2018年7月15日(土)明治学院大学におけるセミナー『文明と経営』第二回に
つきましては大変お世話になりました。村田晴夫先生のご講演(副題:その研究
の方向)を基調とし、全体討論(「哲学スル」とはどういうことか)を通じて議論
を進めさせて頂く中で、昨年来の多くの問題に整理がなされ、また新たに重要
な課題が提起されたところと思います。皆様方のご協力をもって大変意義深い
会合となりましたこと、感謝申し上げるばかりです。
今回も前回に引き続き、重要な課題の議論を一層深める場としてBBSスレッド
を立ち上げました。
【参考資料】
基調セミナー
村田晴夫 『文明と経営』--その研究の方向 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/AbstMurataHaruo.pdf
全体討論 『「哲学スル」とはどういうことか』
浦井 憲 『司会者からのメッセージ』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/UraiComment.pdf
鈴木 岳 『「哲学スル」とはどういうことか:個人的感想』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/SuzukiComment.pdf
長久領壱 コメント要旨 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/NagahisaComment.pdf
塩谷 賢 コメント要旨 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/ShiotaniComment.pdf
守永直幹 『生成と蕩尽のあいだで』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/MorinagaComment.pdf
村田康常 『経営学史研究の「哲学スル」について』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/MurataYasutoComment.pdf
て簡単な survey を、全体討論の提案者としての立場より、この先に続く問い
かけを交えつつ、以下に書かせていただきます。
私たちは、既に厳然として20世紀の企業文明、そして科学技術の成果の下で
生き、そして日々の暮らしを営んでいます。「哲学スル」=「徹底的に問う」という
ことに対して、村田康常氏が、そのレジュメにおいて「何がそのように徹底して
問うに値するか」と書かれました。そして同時に懸念もされたように、話は大変
深刻で、今日の学問世界においては、「問われるべき問題が問われずに放置
される」というのが現状であるように思われます。なぜ問われないのか。それは
今日の学問が、既に「企業文明」の中にあるから、なのかもしれません。鈴木氏
が強調されたように、自らのイデオロギーやその誤りについては見え難いという
こと、あるい塩谷氏が述べられたように、それは「身体」の問題として、定められ
た sensitivity の問題なのかもしれません。けれどもそういったことを乗り越え
て、なお学問が何かを「問う」ことができるとすれば、それこそが「成り行きでは
ない(守永氏)」学問の「主体」性、自由性、そして根拠と言えるものではないか
と思います。このような学問についての線引きは、同時に学問の限界を与え、更
にその限界の先があるということを、少なくとも学問に知らせるものとなるはず
です。緩くであろうと複数であろうと、線を引かねばならないと私の考える理由
は、学問の根拠のため、即ち学問が学問を学問的に把捉できるためです。
このような学問の位置づけの問題が、まずは皆様に問いたい事柄の第一です。
加えて「老い」と「死」の議論を発端に、三井氏が指摘された「企業とは継続を
前提として造られた装置」という問題。まさしく福井氏がこれにショックを受けて
おられ、また重大な問題と位置づけられたところです。当方は、これはある意味
「救い」の無い問題ではないかと考えます。実際、生命が「生きる」という道を選
ぶということには、善も悪も、美も醜も、おそらく吹き飛ぶこと間違いありません。
これは守永氏が、セミナー前半村田晴夫先生ご講演の最後に問われた事柄、
いわば「企業は善なのか悪なのか」、との問いへの答えとも関わって来るよう
に思います。村田晴夫先生は、「自然のおおらかさ」という表現を用いられたと
思います。ある意味「救い」の無い問題には、祈るしかありません。では祈るか、
ということになりますが、祈るだけなら宗教になってしまいます。もちろん宗教は
重要です。けれども我々は、今「学問」という立場におります。祈るとはどういう
ことか。「なぜ」祈るのか、祈るとは何なのか、「何のために」祈るのか、我々は
このことについて徹底的に「問う」必要があります。つまり、宗教とは何か(自然
とは何か)、という問題です。(西田の『場所的論理と宗教的世界観』は、まさし
くこの問題を取り扱っていると思います。)「宗教」を問う、という問題にここから
つながっていくのではないかということ。これが皆様に問いたいことの第二に
なります。
今日の学問もまた、少なくとも、その職業専門家集団という意味での組織として
眺める狭い意味においては、明らかに「頭を売り、身体を売り、魂を売ってでもそ
の組織体としての存続を選ぶ」という、ある種「救い」の無い状況にあるよう見
受けられます。けれども職業専門家集団という狭い知見に限定されず、一層巾
の広い視野をもって、学問そのものを眺めるとき、我々はそこに学問が「学問」
そのものを問う、学問の「自由」性を常に垣間見ることができるように思います。
長久氏が最後に挙げられた、経済動学における滅びゆくものの記述というのも
そのような一層広い意味での知性・合理性(あるいは学問の自由性)をもって、
始めて可能となるのではと思います。皆様に問いたいことの第三は、そのような
この先に向けた可能性です。これは21世紀文明を導く(敢えて導くと書きます
が)、21世紀の学問のあり方ならびにその役割ということでもあります。20世紀
に於ける学問の問題点、取り分け「専門性」ということ、専門化され職業化され、
労働化された(そして産業化された)学問ということの問題点とも思います。
以上、学問の「主体」性ということ、「宗教」を問うということ、「専門」性ということ
(あるいは学問の労働化・産業化ということ)、にまとめてみました。どうぞ宜しく
お願い申し上げます。
私達はそれぞれ異なる専門分野におりますが、今回改めて感ずることは、細分化され
たその専門分野の問題についてさえ、その分野における重大な未解決問題といった事
に焦点を当てるならば、極めて似通った、同型の問題に直面しているように思われる
ということです。
例えば、枠組みが経済学理論に役立つとかそういうレベルの話ではなく、経済学理論
における様々な壁そのものも、まさしく「近代に向けたオルタナティブ」という問題、
あるいは組織とは何か、あるべき経営とは何か、といった難問と瓜二つであるという
ことで、およそ今日の学問が総合して取り組むべき共通課題に我々は直面していると
いうような、そのような印象です。
各分野において「哲学スル」というのも、異なるようで実は一つのことなのかも知れ
ないと、そのような気がしています。その意味で「哲学スル」というのは、何も特別な
ことではなく、まさしく各分野において問われるべきことが自由かつ誠実に問われる
ということ、その延長上にあることのようにも思われます。
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7月15日の数理経済学会/日本ホワイトヘッド・プロセス学会の共催セミナーでは、生成とともに消滅が、成長し成熟することとともに老成し老化し衰頽していくことが、上昇とともに没落が、生とともに死が、語られたことは印象的でした。また、この生成消滅や老いの問題が、個々の人間の生涯や生物の営みとしてだけでなく、企業や文明社会について語られた点も重要だったと思います。
経営学史の特徴と意義を村田晴夫は「企業文明の学としての経営学」という観点から論じました。かなり大胆な観点だと思います。
