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本日スパム投稿でご迷惑おかけ致しました

本日も多量のスパム投稿があり、ご心配ご迷惑をおかけ致しました。対策は施したのですが、
実は1日前に予想できたところもあり、幾分対策が遅れてしまいました。申し訳ありません。

現在、また阪大での三月のセミナーに向けて、企画検討中です。近々にまたご案内させて頂
くことになると思います。引き続き、どうかよろしくお願い申し上げます。

浦井 憲 2019/01/21(Mon) 15:12 No.172 [返信]
スパム投稿が多いので自動配信を一時停止します(浦井)
このところ、スパム配信が後を断たず、しばらくこちらの掲示板の自動配信機能を停止してみます。
なお、BBS の場所は同じですので、内容はリンクを辿っていただければ、もちろんご覧頂けます。

これまでの数理経済学会の HP Seminar セミナー後のまとめ BBS へのリンク等でご覧頂けますし、
ダイレクトに以下

http://math.econ.osaka-u.ac.jp/bbs5/joyful.cgi?

からでもご覧頂けます。

すみませんが、宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2020/08/10(Mon) 17:45 Home No.276
Realism方法論2020年3月13日会議のまとめ (その後の議論を含む)

方法論研究会・ジョイントセミナー・Realism for Social Sciences 関係者皆様

お世話になっております。新年度に入って大学はじめ各種教育研究機関も例年
とは異なり、講義、セミナー、学生指導その他全般に渡る新型コロナウイルス
への対応、準備ですっかり追われてしまっている感があります。皆様お元気で
お過ごしでしょうか。

3月13日に、5月以降(現状、夏以降でなければ到底見通しが立たない状況
ですが)に延期したシリーズのワークショップ Realism for Social Sciences
の準備会議を行いました。会議では、当該シリーズ初回のタイトル

 「リアリズムと社会科学の方法」

ということについて、今後の問題意識を統一する、大変興味深い、いくつかの
論点がありました。大変遅くなってしまったのですが、まとめとして、以下に
整理させて頂きました。ただ、司会進行役、浦井の個人的視点と問題意識に依
る部分が大きいため、全貌をお伝えするところとしては甚だ不十分と思います。
不足のところ、これに続く投稿で、皆様に補って頂ければ幸いです。

---

会議は、まず予定講演者である三井泉氏、そして守永直幹氏による、講演内容
に向けての概要ならびに、司会側からのお知らせとして、この先、当該テーマ
Realism for Social Sciences ということに向けて、過去数年の方法論研究会
ワークショップの内容をどのように総括していくかとの見通しが語られました。

一つは同タイトルでの Springer での書籍の構想であり、もう一つは、同じく
当該タイトルを出発点とした分野横断型研究領域の構築(関西学院大学の村上
裕美氏に代表をお願いし、当面、経済学、医療、哲学、文学の4分野からなる
形にて科研費申請中)について、それぞれ説明がなされました。

続けて全体討論に入りましたが、司会者の問題意識から、大まかな流れを以下
のようにまとめさせて頂きました(不十分と思いますがご勘弁下さい)。

●守永氏のご講演の内容予告の中で、特にルソーの捉え方について、ルソーの
伝え方は(いわば)「音楽」的であり、一般意思は、そのような想像力(構想
力)の下で、我々に提起されたものである、という主張が極めて印象的(村田
康常氏もそのように語られました)でした。

●そのような「想像力」について、それを、あくまで「学問」の中で、学問の
「方法」としての水準で、取り扱える可能性ということについて、葛城政明氏
からのご指摘がありました。

●そのような「学問」の「方法」ということを、例えば「緩やかな論理」と言
い換えた場合、どうか。例えば「問いと応え」を表す矢印。「伝わる」ことを
表す可換性。そういったもの(要するに圏論的な普遍言語)として把握すると
いったことについて、どのような問題点があるかとの、司会者からの質問に対
して、塩谷氏から、そういった形の把握で失うものとしての「内側からの視点」
(つまり図式的に展望してしまうということの危険性とも言えるでしょうか)
という返答がありました。

(もちろん展望できないものを展望したかのように見せかけて、実は展望して
いないということも、あるいは展望していないと言いつつ、実はしっかり展望
しているということも、あるとは思います。そもそも今日我々が依拠する言語
ならびに議論そのものが、そうした主語的展望を不可避としているところがあ
る以上、これは常に「問い」の可能性として、それが準備されているかどうか
といった事柄に依存していると言うべきではないかと思います。)

●一方それに対し、ある程度の「外側からの視点」(個々主体の展望)を許す
立場としての「多元論」という言い方を(千葉大学の田村先生が久々にお越し
になって、そのような言い方をして下さったと思いますし、竹内先生の立場も、
しばしばそのように感じられますが、それを)許すとすれば、それは(つまり
多元論的な立場は)どこかで「実践」の「リアリティ」と対決せねばならない
事態に、最終的には直面すると思われます。(例えば、政治的な決着といった
実践の場において、「多数決」のような。)

●ここで、理論の「実践」ということにおけるリアリティというのは、前述の
分野横断型領域研究において、哲学班が受け持っている研究計画です。

●そのように考えると、理論の「実践」ということにおけるリアリティという
ことが、学問にもたらす「方法論」とは、理論が「見えてない」ものの重視と
いうことに向けて、「見えている」ものにかかるバイアス、つまりは「見たく
ない」ものを強いて表面化すること、と深く関わっているように思われます。
理論(あるいは学問)においては、それが「見えている」ものを強調するだけ
では言うまでもなく不十分で、また、それが見えていないものが「ある」とい
うことを強調するだけでも(おそらく)不十分で、それが、「見ようとしてい
ない」もの、「見たくない」もの、逆に言えば「見たい」もの、という意味で
の、いわば学問の「主体性」(三井泉氏)(もしくは、これは後日、メールに
てご意見頂いた鈴木岳氏の言葉で言えば「イデオロギー」)が問題となるので
はないか、ということです。

● 多元論的に、様々な理論を認めるにあたっては、それらの中から「実践」
においては、何かが選ばなければならず、それ故、そのような(学問の主体性
までを含めた)全体性を通じて、多くの議論は相互に協調し合わなければなら
ず、そのように協調し協働し得る共通の枠組み(方法=論理)が提供されねば
ならない、ということになります。言わば村田康常氏の言われる「多即一」と
なるような「方法=論理」を提供せねばならない、ということです。(そして
そういった場合に、手段として、理論と一体化したゲーミングや計算機による
シミュレーションといったことが、実践のメカニズムを構築する上で、有効に
なる可能性もあるかもしれません。)

●上のことの具体例を考える上で、三井先生の挙げて下さった経営の問題(AI
に会社の社長を任せるといった発想)は、(とりたくない)「(経営)責任」
を「科学」にとらせる、という視点とも重なって、大変興味深いです。科学の
側に向けて言うと、科学では責任をとれないということ(科学としては「見え
ていない」のみならず「見たくない」ことによって)を、明らかにする(主体
としての)責任が、各専門科学分野それぞれにあるのではないか、ということ
につながると思います。これは、医療における死の遮蔽、もしくは死の医学化
の問題とダイレクトに関わり、ます。また、「主体」および「全体性」の問題
を通じて、レヴィナスや和辻の倫理につながるようにも思われます。「実践」
をキーワードにする社会の科学の方法論というのは、実のところレヴィナスの
「第一哲学を倫理」というような発想に近いのかもしれないと思いました。

●鈴木先生から後日メールでご意見を頂きました。上にも少し反映させて頂き
ました。

●本セミナー初期の頃よく出席して下さったS氏と当該の問題をメールでやり
とりしており、その中で気付いたのですが、後期ウィトゲンシュタインとの関
わりが、結構抜け落ちていたので、重要かもしれないと思い始めております。
この点、村田康常氏の「遊戯」「遊び」と、言語ゲームということとの間での
連絡が、鍵であるように思えて参りまして、村田先生に少しご教示頂けたらと
お願いしております。

以上です。

浦井 憲 2020/04/20(Mon) 04:09 No.230 [返信]
Re: 実在的なものと生政治
先日、私が提起しようとした問題をごく簡単に述べておきます。実在と想像力の
関わりについてです。

私の考えをざっくり申し上げておきますと、プラトン以来、西欧はつねに「実在」
を問題にしてきた。それ以外はほとんど考えて来なかったと言っても決して過言
ではない。プラトン『ソピステス』が、いかに過激で深甚な懐疑論を繰り広げる
にしても、その彼方に真実在を想定している。そして、それ自体は必ずしも否定
すべくもない。

西洋のキリスト教社会が古典古代を受け入れ得たのは、この実在に対する暗黙の
信頼を信仰の体系に組み込み得たからでしょう。その過程でギリシャ世界における
認識論の深さと広がりが単純化されてしまった。たとえばアリストテレスにおける
「魂」の問題、それが有する想像力の問題が軽視され、ホッブズやルソーがそれを
改めて主題化せんとした努力の意味も、近現代の哲学の動向においては見失われて
いる。はなはだ素朴に実在なり、真実在なり、メタ実在なりが語られてしまう。
そして、それが西洋社会の改めての自己肯定に利用される。そのことに危機感を
持つべきである。

以下、添付ファイルを貼りつけさせて頂きます。

[添付]: 49975 bytes

守永直幹 2020/05/19(Tue) 22:07 No.238
Re: 実在的なものと生政治(最終完成稿)
今日一読して言い足りない部分がありましたので、多少加筆
修正を加えました。さほど大きな変化はありません。これを
もって、とりあえず完成稿と見なします。

それでは4時半にお会いしましょう。

(追伸)さらに少し書き換えました。失礼しました。

[添付]: 54592 bytes

守永直幹 2020/05/20(Wed) 15:40 No.240
Re: 本日の Zoom ミーティングについて
本日のミーティングにお招き頂き、ありがとうございました。
一言だけ申し添えておいたほうがいいように思います。

葛城先生が仰った、多元的なものとは具体的には何かという
問いはとても重要で、哲学的には色々言うべきことがあるで
しょうが、それはそれとしてもっと具体的に考えるべき問題
があるように思います。

医学&医療、政治&統治はむろんのこと、教育&教養しかり、
法学&法律しかり、あるいは人類学や民俗学における多様性、
多元性をどう考えるべきか等々、実際の現場のことをもっと
私たちは知る必要がある。

より直接的には経済学や経営学における《多と一》ひいては
他性というものをどう捉えるか。

現実の世界は経済および科学技術により、この上なく一元化
が進行している。むしろ経済学においてこそ、この問いは
深甚なかたちで問われるべき課題なのかもしれません。
守永直幹 2020/05/20(Wed) 19:30 No.241
守永先生追加的ご連絡有難うございます
本日の Zoom ミーティング(方法論研究会月例)、改めてご参加頂いた皆様に御礼申し上げます。

こちらの BBS では、本日の Zoom ミーティングのご案内を差し上げられなかった方々にもメール
連絡が届いていると思われますことと、もう一方で、本日ご参加頂いた方々の中にもメール連絡
が届かない方々もおいでになりますので、先ほどメーリングリストを更新しました。また、加え
て当方からも、本日の説明ならびに一言、追加させて頂きます。

本日、大阪大学の方法論研究会月例会議を先月に引き続き Zoom にて行いました。議題は五月初旬
にホワイトヘッド学会の村田康常氏からご提案のあった Realism for Scocial Sciences
をテーマとするパネル的な討論会を次回ホワイトヘッド学会で企画できないかということに関し
てです。特にシンポジウムを企画しておられる千葉大学の田村高幸先生の企画「有機体を支える知の枠組みを与える方法―多元的一性の視点から」(仮題)」
と、Realism for Social Sciences とを整合的にリンクさせることができるか、ということが、
話し合われました。田村高幸先生そしてホワイトヘッド学会会長の田中裕先生にもご参加頂き、
大変有意義な会議になりました。内容の詳細については、また機会を見てまとめさせて頂こう
と思っておりますが、とりあえずその要諦というべきところと当方が把握しておりますところ
は以下となります:


「多元的一性」すなわち「多即一」という問題は、「ホワイトヘッド的にダイナミックな統合
作用」として捉える。(このとき、それを形而上学的に捉えてしまう嫌いについて、塩谷氏の
ご指摘はありますが、それは、そうならないようにできる限り様々に手を尽くすということ--
例えばレヴィナス的に全体を超える無限、協働的に製作するといったグッドマン、後期西田的
な絶対無といった概念が、鍵になると思われる。)学問の成立ということもまたそうした協働
的製作、問うプロセス、として捉えるべきであろう。その意味で、田村先生のテーマは学問の
方法ということを通じて Realism for Social Sciences の哲学部分と完全にリンクすることが
確認されました。(更に、ウィトゲンシュタイン問題を含めれば、「遊び」問題とも絡むこと
になって、埋めるべきところが埋まるようにも思われます。)


蛇足となるかも知れませんが、直前の投稿で守永先生が言われた経済学におけるリアリティと
いうか、多性の問題について。本日の会議でも、そこを言いたくて、しかしどうもうまく言え
なかった部分なのですが、それは「学者としての営み」というレベルでの「個(別)性」と言
いましょうか、「怖れ」とか「不安」、または「期待」あるいは「利益の相反(であれば犯罪
ですが)」、それらが学問の「実践」という段階において、ダイレクトに制約となって関わる
という、いわば学問の実践上のリアリティ問題があるということが、申し上げたかった点です。


多元性ということを、そのような実践の状況に関連付けて見つめないと、特に経済学のような
学問分野においては、学問が「骨抜き」になる…(発言者が責任を回避するようなバイアスの
かかった、想像力の欠如した、議論しか出てこなくなる)と思います。そのような意味で、特
に重要な多性(の具体例として私が肌で感じるもの)を挙げるとすれば、それは、今日で言う
とケインズ的な蓋然性の把握、つまり本質的、本源的、絶対的な不確実性を直視して、それと
対面しようとする想像力でしょうか。

通常、専門家は「怖れ」について語る場合は、単なる素人であることがしばしばですが、端で
それを聞いている者は、科学者の(怖れ)意見として聞いてしまうので、学問的に真摯な態度
としては、「◯◯の怖れ」を語る際に、「何が分かっていないか」を「何が分かっているか」
以上に、説明することが必要であり、「多元的である」というのが特に重要であるのも、そう
いう「何が分かっていないか」ということを推し量らせるためにあるのでなければならないと、
それが「多即一」というダイナミックなプロセスであると思います。
浦井 憲 2020/05/21(Thu) 05:12 Home No.242
Re: 経済学および経済現象における多と一
>こちらの BBS では、本日の Zoom ミーティングのご案内を差し上げられなかった
方々にもメール連絡が届いていると思われますことと、もう一方で、本日ご参加頂いた
方々の中にもメール連絡が届かない方々もおいでになりますので

