜひ、明らかにしていただきたいです。純粋持続が、等質空間化されて、時計や数直線で表される時間という概念が出てくる、というのが「空間化された時間」といった語で表されている一般的なベルクソン解釈だと思いますが、そうでないとしたら、ベルクソンは何を言わんとしているのか。ここで、『試論』第二章の「数」の概念が重要になってくるのでしょう。

同じく、守永先生に検討していただければ、と思っているホワイトヘッドのベルクソンへの言及箇所が2つあります。その2つは、ホワイトヘッドが別の時期に書いた2つの本に出てくるのですが、同じ内容のものです。

「エラン・ヴィタールが物質へと逆戻りしてしまう」というものです。

1つは、科学哲学3部作の第一作、『自然認識の諸原理』の巻末、私が中期のホワイトヘッドの諸著作の中でもここが特に一番重要だ、と思っている箇所です。この本の最終章は、唐突に生命の「リズム論」が展開されていて、それだけでもたいへん面白く重要なのですが、その末尾で、テニスンとワーズワスの詩句が引用されていて、その2つの詩句の間に、一言、ベルクソンの物質への逆戻りだ、という言葉が挟まれているのです。ここは、全著作中でも特筆すべき重要な箇所だと常々思っています。しかし、やはりベルクソンの引用は、原典も参照箇所も示されていません。

2つ目は、もっとあとの形而上学3部作の中心である主著『過程と実在』が刊行された直後に出されたもう1冊の本『理性の機能』の中です。私の個人的な印象ですが、この本は、ベルクソン哲学の強い影響を受けて書かれていて、特に『創造的進化』へのアンサーソングではないかと思っています。とにかくベルクソン的な本です。その中にも、チラっと「リズム論」が出てくるのですが、そこでも、ベルクソンの名前が挙げられて、同じ「エラン・ヴィタールの物質への逆戻り」といった意味の言葉が出てきます。そこでは、ホワイトヘッドは、生命に満ちた自然の動的なプロセスの中には、よい存在へ、よりよい存在へと向かおうとする「上向きの趨勢」と、これとは逆の「緩慢な衰頽を伴った静的な生存」という趨勢とが相まっているということを述べているのですが、上昇と下降(あるいは弛緩、衰頽、静的な存続)の2つの趨勢について、ベルクソンを引き合いに出しています(松籟社の著作集第8巻の31ページ。索引で「ベルクソン」を探すと見つかります)。「上向きの趨勢」としての「エラン・ヴィタール」と、下降し衰えて弛緩していく趨勢としての「物質への逆戻り」を対置して、生命に、ひいては宇宙には、この2つの方向が見られると言っています。

おそらくホワイトヘッドは、自説がベルクソンに多くを追っていることを示そうとしているのだと思います。ベルクソンが厳密にそういう言葉を使っているのかどうかのテクスト・クリティークは彼の関心の外ですが、他のところではデカルトやロックやバークリやヒュームの言葉の長い原文引用があったりジェイムズの論文を刊行年まで指定して議論したりしているのに、ベルクソンに言及するときにはそういう丁寧さがなくて言及・参照の仕方が少々雑である、というのは、その通りだと思います。

少なくともホワイトヘッドは、ベルクソンやウィリアム・ジェイムズやデューイを反主知主義だとする批判から、彼らを擁護しようとしています。たとえば、ホワイトヘッドは、具体性を置き違える誤謬が「歴史的な偶発時」だとは言っていません。この誤謬は「必然的」というわけではない、知性が「必ず」この誤謬に陥るというわけではない、そのような意味で「偶然的だ」と言っていますが、このときホワイトヘッドが批判しようとしているのはベルクソンではなく、知性主義=科学主義と見るような、近代の科学至上主義です。ベルクソンは、知性の働きを科学的認識や合理性に限定しないで知性のより根源的で広い可能性を示しているという点を、ホワイトヘッドはむしろ高く評価し、自分が数学者としてやってきた仕事とベルクソンが哲学で推し進めてきた仕事が同じ方向を向いていることを寿いでいるのだと思います。
村田康常 2018/03/25(Sun) 15:45 No.66
Re: 空間と持続
村田先生、諸先生

私の書き方が雑で、誤解を与えた部分があるように思います。
私はこう書きました。

>この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
>こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
>一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。(……)