そして、経営学の歴史を徹底して問うという経営学史研究の深い思索を「哲学スル」という言葉で表現し、経営学の歴史を徹底して問うような「学の学」としての「哲学スル」ことにおいて、具体性置き違えの誤謬が何重にも問われることとなりました。まず、経営学における個々の理論がもつ意義がテイラーまで遡ってフォレット、バーナードと続く学史研究によって吟味され、そのことを通して経営学という学問が絶えず具体性を置き違える誤謬を問いかえしながら、人間・組織・社会・自然の具体性を追求してきたことが評価されました。さらに、経営学史の徹底的な吟味を通して、経営学自体もまた絶えずこの誤謬に陥りつつあることが自覚され、そのように自己相対化された視点から、個々の理論の個別的な領域を超えて企業文明そのものの具体性置き違えを徹底して問うような「企業文明の学としての経営学」の視点がもたらされました。企業文明は「具体性を置き違えた文明」になりつつあるという批判が、ウェーバーの(ニーチェ的な末人思想を受けた)「精神のない専門人、信条のない享楽人」という語を引用しながら提示されました。こうして、経営学を学史研究という角度から徹底して問い、そのように問うことで現代文明の歴史を批判的に問い、企業文明の具体性置き違えを自覚させるような「哲学スル」という知の営みが開陳されました。
次に出てくる問いは、当然、そのように「哲学スル」ということ自体もまた、具体性を置き違える誤謬に陥りつつあるという危険性を孕んでいるのではないか、という問いです。
このセミナーに至るまでの議論を通して、特に浦井憲先生のご指摘によって、私たちは、個々の学も、学の学としての「哲学スル」という営みも、総じて「具体性を置き違える誤謬」に不可避的に陥りつつある、という自覚を共有していると思います。そして、このように自覚し自己相対化すること、鈴木岳先生の言葉によれば「自分が無自覚だった先入観(イデオロギー・偏見)を知るということ」によって、自らの理論や言説の限界や出発点・到達点が改めて見えてくるとともに、個々の理論の限界を(少しずつ)超えて、現代社会を問うような徹底した問いの視点に立ち出でるような瞬間を経験していると思います。私はその問いを、ゴーギャンの3重の問い、すなわち私たちは(私たちの文明社会は)いったい何もので、どこから来てどこに行こうとしているのか、という問いと捉えましたが、何もそのように限定することもないかもしれません。何か具体的で切実なものが、社会哲学としての「哲学スル」ことによって問われている、ということだと思います。
そして、現代文明において切実で具体的なものとして徹底的に問われるに値するのは、守永先生が示されたように、生成・成長・自己実現・上昇といった生成論のポジティヴな側面に伴っている影の部分、すなわち、老化・衰頽・消滅・過ぎ去っていくかけがえのない瞬間と、過ぎ去ろうとしない頑固な事実であり、これが社会哲学的な問いにおいては、文明社会の具体性置き違えとして指弾されることになるのだと思います。私たちは、それぞれの専門研究の領域で各自の理論の「具体性置き違えの誤謬」を自覚することによって、個々の理論的で厳密な言説の狭隘さを脱しながら「哲学スル」地平に立ち出でる瞬間を経験することが(たぶん)できます。この貴重な瞬間において、徹底して問うに値するのは、今回の共催セミナーで示されたように、文明の5つの徳である真・美・冒険・芸術・平安に対する虚偽・醜・停滞・気晴らし・戦争によって特徴づけられるような現代文明の現実(守永直幹先生)であり、文明化の頂点で現れる精神のない専門人の機械論的な組織と、信条のない享楽人の末人的で大衆的な気晴らし的な活動の流行であり(村田晴夫)、そして、そのように彼方に(あるいはすぐ足もとに)死を露呈させるような生成消滅のネガティブな側面の開示と自己相対化を通じて(たぶん)開けていくような、自然的・宗教的な深み(浦井憲先生)である、ということ、それが示されたのが、今回のセミナーの達成点であるように思います。
言い換えると、老いや崩壊や消え去っていく出来事と、そのような栄枯盛衰にもかかわらず三井泉先生が示されたようにしたたかに自己を継承させ存続発展させていく活動とを、システム論的・プロセス論的に論じることが、今の時代の主題なのかもしれません。組織の主体性を、その生成・成長と老化・衰頽の両面から問うということでしょう。
しかし、何にせよ、自分のやっていることが具体性を置き違えていたのだと自覚するのは、情けなくて恥ずかしくて、そんなことはないと反論したくなるか、そんなこと分かっとるわいと逆ギレしたくなるような嫌な事態ですね。それを自他に向かってやり過ぎたためにソクラテスは論敵を増やして裁判にかけられ死刑宣告まで行ってしまったのかもしれません。ソクラテスに淵源する「哲学スル」を現代に継承するということは、なかなかたいへんなことなのかもしれません。
村田康常
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村田康常様、皆様
共催セミナーのメーリングリストに加えていただき有り難うございました。今後ともどうか宜しくお願いします。前回のセミナーで、三井泉先生からM.P.Folletの思想を主題とする御著書を頂き、この勝れた「管理の予言者」のテキストに触れる機縁を頂いたことをあらためて感謝申し上げます。
M.P.Folletを読んだ私の印象は、一言で言えば「ホワイトヘッドの「統合体の哲学philosophy of organism」の精神ー創造的経験と統合的プロセスーを社会的実践の場面で活き活きと分かりやすく展開している」というものでした。
統合作用integrationは、差別distinctionや隔離segregation の壁を乗り越えて、異質な他者との創造的共生(creative coexistence) を志向します。多様性を消し去るような静的な「統一」ではなく、動的な統合作用による創造的革新が、多様な世界をさらに豊穣化するということが、FolletとWhitehead に共通する主題であると言えましょう。
晩年のホワイトヘッドは「我々は消滅しながら不滅なのだから、as we perish we are immortal 我々が現にあるところのものが限りなく重要である」こと「存在ー生成ー消滅」の三位一体を理解することが「過程と実在」の要の思想であると語っています。(Science and Philosophy p.125, Philosophical Library, 1948, 邦訳著作集十四巻138頁)
ホワイトヘッドの最後の講演を聴いた鶴見俊輔は「耄碌も創造性の内にある」と云って亡くなりましたが、これは私の好きな言葉です。
田中 裕
浦井先生が「全体討論司会の立場から今回のまとめ」というご投稿の終わり近く、下から2段落目で書かれていた、学問の専門性あるいは専門領域への分化・細分化が問題となるような時代状況を問題とされたコメントを拝読し、共催セミナーで話題になったマックス・ウェーバーの「精神のない専門人、心情のない享楽人」(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年、366ページ)が思い浮かびました。そこで、少し長くなりますが、考えたところを述べさせていただきたいと思います。
ウェーバーの「精神のない専門人、心情のない享楽人」が大衆のあいだに広く生まれてきてしまったことこそ、企業文明が具体性を置き違えた文明であることを示している、と言うのが、村田晴夫の主張だったと記憶しています。この告発は、浦井先生が学問の専門性とその具体性置き違えの誤謬について問われていることと重なってくると思います。浦井先生は学問論・科学論あるいは科学哲学の問いとして、一方、村田晴夫は文明論あるいは経営哲学の問題として、同じ方向で問いかけていると思います。
ウェーバーのこの言葉は、20世紀初頭、産業化を推し進めるアメリカ型の近代社会が宗教的・倫理的意味を失った営利活動の熾烈な競争のなかで「精神のない専門人、心情のない享楽人」 を産み出すだろうと述べている箇所です。同所でウェーバーは「精神のない専門人、心情のない享楽人」をニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で語られる「末人」に比しています(「末人(der letzte Mensch:おしまいの人間、最後の人間)」については、ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』第一部「ツァラトウストラの序説」の第5節を参照)。ここに、具体性を置き違えた企業文明の病理があり、その問題は現代まで継承されてグローバル化(アメリカ化)の波によってますます深刻化しているという村田晴夫の告発と、そこで学問には何ができるのかと問いかけて、学問もまた諸学の専門分化の流れの中で、この具体性を置き違える誤謬に不可避的にはまっていっているのではないか、と問われる浦井先生の問いは、同じ問題圏を共有していると感じます。浦井先生はさらに、専門化が進む中で学問自身がこの誤謬を自覚し、この誤謬の中を進んでいくしかない、むしろ、そこに希望を見いだすよう努力するべきだという態度を示されています。悲観論に陥ることのないこの積極性も村田晴夫と同質と感じます。