これは失礼しました。昨日のミーティングは「ホワイトヘッド学会と、Realism for
Social Sciences の企画を整合的にリンク」するための打合せで、こちらの板と必ずしも
直結しているわけではありませんでしたね。BBS に書き込むよりメールで流すべきだった
かもしれません。うっかりしておりました。

>経済学におけるリアリティというか、多性の問題について。「学者としての営み」という
レベルでの「個(別)性」と言いましょうか、「怖れ」とか「不安」または「期待」、それら
が学問の「実践」という段階で、ダイレクトに制約となって関わるという、いわば学問の
実践上のリアリティ問題があるということが、申し上げたかった点です。

ここでいう「怖れ」「不安」「期待」というのが、経済学の内部事情を詳らかにしない私ども
素人にはピンと来ないところでありますし、逆に言えば、経済学徒ならずとも誰でも「怖れ」
「不安」「期待」はあるわけで、どうしてそれが問題なのかよく解らないというところが
昨日私が言いかけようとした点です。

むろん竹内先生が仰ったように、経済学がとりわけエンジニアリング化していて、それから
独立した形で理論的・原理的な言説を発しにくいという、いわば技術的問題なら解るような
気がしますが、それにしてももっと具体的に分節して頂かないと、やっぱりよく解らないと
いうのが正直なところです。

>多元性ということを、そのような実践の状況に関連付けて見つめないと、特に経済学の
ような学問分野においては、学問が「骨抜き」になる(……)そのような意味で、特に重要
な多性を挙げるとすれば、それは、今日で言うとケインズ的な蓋然性の把握、つまり本質的、
本源的、絶対的な不確実性を直視して、それと対面しようとする想像力でしょうか。

蓋然性ないし不確実性の直視および、それにたいする想像力ということであれば、それなり
に私にも解るような気がしますが、これにしてもあらゆる学問ひいては表現活動が本来
そういうものだと言えなくもありません。

>学問的に真摯な態度としては、「◯◯の怖れ」を語る際に、「何が分かっていないか」を
「何が分かっているか」以上に、説明することが必要であり、「多元的である」というのが
特に重要であるのも、そういう「何が分かっていないか」ということを推し量らせるために
あるのでなければならないと、それが「多即一」というダイナミックなプロセスであると
思います。

で、いきなり学問論に飛んでしまうという点に、おそらく葛城先生も違和感を表明なさって
いたのだと思われます。

素人なりに考えると、経済現象というもの、ひいては広い意味での社会における「トラン
ザクション」というものは、それこそかつて栗本慎一郎さんが論じていたように本来多様
極まりない現象であるはずです。それが現代社会においては貨幣により甚だしく一元化
されている。なぜこんなことになってしまうのか。

そこには「価値」の問題がかかわる。貨幣による価値づけがむやみに強力なものになって
いて、それはなぜか、それをどう脱構築すべきか、という点が現代の経済学に問われている
ことでしょう。

で、それは必ずしも個々の経済学者の学問にたいする真摯さとか、真面目さといった学問論
に収斂すべき問題ではなく、学者個々人の有り様とは切り離された形で、具体的に色々と
論ずべき問題であろうと思われる。

昨日もちらっと申しましたが、フーコーの言説がインパクトを持ちえたのは、必ずしも彼が
「哲学者」であったからではない。医療や公衆衛生の歴史のなかに具体的な主題を見出し、
それを近代の人文科学の展開と結びつけ、その倒錯を告発したからでしょう。

レヴィ=ストロースにしても、人類学という多様極まりないコーパスのなかで、たとえば
近親相姦の禁止のような普遍的で、かつ人類を1つの構造の中に組み入れるようなテーマ
を見出したからこそ、その言説は人類学を超えたインパクトを持った。

いちばん目立つ例がマルクスで、かれはヘーゲル哲学から経済学を引き出したのではなく、
資本の分析から新しい哲学を導き出した。

例をあげればきりがありませんが、そうした具体的なものの中から「哲学」を見出す営み
こそ肝心で、そのときの哲学は定冠詞つきのものではなく、不定冠詞の複数性の哲学となる
でしょう。むしろそうした生々しい現実から知を引き出す営みこそが、フーコーがいう意味
での「現代的」かつ「今日的」な哲学のスタイルなのだと思われる。そして、フーコーの
言葉を信じるなら、それには内/外の二者択一を脱して、ひとり境界に立つ、そんな哲学的
態度、哲学的生を生きることが要請される。

まあ、そこまで困難な途を歩まずとも、もっと一般的に経済学者が私たち素人に語る場合
には、何らかの具体的な経済現象から出発することが期待される。そうすれば他のジャンル
の人たちと話の糸口が見つかるでしょうし、むしろそんな「語り口」を工夫すること自体が、
現代における真正の知の営みであるだろうと私には思われる。それこそがむしろ、フーコー
のいう「境界の知」の実際の有り様なのかもしれません。

それは浦井先生の仰るところの「何が分かっていないか」を語る営みでもあるでしょう。で、
おそらく私どもは誰も彼もほとんど「何も解っていない」というのが現実で、そのことは
べつだん恥ずべきでもない。「怖れ」「不安」「期待」といった心理的な問題ではなく、現代
における知識の構造そのものに由来するのですから、それを具体的に対象化せねばなら
ない。それこそが学問的営みだと言えなくもない。

思うに、現代の経済学者1人ひとりがそんな企てに身を挺するとき、新しい経済の哲学、
ひいては新しい哲学そのものが生まれるのではないでしょうか。
守永直幹 2020/05/21(Thu) 17:59 No.243
経済学におけるリアリティについて
守永先生、問題の所在を明らかにして下さって有難うございます。自身が当然と思っている事柄が、
やはり当然ではないところが問題なわけで、それが良く分かります。有難うございます。

守永先生がご指摘下さった表現が、ある意味、当方の答にもなっているのではないかと思います。

> 極まりない現象であるはずです。それが現代社会においては貨幣により甚だしく一元化
> されている。なぜこんなことになってしまうのか。
>
> そこには「価値」の問題がかかわる。貨幣による価値づけがむやみに強力なものになって
> いて、それはなぜか、それをどう脱構築すべきか、という点が現代の経済学に問われている

上のご指摘に、時として「誤解」の危険があることも含めて、「今日の」経済学の良い面も、悪い
面も、問題点も、そしてリアリティも、含まれていると思います。

まず、誤解から申し上げますと、経済学は上の意味での「貨幣による価値づけ」には関与しており
ません。関与していないどころか、そういう意味での「貨幣」は「今日の」経済学の純粋理論の中
に、第一義的なタームとして入っていません。厳密に表現すると、大学のミクロ経済学理論の中級
レベルのコースで、消費者、生産者、均衡、最適性、加えて市場の失敗、外部性等一通りのコース
を解説し終わる間に、「貨幣」は一切出てこないという、そのような意味においてです。

もちろん、貨幣は出て来ませんが、所得も、価格も出てきます。つまり、今日の経済学が関与し
ているのは「価値情報」という意味での「貨幣的な情報縮減性」であって、貨幣ではありません。

ただし、その「貨幣的な情報」というのは、今日の経済学理論における最も重要な「リアリティ」
であると私は位置づけております。それを放棄するなら、経済学は経済学でなくなる、と言っても
過言では無いと考えております。ゲームにはなるかもしれませんが、経済学の本質は、あくまでも
価格理論(価格=価値情報=貨幣的な情報)であるというのが、私の見解です。

ちなみに、ケインズは、初めて、この価格理論から脱却して、所得分析というべきマクロ経済学を
提案したと言えると思いますが、今日のマクロ経済学は、それを放棄して、再度この価格理論へと
回帰しています。

さて、問題は、この価格理論(貨幣的な情報の理論)が、実際に「貨幣」と関わる、その関わり方
です。言い換えれば「理論」「実践」「製作」におけるその実践の段階です。ここにおいて、今日
の経済学理論は(上に述べた通り)その理論の中に、「貨幣」を持っていないのですが、それでも
現実の世界には「貨幣」があるわけで、では何が起こるかというと、私が先に書いた通りで、そこ
に「実践のリアリティ」として生ずるのは、個々の経済学者の「怖れ」であり「不安」、あるいは
「期待」が出てくるばかりで、とんでもない状況(理論がまともに実践に活かされない)であると、
それが私が申し上げたかったことです。

この状況を打開するには、「貨幣的情報」の経済学理論を、現実社会の「貨幣」に接続する、道筋
をつけるというのは、王道ですが、この王道は、上にも少し述べた通り、かつてケインズが(当時
の古典派に向けて)試みたことではあります。新古典派に向けてこれを試みるという作業は、いわ
ゆるルーカス批判というもので阻まれます。(これは簡単に言うと、モデルの全体性が展望されて
しまう限り、いわば「貨幣的情報」と「貨幣」の差異、理論と現実の差異は、消失してしまう、と
いう話です。)

この消失は、理論にとっては(現実との差異が無くなるというのですから)むしろ好都合なのです。
もちろん、それは、とんでもない逆転、本末転倒ではあります。

この消失は、例えばモデルに「無限性」のようなものを導入した場合、再現してくるのですが、そ
れも「展望できなければ」というだけの話です。その無限
が展望されてしまう限り(例えば、今日のマクロ経済学の言葉で言うと、横断性条件のようなもの
がある限り)理論は現実から乖離せずにおれるわけです(正確には理論から乖離した現実を相手に
せずに話ができる、その範囲を確保しているという本末転倒なだけなのですが)。

唯一の突破口と言えるものが、無いわけでもありません。実は「世代重複モデル」という「死」と
「無限性」を経済モデルに導入した理論があります。これはいわばモデル内の主体に「死」を導入
することで、モデル内の主体にとっては全体性を展望できなくする(することにも意味がないよう
にする)ことと、加えてそのような主体が「無限」に世代として連なっていくことで、モデルを開
いたものにするわけです。

世代重複モデルでは、「貨幣」が初めて活きます。ちなみにこれも(特に本職の方に)誤解が多い
のですが、普通の世代重複モデルは、ワンショット均衡あるいはせいぜいが一時的一般均衡の枠組
なので、その貨幣が「信用創造」の貨幣であるという把握が困難になっているようです。けれども、
これはサミュエルソンがその当初の論文でタイトルとしたように「ローン」であり、歴とした信用
貨幣の方を指す概念です。(もっとも一時的均衡の枠組みで具ラモンが現金としての money を強調
しすぎて混乱を招いたのは、一般均衡
界隈の研究者の責任と言うべきですが。)

私個人としては、こうした世代重複モデルの枠組みに合わせて、信用創造の明確な仕組みをを記述
するというのは、とても大事なことだと思っています。これは森嶋が、晩年試みていたこと(信用の
一般均衡)と重なります。

あるいは、「貨幣的な情報」という、経済学に於けるほぼ絶対のリアリティ(と私が感ずるもの)に
重点を置いて、現代の経済学の枠組みそのものを大きく書き換えるという作業も、あり得ると思って
います。経済学理論の本質は、アダムスミス以来の「貨幣的な情報」による「情報縮減」の意義です。
これがスミスの言う見えざる神の手であり、ハイエクの言う自由な市場における情報の効率性であり、
今日の経済学理論では、厚生経済学の第一基本定理(貨幣的情報下の分散的資源配分メカニズムは、
効率的である)と呼ばれるものの本質です。

もう一方で、厚生経済学の第二基本定理というのは、「効率的で望ましい状況」であれば、それは
「市場=貨幣的情報下での分散的資源配分システム」で実現できるか、という話です。これも経済
学理論の本質を形成する一つです。マクロ経済学で言うと、ターンパイク定理などは、こちらに
分類してしまえるでしょう。ミクロ経済学で言うと、コア収束などは、こちらに分類してしまえる
ものです。

このようにカテゴリーを再構築してしまうことをもって、経済学理論の本質を守りつつ、その現実
への適用可能性を大きく担保しなおす作業、個人的にはそのような作業が大切と考え、取り組んで
おりますが、まだその足場を作っている最中…というところです。

つい、長々と書いてしまいました…すみません。
浦井 憲 2020/05/22(Fri) 03:10 Home No.244
経済学におけるリアリティについて -- 追記
すみません、ケインズに関連した上の言及で、一点だけ誤解が出そうな表現だったので:

> ちなみに、ケインズは、初めて、この価格理論から脱却して、所得分析というべきマクロ経済学を
> 提案したと言えると思いますが、今日のマクロ経済学は、それを放棄して、再度この価格理論へと
> 回帰しています。

価格理論から「脱却」したというのは、まずい言い方で、むしろそれをきちんと「一般化」したと
いうべきです。だから「一般理論」なわけですから。

今日のマクロは、この「一般理論」を放棄して、再度、特殊理論に舞い戻ってしまったと言えると
思います。というか、多分ほとんどの方は「一般理論」がどうして「一般理論」だったのか、理解
しておられない(興味が無い)んではないでしょうか。
浦井 憲 2020/05/22(Fri) 03:22 Home No.245
Re: 貨幣と外部性
浦井先生

すぐに返事を差し上げるつもりでしたが、いざメディア授業が本格的に始まると、思いの
ほか忙しく……

目下、非対面型としては C-learning とBlackboard、対面型としては ZoomとTeams と
いう4種類のメディアを用いて授業を行なっており、それらに習熟するのがなかなか大変
です。とりわけマイクロソフト社の Teams がやたら重く、ソフトバンクに言ってローター
を新製品に取り換えたほか、やむなく自分もDellのノート型パソコンを最新型に買い替え
る羽目に。おかげで通信環境に何ら問題はなくなりましたが、それやこれやで20万ほどの
出費で、大赤字であります。

ネット型授業だと楽なように勘違いしておりましたが、学生からの問い合わせや質問など
が引きも切らず。課題をやって写真に撮ったものをメールで送らせるのですが、いちいち
チェックしてコメントを返すのに、やたら時間を取られます。これまでは「やっときなさい」
で済んだのに……



浦井先生のコメントを読み、しごく解りやすくなった部分と、自分なりの観点からこれは
申し上げておいた方がよさそうだという部分があります。じつはこの後者にかんしては、
かねてより「めくら蛇に怖じず」で申し上げてきたことであり、いくら先生から懇切に説明
されてもいっこうに納得していない論点であります。それをもう一度取り上げておきます。

それは、まさに以下の問題にかかわります。

>今日の経済学が関与しているのは「価値情報」という意味での「貨幣的な情報縮減性」
であって、貨幣ではありません。ただし、その「貨幣的な情報」というのは、今日の経済学
理論における最も重要な「リアリティ」であると私は位置づけております。それを放棄する
なら、経済学は経済学でなくなる、と言っても過言では無いと考えております。経済学の
本質は、あくまでも価格理論(価格=価値情報=貨幣的な情報)であるというのが、私の
見解です。