ホワイトヘッドは引用句で“spatialization”という語句を使っているのですが、
これに一対一対応するフランス語が(私が見落としているのかもしれませんが)
『時間と自由』には見当たりません。そもそもベルクソンは近代科学の「空間化」
を批判しようとしたのでは必ずしもない。

純粋持続を時間の中で捉えねばならないのに、私たちはどうしてもそれを共存する
諸要素の継起として空間に展開して捉えてしまう。この部分を取り上げ、ホワイト
ヘッドは「空間化」と呼ぶのでしょうが、ベルクソンにとってあくまで関心がある
のは純粋持続です。べつだん空間批判をやりたいのではない。

むしろ彼が真の標的にしているのは物質概念です。ベルクソンが「空間」を目の敵に
したかのように論じるのは(ハイデガー『存在と時間』もそうなのですが)かねがね
ヘンだと思っています。相手が違っている。

むしろホワイトヘッドは空間を解体するのに急で、物質概念そのものを手放そうと
しない、という印象を私などは持っている。Entity がキーワードなんですから。

『時間と自由』においては、とりわけ「数」の問題が重要です。村田先生の仰る通り、
これをホワイトヘッドの初期数学論文と比較検証する必要を私も感じています。
さらに言えばフッサールの『算術の哲学』とも。先日も申したように、この仕事は
あいにく途中で頓挫しています。我ながら恥ずかしいかぎり。

>ベルクソンは科学による自然の歪曲を非難したのは事実です。しかるにそれを
>放置したのでは全くなく、だからこそ逆に「持続」概念を提起したのです。そう
>することで、自然科学による「具体者を置き違える偽り」を克服せんとした。
>知性には何もできないと白旗を掲げているわけでは豪もありません。

さて、ここでベルクソンが持ち出すのが持続概念で、それにより空間ひいては自然
そのものの歪曲を正し、これを脱構築せんとするわけです。持続が一定の空間性及び
物質性を孕むのは事実です。それは時空連続体であり、精神と物質の混合体です。
これを捉え、ハイデガーのように「ベルクソンは時間を空間化したにすぎない」と
曲解する者が出た。話はまったく逆で、時間と空間を二元的に捉えるような視座を
ベルクソンは解体しようとしていたのに。

ここでホワイトヘッドとの重大な違いが露呈します。というか、それがあるからこそ、
ホワイトヘッドはベルクソンのテクストを正確に引用せず、何度も同工異曲の批判を
繰返したのだと私は見ている。

>とはいえ、もっと深いところでベルクソンが知性批判ないしヨーロッパ近代の論理
>中心主義の批判を遂行しているのは事実で、この肝心な点をホワイトヘッドは見ない。
>おそらく気づいてもいない。それが甚だ問題です。

ホワイトヘッドはベルクソンの「反知性主義」を受け入れがたいと思っている。
クリアカットした概念を用いれば、空間化に陥ることなく自然を正当に捉えることが
できる、と。そのためにもホワイトヘッドは最低限の物質概念を手放すわけには行か
ない。

ところがベルクソンは、クリアカットされていようがいまいが、シンボルである限り、
それは自然を歪曲してしまうと答えるでしょう。それが『形而上学入門』における
回答です。鋭角的なシンボルではなく、流れるようなイメージを用いるべきだ、と。

たとえば彼は、純粋持続を論じるにあたり、動物や植物の例を出します。人間は知性
という病いを病んでいる。これを治癒するには知性そのものを脱構築せねばならない。
その意味で彼の立場は16世紀のモンテーニュに連なります。

とはいえ20世紀のベルクソンは、人間がなぜこんな有り様に成り果ててしまったか、
人類史および生命史という形で説明する必要に迫られる。ベルクソニスムが進化論を
取り込むに至ったのには必然性があります。

ベルクソンの疑問は、われわれはアリでも良かったはずなのに、なぜ人間になんか
なってしまったのだろう?というものです。それには理由があるはずだ、と。

かれにとって知性とは原罪なのです。ホワイトヘッドは決してこういう見かたを
しないと思います。おなじく進化論を扱うにしても、アプローチが大きく異なる。
ホワイトヘッドにとって進化概念の重要な点は、その「創発性」でしょう。

私に言わせてもらえば、シンボル体系を構築してしまったのは人間だけです。
それが人間と動物の大きな違いである。これにたいし両者はイメージ能力を共有
している。であるならば、イメージの哲学ないし技術(アート)により、人間を
生命世界に還帰させる途が開けるはずだ。――あいにくベルクソンの思想が、
そこまで到達することは遂にありませんでした。