それぞれの専門性の中でタコツボ化していくことで具体性を置き違える誤謬にますます深くはまっていきながら、他方で、絶えずそのことを反省し改善を試みることで各自の専門分野の狭隘さを少しずつ超えるような視座に立って自己相対化しつつ文明社会を問うこと、そこに、それぞれの専門領域で学問をすることの希望があるということ、お2人の言葉を聞いているとそのように思われてきます。そうやってこの誤謬の中を歩みながら、この誤謬に自覚的になることで、それぞれの専門領域の内側ばかり見ていた目が少し外に向けられて、自分たちは何ものでどこから来てどこに行こうとしているのかをそれぞれの専門領域から問いかけていくような視界が開けていく。そこに希望が見えてくるのではないか、そして、浦井先生が育てて下さっているこの学際的な研究会は、そういう「脱専門性の対話」の機会の一つとなっていくのではないか、と感じます。
ホワイトヘッドも『科学と近代世界』の最終章「社会進歩の要件」の中で、「専門化」が現代文明社会の大きな問題の一つだということを指摘しています(SMW 196-198, 204-205. 松籟社著作集第6巻262-264, 273-274)。
その箇所は、「現代が当面しているいまひとつの大きな事実は、専門家養成の方法が発見されたことである」(SMW 196. 邦訳262)という言葉ではじまります。学問の専門化を要請するのは技術革新によって急激に「進歩」する近代の産業化社会であり、「ここでの実際に役立つ知識とは、専門的知識であり、この知識に従属する有益な題目だけに通暁していることによって支えられている」(SMW 197. 邦訳263)という、専門化の弊害が語られます。専門化の進展によって、学問から広い視野が失われていくという弊害です。そして、「このような状態は危険を蔵している。それは軌道にはまった精神を産み出す。……ところで精神的に軌道にはまっているとは、与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮らすことである」(SMW 197. 邦訳263)と続けられて、専門化にともなう具体性を置き違える誤謬の深刻化が示唆されて、ウェーバーにも共通するような専門人の精神的危機が指摘されます。さらに、次のような告発によって、専門化を問題視するホワイトヘッドの議論は頂点を迎えます。「社会の諸機能は分化したかたちでますます立派に行われ、ますます進歩するが、全体として進むべき方向ははっきりした目標をもたない。細部に偏した進歩は、結び整える仕事の低調なために生じる危険を増大するだけである。」(SMW 197. 邦訳263)
ここで「結び整える仕事」と訳されているのは、coordinationという語です(2つ目の"o"は"oウムラウト")。のちにホワイトヘッドの著作からこの言葉を拾い上げたバーナードが、彼の経営学の中心となる語として彫琢していく語です。経営学では「協働」と訳すのが一般的です。専門化が進み、「細部に偏した進歩」によって具体性を置き違える文明の病理が深刻化していくときに、必要とされるのは、各分野をコーディネートして諸活動を統合する働きだということです。人間のさまざまな専門的活動を一つにコーディネートする働きを、のちにバーナードは「経営」(management)の中心的な働きとしました。専門化が進み、その具体性を置き違える誤謬の深刻化が懸念される現代文明において、「文明の学としての経営哲学」という大胆な構想を村田晴夫が掲げるのは、専門化され細分化されタコツボ化された諸領域を統合するコーディネートの働きをバーナードが経営の中心的な働きだとしたからでしょう。(……問題は、バーナード以来、経営学においては、このコーディネートには「目的」あるいは上でホワイトヘッドが言っていた「全体として進むべき方向」「はっきりした目標」の設定が必要とされるということです。しかし、文明社会の目的を専門化された現代知識人の狭い視野から安易に1つの方向に設定して諸活動を統合するような智恵のないコーディネートの仕方しか現代人にできないのではないかというおそれがあります。それは、全体主義の恐怖、機械論的な組織の恐怖の再来を感じさせます……)
このくだりの少し先のところで、ホワイトヘッドは、「現代では、専門化ということが進歩と密接に結びついているのである。世界は今や、世界が止めることのできない、独りでに発展する、ひとつのシステムと対峙している」(SMW 205. 邦訳274)という言葉で、科学研究の進展が技術革新と結びつくかぎり、学問がさらに専門化され細分化されていく流れを止めることはできないと指摘します。専門的知識はますます増大し、細分化され、精緻化されますが、しかし、「智恵(wisdom)」は深まらない、とホワイトヘッドは言います(SMW 198. 邦訳264)。サラッと出てくるこの「智恵」という語が、どのような意味なのかは詳述されていません。それは、ばらばらに分化しタコツボ化していく学問の専門領域と、そのために見えなくなっている全体の方向性について、20世紀前半に人類が経験したような全体主義的な統合、あるいは機械論的なシステム化、という解決の道を採るのではなく、専門領域の狭い精緻な知識を超えた、なにか曖昧で形而上学的で一般的・全体的な知のあり方を含意しているのではないかと思います。初期の教育哲学でホワイトヘッドは、智恵(wisdom)を「知識より漠然としてはいるがより偉大なもので、その重要性においてはより優勢な要素」(AE 30. 松籟社著作集第9巻46)と呼んで、古代ギリシアにおいて希求された知(Σοφια)を読者に想起させるような書き方をしています。現代の専門化の進行が学問と文明における具体性を置き違える誤謬を促進させているとすれば、必要なのは、各専門領域に分化して増大する知識ではなく、より漠然としているが、生きるアート(art of life)を導くような「智恵」だといえるでしょう。そして、哲学スルとは、そのような知恵(wisdom:Σοφια)を希求することだと思われます。
近代の学問における「専門」性という点についての詳細なコメントを頂戴致しまして
まことに有難うございます。ご教示頂いた内容が、かなりの事柄を尽くして下さって
おりまして、もうほとんど何も付け加えるべきものが無いのですが、一点その極めて
重要な問いかけに向けて、少しばかりここに追記させて頂きたく存じます。
専門性の抱える問題については、まさに引用して頂いたホワイトヘッドの表現
「このような状態は危険を蔵している。それは軌道にはまった精神を産み出す。……ところで精神的に軌道にはまっているとは、与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮らすことである」(SMW 197. 邦訳263)
に尽くされているように思われます。この「与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮
らす」という指摘こそ、まさしくそれ自体『永遠に「眺めて暮らす」に値する』、重要な
指摘であると思います。
今日のあらゆる理論家はそれこそ胸を張ってこの作業に勤しんでいます。この作業に
勤しみ埋没しない限り、いわゆるアカデミックポストは無いと言っても過言ではなく、そ
してそこに「具体性を置き違える誤謬」の深刻化の要因を見るというのであれば、およ
そ今日の「専門化」された学問における「結び整える仕事の低調なために生じる危険」
(SMW 197. 邦訳263)の増大は、自明かつ避けがたいものであるとしか言いようが
ありません。
ここでその「結び整える仕事」である co\"{o}rdination (2つめの o はウムラウト) と
は何か。真実の知、知恵(wisdom:Σοφια) ということと合わせて、このことは極
めて深く、問い直され続けねばならないことであると思います。これが安易に誤って
捉えられると、いっそ専門バカしかいない大学を経営の専門家に任せてはどうか、と