>問題は、この価格理論(貨幣的な情報の理論)が、実際に「貨幣」と関わる、その関わり
方です。今日の経済学理論はその理論の中に「貨幣」を持っていないのですが、それでも
現実の世界には「貨幣」があるわけで(……)とんでもない状況(理論がまともに実践に
活かされない)である(……)

以上の浦井先生のお話を、私は以下のように要約したいと思います。

今日の経済学が関与しているのはあくまで価値情報である。これは別の言い方をすると
貨幣を介した情報の縮減性であって、貨幣そのものではない。この意味での価値情報、
ようは価格理論こそが経済学の本質であり、そのリアリティである。ところが、価値情報
と貨幣は異なる。もし両者が厳密に一致するなら、経済学者は経済の動向を完ぺきに予想
でき、ことによると市場で大儲けできるかもしれない。しかるに両者は蓋然的には相関する
(ように見える)ものの、コヒーレントに一致することはない。

ここで私の考えを端的に言わせてもらうなら、貨幣とは外部性なのだと思います。外部性の
象徴こそ私たちが「貨幣」と呼ぶものではないか。で、この意味での貨幣に現代経済学が
関与し得ないのは当然のことのように思える。

これはたとえば詩人に「言葉とは何ぞや?」と問うに似ている。そんなことを考えて詩作
する者など誰もいない。言葉は使うもの、使用するものであり、それにより一定の効果を
上げることができればそれでいいわけです。かつて詩人はポリスの民に仕えた。あるいは
王に仕えた。共同体の要請を言葉にするものが詩人だった。

近代以降、詩人は仕える相手を失う。近代の大衆は詩を必要としない。かくしてマラルメ
のいう「芸術のための芸術」の時代になる。むろん少しでも売れた方がいいでしょうし、
そこに文学的流派が生まれることもある。一国における一時代の文学的な価値観が形成
されることすらあるでしょう。その一方、あくまで自分が信じる美や価値観に殉じるのを
選ぶ「呪われた」詩人も出てくる。

貨幣にしても使用するのが何より肝要です。使わず溜め込む吝嗇漢は、上記の「呪われた
詩人」のような存在と言えましょう。破滅を運命づけられています。おそらく内部留保に
血道を上げる日本企業もまた……

さて、使用するかぎりはそこに価値が関わる。交換され、価格の体系が形成されねばなら
ない。むしろこの価値情報の体系性が担保されることが肝要で、そこで「貨幣とはなにか」
と問うことなどバカげている。貨幣とはたんに交換の手段にすぎないからです。商品の価格
ないし価値は、つねに後づけで決まる。

そんな「使用」に還元されぬ価値をもたらすもの、それを私は「外部性」と呼びたい。
これを詩と経済を対比させて論じてみましょう。

ありふれた詩人、あるいは現代の作詞家たちにとって言葉の存在は自明です。それを自明と
考える者には決して見えない外部性、それが言葉の記号性ないし超越性です。それは権力と
歴史に刺し貫かれている。

同様に、私たち現代の消費者にとって経済の存在は自明です。私たちにとって貨幣は交換の
手段でしかない。コンビニでものを買うとき、ほとんど意識すらしない。そんな一般の経済
人には決して見えない外部性、それが貨幣の象徴性そして超越性ではなかろうか。

それはたんなる情報の縮減性ではない。情報が差異の体系であるとするなら、それを超えた
もの、それ以前のもの、それを攪乱するものを貨幣はもたらす。それは濁りであり、雑音で
あり、乱調である。ざらざらして、体系に吸収不可能なものである。

たとえ目下の貨幣の役割が暗号貨幣へと移譲されるに至っても、それが記号として書き
込まれ、ひとの目に晒されるものであるかぎりで――ことによると今の貨幣以上に、それは
システムの攪乱要素になる可能性があります。貨幣が記号に近づけば近づくほど逆に、その
不安定性が高まるという逆説的な可能性はないだろうか。

一言でいえば、安定した体系性に還元不可能なもの――その意味で私は「外部性」という
言葉を使いたいと思うのです。

言葉にすぎぬものが言葉を超えた映像と情動と運動をもたらす、記号にすぎぬものが記号
を超えたヴィジョンを垣間見せる。むしろそれこそが言葉の本質であり、私たちが言葉に
秘かに期待するものではなかろうか。

私たちは言葉の意味がその内にあると信じてしまう。しかるに、それは言葉の外にある。
私たちは貨幣の価値がその内にあると信じてしまう。しかるに、それは貨幣の外にある。

むろん形式的には内と外を整合的につなげば、言葉は了解可能なものになり、貨幣はコント
ロール可能なものになるでしょう。しかるに、それを許さないような《外》、私たちの想定
を超えたもの、そもそも想定不可能なものを私は外部性と呼ぶのです。この意味での超越性
は、べつだん神秘的なものではない。言葉の外に神はおらず、経済の外に神の手など働いて
いない。

外なる神を夢見ることは、競馬必勝法を求めるようなものです。これは断言できることです
が、少なくとも中山競馬場に神などおりません。馬券が当たらないのは神が居るからでも
居ないからでもない。悪魔が居るからでも居ないからでもない。端的に、当たらないので
ある!なのに、誰かは必ず当たっている。1人も当たらないレースなどめったにない。時に、
すべては偶然の戯れだと言いたくもなるわけです。しかるにそうではない。これが今回、
私が強調したい論点です。

貨幣はなぜ濁ってしまうのか。透明ではあり得ないのか。それは自らの外部とつながること
で、その生命を得ているからです。貨幣は市場と結びついている。市場は生活と結びついて
いる。そして生活とは、本来的に不安定なもの、見通しの効かぬものである。そこから貨幣
はやってくる。

マラルメは晩年、「いかなる骰子の目も偶然を廃位することはないだろう」(Un coup de dés
jamais n'abolira le hasard)という長い題名の詩を書きます。この詩の題名については色んな
解釈がありますが、じつのところ至極単純な話だろうと私は思います。

と申しますのも、1つの骰子には6つの面しかなく、それを2つ組み合わせたところで、
出目には限りがあります。出目は蓋然的です。それは必ずしも偶然ではない。マラルメが
言わんとするのは、そんな蓋然的な真実についてではない。世には予測不可能な偶然という
ものがある。それがいわば王座につき、世界を支配する。

一発の銃弾により世界戦争が始まる。偉大なる王が病気で突然死する。単勝1倍台の馬が
出遅れる……

そうした偶然の王位を蓋然性が廃し、その座を奪うことなど決してないだろうと詩人は
言うのです。いくら蓋然性の計算をやり尽くしても、偶然性の到来を避けることはできない
だろう。その王座を揺るがすことはできないだろう、と。

そして、そんな偶然性こそがマラルメにとっては美の実在性の根拠とも見なすべきもの
でした。外なるものが今この時に奇蹟のように立ち顕われる。実在するに至る。それが美の
契機、美の実在の刻(とき)です。バタイユが「好運」と呼んだ一刻です。

マラルメの詩では蓋然性にすぎぬものと偶然性が対比され、偶然性の優位が宣言されて
いる。この場合の偶然性は、あくまで蓋然性との対比で見出されるものであり、すべては
偶然だとか、すべては遊びだとか決めつける、そんな粗雑な眼差しが把捉できるものでは
ありません。あらゆる蓋然的な可能性を尽くしたところにしか、偶然の王座は姿を顕わさ
ない。しかも、その後の詩の展開を読むに、それは一瞬姿を顕わしても忽ち消え去るような
何かなのです。語り手である難破船の船長の死とともに、一切の魂のドラマは底知れぬ海の
晦冥に姿を消します。

マラルメは詩の言葉の本質を問うて、その記号性の生起と消滅をいわば蓋然性と偶然性の
戯れとして1篇の詩に結晶化してみせたわけです。

さてそこで、身の程もわきまえず、私が主張したいのはこういうことです。貨幣の本質は
蓋然性にあるのではない。価値や価格といった予測可能な差異の体系性の内にあるのでは
ない。むしろその外に、本来はいかなる意味でも予測不可能な偶然性からその生命を貨幣は
得ている。私たちは価格が一定の蓋然性の計算のもとに決まるように錯覚している。多くの
人がその錯誤を共有しているかぎり、たしかに価格は一定の枠内で決まる。が、それはそも
そも幻想のごときものである。そんな幻想を担保するのが貨幣の役割であり、貨幣とは経済
幻想の象徴である。共有された幻想が崩れれば、価格や価値など一瞬にして崩壊する。経済
理論も、経済学も跡形もなく消滅する。実際のところ、そんな場面に私たちは歴史上何度も
立ち会ってきたはずである。

ちなみに、マラルメの時代に本の消滅という事件が(何度か)ありました。19世紀末の
フランスで、売らんかなの商魂から版元が本をたくさん出しすぎた。折も折、大衆の娯楽の
対象が自転車やハイキングに移り、誰も本を読まなくなった。途方もない暴落が起き、出版
機構が一時的に停止したのです。マラルメはそれを見た。書物とはいずれ消滅するメディア
だという確信を持つに至った。むしろだからこそ、『骰子の一擲』という最後の書物を推敲
することに精魂を傾け、その途次で頓死するのです。

今だってまだ本はあるじゃないか、本の時代は終わってないじゃないかと強弁する人たち
が大勢いる。しかるに、そんな人たちはいまだ書物の死を体験していない。書物もまた死ぬ
ものだと自覚していない。だからこそ「来たるべき書物」(ブランショ)に想いを馳せる
ことができないのです。

無理やりこの「書物の死」を経済学の理論に結びつけてみましょう。経済学もまた死ぬの
です。というか、実際にはもう何度も死んでいるのです。なのに自分たちが死んだこと、
死すべき存在たることにいまだ気づいていない。理論の内に死が折り込まれているのに、
それを見ないで済ませている。思えばマルクスの経済学批判とは、じつはこの点に懸かって
いたのではないか。

マラルメは詩が外から来るものであることを弁えていた。むしろ外から来るものを受け
止める器として自らの最後の書物を準備した、と言えるでしょう。

来たるべき経済学者もまた、あたかも詩人のように、体系を死に至らしめる致命的なもの、
すなわち貨幣を自らの体系の内に容れるべきではなかろうか。というか、正確に言うなら、
経済学という体系が生きているように見えるのは、我知らず秘かに貨幣によって生かされ
ている、あるいは生き延びさせられているからではあるまいか。

体系は自らに死をもたらすものによって逆に生かされているのではないでしょうか。いわば
ゾンビのごとく。そしてゾンビとしての生を肯定することこそが、じつは真に生きること
なのではないかと私は疑う者であります。

[添付]: 26218 bytes

守永直幹 2020/06/05(Fri) 11:44 No.247
Re: 貨幣と外部性(追伸)
追伸)

あとで読み返して、書き落としていた点に気づきました。付言しておきます。

>貨幣は市場と結びついている。市場は生活と結びついている。そして生活とは、
>本来的に不安定なもの、見通しの効かぬものである。

なぜ生活が本来的に不安定なのか。それは生活が自然と結びつき、切り離せないからで
しょう。私たちは息をし、飲み、食べる。肉体自体が自然の産物で、その影響を被るのを
避けられない。外から来た病いに、ウイルスに感染する。現身(うつしみ)は病み、老い、
劣化し、死滅してゆく。ひとときも動きやまぬプロセスの渦中にある。

それと蓋然性と偶然性の対比ですが、これはケインズとホワイトヘッドの対立点でも
あります。

高踏で難解を極めるケンブリッジでのホワイトヘッドの講義に最後まで出席していた学生
がケインズでした。なのに、この愛弟子の博士論文、というか教授資格論文と言うべきかも
しれませんが、のちに『確率論』として結実する論文を「十分に哲学的ではない」として
師は撥ねつけた。哀れ、稀代の秀才ケインズは留年する羽目に…… かれがアカデミズムを
去り、経済官僚として頭角を現わす一因となります。

のちにケインズから贈呈された『確率論』についてホワイトヘッドは『過程と実在』で触れ、
いささか微妙な言い回しで、自分の考えと大きく異なるものではないと賛同を示している。

本当にそうだろうか?というのがかねてより疑問で、自分の論文で以前ちらっと触れた
ことがあります。実際には両者の思想は全然違うのではないか?弟子が蓋然性の人である
としたら師匠は偶然性の人で、ぎりぎりのところで両者は相容れないのではないか。

この論点にかんしては、いずれちゃんとした論文を書くつもりです。
守永直幹 2020/06/10(Wed) 15:36 No.249
Re: Re: 貨幣と外部性(追伸)
守永先生、皆様

大阪大学の竹内です。通りすがりに、「蓋然性」と「偶然性」というワードに反応してしまいました。確率をめぐるこの二つの概念については、Hackingを始め議論が展開されています。
次の2冊が参考になるかもしれません。
イアン・ハッキング (2013)『確率の出現』慶應義塾大学出版会
ジェームズ・フランクリン (2018)『「蓋然性」の探求』みすず書房
個人的には、「蓋然性」とみるか「偶然性」とみるかで、未来への開かれ方が違うように思うのですが。

時間がないので、この辺で。
竹内 惠行 2020/06/11(Thu) 13:09 No.250
Re: 貨幣と外部性(追伸)
竹内先生

具体的な書名を教えていただき、ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

私としても蓋然性と偶然性について現代的な議論が喧しく
行なわれていることを知らぬわけでもないのですが、
かなりテクニカルな議論となり、目下のところ余り深入り
できそうになく……

この問題を一時代前のケインズとホワイトヘッド、ひいては
マラルメやバタイユ、九鬼周造あたりにまで遡って論じたら、
新しい別の切口を見出せるのではないか?というのが、かねて
よりの私の関心事であります。
守永直幹 2020/06/11(Thu) 19:07 No.251
Re: Re: 貨幣と外部性
先日来の守永先生のご意見には、私も少し心惹かれるものがありました。というのは、経営学や会計学の分野では、最初から貨幣のリアリティーなど全くなかった、ということに気づかされたためです。経営者が興味を持っているのは、貨幣そのものではなく、資産や負債、収益や損失、株価の変動、などとして表される数字の増減に過ぎません。また、経営するということは、お金を貯めるとではなく、資金をいかに回すか、また回転率を高めるか、という動きそのものであり、これを止めることが法人の死に結びつく、という強迫観念に突き動かされている、ということです。コロナ禍では、これが止まるという恐怖の事態になったことから、社内留保でリスク回避できる大企業も含めて、中小企業は大パニックになったと言えます。これは今も続いています。小規模零細企業は、法人化していても法人資産を個人資産と切り離すことが、実質的にも観念的にも困難なため、とても厳しい事態になったと言えます。これが、私が考えるところの「経営のリアリティー」だと思います。
三井 泉 2020/06/13(Sat) 12:35 No.252
Re: 経営学と経済学
三井先生