細々と論じればキリがありません。目下、この問題にかんして私は論文を書いて
いて、もしホワイトヘッド学会が受け付けてくれれば、というか、そもそも期日
までには間に合えば、活字にできるかもしれません。

まあ、活字にしなくてもいいのですが、とりあえず月末まではこの仕事に専念する
つもりです。それを以て村田先生への正式な回答としたいと思います。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 01:14 No.67
Re: ピュタゴラスとヘラクレイトス
村田先生、諸先生

今ふと思いついたので書き足しておきますが、ホワイトヘッドは
どう考えても現代におけるピュタゴラスの継嗣ですね。あるいは
プロティノスの美の使徒と言ってもいい。

これにたいしてベルクソンはヘラクレイトスに連なる系譜の人だと
思います。ただそれが十分とは言えず、所詮プロティノスに留まった、
という気もする。

両者ともにプロティノス的な美を共有している。それはキリスト教
的なものを振り切れないからでしょう。

真にヘラクレイトス的なものはヨーロッパ文明には2度と出現して
いない。そして、それが必要とされる日が近いうちに必ずや訪れる
ことになるでしょう。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 05:22 No.68
Re: 補足
村田先生、諸先生

補足しておきます。

ベルクソン『時間と自由』は持続と自由について述べた本である。

にもかかわらず、空間性を否定し、時間の重要性について述べた
本であるような誤解が生じた、ということが言えそうです。

まあ、必ずしも「誤解」とは言えず、世間がそう解するのは無理も
ないことだったのかもしれません。間違いとは言えない。

いつそうなってしまったのか、どうもそこに歴史的・思想史的な
経緯がありそうな気がしてきました。

たとえば、ウィーンでは要素一元論を説いたマッハがいて、実体
概念を否定し、ヨーロッパの伝統的な二元論を悉く批判した。
当然ながら時間と空間という概念をも批判することになる。
日本では野家啓一先生の編集による『時間と空間』という訳書
まである。マッハは20世紀のヒュームとも言うべき過激な人
でした。

時代的にはベルクソン『時間と自由』よりやや後ですが、両者の
関係は以前から気になっています。

ドイツ系や、科学畑においてはマッハの影響は至って強かった。
ことによると、たとえばハイデガーなどは、そっちの観点から
ベルクソンのことを色眼鏡で見ていたのかも?

ここらへんの影響関係については、向こうの人でちゃんと調べて
いる人がいるかもしれません。この場合の「影響」というのは、
漠然とした「時代精神」まで含みます。

ホワイトヘッドがベルクソンについて、やたら「空間化」という
言葉を多用するのは、実際に著作を読んでのことではなく、
どこかでそれを耳に挟んだり、あるいは実際にベルクソンと会い、
意見交換した際に印象づけられたせいかもしれません。

ホワイトヘッド宅にベルクソンは何度か招かれていたようですし。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 13:25 No.69
Re: 空間化の諸問題
村田先生、諸先生

週末までに新しい論文を書こうとモガいていましたが、とうてい無理と
諦めました。もっと時間をかけてじっくり検証し、秋の学会あたりで
発表することにします。

昨日ざっと『時間と自由』を眺めてみましたが、同書でベルクソンは
d&#233;rouler dans l'espace とか d&#233;ployer dans l'espace という言い方
に終始しています。「空間の中に展開する、繰広げる」という意味です。

ベルクソンは新造語を作るのにひどく慎重な人で、ありきたりの仏語を
独特のニュアンスで用いる。こうした個所をホワイトヘッドはあっさり
「空間化」と言い換えたのでしょう。

ところで肝心のホワイトヘッドの"spatialization" ですけど、英語の
大きな辞書を引いても出ていませんね。日本語だと「空間化」というのは
さして特殊な単語とも思えませんが、実際には一対一対応する言い回しが
仏語にも英語にもない。

もしかするとホワイトヘッドの造語かもしれません。だからカッコに
入れて注意していたのかも。これは引用符ではないのかも。

ホワイトヘッドの初期科学論文、とりわけ『相対性理論』は(当然のこと
とはいえ)時間と空間の関係を論じるのに終始しています。その過程の
どこかで「空間化」という言葉が入り込んだのかもしれません。それを
ベルクソン批判に当たって流用したのではないか?そんな気がします。
が、それをテキストに即して検証するのは、なかなか厄介です。