いうような話になりそうで、事実昨今はそうなりかけており、恐るべき話です(大学人
だから言うのではなく、「専門化」の弊害末期的症状として申し上げています)。
真実の知、知恵(wisdom:Σοφια) とは何か、というのが難しいのと同様に、真実
の「経営」とは何か、coordination とは何か、このことも永遠に問い直され続けねば
ならないことであるはずですが、そのことを怠り、それこそ安易に「専門家に投げる」と
いうことで、「結び整える仕事」さえもが、「専門」化されるとき、まさに村田康常先生の
危惧される問題「専門化された現代知識人の狭い視野から安易に1つの方向に設定
して諸活動を統合するような智恵のないコーディネートの仕方 ... 全体主義の恐怖、
機械論的な組織の恐怖の再来」が生じてくるように思われます。
そして、そう考えると、我々はこの coordination の困難さという問題から、逆に一筋の
光明を得ているようにも思われます。
つまり、「専門化」の弊害に立ち向かえるのは、専門家ではない、という示唆です。専門
家ではないというのは、素人という意味ではなく(それこそ恐怖です)、何でも良いと
いうことでもなく(それでは単なる「成り行き」になってしまいます)、それは万人が認
めるということ、万人における普遍性ということでなければならないと思います。まさに
村田康常先生も言われた「全体主義的ではなく、全体的、一般的」な知の根源、そこに
依るところのもの、ということでなければならないと思います。
村田康常先生は「生きるアート(art of life)を導くような「知恵」」という言葉を用いられ
ました。アートというのは表現として、オブジェクトとして、様々ではありますが、そこにも
「表現」という「はたらき」としての、つまりは「技芸」としての、「型」があると思います。
もちろんここでいう型というものは、その art における「自由」性と結びついておらねば
なりません。そうした「型」にはまりながらもそれに縛られないところを許容していく、そ
のような大らかさが、およそ「型」そのものの中に、その「自由」性として根源的に組み
込まれておらねばなりません。これが技芸の技芸たる所以であり、必然的に伴われる、そ
のようなものです。
学問もまた、そのような「技芸 art」としての「型」があると思います。それは「最も広い意味
での」論理とか、ホワイトヘッドであれば coherency とか呼んだものを含んでいると思い
ます。ここで、昨年5月の第一回文明と経営セミナーにおいて塩谷氏の言われた
「具体性」を間違えるのではなく、「具体性の置き場所」を間違える
のだという問題提起が思い起こされます。今回の結論と絡めれば「間違えざるを得ない」
のは具体性というよりも、具体性の「置き場所」であり、それが misplaced ということで
はないか、ということです。今回私は何度も「問う」ことの根源性ということについて言及
して参りましたが、
具体性を置くこと = 問うこと
と考えてみたいと思います。「問い」や「答え」は、それぞれ subject として、また object と
して、具体的なものとはなり得ないわけで、従ってその意味では我々は「置き違え」は必然
と諦めねばならない(通常論理の objects と subjects に依存する限り)「間違えざるを得
ない」わけですが、それでも、具体性を諦める必要は無い。それは「問う」こと、また「応える」
こと、そのような「型」の中、幾分誤解を恐れず言えばそのような「呼応」の中に、あるのか
もしれないということです。そのようなものを、学問の「主体」性、「自由」性として把握する
ことが、先の coordination の困難さという問題への一筋の光明であるように思います。
『永遠に「眺めて暮らす」に値する』具体性を諦める必要は無い、否、そこのところこそ、明
確にせねばならない(曖昧ではいけない)のではないか、ということです。そうでなければ、
「具体性の置き違え」という問題に立ち向かって行くことが、そもそも無意味(成り行くこと
=成り行き)になってしまうのではないでしょうか。
自身としては、今回「問う」ことの根源性ということに拘りましたが、おかげさまをもって、少
し見通しが出てきたような気が致しております。引き続き考えていきたいです。
今回事後のやりとりをしておりまして、鈴木先生が今年度「政治哲学」を開講され、それが
大変盛況であったと伺いました。各分野においても、専門を踏まえ、その学問を俯瞰しつつ、
更にその専門を超える形でその問いを深めていく姿勢こそ、まさに今必要とされていること
なのではないかと思われます。私などはそうは言いつつも、ついつい自身の専門に逃げて
しまうところがあり、しかしそれは上で述べたような姿勢と矛盾しており、いけないことだと、
見習わねばと反省致しております。
ご無沙汰しております。はっと気づけばもう秋で、じきに学校も始まります。
なのに10月の学会発表の準備が手につかず、焦燥の日々を送っております。
7月の白金の研究会当日、炎天下に駅から明学まで歩いて汗が止まらなくなり、
どうやらそれが熱中症の引き金を引いたらしく、体調を崩し、夏風邪を引いて
しまいました。
自分は九州男児だ、夏男だ、夏に風邪を引くようなやつは軟弱者だと信じてきた
のですが、その自信は木っ端微塵に打ち砕かれ、高熱で臥せる羽目に。
夏の風邪は冬の風邪以上に辛く、なかなか熱が下がらない。そもそも37℃の熱が
あるのは自分の体なのか、外の空気なのか。いや内も外も37℃を超えていたように
思います。結局、体調が戻るまで2週間ほど要し、そんなことが2度もあり、茫漠と
した日々を送って、ふと気づけば9月です。
朦朧とした頭で、だらだらミシェル・セールを読んでいたのです。
『パラジット――寄食者の論理』(法政大学出版局、及川馥/米山親能訳、1987年)
Michel Serres, Le Parasite, Pluriel, 2014(1980).
セールの書きぶり自体がもや〜っとしているので、もやついた夏の頭にはちょうど
良いように思ったのですが、ますます意識が遠のいただけだったように思えます。
話がやたら飛ぶし、私ごとき浅学の徒には付いて行くのがなかなか難しい。5百
ページにも満たない本なのに、やけに時間がかかり、もやもやっと読み終えました。
以下、このところずっと研究会等で問われてきた主体性の問題を、この著作を繙き
ながら取り上げ直してみたいと思います。添付するファイルは3つに分かれます。
(1)ミッシェル・セールにおける第3項排除の問題
(2)協働体としての主体
(3)寄生から共生へ
(1)はいわば総論で、思いがけず長くなりました。授業でも使おうかと思います。
(2)は村田先生へのご質問を発展させたもの、(3)は三井先生からのご質問に
私なりに応えたもので、比較的短い。後期の開講を控え、皆さまお忙しいでしょう
から、余裕のあるときに目を通して頂ければ幸いです。
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ここしばらく、当該BBSへのスパム投稿が続きまして、自動配信させて頂いている先生方には、大変ご迷惑
をおかけしております。申し訳ございません。現在は投稿禁止ワードを増やすなどして迷惑投稿の排除に
努めておりますが、あまりに続くようでしたら、抜本的な対策も考えておりますので、今しばらく様子を
見させて頂きたく、どうかよろしくお願い申し上げます。
守永先生からのご投稿には、まだざっと拝見したばかりながらも、7月の議論を更に発展させるところと
して、またその問題意識をしっかりと引き継いで継続するところとして、非常に貴重な問いを頂戴したと
思います。一方では経営学に向けて、あるいはより一層大きな視野からは、今日までの「企業文明」を越
えていくための、全ての主体に向けた問いかけとして、守永さんの言われる
「美も醜も、善も悪も、真も偽も切り離すことなく包摂せんとする営み」
として位置付けられた「愛」を、どのように我々は見出し得るか。Wisdom は、そのことに向けて答えね
ばならないと思います。そして学問は、そのことに向けてあらねばならないと思います。
先日の投稿で「ハーフなんて存在するのか?」という問いを立てて
みましたが、その直後この件を見事に解決する言葉をツイッターで
読みました。以下ご紹介しておきます。テレビなどでよく見かける、
イラン出身のサヘル・ローズさんのツイートです。
>>>>>
私は純外国人ですが、昔、ふたつの国籍をもっている友人に教わった