>経営者が興味を持っているのは、貨幣そのものではなく、資産や負債、収益や損失、株価
の変動、などとして表される数字の増減に過ぎません。また、経営するということは、お金
を貯めるとではなく、資金をいかに回すか、また回転率を高めるか、という動きそのもので
あり、これを止めることが法人の死に結びつく、という強迫観念に突き動かされている、と
いうことです。

なるほどと膝を打ちました。経営と経済の関係について自分の思うところを少し述べます。

経営者はもっぱら自分の会社の「数字の増減」に関心を持ちます。経営学そのものもまた、
個々の会社の動向や、それらの集合としての国家単位の経営に関わりを持つ。

実際には個々の経営は基本的に国家に組み込まれています。そして、国家におけるマクロな
「数字」を扱うのが経済学だと見なされている。経済学が中小企業の経営に容喙することは
ない。それは個々の企業の経営陣の仕事であり、経営学の仕事であり、官僚や銀行家の仕事
でしょう。そこに国家単位の経営が問われるようになると、経済学が介入してくる。

なぜそんな役割分担が生じるかと言えば、経済学が《数》を握っていると見なされている
からで、数が経済を支配し、世界を支配すると暗黙のうちに理解されているからです。

経営者ないし経営学が扱うのはローカルな、いわば「小さな数」であるのにたいして、経済
学が扱うのはグローバルな「大きな数」です。小さな数は経営者の采配でコントロール可能
だと見なされている。他方で、大きな数を扱うのは経済官僚であり、経済学者の使命だと
目されている。ゆえに、とても威張っている。

小さな数は《人》と関わる。ひと次第で何とかなると皆、楽観ないし達観している。これに
たいし、大きな数が人の思惑を超えることも皆、薄々気づいてはいる。コントロールする
ことなど無理だ、と。ただそんな悲観的なことは誰もはっきり口に出して言いたがらない。

人すなわち「小さな数」に関わる知は、どんどん放恣になり、厳密さを失う傾向がある。
数すなわち「大きな数」に関わる知は、いよいよ厳密になり、厳格さを極める傾向がある。

しかるに、どちらの方向もはなはだ怪しい。

中小企業であるか大企業かを問わず、また地方か国家であるかを問わず、《人》の支配を
自明視して、合理的な経営の理念を失った組織は崩壊するしかない。

同様に《数》の支配を当然視して《人》を見失った経済もまた、合理性の追求を金科玉条
として、生きた社会を破滅に追いやるのではないか。

ひとが頼りにならぬことは誰もが知っているので大過ないのですが、なぜか数のほうは
信じられると多くの人が錯覚している。そのあげくが、たとえばサブプライムローンの不良
債権化に端を発する2007年の世界金融危機でした。そこでは数学者が司祭として君臨
し、そのあげく市民経済を破綻に追いやった。

貨幣の問題は、この意味での《数》それも大きな数に関わります。それは近代以後の経済学
に取り憑いた宿痾のようなもので、現代の経済学から数理を切り離すとしたら、いわば心臓
を切り取るようなもので、今とはまるで異なるものになる、というか死んでしまうでしょう。

逆に言えば、経営学から《人》を切り離すとすればどうか?

いったん経済学から数を切り離してみる。あるいは、経営学から人を切り離してみる。
そこにどんな風景が見えるか、いちど試してみたらどうだろうか?

おそらく数なき経済学は哲学に直面し、人なき経営学は歴史に直面することになるのでは
ないか。そして実際のところ、それこそが今、必要なことではなかろうか。

別の言い方をすれば、数でもなく人でもないところに私たちはある種の構造を見出す。
それは、いわゆる構造主義の構造とは何の関係もありません。もっと深いところで私たち
を動かしている構造――社会の仕掛けであり、仕組みです。

経営学とか経済学といった区分以前に、そうした社会の基底に目をやること、その仕組みを
究明し、それに働きかけることが知性の役目だと私は信じる者です。
守永直幹 2020/06/13(Sat) 20:25 No.253
貨幣そして経済学と経営学のリアリティ
三井先生、経営(学)のリアリティーについて、とても興味深い内容を有難うございます。
なるほど、経営(学)のリアリティにおいては、全体性の代わりに個別ながらも動的な、
ダイナミズムがありますね。そのぶん貨幣との関わりも、ミクロ経済学理論の価値情報と
いうことよりも、ずっと信用(貨幣)に近い部分があると思います。

守永先生の人間という表現をお借りするならば、経済学理論は、まず人間とダイナミズム
を捨てて、理論を閉じたところがあり、経営学はダイナミズムを残して理論を開き、残りの
部分が人間という問題に託されている、というところでしょうか。

個人的には、人間を捨てたタイプの経済学理論を相手にせねばならない、というような段階に
おいて、蓋然と偶然の違いについてはまず目を瞑るということもありなのではないか…と考え
ております。加えて、「数」を「取り扱う」ということについて、大事なのはその「扱い方」
の方であって、「数」ということに、まずは問題があると考えない方が良いだろう、とも考え
ております。

あと、まあ、細かい点はいろいろあるのですが、それはさておいて、守永先生が貨幣について
持っておられるお考えに、上記の点を加味させて頂けるならば、大筋(特に前段の方に向け、
かなりの大筋になりますが)合意します。
浦井 憲 2020/06/14(Sun) 08:40 Home No.254
Re: Realism方法論2020年3月13日会議のまとめ (その後の議論を含む)
守永先生、浦井先生
早速のご意見を有難うございました。大変興味深く拝見しました。私の書き方も悪かったのですが、私の書いた世界は、「経営」のリアリティーであり、経営学のリアリティではなく、しかも、その「経営」あるいは「経営学」のリアリティーが、「現実」とはズレてきているのではないか?という点が、大きな疑問なのです。守永先生のご指摘、「経済は大きな数字」「経営は小さな数字」と言われましたが、実は、単純に数字だけを言うなら、この4月にGAFA+M(マイクロソフト)の時価総額は560兆円で、遂に日証第一部の総額を超えてしまいました。また、取引スピードで言えば、Amazonは一分間に日本で2000億円以上の商売をしています!彼らは、国家の法律には一応?従いますが、そこに消費者がいる限り、やすやすと国境を越えていきます。このようなグローバル企業の実態に即したリアリティーを、経営学は全く描き出せてはいません。また、今年の前期は学生たちが家にいたため、「家で学ぼうビジネスの基礎」というタイトルで、徹底的に消費者視点の経営学をオンラインで提供したのですが、なんと、彼らの出会う製品やサービスを提供する企業(オンラインでもオフラインでも)、これらが向っている将来は、ほとんどが「無人化」「IT化」だったのです!コンビニも、現在の24時間営業や人手不足の問題を解決するために、無人店舗の実証実験に入りました。また、物流も、無人配送車の実証実験をしています。仕分けや梱包は時間と人件費を削減するために、かなり以前からIT化が進んでいます。音楽や映像は、サブスクリプションによる配信サービスが主流となりつつあります。このような動きは、コロナ渦でかなり加速されており、中小企業にも及んでいます。というように考えると、もはや経営現場に「人」がいないという事態が珍しくなくなります。また、本来は経営者がやってきた経営意思決定をどこまでAI化できるのか、ということが現実の大きな課題になっています。というような、経営実践のリアリティーを、おそらく経営者も完全に把握することができず、経営学者にいたってはほとんど描き出せていないと思います。時間感と空間感が、主体によってかなりズレているのかもしれないなどと思ったりしています。これはこれで、SF小説として描くなら面白いのかもしれません。実は、経営の世界を描くには、文学のリアリティーの方が、「リアル」なのかもしれませんね。村田沙也加『コンビニ人間』の「世界」のように。
三井泉 2020/06/14(Sun) 12:19 No.255
Re: Realism方法論2020年3月13日会議のまとめ (その後の議論を含む)
先のメッセージの文章訂正
「日証第一部」→「日本の東証第一部」
三井泉 2020/06/14(Sun) 12:25 No.256
貨幣そして経済学と経営学のリアリティ(2)
三井先生、有難うございます。

経営(学)のリアリティと書きましたが、(学)は「故にその学が目指すべき」の意で付けた
として、問題ないと思って付けたところです。有難うございます。

そうですね。数の大小ではなく、「全体性」を得るべくダイナミクスを犠牲にした経済学
と、部分のダイナミクスを活かす代償として人間に話を開いた経営学、という対比が良い
と思っております。共に人間に向けて開かれているという感じで、守永先生のお話にも継
がると思います。

そして、大小で言えば、まさしくご教示の通り、今日のリヴァイアサンは国家などではなく、
国際金融資本と多国籍企業、派手な表向きとしては GAFA &マイクロソフトといった今後の
情報インフラの鍵を握っている企業ですが、やはりその背後にある銀行資本、エネルギー、
軍産、製薬などの、国家ごときには縛られない、企業であり、その「文明の意味」でしょう
か。それを見据えなければならないと思います。

そのためには、経済学の全体性のリアリズムだけではだめで、また、経営学のダイナミクス
的なリアリズムだけでもだめで、それらが統合され得るような、新たな研究枠組みが必要
になると思います。村田先生の「文明と経営」は、少なくともそのような枠組みを提供する
ものであったと思います。

コロナ禍もまた、そのような(新たな)リヴァイアサンと旧リヴァイアサンである国家との
間で生ずる、壮絶な戦いのようにも見えます。その結果、勝ち残って来るものが何なのか、
まさに今、しっかりと見定めねばならないように思います。

今日の状況は、新たにこれからの「国家」のあり方や役割を、認め直す一つのきっかけに
なるかもしれません。また逆に、国家など、この先無くなっていくという、その予兆なの
かもしれないですね。そして「貨幣」はその各々の先々、どのようなものになっているの
か。あるいはどのようなものになるべきか。

そのようなことを考えさせられる昨今です。
浦井 憲 2020/06/14(Sun) 21:37 Home No.257
Re: ゾンビ時代の経済学&経営学のために
三井先生、浦井先生

先日の私の感想は、古いタイプの日本の経営および経営学を念頭に置いたもので、目下
栄華を極めるGAFA&マイクロソフトのような新しい情報産業を考慮に入れたものではあり
ませんでした。

ならば「古いタイプ」の経営(学)とは何かと申しますと、歴史的に見るとき、ドイツに
生まれた経営学がアメリカに移植され、とりわけフォードら自動車産業の経営をモデルに
構築されたもの、ということになるでしょう。そこでは経営者自身が経営学を開陳すること
が珍しくなかった。経営とは組織の問題であり、人の問題だった。その時代は「小さな数」
を考慮に入れていれば済んだ。経営と経済学は半ば一体化していた。

思うに70年代以降、多国籍企業が世に憚るに至り、経営と経営学の乖離は甚だしくなって
行った。だからこそ逆に、いわば古き良き時代への回顧として《ひと》を大事する経営と
いうキャッチフレーズ、ようは「きれいごと」が日本で持て囃されるようになって行った
のではないか。あるいは「ものづくり」とか。いわば経営学が日本的経営のアリバイとして
利用されるに至った。そして、そんな時代は遂に終わりを告げた。

いまや隆盛を極める情報産業により、これまでの重厚長大型産業、とりわけ自動車産業は
大きな方向転換を迫られている。GAFAやマイクロソフトは国家の単位を超えた産業の
新地平を切り開きつつある。その経営に口出しできるような経営学者は恐らく誰もいない
でしょう。というか70年代以降、国家を超えた企業経営が行なわれるようになって行った
とき、その潮流に掉さすような経営学者が――洋の東西を問わず――果たして居たのか
どうか。寡聞にして存じ上げない。はっきり申し上げるなら、その時点ですでに経営学は
1度死んでいたのではないか。

マクロ単位の「大きな数」を扱う経済学だけが、はなはだ不十分なかたちであれ、この世界
潮流を分析の対象とし、時に異議を唱える役割を担った。情報化に根差したグローバリズム
経済において《ひと》は消滅する。あらゆる産業がAI化に飲み込まれつつある。とはいえ
人間の役割はそう簡単に消し去れない。あらためて経済人を定義し直そうとして、たとえば
行動経済学のような学問が流行するのには理由があるのです。

私が「大きな数」と呼ぶものは、そこに無限の観念を抱懐するような数という意味です。
ケインズ以後の経済学は、どこかで無限という問題を抱えている。だからこそ蓋然性や確率
計算が問題になるのだとも言える。これまでの経営学は、この意味での「無限」を考慮に
入れずに済んできたのではないか。それは《ひと》を言い訳にできたからです。

三井先生がおっしゃるように、高度情報化した今の世界経済の動向は、経営学のみならず
経済学の手にも負えなくなっている。そもそも《学》の存立可能性自体が危ぶまれている。
学とは無縁に、世界規模の経済や経営が猛威を振るい、好き放題をやらかし、世界の民衆を
脅かし苦しめている。

《学》とはなにか。それは可能なかぎり広いパースペクティブを持とうとする営みです。
世界や国家のことばかり見て、市民や民衆の生活を考えない。あるいは富裕層の都合ばかり
鑑み、貧民を切り捨てる。そんなものは学の名に値しない。

これまでの学が扱ってきたのは、あるいは扱おうしてきたのは知識にすぎない、とも言える
でしょう。これにたいし21世紀の新しい学は、情報を相手にせざるを得ない。ならば情報
とはなにか。それは私たち個々の人間の意識を超えるもの、いわば人類の無意識の反映です。
私たちは情報化された経済現象のなかに自らの抑圧された欲望や願望を目にする。いや、
それどころではなく、いまや無意識は自らの主人に反抗し、私たちの死生すら左右するに
至っている。

コロナ禍は驚くほどの生命現象ではない。それは命の問題というより、徹底的に経済的な
問題です。私たちはかつてなく決定的に経済人と化している。経済の掟、その支配に逆らえ
なくなっている。この潮流を対象化し、批判しうるような知の体制が必要とされています。
それが経済学を名乗ろうが、経営学を名乗ろうが、大きな違いはないでしょう。

別の言い方、もっと穿った言い方をするなら、人間の学としての経済学も経営学もすでに
死んでいるのだ。みずからの死に気づいてすらいないのだ、ということです。

もし新しい時代の経済学なり経営学があるとするなら、それは自らが死人のよみがえりで
あること、いわばゾンビであることを認めうるようなゾンビ経済学、ゾンビ経営学である
ほかないのではないでしょうか。
守永直幹 2020/06/16(Tue) 17:04 No.258
2019年8月7日方法論部会セミナー『医療・国家・財政と経済学理論における課題』のまとめ