また、ベルクソンを反知性主義だとかオカルトだとか言って口を極めて
罵ったのがラッセルです。

ベルクソンはシンボルにより真理に到達するのは不可能だと説く。私たち
はイメージやメタファーにより近接するだけなのだ、と。シンボル批判と
いう意味では紛れもなく反知性主義で、とりわけ記号論理の人ラッセル
には許しがたい存在だったのは想像に難くありません。

一方でベルクソンは、新しい科学と哲学の言語が真理を一歩一歩明らかに
して行くというヴィジョンについて語っている。この意味ではいっこうに
反知性主義などではない。というか、いっぱしの哲学者が単純な反知性
主義者などであるはずもない。

ホワイトヘッドはこうした「反知性主義」呼ばわりに対してベルクソンを
擁護しました。が、ベルクソンのシンボル批判にかんしては強い反感を
覚えていた。その複雑感情がベルクソン批判として表われている。

ベルクソンにはイメージによる思考という重要なモチーフがある。それは
人間ばかりか動物にも共通する。だからこそ彼は進化論に興味を持った。
ダーウィンその人よりも、ファーブルによる進化論批判に共感している。
ファーブルは昆虫における思考=行動を倦むことなく観察しつづけた
在野の哲学者だと言っていい。

まったく対照的に、ホワイトヘッドにおいて思考とはシンボルのみ。
はなはだ不可解なことに彼は思考におけるイメージの重要性について
考えたことが殆どなかった。それは彼においてはむしろ「命題論」として
表現される。命題はつねに公的なものです。

ゆえにホワイトヘッドの場合、シンボルと命題が strain-loci において
同時に生起する。それは幾何学の起源でもある。しかしそこにイメージは
存在しない。イメージは幾何学の秩序から逃れ続けるもの、私的なものと
してある。

以上のような論文をまとめるつもりです。
守永直幹 2018/03/27(Tue) 17:20 No.70
Re: アクサン訂正
アクサンを入れて投稿したら、おかしなことになってしまいました。
アクサンを外すとこうなります。

>derouler dans l'espace とか deployer dans l'espace という言い方
>に終始しています。「空間の中に展開する、繰広げる」という意味です。
守永直幹 2018/03/27(Tue) 17:24 No.71
Re: 空間化の諸問題
返信がすっかり遅くなってしまいました。

守永先生が私の不躾なリクエストに応えて、ベルクソンに対してホワイトヘッドが使った「空間化」という語についての、新しい解釈を見せてくださったこと、ほんとうに素晴らしいです。

これまで多くの論者が、ベルクソン哲学の読解として「空間化された時間」を「純粋持続」との対比で持ち出してきました。しかし、守永先生はこの「空間化」という語に疑問をもつことで、従来の読解ではこの語の背後にかくされがちになっていた「数」とか「多様性」についてのより立ち入ったベルクソンの議論に照明を当てて、新たな読解を進めつつあるようです。この読解がさらに進められることを切に願います。ホワイトヘッドとの対比の中で、ベルクソン哲学の従来あまり知られなかった重要な側面が見えてきそうです。

ホワイトヘッドのベルクソン解釈を批判して、『時間と自由』の特に第二章でのベルクソン哲学の展開について、「空間化」という語では捉えきれない「数」や「多」の概念に照明を当てることで、守永先生はベルクソンの知性批判や科学批判が、単なる反知性主義とか脱知性主義というレッテルには収まらない深みをもつことを示そうとしているようです。

守永先生のこの主題は、科学とは何か、認識とは何か、はたまた近代とは何かを問う幅広い射程をもっているように思えます。また、数学とリアリティとの関係も問われています。「多」と「一」は、数学と形而上学が交錯する問題圏です。パルメニデスやピュタゴラス以来、数学と形而上学とが重なる圏域で、この問題が追求されてきました。守永さんがホワイトヘッドを現代のピュタゴラスとされたように、ホワイトヘッドもこの系譜の正当な嫡子、現代哲学において珍しい数学と形而上学との合一した問題圏で思索した哲人だといえます。

しかし、ホワイトヘッドは、恐らくこの問題圏に詩人の詩作を重ねてきます。数学と形而上学と詩作、あるいは美学が重なるところが、ホワイトヘッド哲学のありかなのだろうと思います。守永先生が用いたたとえで言うと、プロティノスの系譜に当たるということでしょう。