大切なこと。ぜひ、皆様にも。
『ハーフ』ではなく『ダブル』と。
彼等は半分ではない、2つのアイデンティティーがある。だから、
半分じゃない。
9:24 - 2018年9月22日
>>>>>
私たち日本人は島国という環境に縛られ、つい限界のある一定の場所
や集団を脳裏に思い描き、これを観念的に2分割し、甚だ無神経にも
「ハーフ」などという言葉を用います。
しかるに、そんな限定を外して考えれば、2つの故土、2つの国籍、
2つの民族、2つの性を持つ者は「ダブル」なのです。
違うものを分割し、排除するのではなく、分割された2つながらに
肯定する。これはベルクソンの多様体創成の理論であるとともに、
ご紹介したM・セールの第3項の包摂の理論だとも言えます。
ハーフではなく、ダブル。
イランから来て日本語を学んだ女性に、大切なことを教わりました。
「貨幣」についての思想と対談: ビットコインの思想、公共財とコア、信用の生成を巡って
8月3日方法論研究会セミナー(大阪大学)のまとめ
今回セミナーでは、その前半、仮想通貨におけるブロックチェーン技術(分散型台帳システム)
の非集権性が経済学においてどのような意味を持つかということ、そして後半では公共財を
含むコアという問題が、国家の信用の生成という問題との関わりを持って議論されました。
いずれも非常に重要な問題であり、今回の議論はその導入を与えたものに過ぎません。また
「貨幣」の問題は方法論研究会における過去数年の最重要テーマでもあり、この三月にも、
村田康常氏と神谷和也氏のお話を総合する形で「貨幣・価値と事実の関係性」として扱った
ところでもあります。
当初「公共財を含む一般均衡理論」という経済学理論寄りの話に終始するつもりだった今回
のセミナーですが、小川さんがビットコインのお話を、その非集権性という問題に絞って思想
的方向に持ってきて下さったおかげで、方法論研究会のメインテーマに大きく引き戻すことが
できました。これらの問題は、ネット上コミュニティーにおける金融決済というシステム、あるい
は貨幣の発行主体である国家についての「信用」の「生成」という問題が鍵となって、文明と
経営の議論とも深くつながるように思います。そこで、今回の議論についても、ここにまとめの
スレッドを作成します。
【参考資料】
小川 健 『サーベイ論文:非技術/情報系の経済系に仮想通貨・
ビットコイン・ブロックチェーンをいかに教えるか』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/OgawaDoc.pdf
小川 健 仮想通貨技術の持つ「非中央集権性」の経済学における意味 報告スライド http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/OgawaSlide.pdf
浦井 憲・村上裕美 『貨幣についての思想と対談』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/20180803UraiMurakami.pdf
的枠組みであると言って過言ではないでしょうが、ビットコインにおけるブロックチェーン技術
(分散型台帳)という話は、そういう「非集権性」を「支持」する「ため」の枠組みというより
一層直接的かつ根源的な内容を持つように思われます。
当該技術は、仮想通貨の信用の保全に不可欠である「正確な台帳の構築」とその「検証」
について、それを「誰か」ではなく、ネット上で万人に公開された情報処理プロセスとして、
実現してしまおうというものです。そのような不特定多数による台帳の検証作業そのもの
がビットコインのマイニング(採掘)作業であり、いわばシステムの運用と管理作業の価値
をそのまま仮想通貨単体の価値として結実させている仕組み(あくまで労働価値説的に
言えばであり、それが他の資産に比してどのような価値を持つかということとは何の関係
もありませんが)とも言えます。
すると、なぜそのような台帳が一般的に公開されながら改竄不可能と言えるのか(PoW
の仕組み)、問題点は無いのか(51%ルール、分岐問題)等、技術的に興味深い面をとり
あえず横に置くとしても、この技術の投げかけている意味が幾分特別なものであることが
分かります。つまり、
1. 「貨幣」あるいは「信用」の「価値」ということが、その「システム自体の保全」という
プロセスにリンクされていること。
すなわち、「貨幣」「信用」「価値」といった対象物が、「取引の成立」「検証」といった作業
プロセスに還元されているということ。しかもそのプロセスは、そのシステムそのものの
保全として、再帰的に(自身に根拠があるもの自由として)作用しているということ。更に
踏み込むと、
2. 「信用」が、「万人に開かれた検証」として把握されていること。
すなわち、ネットというコミュニティーにおける決済の承認、「信用」が、そのコミュニティー
全体に開かれた検証作業として、公開されている。ここでも再帰的な(自身に根拠のある
自由としての)仕組みが利用されているということです。
◆
セミナーにはご出席頂けなかった塩谷先生から一点コメントを頂戴していました。それは、
地域通貨などを考えるに当たって、交換が不在であるということを「待つ」という積極的な
要素として(地域の有機的統合に向けた集約機能として)捉える、との観点、それをネット
上の異なるコミュニティーとそこでの取引、という形で当該問題(仮想通貨)にも向けられ
るのではないか、ということでした。
大変貴重な観点で、貨幣について停滞している種々の議論に必要不可欠な視座であると
思います。
コミュニティーの有機的統合とは、経済学系の理論で言えば非協力ゲーム(ナッシュ)から協力
ゲーム(コア)への連絡、個人から企業あるいは組織形成に向けた統合的視座、すなわち
組織の「生成」の問題に連携させて貨幣の問題を捉える、ということかと思います。(経済学理論で
は、かつてそのような視点から貨幣が捉えられたことはありません。それは当然で、スタン
ダードな経済学理論にとって組織の「生成(および消滅)」の問題は、最大のネック(もうこ
こ数十年、放置されてきた一般均衡理論の壁)です。このようにコミュニティー(その信用)
の統合と生成問題と考えれば、今回のテーマであるビットコインの思想と公共財とコアの
問題は密接につながります。それらをつなぐのは「生成」という観点です。
「貨幣」については、その Medium of Exchange と Standard of Value という、大きく
分けて二つの側面があり、経済学理論では後者をアタリマエのこととして、後者について
のみ語るのが、スタンダードです。ケインズはかつてこの後者がアタリマエではないという
ことを指摘して、マクロ経済学を打ち立てた偉大な功績がありますが、それでも、「それで
は Standard of Value の価値はなぜ、どのように、決まるのか」という問題に関しては、
「本質的な不確実性」(美人投票の例に代表される)として、それ以上に踏み込むことは
しなかったと言えます。もちろんケインズにとって(General Theory としてのマクロ経済
学を打ち立てるという目標に対して)は、それはそれで良かったのですが、それでも問い
がそこで終わるわけではありません。そして更にもう一歩問いを進めると、政策への含意
といったことにおいて、場合によっては単純なケインズ的施策と逆の主張が導かれること
にもなりかねません。
これは、2013年頃、当研究会の初期の頃にさかんに議論していた「超越論的」貨幣を
考えるという問題、あるいは「交換と信用(贈与)の分離」という問題でもあるかと思います。これら
を分離して述べてきたことが、実は「成り行く」ものとしての「信用」と「貨幣」の統合的な
把握を困難にしてきたところであり、そこにいかに光を当てるかということが重要な問題だと
考えております。一つには、その「生成」に光を当てることが鍵であると思います。塩谷先生が「待つ」
という「積極的な」ファクターに見出しておられるところも、そこなのではないかと当方は捉
えております。
◆
今回のテーマでは、その後半に取り扱おうとしたことが、貨幣の「生成」ということに
当たります。国家による「貨幣」あるいは「信用」の生成について、「国家が公共財を
提供し、その便益を普く国家全体に行き渡らせる目的から、例えば福祉、ベーシック
インカムの供給、といった形で貨幣を供給する」というように捉えたいという、その
ような話です。