今回の方法論分科会では、「医療」と「国家財政」の問題をテーマとしました。

方法論分科会のセミナーにおいては、過去数年に渡り「貨幣」と「国家の信用」という問題を
経済学理論と学問の方法、そして歴史、社会学、哲学的議論の橋渡しとなるテーマとして設定
して来ました。そうした過去の議論とのつながり、そして今後に向けた発展ということも含め
て、今回の全体討論を以下のようにまとめてみました。

不十分な点も多いと思います。引き続き、以下で議論が進展すれば、大変有難く存じます。


● これまでのセミナーとの関連

貨幣というのは明らかに「取り違え」の代表例であり、同時にまたそのような取り違えを無く
して世の中が回るとも思われない、いうなればコミュニケーションの媒介としての究極的取り
違えであるという要素も秘めています。純粋理論上の貨幣と国家の信用との間に線引きをする
という議論もありますが、現実に我々が手にしている貨幣は、日本という国家、あるいは米国
という国家等々、国民国家の信用です。これらの区別は大切であり、純粋理論的な貨幣の話も
大切なものですが、もしその議論を現実世界に存在する貨幣に無分別に当てはめるなら、それ
こそが取り違えを招くことになります。

純粋理論的な貨幣はあくまで極限における貨幣であり、そのような「極限」とどのようにつき
合うか。それは「遊び」と「真剣」の問題として、また貨幣をバブルと見て「蕩尽」の問題の
中で取り扱った、今春のテーマでもありました。


● 今回の総括として:価値財としての公共財

今回の議論は様々な形で、取り分け経済学理論の観点から、上述のようなここまでの話を引き
継いでいます。赤字財政の問題は国家信用の dynamics に関わる問題であり、公共財の問題は
国家信用の existence に関する問題です。貨幣を含む公共財の一般均衡モデルは、純粋理論
的な貨幣と国家信用としての貨幣の間に直接的関係を提供します。故に今回の議論は、この先
更に「純粋理論的貨幣=国家の信用」の立場から深められることになるでしょうし、またその
枠組みは、財政問題と金融問題を総括して「国家」を論ずる際の基本を提供するものになり得
ると思います。

今日の日本において、財政の問題を考える上で最も重大なのが「医療」であることは、恐らく
議論を待たないでしょう。今回、医療と財政にまつわる問題のスペシャリストとして、森井氏、
後藤氏、小林氏からの問題提起は、今日の医療の「公共性」ということを今一度明確に捉え直
す必要性、そのための多くの具体例、ということに帰着していたように思われます。

そして公共財という意味では「価値財」として(そのような社会的合意があるとして)の医療
の位置付けがまず必要であり、加えて、憲法25条の枠組みの下でのその公共財「化」(普遍
的かつ十全に行き渡らせる)ということを考えるというのが、その重要な前提になると思われ
ます。


● 基本モデルとして:公共財と貨幣の一般均衡モデル

そのような定式化の下では、赤字財政というのは社会全体の「最適性」ということにとって何
ら問題ではなく、問題はむしろ公共財でないもの(上の意味での社会的合意のあるべき意味に
おいて)が公共財として提供される問題ということに、帰着します。(医療費は公共財の価格
を個人がその個人価格 ---医師による診断を通じてその個人におけるその商品への選好の度合
いが科学的に裏付け証明されている--- をもって、リンダール均衡的に最適なものとなります。
医療の公共性ということをきちんと社会的合意にできれば、村上さんの提示した公共財の一般
均衡モデルをもって、そういう最適性の実現が可能と言えることになります。)


● 今後への糸口として:メカニズムデザイン

同時に、価値財の提供が市場を通じて成立しないのであれば、メカニズムデザインというのは
そこにこそあるべきです。思えば、政府には診療報酬という「価格」決定の権限があるのです
から、そうである以上(メカニズムデザインと言うまでもなく)あるべき治療への誘因を操作
する術を既に握っているわけであり、たとえ治療方法を直接に強制することができなくても、
絶望することはありません。そこに向けたインセンティブを与えることは可能です。全体討論
での長久氏と森井氏のやりとりから、そういう可能性が明確にされたと思います。また、政府
がそのような工夫をしていないとすると、怠慢ということになります。終末期医療、精神医療、
癌治療などにおいて、そういったインセンティブを工夫できないのか、考える必要があります。


● 残された問題(1): 経営

また病院をはじめとする医療組織の「経営」ということにおけるガバナンスの不十分さの問題
(臼井氏)も重要な指摘であったと思います。これは「経営」学の「本流」に関わる問題でも
あり、是非ともこの先、次回以降に引き継ぎたいテーマです。


● 残された問題(2): 知

最初に述べた「価値財」としての医療の「社会的なコンセンサス」のためには、一般の人々に
おけるリテラシーも重要であることは言うまでもありません。情報については、まず疑うこと、
保留すること、そうしたことこそがあるべき常識として、本当の「知」の根源になっていかね
ばならないのではないかと思います。これについては、さらに遠くにあるべき(方法論研究会
としての)テーマであると思います。


● 残された問題(3): 老い・衰え

また最後に、そのような「価値財」の社会的コンセンサスを成立させる上で、老い、衰え、と
いった問題に我々がきちんと向き合うことは必須とも言えます。今回は時間が全然足りません
でしたが、これは今回の問題提起に向けた、「具体的な道筋」の一つとして、機会あればまた
「医療」をテーマにした議論の場を持ちたいですし、そこで議論ができたらと願っています。

浦井 憲 2019/09/09(Mon) 00:36 Home No.213 [返信]
Re: 2019年8月7日方法論部会セミナー『医療・国家・財政と経済学理論における課題』のまとめ
浦井先生

おまとめいただいたものを拝読しました。

先生が書かれているように、今回の議論で明らかになったことの一つは確かに「医療の公共財化」という恣意ないしは社会選択であります。

このことに関連するものとして、ちょうど、花粉症のお薬を保険適用外にしようとする保険組合からの提言があり、それについてのニュースが流れています。
http://www.news24.jp/articles/2019/09/09/07496914.html

今朝、当直先で見たニュースでは、6割の人がこれに反対しているとのことでした。おそらく1000円する薬があったとして、保険が効くなら3割負担、つまり300円で済むではないか?という理解によるものではないかと思われます。しかし、もちろんこれは300円から1000円への値上げの話ではありません。窓口で払われない700円も、結局みんなで払っているのです。

ただ、医師がこのような保険適応外の動きに反対するのは理解できます。処方料や診察料という収入が減ることになりますから、自らの収入源を守りたいと考えるはずです。それ自体は、自己の利益の最大化への努力ですから、今更否定しても始まりません。

恐らく既得権益に浴したい医師は、医師の処方でなければ副作用のチェックができない、とでも反論するでしょう。しかし、実際アメリカではほとんどの抗ヒスタミン薬がOTC(オーバーザカウンター、つまり薬局で買える薬)となっていて、それで社会は回っています。日本でも一部の抗ヒスタミン薬がすでにOTCになっていますが、片方で70%オフ(=保険適応)のレジを残しているのですから、普通はそちらのレジに並びます。病院に行っている時間のproductivity lossが大きいと考えれば、薬局で買って済ませることもあるでしょうが、さっと処方せんを出してくれるクリニックがあれば、処方料と診察料を上乗せしても窓口払いとしては確実に安く済みます。

話を戻すと、ほとんどの抗ヒスタミン薬は非常に安全な薬です。OTCにしても問題はありません。副作用リスクがある薬は、そもそも製薬会社がOTCにしたがりません。アレロックという大変よく効く抗ヒスタミン薬がありますが、肝障害の副作用が知られており、医者でも出すときにかなり注意します。国はOTCにすることを許可しましたが(一般用医薬品といいます)、製薬業者の判断でいまだにOTCとしては発売されていません。

しかも、保険適用(≒通常は医師が処方する薬)としたからと言って、医師がきちんとその安全性を確認しているというのも、現場の臨床を知っている者から言わせれば幻想です。全く不必要に漫然と抗ヒスタミン薬が処方され続けている例はしばしばあります。これらのほとんどは、「患者がその処方を求めているから出す」というプラクティスの帰結なのです。私はこれを「言いなり診療」と呼んでいます。「医師の目を通す」ということの幻想を売って医者は商売をしているのです。

花粉症は死ぬ病気ではありませんが、それを患っている人にとってはとてもつらい症状をもたらす病気です。一定の投薬が必要である点で、ほとんどの風邪薬よりは「治療薬」としての価値があります。しかし、安全性が高く、決められた飲み方をしている限りにおいては、まず問題は起こりません。これは、例えば卵やパンやお酒の価値とあまり違わないと思います。お薬なのでアレルギーなどの副作用が出ることがありますが、小麦や卵で蕁麻疹が出る人もいます。お酒の飲み過ぎで死ぬ人もいます。

300円か1000円かという近視眼的な話ではなく、300円に隠れた処方料や診察料が本当にその価値があるのかどうかを、国民自身が理解しないとこのような無駄は続くのだと思います。医師のはしくれとしてはそれでもいいですが、国民の一人としては全く納得できない話だと思っています。

今回の議論を私なりにかみ砕いて、医療者を読者とする媒体に書かせていただきました。
明日(9月10日)の日経メディカルオンラインというものです。上記内容よりは品のある書き方をしたつもりですが、この問題を多くの人と一緒に考える一助となることを願っています。日経メディカルオンラインは、登録が必要ですが無料のサイトです。登録している間は一日に数度メールが送られてくるのがやや鬱陶しいです。

森井
森井 2019/09/10(Tue) 11:36 No.214
主体をひらく/2019春セミナーへの応答

浦井先生、皆さま。

先週は月曜&火曜と、何から何までお世話になりました。あらためてお礼申し上げます。
どんなに筋違いのサーブも危なげなく相手のコートに打ち返し、ラリーをつづける浦井
先生の妙技に感服することしきりです。畏怖の念すら感じました。

追加セッションでの私の発表は、一言でいえば「いかに主体を開くか」でした。議論の
過程で色々と思い当たり、気づかされる点があり、はなはだ意義深い機会となりました。
当日に頂いたコメントを反芻しながら、あらためて自分の考えをまとめ直してみようと
思い立ちました。

当日は、もっぱらバタイユと対比しつつコジェーヴにおける「歴史の終焉」の概念、
およびその独特の法理論を検討し、さらにこれをルソーと比較しました。コジェーヴの
絶対法の理論が浦井先生の理想に近いと聞いて、一同唖然としましたが、どうやらその
冷酷なまでの首尾一貫性が、浦井先生には快感らしい。

ことによると、われわれ凡人とは異なり、そもそも論理というものが浦井先生の眼には
最初からゆるゆるに映っているのかも知れません。絶対法の存在が一向に苦にならない
のかも?それが超ゆるゆるに感じられるのかも?という疑念を持つに至りました。論理
を論理で解体しつつ、かぎりなくゆるゆるの境地をめざす。このように理解するなら、
ゲーデルの不完全性定理が浦井先生の方法論に占める重要性が解るような気がします
(解らないような気も……)。

書いているうちに先日とはまた異なる考えが浮かび、ぐだぐだになってしまいましたが、
いちおうセミナーでの討議を盛り込んだ内容になっています。なにかの参考にして頂け
たら幸甚です。

例によって長くなりましたので、貼付ファイルで失礼致します。

[添付]: 54393 bytes

守永直幹 2019/03/27(Wed) 23:50 No.182 [返信]
社会の科学と場所的な論理に向けて:学問と宗教(葛城先生、守永先生のお話に応えて)
すっかり遅くなってしまったのですが、いろいろと書き加えることが多く、
このGWにようやく仕上げることができました。この遅延ならびに、些か
長々としたものになってしまいましたこと、お詫び申し上げます。

守永先生、三月十八日のセミナーならびにその翌日の追加セッションを踏
まえてのご投稿、まことに有難うございます。また、葛城先生には改めて、
今回のセミナー「無知と富」という形での問題提起に御礼申し上げます。
このテーマを軸として、方法論研究会における過去数年来の議論が大変見
通しの良い方向にまとまりつつあり、また私個人としても、永年の課題で
もあった「学問的立場とは何か」ということについて、その核心に近付い
た手応えがあり、大変有難く感じております。

今回守永先生にまとめて頂いた内容、塩谷先生から提起して頂いた「自己
という名詞とその機能」というヒント、そして先日四月にもまた阪大での
研究会を重ねまして、葛城先生のご報告の本筋要旨と合わせ、私としては
一連の議論を(とりあえず暫定的にではありますが)以下の (1)--(5) の
ようにまとめてみました。引き続き改善していく所存ですが、まずは内容
を共有して頂ければ(特に (1) について)、また不十分なところご教示
頂ければ幸いです。


(1)「遊び」と「真剣」そして「無知」について

村田康常氏と守永氏の遊びと真剣、葛城氏の「無知」、福井氏「豊穣性」、
竹内氏「近代合理性とアステカの聖性」の視点との関連を踏まえ、葛城
氏のお話の本筋をまず整理します。その下で、やはり問題は、極限敵に
「遊び」と「真剣」というテーマに帰着するということについて説明致し
ます。特に葛城氏のスタンスと最も強調したいところに、当日は全体の
議論が十分に至らなかった点がありました。これについては、竹内先生
のご指摘、長久先生の当日レジュメ「「無知」なのは…研究者とも読める
のでは?」とのご指摘、そして鈴木先生からの数学を代表とするような、
いわば「(本当の)科学的な知」ということについてのコメントが、深く
関わると私には思われます。


(2)極限における「真剣」

遊びよりも真剣が大事と言えるのはどのような根拠においてか。先の三月、
2日目の議論を報告します。


(3)極限における「遊び」

それでもなお、残ってくる遊びの重要性とは何か。村田晴夫氏における
真善美の究極的な一致という考え方と、塩谷氏からのアドバイスである
「自己という名詞の機能化」をヒントにして考えます。


(4)極限における「遊び」と「真剣」の一致

以上の帰結としての最も重要な遊びと、最も重要な真剣とは、どのよう
に調和するのか、という話です。


(5)「学問」の立場

上記の内容と、「真の学問」と「真の宗教」について、そして再度葛城
氏の「無知と富」の理論、その方法論、可能性について探ります。


以上の内容、かなり長くなってしまいましたので、PDF ファイルにて添付
させて頂きます。

[添付]: 375373 bytes

浦井 憲 2019/05/07(Tue) 03:29 No.184
Re: 中途半端な主体のために
浦井先生、諸先生

ご無沙汰しております。あっという間に梅雨入りしてしまいました。
ご返事が遅れ、相済みません。それなりに纏まった応答をせねばと
思いつつも、なかなか手がつかず、すっかり間が空いてしまいました。