「哲学は詩に似ている。それらはいずれもわれわれが文明と称している究極的な良識を表現する仕方を探し求めている。いずれも言葉の直接的な意味を超えて定式化することに関係している。詩は韻律に、哲学は数学的パターンに結びついている。」(ホワイトヘッド『思考の諸様態』の最後の言葉)

数の問題と美の問題、あるいは数学と美学・詩学は、ホワイトヘッドにとっては、まさに哲学することそのものに直結する主題だったといえます。

ホワイトヘッドはイギリス式にspatialisationと書いていますが、この名詞の元になっている動詞 spatialise(あるいはspatialize)は特に彼の造語というわけでもなさそうで、音楽理論、絵画論、音韻論、あるいは社会学でも用いられている術語のようです。
村田康常 2018/04/01(Sun) 22:45 No.72
Re: 空間化をめぐって
村田先生、諸先生

いささか雑な書き方でしたが、こちらの真意を汲み取って頂き、まこと
に痛み入ります。

今回、村田先生と話して「空間化」を巡って色んな問題が交錯している
ことに気づかされました。簡単に整理しておきます。

1)ホワイトヘッドのベルクソン批判は、どこを典拠にしているのか?

ホワイトヘッドは『過程と実在』で、むやみと"spatialization"という
単語を連発し、その際、必ずと言っていいほどベルクソンを批判して
おきながら、一切典拠を示さない。

ベルクソン自身はこの語を用いたことはなく、フランス語にも一対一
対応する語句はありません。したがってホワイトヘッドがベルクソンの
どんな文脈を念頭に置いているか、こちらで限定する必要があります。

2)そもそも ”spatialization”という単語はいつ生まれたのか?

思えば空間というものは一定の閉じた箱型の形状だから「空間」なので、
時空が「空間化」するという発想は異常とも言えます。この概念が生じた
のは20世紀初頭の物理学革命からかもしれません。ちなみにネットを
見てもspatializationという単語は今なお決して一般的ではない。アート
や建築、文化理論あたりで使われているにすぎません。

3)ホワイトヘッドはこの単語をどこで使い始めたか?

ベルクソンから摂取したように本人は言っていますが、事実ではない。
明らかにベルクソンにたいする1つの解釈にすぎません。ならばどうして
この語を使おうと思い付いたのでしょう。もしかすると先行するホワイト
ヘッド自身のテキストに、この単語を見つけることができるかも。

4)ホワイトヘッドはなぜ「空間化」に固執するのか?

ベルクソンはとくに空間化を批判しようなどとはしていません。この点に
拘っているのはホワイトヘッド自身です。それは自然と人間の二元分裂の
克服を彼が宿願としていたからで、かれには「空間化」こそが敵で、この
難題を知性を以て切り抜けようとしていた。その理路をテキストに即して
解明せねばなりません。

5)ベルクソンは『時間と自由』で空間を批判し、時間のほうが本来的
だと主張したという神話はいつ生まれたか?

普通に同書を読む限り、この本のテーマは「純粋持続に還帰することで
本来的な自由を取り戻せ!」というロックンロールです。なのに既成の
哲学史&思想史において、それが時間と空間の関係を扱った認識論で
あるかのように扱われる傾向が見られる。いつ誰がそんな誤読(?)を
始め、広めたのでしょう?

ざっと思いつくかぎりで、この5つほどの疑問が浮かびます。これらを
テキストに即して検証するのはなかなか厄介そうです。が、ホワイト
ヘッド哲学を考える上で、しごく重要な問題なのは疑いを入れません。

またベルクソン『時間と自由』が孕んでいた爆発力というものにも、
改めて気づかされました。私としては年来の宿題としている問題でも
あって、今年こそはこの件に取り組みたいと思っています。
守永直幹 2018/04/02(Mon) 19:58 No.73
ホワイトヘッドプロセス学会

村田康常先生、浦井先生、皆さま

ご無沙汰しております。日大の三井です。皆さまお元気ですか?
このたびは天理での学会のお知らせを有難うございます。当初は、入試で欠席予定だったのですが、出動要請がなく、出席できることになりました。守永先生のご議論のその後の展開と皆さまとの議論を楽しみにしております。

三井 泉 2017/10/03(Tue) 21:21 No.54 [返信]
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