今回は時間の限界から、公共財とコアの話の基本モデルへの導入でほぼ時間を費やして
しまったのですが、引き続きこのテーマは取り扱って行きたいと考えています。
従来の経済学理論における公共財の取扱いは、公共財を供給するにはコストが必要で、
それをどのように経済の構成員から徴収するかということに終始しています。そうではな
く、その公共財は、それがどのような意味で必要なのか、ひいては国家は提携として必要
なのか、そのような一段階上の枠組みから、国家と公共財と、そして国家による購買力の
供給、即ち貨幣の発行を捉えようというのが、最終的な目標です。
塩谷先生的なタームで言えば(間違っていたら申し訳無いですが)、国家というコミュニ
ティー(コアリション=提携)の統合形成において、そこで始めて可能になる「公共財」の
供給ならびにその下で始めて可能になる好ましい資源配分状態について、それを「待つ」
という積極的ファクターとして捉えつつ、政府の発行する「信用」すなわち法定不換紙幣
の生成(財政収支均衡の呪縛からの開放)を捉える、ということになるのではないかと思います。
◆
このように信用の「生成」ということを捉えるならば、上述したビットコインの思想の背後
に、おそらく塩谷先生が指摘されたように、ネットというコミュニティーの統合形成、という
ようなことが要素として加わらなければならないようにも思われます。即ち、仮想空間に
おける何らかの価値の問題が、ネットというコミュニティーにおける「信用の移転」という
まずは「関係性」の問題に変換され、更にその関係性をネットというコミュニティーが、そ
の参加者万人に開かれた検証という手段で承認する。いわばコミュニティーの信用を、
その統合された全体コミュニティーが支える、「自己創造(オートポイエシス)的」な側面
が、そのシステムの核を成しているということかと思います。(統合されたコミュニティー
の主体性の問題と言うべきかもしれません。)
◆
そしてそのような視点からすると、ビットコインの思想の問題も、更に「コミュニティー」の
営みという問題として、広く、「文明と経営」の問題とも絡んでくると思われます。
ブロックチェーン技術の核心、上記の 1 および 2、取り分け 2 は、統合コミュニティーでの
「信用」が、そのコミュニティーにおける「普遍性」とともにあること、つまり、信用の手段で
あるシステムの検証が、一層の信用の構築に再帰するとともに、「万人に開かれた」検証
ということが、いわば「全体主義的でない普遍性」を実現している、ということです。
そうすると、ブロックチェーンの思想を塩谷先生のターム的にコミュニティーの統合生成として
解釈し、更にその核心を一般化して、文明と経営あるいは今日の学問のあり方、といった
問題に適用してみると、また面白いことになりそうです。
分析哲学の一つの限界は、ダメットやパトナムにおける「真理とは検証のプロセスなのだ」
という(おそらくは正しい)命題が、ではその検証とはどのようなものなのかという(具体性
を「置き違え」ざるを得ない)命題によって、覆い隠されてしまうところにあったのではない
かという気が、そこはかとなくしています。ビットコインと分散型台帳の思想が示唆するの
は、真理というようなコトバ(主語・目的語)を、そのコミュニティーそれ自体の成立(信用
の生成)ということとともに、そこでの「関係性」の問題(例えば共感、よりシンプルには
相槌を打つこと、のような)として考えるべきなのではないかということ。そしてまたその共感が
「万人に開かれた」、「普遍性」とともにあるべきということになってくるように思います。
学問という知のコミュニティー全体が、専門性という形で分断されている現状に対して、そ
の「置き違え」られた「主語」「目的語」に捉われることなく、全体を形成するところの「普遍
的共感(信用)」というプロセス(述語)に向けた、coordination ということこそ、必要な
ことなのであるという、そのような示唆が得られるように思います。
物理学者はこう言い、数学者はこう言っている。経済学者はこう言い、文学者はこう言う。そ
れだけでは Knowledge ではあっても、Wisdom にはならない。Wisdom であるためには、
「普遍的共感」がなければならない。(では普遍的共感とは何か。これについては上の示唆
では当然不十分であり、また別に機会を設けて、慎重にじっくり考えるべき事柄でしょうが。)
◆
もう一点、「信用」ということばを「共感」と重ねて(貨幣と信用という話を、学問と真理に重
ねたことを通じて)上で用いたのですが、そのことも踏まえて、「信用」という言葉を用いた
中で、少し考えてしまったところがあり、付け加えさせて頂きます。
信用というのは、もし疑ったことすら一度も無い、というのなら、単なる受け身であり消極性
ですが、信用というのは不信を放棄する(裏切りがあることを知りつつ、自己を投げ出して
それを受け入れる)という「積極性」とも考えることもできるように思います。
真理あるいは価値をどのようなコトバ(対象・名詞、貨幣、資本---それは「取り違え」を免れ
ない)に向けて置いてしまうのか(投資するのか)ということは、個が生きる上での個性、即
ち個別の主体性の問題であると思います。そのような主体性の下での信用(共感)は、上述
した「普遍的共感」とは区別されねばならないと思います。しかしながら、「普遍的共感」と
いうものを、手の届かないものとして、上では捉えてはおりません。
◆
このように、今回のビットコインのテーマは、文明と経営セミナーの方で問題としていること
に向けても、また当然ながら貨幣の(価値基準の生成)問題に向けても、全体をつなぐ非常
に良いテーマになったと思われ、小川さんに感謝申し上げます。
引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ライプニッツとインドラの網――井本発表に寄せて
先日の井本先生のご発表は示唆に富むものでした。聴きっ放しにするには惜しい。そこで私の観点から重要な問題と思われるもの、とりわけネットワークとメッシュワークの違いについて、若干ここで考えをまとめておこうと思います。
例によってエッセイ風に、あるいはブログ風にぐだぐだ考えを書き連ねて行きますので、御用とお急ぎでない方はダウンロードしてみてください。
[添付]: 256598 bytes
2021年3月31日(水)数理経済学会方法論分科会・春季ジョイントセミナーのまとめスレッドです。
・守永直幹 氏(宇都宮大学) 『社会契約から自然契約へ--ジャン=ジャック・ルソー問題をめぐって』
・三井 泉 氏(日本大学) 『経営学(マネジメント理論)の方法論: 経営現象のリアルと経営学のリアリティー』
について、また当日の全体討論
『Realism for Methodologies of Social Sciences 社会諸科学の方法としてのリアリズム』
の内容も含めて、ここでそのまとめと、引き続いての議論、ならびに資料の補足を行います。
長久先生のコメントに便乗(?)乗せて頂く形で大変恐縮ながら、当方のまとめを、以下
に挙げさせて頂きます。
● 守永先生のご報告に向けて、ともかく、ルソーの一般意思の位置付けが、お陰様を持ち
まして、自分としては初めてしっくり来るお話でした。後からも述べるところですが、
これはつまり、真如というべき位置付けですね。
● 三井先生のご報告に向けて、学問の方法という問題に関連させて、クワインの「二つの
ドグマ」および徹底したプラグマティズムの意義を、自身改めて見直すことができたお話
でした。経営学と同様に、経済学でも昨今は「本流」が、「主流」から、すっかり離れた
ところを流れているような印象がありますが、村田晴夫先生も言っておられましたように、
やはり「本流」というのは、結局のところ本当に良いものでありますので、何と言っても
最後は残るというか、それこそ(上の)真如にかかわる形で、何かを見せてくれている、
そういうものであると思われます。経営学のリアリティ(appearance ではないもの)
は、およそその「本流」が捉えているものの中に、ひっそりとしっかりと隠れていると、
故に「本流」であると、そのように当方には感じられます。経済学のリアリティ(と
当方が考えるところ)は、「その意味での」経営学のリアリティと、かなり近いような
気がします。そのようなことを考えさせて頂いております。
当方と致しましては、いずれも極めて有益な知見となりました。心より御礼申し上げます。
2021.5.13.