というのも、思いがけず5月半ばに時ならぬインフルエンザにかかり、
咳が止まらず、数週間ほど調子を崩しておりました。6月に入って、
ようやく体調は好転したものの、今度は暑くなって……

書き足すにつれ、はなはだ長くなって恐縮です。さすがに7月に入り、
これ以上引き伸ばすわけには参りません。意を尽くさぬ部分は気に
なるものの、このまま掲示板に貼り付けさせて頂きます。

(1)中途半端な主体のために
(2)悲願の哲学――西田幾多郎を読む
(参考)弁証法を超えて

上記3つの論考がありますが、まず(1)から。

[添付]: 52106 bytes

守永直幹 2019/07/04(Thu) 19:14 No.192
Re: 悲願の哲学――西田幾多郎を読む
2)悲願の哲学――西田幾多郎を読む

返信が遅れたのも久しぶりに西田を読んでいたせいで、あまりに晦渋な
行文を読むにつけ、どんどん頭が悪くなって行くようでした……

とまれ、この哲学者にいまだ声望の衰えぬ理由が多少なりと理解できる
ような気がしてきました。

[添付]: 43999 bytes

守永直幹 2019/07/04(Thu) 19:20 No.193
Re: 弁証法を超えて
(参考)弁証法を超えて

たしか数年前に浦井先生に送った私信で、この掲示板にアップはして
いなかったように思います。

西田幾多郎との関わりで、参考までに挙げておきます。

[添付]: 19428 bytes

守永直幹 2019/07/04(Thu) 19:22 No.194
守永先生ありがとうございます
当方のまとめに応答して下さり、まことに有難うございます。当方の拙い文章に、これだけ
多くのお時間を割いていただきましたことに、感謝申し上げるばかりです。

言うまでもなく、哲学を専門としておられる先生方の間で様々にご意見一致し得ないところ
に向け、当方の下手な全体的調和感を(一方的解釈ではないと)強要するつもりも、またそ
のような力も持ち合わせておりませんので、種々ご批判大変有難く思っております。

未だ十分に時間が取れず、頂戴した原稿にざっと目を通させていただいたばかりで恐縮では
あるのですが、何点が気付いたところ、以下に述べさせて頂きます。これは、いくつか誤解
と(当方には)思しきところにつきまして、部分的にでも、解いて頂ければと願ったところ
のものです。色々とご意見頂いたことの全体、詳細にはなかなか及ばず申し訳ないのですが、
引き続き勉強させて頂きたく思っておりますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。


1.「緩い論理」

私の申し上げたい「緩い論理」とは、「広い方法」といいましょうか。いわば私と守永さん
の間で、もちろん細部の相違はあるでしょうし、一致できないところは多々あるでしょうが、
その方向性、まだ見えない理想、未来への希望、そういった何かまだ「開いたまま」のもの
に向けて、互いに共振が可能となる、そのような「一層幅広い枠組み」を指しております。
「学問」は、そうした「広い方法」の中にあるのでなければならず、そうした「広い方法」
をその営みの中で「どこまでも創り上げていく」、それこそが、学問の自由であり、学問と
いう営みであり、その最も根源的な姿ではないかと、そのような意味で、この言葉を用いて
おります。


2.「問う」ことと「働きかける」こと

私の言葉の用い方で、とりわけ「学問」ということにおいて「問う」という言葉の持つ印象
から、何かしら学問をする主体において「閉じた」、そのような印象でこの「問う」という
言葉が捉えられているように見受けられます。そのような意味ではなく、ここで問うという
のは、呼応の呼であり、応ずるものに向け、常に広く開かれております。世に「問う」とい
うことです。それは、まさしく世に「働きかける」ことであり、「呼応」ということにおい
て「呼びかける」こと、それは「働きかける」ことと、私はほぼ同義に用いております。


3.「極限」と「幸福」について

究極的、極限的なものがあるのかないのか、あるいは、現実にそれを手にする日が来るのか、
絶対に来ないのかということと、そうした究極的、極限的なものに向けて「期待」できると
いうこと、「期待」するということを、分けて考えた方が良いと、あらかじめ申し上げた方
が良かったかもしれません。もちろん、現実に絶対に手にすることができないものを「期待」
するというのは、(表面的命題としての)論理矛盾ではあります。主体が自己の、そうした
命題的レベルにすぎない論理にどこまでも執着するならば、そこには絶望しかないわけです。
けれどもそのような絶望を超えて、「期待」「できる」ことが「喜び」につながる、それを
本当の意味での幸福と考えるべきではないか、ということです。そのような営みにおいては、
私達には何かしら諦めなければならないものが出てくると思います。言葉の上だけの話では
なく、実際にそれが可能となるために、愛という問題が、あるいは悲願が、関わるはずです。
(そういう命題レベルの矛盾を強調しつつ、その先の意義を表現するために「即非の論理」、
「絶対矛盾的自己同一」といった表現が、通常西田などでは用いられると言うべきかと思い
ますが、実際そうした言葉だけ眺めていても、西田や大拙は良くても、他の人は困るので、
どうしようもないので、そのような言葉と、その先の意義の間をとりもつものが必要になり
ますから、それを指して菩薩とか、中間的なもの、中途半端なもの、そういったものの大切
さが強調されるべきという話であるならば、当方も同意です。)


以上です。また近々、お会いしてお話できる機会があればと願っております。取り急ぎ。
浦井 憲 2019/07/07(Sun) 22:06 No.195
Re: 浦井先生への応答
浦井先生、諸先生

早速の応答、まことにありがとうございます。以下、若干のコメントを
付させて頂きます。むろん先の論考の意図は浦井先生を批判しようとか、
責めようとか、イジメようとか、そんなことにはありません。

先生の投稿がかなりまとまった形で「極限」の問題に触れ、西田幾多郎
の名を出して学問と宗教の一致とか、真・善・美の一致を論じていたため、
どうしても反応せざるを得なかった、という側面があります。

というのも極限とはベルクソンにおいて「純粋持続」に他ならず、それ
は果たして1か多か、というドゥルーズが定式化した重要な問題がひとつ
あります。

また純粋持続の境地に私たちが達し得るや否や、あるいは達したと潜称し
得るや否やというのはバタイユが苦しみ抜いた問題でした。

というわけで、この問題系は私ども哲学関係者の琴線に触れる、というか
場合によっては「逆鱗」にすら触れるところがあります。

私自身はこの件について自らの哲学的見解を確立するのに半生を費やした
と言っても決して過言ではない。当然ながら自らの持論にかなりの自信を
持っている。ゆえに一言コメントするつもりが、書き始めるや色々と想念
が湧き起こり、法外に長々と書く羽目に陥りました。途中で、西田を読み
返したのもまずかった......

>何かまだ「開いたまま」のものに向けて、互いに共振が可能となる、
>そのような「一層幅広い枠組み」を指しております。

ここらのことは重々承知の上でして、どちらが「ゆるゆる」かは言わば
冗談のごときものです。ただその「広い枠組み」が、西田的な意味での
《1》に収斂されてしまうなら極めてまずい、という老婆心が働いたと
いう次第。

>「どこまでも創り上げていく」それこそが学問の自由であり、学問と
>いう営みであり、その最も根源的な姿ではないか

先の投稿では「どこまでも創り上げていくこと」と「どこまでも問うこと」
の違いを詳述しました。両者の差違と懸隔を鋭く意識し続けるのは肝要か
と思います。何ごとであれ、頭から否定するのは忌むべきですが、内実の
異なるものを区別し、差異化するのは知性の役割です。

>ここで問うというのは呼応の呼であり、応ずるものに向け、常に広く
>開かれております。世に「問う」ということです。それはまさしく世に
>「働きかける」ことであり、「呼応」ということにおいて「呼びかける」
>こと、それは「働きかける」ことと、私はほぼ同義に用いております。

若干誤解を与えるような書き方をしてしまったかも知れません。と申し
ますのも、こうした哲学的な文脈で「問い」の言葉を耳にすると、瞬時に
ハイデガーの「存在への問い」が念頭に浮かび、自動的に反論を始めて
しまう悪い癖が私にはあるようなのです。

いわばゴルゴ13が後ろに誰かの気配を感じるや否や、いきなりパンチを
繰出すような自動反応です。同様の反応は「否定」という言葉を耳にした
際にも生じます。

ただ繰返し申すなら、問うこと、創ること、働くこと、働きかけること、
ひいては呼びかけることは、それぞれ内実を異にする。べつだん哲学的に
ではなくとも、区別するのは大事かと思います。

>絶望を超えて「期待」「できる」ことが「喜び」につながる、それを本当
>の意味での幸福と考えるべきではないか。そのような営みにおいては私達
>には何かしら諦めなければならないものが出てくると思います。言葉の上
>だけの話ではなく、実際にそれが可能となるために、愛という問題が、
>あるいは悲願が関わるはずです。

なるほど幸福について考えるには何かしら「あきらめること」すなわち断念
が深く関わってくるに違いない。これを「犠牲」と言ってもいいでしょう。
西田の悲願には、そうした悲哀を介して大歓喜に至るようなダイナミズムが
ない。いちばん肝心な場所に弁証法がない。

歓喜への弁証法はさておき、一般的に言って欲望の断念として幸福があるの
は事実でしょう。また欲望とは異なるものとして「期待」はあるはずです。
その時の断念は(ブランショが説くように)忘却と関わることになりそう
です。それは時間という軸から考えねばならない。

とまれ、これらの問題はあまりに大きく、人により信ずるところも違うので、
軽々に論ずべきではないかも知れません。具体的な文脈に即した議論が必要
でしょう。

またいずれ、あらためて。
守永直幹 2019/07/10(Wed) 11:22 No.196
守永先生への応答
歓喜への弁証法、幸福に至るダイナミズム、まさにそれこそ、およそ
万人にとって、生涯かけて悔いの無いテーマですね。西田にその肝心
の弁証法が「ない」のか、ぽっかり大口を開けて、まさしくそこが開
かれた形で、むしろありありと指示されていると言うべきなのか、私
の感覚としては何とも言えないのですが…

ただ、そうしたダイナミズムのための鍵が、少なくともどこに「ない」
かということは、今や幾分明らかになっているのではないかと、その
ように思います。

まずそれは、唯物論的な左翼の考え方(これはその唯物論的な論理の
限界という意味で)にも、排他主義的な右翼の考え方(これは他に開
かれた受け入れを拒否するというダイナミズムの消失において)にも、
ないということが、明らかです。

今日社会における閉塞感は、既にそのようなところに顕著に見られる
ように思われます。今日の社会には様々な意味での分断が行き渡って
おります。産業化は分断です。我々が本来は信用(純粋にその言葉の
ままに)をもってなすべきところを、契約とその履行、処罰を持って
置き換えます。学問においては専門性もまた分断です。政治における
代議制も分断であり、司法、立方、行政も分断です。そもそも分業は
分断であり、コトバは分断であり、概念は分断です。その上では真偽
二値の論理もまた分断に加担する役割しか果たしません。分断された
我々は、それぞれのモードの中で閉じた話しかできなくなり、そして
分断された中で、単純な指標、カネ、数値化された目標、等々で評価
され、また競い合います。管理する側とされる側の分離、経営学とい
うことの本流もまた、そのような分断を乗り越えて、いかに「組織」
が成り行くものとして、その活動を維持すべきかということにあると
聞き及びます。

閉じたモードでのうわべの同調ではなく、真の意味で協調すること、
協和し共振し調和すること。閉じた世界の中ではそれができません。
そこには評価が無いからです。評価されないと、何もできません。自
らを包むモードに依拠し、そのモードの外に身を置くということを、
ほぼ「倫理的」とも言える感覚で、忌避することになります。これが
「人間」主義ということが、現状規範に依拠せざるを得ないことを通
じて、いわば「近代」における深層部で生ずる、弊害というべきでは
ないかと思われます。

個々の人々が、真の意味での協調、協働。協和し、共振し、調和する
ということ。それこそが今日最も求められていることではないかと思
います。そのためには、具体的には、肯定否定の二値にのみ囚われた
主語的な論理からの脱却。そして種々可能性を留保すること。それは、
取りも直さず、一つの、極限における遊びでもあり、宙ぶらりんを楽
しむということではないかと思います。そして、そのような「緩やか」
な論理の場こそ、中途半端な主体の活躍の場と言うべきなのではない
かと、そのように思います。その上でなお、我々は「論理」すなわち
「学問の方法」について、論ずるべきであろうかと、そのように考え
ております。
浦井 憲 2019/07/21(Sun) 05:05 No.199
ホワイトヘッド学会@後楽園の感想

みなさま

先日、中央大学後楽園キャンパスでホワイヘッド学会がありました。
村上先生はまだ数週間しか経ってないの?と驚かれたようですが、
その後、私のほうは色々ありまして、もう数カ月も前の遠い過去の
ことのように感じられます。

その際の感想を浦井、村田、村上3先生に書いて送ったのですが、
掲示板での開かれた議論にしたいという浦井先生のご要望で、若干
手を加え、アップすることにしました。雑な文章で気が引けますが、
時間が経ち、大きく書き換えるのはもう無理ですね。

貼り付けるのも可能でしょうが、かなり見にくくなると思われ、
貼付ファイルでお送りします。

[添付]: 34807 bytes

守永直幹 2018/11/04(Sun) 08:30 No.148 [返信]
Re: ホワイトヘッド学会@後楽園の感想
守永先生、ご投稿まことに有難うございます。守永先生とは村田、村上先生を合わせて、
後楽園学会後にいくつかのメールのやりとりをさせて頂いておりまして、ご投稿頂いた
内容には、先立ったやりとりがありますので、ここに数点、補足させて頂きます。

(1)守永先生のアップして下さった内容には、当方からの以下のような質問(命題に
ついてと西田について)にお答え頂いたという経緯が含まれております。

> 先日は大変興味深いお話、まことに有難うございました。村田先生のお話
>と合わせて、また掲示板の方で議論を深められたらと願っております。ホワイトヘッド
>の「命題」ということについて、今回守永先生にご教示頂いた中、それは他の概念と
>合わせてホワイトヘッドを理解していく上で中枢となるということ、大変印象深く、この
>先のホワイトヘッド理解において重要な手掛かりになるように思われ、ご教示を大変
>有難く思っております。その場合「命題」というものが、通常いわれるよりも、ずっと奥
>の深い概念になるかと思われます。特に「主語・述語」以前に、それがあるところとも
>思われ、主語、述語といったもの(ごく普通の意味での命題を形成するもの)は、その
>後に出てくるもの(もちろんそれは大変大事で、もう命題が命題として具体的に把捉
>されるにあたっては直ちに出てくるのですが)、というように理解しておりますが、そう
>いった理解でもいいでしょうか。そうだとすると、そのような(奥深い方の)「命題」とい
>う概念は、西田的な、「述語の論理」とも近いのかな、というようにも考えております。


(2)また、村田康常先生のご報告に向けても、上記守永先生のご感想に先立つ形で、以下の
ようなご質問をさせて頂きました。

>村田先生のお話については、先日も少しお話させて頂いた点、「遊戯」において規則
>と村田先生が言われたところ、コズミックドライブということでしょうか。それこそが、
>まさしく今我々が(あともう一歩、明確にしたいと)追い求めている、万人に普遍的な
>知恵につながるところのもの、のように思われます。今現在、BBS の方でなされてい
>る話の続きとして、大変興味深く思います。東洋思想でも、禅的には「大用現前して
>軌則を存せず」ですが、同時に論語的に「心の欲する所に従えども矩を踰えず」とい
>うことからも、そこがどのようにバランス(というと極めて陳腐ですが…)するかが最
>も肝要のように思います。それを幸福(究極的な、真の幸福)ということに求めると
>いうのも決して無いわけではないように思われ、それは決して個人的ということには
>ならなくて、むしろ「愛」というところを通じて、全体的なものになり得る、そうした自由
>と愛の葛藤(村田晴夫先生)の場、まさしくそのような所が、議論の焦点になってくる
>のではないかと、私は思っているのですが。


(3)更に、これは話が若干飛ぶのですが、数理経済学会との共催の方法論研究会の
次回企画においてバタイユを取り上げてはどうかという塩谷先生からのご提案があり、
それに関連して、以下のようなやりとりも先行しておりました。守永先生の今回の
ご発表が「今回のホワイトヘッド学会での発表は、最初の予定から大きく逸脱してし
まい、幸か不幸か、純粋な潜勢体を未来として位置づけるという年来の懸案に1つの
解答を出すことになりました。」という更にそれ以前のやりとりも踏まえたものです。


>いずれにしても、このホワイトヘッド学会を通じて、経済、経営、数学、哲学、専門知識
>を超越して、およそ近代および今日社会に関わる最も重要な問題が論じられている
>ということ、大変素晴らしいことだと思います。

>...