長久領壱氏(関西大学)から守永氏および三井氏に向けられたコメント(4月20日):
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/21/NagahisaComment.pdf
守永氏からの応答(4月21日):
xxx (ご本人からの承諾後リンクを貼ります)
三井氏からも同日、メールでの応答があった。
以下は浦井からの4月21日のメール応答である(掲載に当たり一部の抜粋。)
当方先のジョイントセミナー後のまとめをするべき立場なのですが、まだできておらず、
申し訳ありません。守永先生には(先にご連絡も頂き、添付もして頂いたところですが)
先日の発表後に再度原稿の訂正を頂戴致しまして、以下にもアップロードしております。
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html
… 中略 …
長久先生のコメントを受けて、2点ほど、述べさせて頂きます:
1. 長久先生からの、ロールズを基調とした、先日の守永先生的解釈のルソー論に向け
てのコメント、とても興味深く拝見しました。社会選択論、第一人者からのコメントと
して、大変貴重なものと考えます。ありがとうございます。
当方は(長久先生のコメントの方向性から少し外れるようではありますが)、守永さん
の報告においては、むしろルソーの「一般意思」をどう捉えるか、の部分で、これ以上
の明解な捉え方は無い…と思えるところに、大変感銘を受けました。
つまるところ、守永流のルソーの一般意思の捉え方は、例えば仏教的に言えば阿耨多羅
三藐三菩心のようなもので、捉えられるようで捉えることのできない、それでいて皆が
それを目指す、唯一の希望のようなものという、そのような位置付けのところに持って
行こうという(塩谷さんは、それは「空っぽ」と言われ、また田中先生はそれを「0」
と呼ばれるところ)、そのような把握として、大変得心の行くものでありました。
個人的には、学部学生の頃から、ルソーには(取り分け「一般意思」には)辛い思いを
してきたような気持ちのあるところなので、この解釈には本当に救われたような気持ち
です。
2. 三井先生の問題提起に関連して長久先生のコメントにありました「数学」と「経験」
について、あるいは「分析」性についてですが、これは当方にとりましても非常に重要
なテーマで、もう分析とか経験という言葉自体を何とかしないと議論にならないように
も思う(クワインの2つのドグマも分析性ということの定義の困難さについて長い部分
を費やしていると思います)のですが、良い機会なので、付け加えさせて下さい。
少なくとも素朴な自然数論(小学校2年生くらいまでの算術、足し算と引き算、整数の
掛け算、加法の単位元0、乗法の単位元1、程度の算術)と、あとは論理式を定義する
のに必要な、いわゆる「再帰的定義」のあり方、そのあたり、つまりは「有限の立場」
と呼ばれるところのものですが、それが数学者--少なくとも数理を元にして語ることの
意義を重要と考えるもの--にとっては共通の信念(それを経験と呼ぶか、分析的と呼ぶ
ことができるかはさておき)であると思っております。私自身もそのあたりを、何度か
「普遍的な言語(論理)」というような言い方で述べて来たように思います。Bourbaki
などの立場は、そのあたりを「変数」あるいは「代入」という概念で、更に詳細に基礎
づけようとしているように見えます。カテゴリー(圏論)といったことに当方が拘るの
も、その気持ちからです。
お世話になります。三月のジョイントセミナーにおいては、方法論研究会の葛城先生より
特に Social Ontology と経済学の哲学という方向から、過去数年の議論をまとめる形
のお話をして頂くことになっておりますが、同時に本 BBS にて昨年秋から議論されてい
る内容にも、これと深く関連するところがあると思われます。
昨秋のホワイトヘッド学会(後楽園)における、守永直幹先生のホワイトヘッドの「命題論」
に向けたお話と、村田康常先生の「遊戯」に向けたお話は、ここしばらくの方法論分科会
にて議論頂いた内容の延長線上にあって、「近代」への alternative としての「学問」の
あるべき姿を問うという観点から、社会科学の方法という葛城先生のお話を含め、これら
全体に深い関連があるのは言うまでもないことですが、今回特に以下の点が重要な鍵と
なるところと、見込まれます。
(1) 葛城先生における「富」概念(余剰:Redundancy)と、村田先生における「遊び」の
関係。
(2) 守永先生における(言語以前の)「命題」論において、そこでの「主体」性について
の問題と、村田先生における「遊ぶ」ことにおける「主体-超主体」の問題。
(3) 葛城先生における「富」、「余剰」の蕩尽問題と「貨幣」の問題、そしてそれらと(塩谷
先生から今回に先立つ問題提起として)バタイユ的な普遍経済との関係。
これまでの、本セミナーで議論されてきたことの多くが、今回のテーマにかなり集約しうる
(まさに議論が収斂しつつある)のではないかと思います。
そこで、今回は三月のセミナーに先立って、昨年秋から暮れにかけて(内々のメールにて)
議論された「遊戯」の問題、守永先生に立てて頂いたスレッド No.148 と No.157 に続い
た議論をまとめる形で、ここに提供させて頂くことにしました。以下の内容は、上記スレッド
の議論内容を更に受ける形で、昨年暮れに、私(浦井)と、村田先生、守永先生、村上先生
の間のメールとして共有されたものです。
これに続く形で、当方と村田康常先生が、しばらく交互に内容をアップしてまいりますので、
宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲
これは、内容としては「友愛と正義」スレッドにおける村田先生の最終リプライ(12月2日No.