>思えば、そこに守永先生もパネリスト的に加わって頂くというのも、もし良
>ければですが、大いに考えられる企画ですね。改めて言われてみると、「純粋な潜勢
>体を未来として位置づける」というのは、塩谷氏の「待つ」というファクターを積
>極的に捉えるということと、大きく関係がありそうに思います。本来は無いと考えられ
>ていたところに「待つ」ということを見ることと、絶対的な不確実性の背後に「不安」
>や「怖れ」ということをしっかりと見るということは、とても近いように思われます。

>> 本来は経済そのものを主題とし、社会全体ひいては人類全体の課題として取り組む研究者が必要なのですが、なかなか

>さすがと申しますか、まさしくその通りであると思います。こういうキャッチフレーズに
>関して、守永先生の表現は常々絶品ですね。まさしく、我々のこのような集まり、研究
>会(勉強会)は、そのようなものを目指していけたら、と常々願っております。

>引き続き、何卒宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2018/11/04(Sun) 12:18 No.149
Re: ホワイトヘッド学会@後楽園の感想
以下、守永先生の上記ご感想を受けて、再度当方からの応答として、一度私信として書かせて頂い
た内容ですが、若干修正を加え、アップさせて頂きます。


お世話になります。守永先生のご感想、大変興味深く拝見致しました。村田先生のご意見も含めて、
よりわかり易く整理できたらと願っております。そのきっかけになればと、少しだけ書かせて頂き
ます。



> 西田の言う述語的世界観とは、すでにシンボル体系が立ち上ってからの、分節化された世界を前提とする物語ではなかろうか。

シンボル体系が立ち上がって世界が文節化されてしまうと、既に object としての主体も客体も
固まってしまって、そこで「述語」の論理と言っても、それは現代の数理論理学で言うところの
「述語論理」と変わらない、強いて言えばその存在論的コミットメントを固定していない、とい
う程度のものになってしまうかと(それでもそのことだけでも重要だと述べたのが、クワインの
「何があるのか」だったと思っていますが)思います。定数や変数の範囲を固定していないとい
うだけで、「主述」の「役割分担」といったものついては既に明確なものとして固定される、と
いった感じでしょうか。

西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、場合によっては主述の
役割分担ということにまで幅を持たせた、一層立ち入れば「そもそも主語というものを必要とは
しない」そのような意味での「述語的」論理というものを考えているのではないか、とも思われ
ます。

が、その点、いずれにせよ、ホワイトヘッドほど緻密に述べられていないことは疑いないです。

一方で、ホワイトヘッド的に緻密に述べられると、今度は、そのホワイトヘッド的な緻密な立場と
いうもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、これは以前からずっと気になっております。

それはあくまで「学問という営み」の中にあると、私には思われるのですが、そうではなく、そう
いった範疇を越えた、ハムレットの台詞と同じ、感受の誘い lure for feeling というものの中に
ある(それ自体間違いとは思いませんが)ということで、それで終わりにしたい(人もいる)ので
しょうか。我々は、「学問という営み」ということについて、あるいはその線引きということについ
て、拘る必要性を本当に捨ててしまえるのでしょうか。

この点、ぜひともまた改めて、引き続きじっくり、考えたいと思っております。



菱木先生のお話へのご感想、興味深く拝見致しました。

> ホワイトヘッドによれば、宗教的な熱情とは端倪すべからざるもので、それにより人間社会は統合され、文明は発達してきた。とはいえ信仰は得てして野蛮な迷蒙に陥りかねず、私たちはこれを合理化すべく努めねばならぬ。哲学は宗教を概念化することで昇華する。いわば健全で建設的なエネルギーへ変換するのです。

なるほど、そのような観点が確かに菱木先生のご報告内容からは伺えなかった懸念はあります。
どちらかというと、菱木先生のお話は、現存の浄土教の役割意義のプラグマティックな正当性、
という結論に向けてのものだったのでしょうか。なるほど守永先生のご記憶にあった話の流れ
「なぜ浄土教のようなものが出てきたか」という問題意識に終始するということであれ
ば、問題意識としては通っているかとも思われます。

> これは西田にも関わってくることで、彼の哲学においては主語の拘束性と、そこからの自由というモメントへの把握が不徹底です。述語への解放と、情動への再帰はまず何よりも歓喜であるはずなのに、彼の哲学の基層主調は「悲哀」です。この点に疑念を持ち、深入りするのをやめてしまいました。が、アリストテレス→ホワイトヘッドという観点から、その述語論理の意味を改めて考察する必要があるかもしれません。

確かに、「主語の拘束性」という問題の把握は、西田の場所的論理においては不徹底という
か、むしろ範囲外という認識だったのではないでしょうか。私はあまり「悲哀」は感じないの
ですが、「論理」ということに徹底した、ストイックさ(幾分堅苦しさ)でしょうか。「学問」という
範囲に主張をとどめる、一種の固さ、ではないかと理解しております。



ここで、「論理」とか「学問」といった表現を用いておりますが、あくまで営みというべきもの
であって、その内容が何か今我々が受け入れているものとは別様のあり方もあるということを、
決して排除するというような気持ちで、用いているのではないのですが。



村田先生の遊戯問題に関連して:

> 想像力は「構想力」(カント)でもあって、カントはまさに想像力の論理を構築しようとしたのです。ホワイトヘッドは(ベルクソン同様)カントを乗り越えるべく四苦八苦して ...
>
> 遊びにしても、想像力にしても、無―論理ではいささかもない。それどころか、遊びや想像力こそが論理の根底にあって、論理を形成しているのかもしれない。カントの構想力の議論は、まさにそこに関わる。 ...
>
> ... むろんそれは単純素朴な論理主義とか理性中心主義ではあり得ず、もっと曲折に富む、しなやかな論理でなくてはならない。私としてはイメージやシンボルの論理として、これを追求しているつもりです。

極めて、我々にとって共通の、一貫した道筋が見えているような気が致します。守永先生の言われ
る「イメージやシンボルの論理」は大変興味深く、私としてはその基礎がどのような形で「厳密に」
提示され得るのか、そこにかかっているように思われます。

村田先生の今回のご報告は、前年来とりわけこの三月以降を含めて、ここまでの様々な議論
をまとめて頂く意味で当方には大変有難く、また練り込まれた素晴らしい文章には、感嘆する
ばかりでした。当然というか、さすがというか、これはもちろん皆さんなのですが、やはり文学
系の方の論文は文章表現から違うなと、感じ入るばかりです。

村田先生が今回(これは実は学会後の飲み会の席で、更に話を突っ込んで伺った際)コズミック
ドライブと言われたこと、ポアンカレが「規約? Yes 恣意的? No」と言ったこと、そしてこれは
7月末のBBSでの「万人が認めるということ、万人における普遍性」という問題、そしてまさに
そこで村田先生も言われた「全体主義的ではなく、全体的、一般的」な知の根源、ということ。
それが果たして何なのか、あるいはそうしたものと、どう付き合っていくべきなのか、という事
が、私としては最も明らかにしたいことです。それが全てと言って過言ではないです。

万人が(ほぼ)受け入れる(かにみえる)普遍的な今日の「専門家の蛸壺状況」を作った責任
から、カント哲学は逃れられるのでしょうか。そこを一歩間違えると簡単に、結局はカントと
同じ、あるいはそれ以前まで、戻ってしまいそうな気がします。守永先生の言われる「しなやか
な論理」に対しても、もしそれを「厳密」に、あるいは普遍的に、明確に、提起できないとすると、
そこに感ずる一抹の不安が、あります。しなやかでも、何か、どこかで一本、明確に通ったものが
あるのでなければ、蛸壺化するおそれがあると思います。

西田は「場所的論理」に「宗教的世界観」をペアでくっつけて述べたところで、そしてそこで
の「宗教的」とは、「善悪」レベルの判断を越えた存在論の根源を与えるものとして、位置付
けられているわけですが、私としては今のところ、そのようにして捉えられる、自覚、自由、
そして絶対愛といったことから、遊戯三昧については、考えてみたいと思っています。

> ドゥルーズはどこかで「哲学とはキャッチフレーズを作ることだ」と述べていました。これは、より正確には「命題」を提起することであり、未来の来たるべき法の基礎を提供することだと私は思います。

なるほど、素晴らしいです。要するに、つまりは「問うこと」の根源性でしょうか。
浦井 憲 2018/11/04(Sun) 13:04 No.150
命題の立ち上がる言語以前の遊戯世界
日本ホワイトヘッド・プロセス学会中央大学後楽園キャンパス大会(2018.10/13-14)の後も、学会を振り返りながら守永直幹先生、浦井憲先生のメールでの対話が続く中、私の方は学務に戻って日々あたふたしながら過ごしていました。学会後にポオの『ユリイカ』を久しぶりにまた読みはじめたのですが、ほとんど読み進めることができないほど、朝から晩まで学務に追い立てられています。

それでも、守永先生とは問題圏が重なりつつあるのを感じ、まず、守永先生を主な宛先として、浦井先生、村上先生にも宛てて、上の浦井先生が投稿されたメールの後で、次のようなメールを返しました(一部修正しました)。この文章のおわりには、ホワイトヘッドの「命題論」に取り組んでいる守永先生に、命題論と多世界論の絡み、というテーマをリクエストしました。

 ☆ ☆ ☆

守永先生と私のあいだで重なってくるテーマというのは、イマジネーションとシンボリズム(あるいは言葉と命題)の問題だといえるでしょう。私はこの問題圏を、厳密な学としての科学の専門化と、遊びとしての思弁哲学の越境的な想像的飛躍、という方向で考えてみたいと思います。言い換えると、守永先生が問われている命題が立ち上がってくる場所あるいはプロセスを、私は、言葉以前から開けている遊戯世界という風に見てみよう、ということです。遊びは、言葉以前からあって、言葉が発せられ交わされる中にもあって、言葉が語り尽くされたあとにもあります。遊びの哲学というのは、面白いですし、今の私の職場(短大の保育科)で求められる教育内容にも、「遊びと言葉」というテーマは合致してきます。「遊び」「子ども」「言葉」「想像力」といったテーマで、この夏、いくつか論文を書き散らしました。あまりにも急ごしらえだったため、書き直したいものばかりですが、いやいやながら書いていくうちに、次第に、「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました。

言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこにすでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉以前の世界です。守永さんがおっしゃるように、そこを論究する際には、カントとの対決(とある種の深い和解)は避けて通れないでしょう。守永さんが注目されている三木清も構想力を主題にしてすでにこういう対決と和解を試みていますし、彼の『人生論ノート」の「娯楽について」という小文も面白いですが、九鬼周造も魅力的です。ただ、三木にも九鬼にも、合理的な論理への意志がホワイトヘッドほどには感じられません。ホワイトヘッドには、美的プロセスとしての宇宙をいかに論理的に(中期には特に数学的に)記述するか、という問題意識が強くあって、これがシラーやホイジンガやカイヨワやフィンクや、あるいは三木や九鬼の遊戯の哲学や想像力の哲学とホワイトヘッドの思弁哲学の大きな違いだと思います。遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。

ポオを再読しようと思っているのは、もしかすると『ユリイカ』には、たとえばフィンクの遊びの哲学よりも深くホワイトヘッドの思弁哲学に共鳴する美的洞察があるのではないかと思っているからです。

「わたしが語ろうとしているのは、物理学的、形而上学的、数学的宇宙について――物質的ならびに精神的宇宙について――その本質、その起原、その創造、その現状、その宿命について――である。」(ポオ「ユリイカ」第3段落)

人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても、学会後に大学に戻ってから私がやっているような追い詰められて毎日あたふたしている事務仕事ですら、もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようとしているのです。この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。この創造的衝動に満ちた根源的な遊びの世界から人間の活動を際立たせ切り離していく方向が、特定の抽象観念のセットに習熟するという専門化であり、その方法が、教育の3段階のリズム「ロマンス−精緻化−一般化」の真ん中にある「精緻化」あるいは「規律訓練(discipline)」です。

遊びの反復性が、厳密な規則性だけでなく偶発性や一回性あるいは歴史性といった再現不可能な細部を含んだ、いわば大雑把な反復性であるのに対して、専門化された科学によって追究されるのは再現可能で厳密な意味で規則的な反復性です。ホワイトヘッドは、そういう徹底した合理性の追求は学問にとって必要不可欠だと認めながらも、世界の活動性はむしろそうした厳密に規則的な反復性や斉一性ではなく、遊びのような偶発的で一回性の強い「大雑把な反復性」を特徴とする、絶えざる「新しさへの創造的前進」だとしています。

まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出すことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それがホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。遊戯的な宇宙、創造的に前進するこの宇宙には、一方で秩序や規則性への強い志向があり、また他方でそれを常に逸脱していく創造的な躍動があります。だから、その活動性を記述する学問体系は、常に、自分の体系を完結したものとして提示しつつ、そこには汲み尽くせないような実在がいつも余剰としてあるのだということを自覚しておかなければなりません。「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておくべきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった「余剰」も、何世代か先には体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そうなったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。

 ☆ ☆ ☆

最後に、守永先生に1つリクエストを。

ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界とのあわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえたかもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしまう、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャルとしてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界が広がっているように読めます。それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み方ができそうなところが少しだけ出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていくようなところがあります。

守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとのことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、ぜひ。
村田康常 2018/11/04(Sun) 19:16 No.151
構想力と象徴、そして学問というスタンス
村田先生、ご投稿有難うございます。村田先生と守永先生の問題意識の重なりに向けて、
当方の問題意識もかなり明確になって参りました。

構想力(イマジネーション)と象徴(シンボル)、そして「命題」の立ち上がる、言語
以前の「遊戯」という問題に向けて、非常に感銘を受けつつ、同時に、次のように考え
ております。(この問題意識は、学の普遍性、つまり真という問題でもあるかと言えば
そうなのですが、これからの学問的立場のあり方、という意味ではより一層、善という
ことに振れているのかなと思います。)


cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どうい
う位置にあるのか。その点が、私にとっての問題意識の中心にあります。これは「真」
という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味からしてもです。言い換えれ
ば、「幸福」ということについて、ということです。(ちなみに、経済学的に言えば、
これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくるかと思います。)

それが、先日の後楽園学会でのやりとりでは、菱木先生の問い、そのような遊戯が、
どのように「例えば美ということとして成り立つとしても、世における善といったことと
調和するのか」という問いであったと、私の中では整理されております。(つまり、行為
的善ということではなく、結果としての善、つまり幸福の実現ということとして、捉えて
おります。それに向けて、もし「遊戯にもルールがある」(だから調和あるいは幸福実現
が期待できる)と答えていくことになるのであれば、そこに対して、「遊戯に規則など無
いのではないか」というのが、正当な問いとして出てくることになるのは必定と思います。
(仏に会えばこれを殺しはあくまで悟りに至る教説の受け入れに向けた比喩でありますが、
大用現前して軌則を存せず、仏の道が示されるようなところにむけて、前もって知られる
ようなルールのようなものは無い、ということは、考えておかねばならないことではない
かと思います。)

そしてもし、そういったやりとりを少し横に置いて、少なくとも専門性といったことに
偏ってしまう今日の学問あるいは「理性」の位置づけに対して、それを戒める意味が
あるのだという(いわば3月にご報告頂いた際の「研究者の倫理」的な解釈)に話を
限定してしまうならば、それはカント的な話、つまり理性というものにはやはり有限的
な限界があるのだから、それをわきまえるべきという話に、どれだけ一歩踏み込んだ
ことを言っているのか、という点が問題になって来ると思います。

事実、カントの批判哲学が、それこそ、逆にその戒めさえ心に刻んでおれば蛸壺に
専門化していても良いのだ、という、免罪符にしか、事実上ならなかった…というの
が今日の実状ではないかと私には思われますし、それに向けてはヘーゲルやフーコー
のダイレクトなカント批判の方が、ずっとしっくり来ます。ホワイトヘッドの立場は、
村田先生も言われる「合理的な論理への意志」や「体系を完結したものとして提示」
することへの拘りの中に、あともう一歩、踏み込んだものを与えているに違いなく、
そこのところをぜひとももう少し考えてみたい気持ちが、当方にはあります。学問の
スタンスとは何か、学問の営みとは何か、という問題です。

話を戻せば、この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和する
のか、ということになるようにも思われます。そして、その問いに対しては、現在私に
おいてもっとも納得のいく答(?)に近いものは、村田晴夫先生の「真善美の究極的な
一致を期待できること」こそが、真の「幸福」なのである、という(話が一種の逆転に
はなりつつも、むしろ幸福の definition がそれである)という立場ですが、それが答
になるのかどうか(近いものであるのは疑いないと思うのですが)、これについては、
ぜひ村田康常先生のご意見を、お伺いしたかったところなのです。

また、以後も引き続き、議論が深まりますことを、こころより願っております。
浦井 憲 2018/11/05(Mon) 19:00 No.152
Re: 構想力と象徴、そして学問というスタンス
守永先生の「友愛と正義」へのレスに続く長文の連投となり、失礼します。村田康常です。

浦井先生からいただいたご質問、「美・善・真」の問題は、学会では菱木先生とともに、花岡先生からもいただいた質問(ホワイトヘッドの文明論で言われるような「平和ないしは平安(Peace)」と、遊び、ないは「遊戯三昧」とがいかに関わるかという問題)にも関わってくることがらであると思いますが、これらの論題はホワイトヘッドの議論を読み解きながら、少しずつ答えていくべきと思います。

たとえば、巨大な「世界の遊び」に巻き込まれている私たちは、この世界の遊びのなかでは遊ぶ主体というよりも、しばしば、遊ばれるというか弄ばれる存在になっています。この文明社会において、私たちの諸活動、たとえば、経済、学問、余暇……などなども、遊びと真面目のリズムのなかで繰り広げられるような、広い意味での遊びであり、森羅万象が遊びだという遊びの宇宙論に立てば、生・老・病・死のそのつどそのつどの切実で真剣な営みもまた、根源的には、自由と限定性のコントラストのなかでの遊びだといえるでしょう。ここまで遊び概念を拡大、深化させてしまって、遊びを「何でもあり」の営みとしてしまったような観点から、いったい何が言えるのかというと、ここでの関心に照らしてみると、私たちは、絶えず遊び戯れる活動の中にいて、遊んでいるのだということ、真面目に、真剣に、生死をかけ、愛着や反抗や鑑賞や実践を繰り返しつつ、遊んでいるのだということ、そして、そのように遊びつつ、私たちは、自分たちがこの生のアートとしての遊びを通して作りだしてきたものによって、遊ばれているのだということ、そういう遊びの再帰性というか渦動というか、(あまりうまい表現ではないですが)遊ぶ主体が遊ばれる客体でもあるといったようなことが、言えるようになるのではないかと思います。

ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』のなかで、プラトンの『法律』から「人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです」という言葉を引用しています(高橋英夫訳、中公文庫、54ページ。里見元一郎訳、講談社学術文庫、47ページ。プラトン『法律』第七巻803C-D)。私たちは、真摯に厳粛に遊びつつ、私たちを超えた何か巨大なものの遊びの中に巻き込まれて、遊ばれている。巨大な遊びに巻き込まれた駒のような弱小の存在にとって、この遊びは、守永先生もおっしゃったように、遊びだなどととは言っていられない、生死にかかわってくる深刻な事態です。しかもその私たちの日々の活動としての遊び、あるいは生活の諸活動としての遊び、ホワイトヘッドの言葉で言えば「生きるアート」としての遊びが、そういう巨大な世界の遊びを生み出しています。自分たちが生み出しているものに、自分たちが巻き込まれて、しばしば犠牲にもなっている、という意味での遊びの再帰性が、現代の文明社会の恐ろしい特徴で、そこには、上述の遊びの第一、第二、第三の相という見方をもう少し精緻にしなければ見えてこないような、再帰的で複合的な事態があると思います。しかしこういう事態も(バタイユとは別の意味で)遊戯という概念で見てみることで、何かがもう少し見やすくなるのではないか(その代わり、何かがもう少し混乱して見えにくくなるかも)、という予感があります。

プラトンが『法律』で、人間は神々の遊びのための具(玩具)となるよう創られた、と言った箇所は、遊びと平和(と戦争)について、真面目さや真摯さと遊びを対比させながら語っている箇所です。そこには、花岡先生が出された、遊びと平和とは一致するのか、という問いへの(プラトンによる)答えがあります。プラトンの答えは、戦争は平和のための闘いである、という前提に立った上で、遊びは平和を実現するための神々への奉献や歌い踊りにおいて、真剣に取り組まなければならない、つまりそのような意味で、遊びは平和を実現する、というものです。

アテーナイの人 私をして言わしめるなら、真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。ところで、最高の真面目さをもって事を行なうだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して、まえにも言いましたが、人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです。これこそが人間の最良の部分ですね。だから人は、男も女もそういうあり方に従って、最も美しい遊びを遊びながら、いままで考えていたのとは正反対の考えで生きてゆかなければいけません。
クレイニアス それは、どのようにするんですか。
アテーナイの人 いままで人びとは、真面目なことも遊びのためでなければならないと思っていますね。たとえば、戦争は真剣なことで、平和のためにうまく済まさなければならないと思っています。しかし、戦争のなかには、われわれが最も真摯、厳粛であると呼ぶに足るような遊びも、教育も、ありはしません。昔もなかったし、これからもありますまい。そこのところが一番大切なのだ、とわれわれは言うのですよ。で、人は平和の生を最も重要な、よいものと考えなくてはなりませんね。すると何が正しい道なのでしょう。奉献の式をするときも、歌い踊るときも、遊びをしながら生きてゆくのです。そうすれば人間は神々の御心を和らげ宥めて恩寵をうけ、敵を防ぎ、闘っては勝つことができるのですよ。(プラトン『法律』第七巻803C-D)

この箇所を、平和を実現するための闘いにおいて敵を防ぎ勝つことを目ざして、神々に捧げる奉献や歌や踊りという儀式において真摯に厳粛にこれらの儀式を遊ぶことが正しい道だ、という風に読むとすれば、この答えは、現代においては換骨奪胎されなければならないでしょう。つまり、確かに遊びは平和を実現するだろうが、それは、神々への讃美としての遊びを真摯に執り行うことによってでもなく、また、戦争に勝利することとしての平和を実現することでもないだろう、といったような答えになっていくと思います。では、遊びによって私たちは、どのような意味での平和を、どのようにして実現するのか。ここで遊び概念や平和概念をしっかり論究しないと、平和が実現してはじめて人は(子どもは)遊べるのだ、つまり遊びは平和を実現するのではなく平和を享受するのであり、そのような意味においてのみ遊びは平和と一致するのであり平和を象徴するのだ、といったような答えになってしまいます。これは確かに遊びに関する一定の見方ですが、遊びを秩序や調和の享受の面だけで見るというのは表層的な理解です。

遊びのより深く重要な理解は、秩序や調和のなかで自らを享受(enjoy)するという面と、そのような秩序や調和をも新たに創り出そうとする面とのコントラストに関わります。

そして、遊びが創造性を具体化した活動だという見解が最終的に向き合わなければならないのが、遊びを通して創造される世界は調和的な秩序、友愛と優しさと愛情の世界を実現しているのか、という問いです。守永先生はホワイトヘッドが友愛を論じていないとおっしゃっていますが、『科学と近代世界』の最終章や『観念の冒険』の最終章では友愛や愛情が論じられています。『科学と近代世界』の最終章では、「憎悪の福音」「力の福音」「画一化の福音」に対して、成功する有機体は互いに助け合うように自分たちの環境を創り直す、いかなる有機体も、激しい変化から身を守り、必要なものを獲得するために、友とともにある環境(environment of friends)を必要とする、ということが述べられて、敵対と友愛の対比が示されます。『観念の冒険』の最終章は文明社会における「平和/平安(Peace)」が論究されますが、このPeaceという概念を導入する際、ホワイトヘッドは愛情や優しさ、と言いかけて、それらの語がおそらくはあまりにもパーソナルな響きをもっているために「狭い」と切り捨てて、少しためらったのちに、「平和/平安(Peace)」と言い直しています。「世界の遊び」が「平和」を実現するとすれば、それは、対立するものを一つの原理、一つの形式、一つの生き方、一つの理想のもとに統合するような「画一化の福音」ではなく、多様性と冒険を許容し、多様な諸要素が多様なままでコントラストにおいて調和するような「調和の調和」の実現によってだろう、といったような答えになっていくだろうと思います。多様性とは何か、画一化とは何か、対立とは何か、そして調和とは何か、対立するもののコントラストにおける一致とは何か、また、いかにしてか、といった山のようにたくさんの問いが出てくると思いますが、今はまだそれらに答えるようなところまで進められていません。

遊びは、そのつどの個々の活動においては目的があるのに全体としては目的や「何のため」を持たないという活動を示す概念でもあり、活動における自由と限定性のコントラストも含意する言葉でもあるという点でも、経済を遊びという概念で捉えることに、いくつかの可能性があるように思います。

そして、こういう遊びの経済学といったような観点は、個々の遊び活動が集まって巨大な世界の遊びが成立していくという点で、多が集まって一となるというホワイトヘッドの『過程と実在』での「有機体と環境」の前後の議論から切り込むべき問題だと思いますし、また、遊びの活動を通じて、意味や価値が生成していくというイマジネーションや創造性の議論に関しては、文明社会が実現する価値としての「真的美」としての「アート」あるいは「冒険」や「平安」または「調和の調和」といった議論を展開している『観念の冒険』第4部の文明論を参照できる問題だと思います。もちろん、いずれの議論も、ホワイトヘッドの他の議論全体を念頭に置かなければならないですが、それはホワイトヘッド研究者として私自身が取り組まなければならない課題ですし、この浦井先生の問いにはじっくり答えを探すつもりです。

答えるというより、問いをますます問い進める、疑問がますます疑問を生む、といった体になってしまうと思いますが、それが哲学するということなのでしょう。

真・善・美と文明社会、あるいは人間の生といった問題圏では、参照する文献をすぐには思いつかないですが、ずいぶん前に出た『ホワイトヘッドと文明論』(プロセス研究シンポジウム、行路社、1995年)、特にそこに収録された村田晴夫の論文と山本誠作の論文は参考になると思います。また、『プロセス思想研究』(遠藤弘編著、南窓社、1999年)の両者の論文も、その続編として重要です。この2冊は、90年代の日本ホワイトヘッド・プロセス学会の中心メンバーが、学会活動を通して出版した論文集で、1つはシンポジウムで発表し討論したものをもとに論文化したもの(『ホワイトヘッドと文明論』)、もう1つは科研費をとって、学会の主要メンバーによるオールスターズで論文集を企画したもの(『プロセス思想研究』)です。今は入手が難しいですが、90年代の学会の主要メンバーによる集大成の2冊です。この後で、こういう学会の企画としては、『理想』のホワイトヘッド特集(2014年)まで飛びます。文明論で私が書いたものは、2004年の立教大学キリスト教学会『キリスト教学』第46号の「逆説としての世界の善性」という論文があって、これは自分が書いたもののなかで一番よく書けている(そして比較的短い)と思っている論文です。ネットでは全文見られませんが、どこかで見つかったら読んでみてください。必要であれば、時間のあるときに手もとに残っている分をPDFにして送ることもできると思います。
村田康常 2018/12/03(Mon) 23:08 No.163
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