162)に対するもので、12月3日の「ホワイトヘッド学会@後楽園」スレッドへのご投稿(12月
3日No.163)の前に書かれています。そちらを受けた議論は、また後にアップさせて頂くこと
になります。
******************
村田先生、守永先生、村上先生
村田先生のお話(「友愛と正義」スレッドNo.162:守永先生から出された「遊び」という形で
問題を捉えることに向けられた疑問に対してのご返答)、大変興味深く伺いました。守永先生
に向けて、いろいろと明確に論点を整理して下さる中で、全体として私自身からの疑問(「ホ
ワイトヘッド学会@後楽園」スレッドNo.152: コズミックドライブ、真善美の一致問題)にもお
答え下さったところという気が致します。守永先生に向けても、正義と友愛(1)に対して、私か
らも応答すべきなのですが、それよりも前に(というか、それもこちらに含まれたものとして読
んで頂く方が良いかもしれないです)まず、村田先生のコメントに呼応させて頂く形で、意見
を述べさせて頂こうと思います。
> 生死がかかったような真面目で真剣な活動そのものもまた「遊び」概念のなかで捉えるような観点に立つことが、ホイジンガの到達点でありフィンクの出発点だったと思います。
禅で言うところの遊戯三昧との関係も、その視点からであれば納得がいくように思われます。
子供は大人に守られていますが、子供にとって(そしてその遊びにおいて)守られているのか
どうかは問題ではなく、そして大人にしても、その守っているということそのものが、実は遊び
なのではないかという問いそのものが、現在の関心であると思われます。したがって、まさに
> 遊びを成り立たせる秩序自体が成立していくプロセスそのものが遊びだという、そういう観点に立たなければ、ホワイトヘッド宇宙論を遊び概念で論究することはできない
というご意見に賛成です。
> 一切の活動を成立させる秩序の生成する創造活動そのものが、遊びである、ということが、彼らが(ホイジンガは最終的に、フィンクは論究すべき前提として、カイヨワは批判的に、そしてベンヤミンは批判しつつ立ち返るべき原点として)共有している「遊び」理解の大づかみな概観です。
有難うございます。そもそもの「言葉の定義」問題になってしまうかもしれませんが、もしも、
我々がホワイトヘッド的に「置き違え」ということをせざるを得ない運命にあるのだとすれば、
ありとあらゆる「真面目」というのは、何かを「置き違え」た上での真面目でしかなく、その
ような「置き違え」に向けて、絶えず我々の心を導いてくれるものこそ、「遊び」として我々が
捉えるべき、ということになってくるのかなと思います。
> なぜバタイユの蕩尽や遊戯では不十分なのか(なぜバタイユが守永さんにとって遊戯の哲学としても、経済の哲学としても不十分なのか)、その点を論じていただくと、遊戯の哲学とも、またおそらくはバタイユと経済学に関する議論とも、接点が出てくる
この点は、もしかすると、次回(3月…以降)に予定される議論に直結しますね。
> バタイユはさておき、西田はいつかまた正面に据えて論じたいです、私の大学院のときのホワイトヘッド体験はいつも西田哲学とホワイトヘッド哲学の対話という主題をめぐっていたので
この点は、ぜひとも今後ご教示頂けたらありがたいです。当方も勉強していきたい、また一番
明らかにしたい点です。
> 古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ『すべては遊びなり』がのし上がろうと構えている。
「空」あるいは「無」でもいいのですが、それに対して「遊び」という概念を前に出すというのは、
「少し積極的」というよりも、以前から守永さんが幾度も幾度もそこに立ち返るべきと注意を促
して下さっている「主体性」の問題でもあるように、当方には思われます。そうであるとすれば、
守永先生のご関心とも、更なる深みをもって、この話は一致していくのではないでしょうか。その
ような可能性があるようにも思われるところです。
> 「すべてが遊びなり」というホイジンガの最後に提示した積極的観点が、この「世界に満ちている生成消滅の創造活動」を示すメタファーだと理解すれば、これはフィンクの遊戯の宇宙論やニーチェ、ハイデッガーの遊戯の存在論(生成論)にも通じるし、またホワイトヘッドの宇宙論にも通じると思います。
西田においては「自覚」に向けた統一という問題と、宗教の意義(それに向けたあくまで哲学的
議論という、無限の入れ子状況はあるのですが)ということに通ずるのではないかと、思っており
ます。
> 守られた遊びや作られたルールや整えられた環境や所与のシステムの中でのゲームといった意味での「制約され、管理されている現代の遊び」の蔓延(子どもの生活のなかにも大人の生活においても、個人の趣味的活動においても社会の生死をかけたような真剣な営みにおいても)によって、遊びがもつ想像力と創造性が、「なしくずしに」なっているという危惧があるから
近年 AI ということによって様々な「人間らしさ」までがとらえられようとしていることに向けて、漠
然と持たざるを得ない違和感と、上記の点は通じているように思われます。もちろん我々は神様
や仏様の手の裡にあって、そこで制約され、管理されているのではないかという問題(意識)は
常にある(可能な)のですが、そうではなく、人間の手による何らかの仕組みが、それを実現して
いるということ(あるいは、そう信じられるということ、信じるべきなのかということ、等々)は、実の
ところまったく別の問題なので、そのようなことと、どうやって対峙していくか。それが最も重要な
論点のはずです。(まさしく「主体」性の問題です。)そうしたことが曖昧にされる中で、ともかく整
えられたルールを「頭から受け入れる」ことで「無難に過ごす」、そのような思考が近年目立って
蔓延しているのではないかと思われます。これは学問云々の話ではなく、まさしく現実問題として、
非常に危険な事であるように思います。
> 常識的に理解された範囲での遊び(秩序・大人・社会のルールなどによって守られて成立する遊び)を遊びの第一の相と呼ぶとすると、その相を成立させるための創造活動もまた、遊びと呼ぶべき活動であり、ひとまずそれを第二の相と呼ぶことにします。第一の相での遊びは、深刻さや真面目さや切実さといった概念と対立する活動ですが、第二の相はそれらをも包摂するような秩序創造という意味での遊び概念ということになります。それは、それ自身と対立するものも包摂するような創造的な活動ですが、そこには、全体として最終的な活動目的となる「何のため」が欠けている。あるいは、かりそめの「何のため」が第一・第二の相において見えていたとしても、その底のところでは、究極の目的も根拠も基盤も安定した大地も秩序もない活動性の大きな渦のようなものが広がっている。それは、なじみのものへの愛着を抱きつつも、それを超え出て「新しさ」を求めていく衝動、としか呼べないような匿名の活動性です。それを「空なるかな」と見るのではなく「遊び」と見る、といういわば第三の相の「遊び」概念、遊びの形而上学的宇宙論
この点、極めて興味深く、経済学(ゲーム理論)的な表現で、改めて述べ直してみたく思います。
第一の相の遊びは、いわばゲーム論的な遊び(いわばゲームのプレイヤーとしての遊び)です。
第二の相は、いわばゲームを作る(あるいはゲーム論を作る)人の遊びです。専門分野としての
学問の遊びと言っていいかもしれません。今日の経済学の理論家がほぼこれで遊んでいるの
はまちがいありません。そして、第三の相の遊びは、これは専門を超えた、co-ordination の為
の遊び、と言えるのではないでしょうか。この co-ordination のための遊びに必要なものは何
なのか、私はそれこそが今「専門家」を含めた学問世界に求められている課題だと思います。
専門家が第三の相に至るには、まず「専門」という枠をはめられた第二層のプレイヤーである
ことの自覚を持ち、その限界を知らねばなりませんが、それ以上に、に「専門」という立場に立
つ限り、この第三相では上からの立場になり得ないことを自覚すべきです。専門家というのは、
上からの立場(第二相における)に立つことを目的として自己を形成したものですから、ここで
下からの力に自らを任せるということは、自己否定でもあります。ここで遊ぶというのは、自らを
投げ出すこと(絶対愛)でもあります。
第三相を最終的な遊び、究極の遊びと呼ぶにふさわしいかどうかはまだ議論の余地があるか
と思いますが、究極の遊びが自らを放棄できるか、という自らの主体性であると言うと、それに
対してアレルギー反応を起こす人が多々いそうにも思いますが、私はそういうことだと思います。
(西田的に言えば、学問の根底に宗教があるということだと思います。)
> ここがおそらく守永先生の「(宇宙の)創造的衝動=秩序(への意志)」という理解と、「(宇宙の)創造的衝動=秩序ないし調和への意欲=遊びの源泉」という私の理解とが重なる点であるとともに、分岐する点でもあるのでしょう。
分岐というか、私には上にも述べた通りで、「主体性」という問題を介して、より深い観点から
綜合可能であろうと感じています。
> 生死の壮絶な営みも、食うか餓死するかの営みも、遊びどころじゃない、というのはその通りなのですが、その言葉は学問の言葉ではなく、生死や食うか飢えるかの局面での言葉です。同じ局面からは、真面目に学問やっているどころじゃない、という言葉だって切実な叫びとして出てくるでしょう。ここで守永さんが遊びを否定する言葉は、そのまま、学問を否定する言葉にもなりえます。
同時に「学問」という概念を、狭く捉えるべきではない、ということにもなるかと思います。遊びと
いう概念は、この第三相に至ってはほぼ「自由」性という概念そのものとして、用いられている
ように思われます。そのように捉えるなら、学問の自由性、あるいは自由性を持った真の学問と
いうものは、遊びを包摂する、遊びとともに、あるのでなければならない、ということになるかと
思います。自由のためなら生死をかけることだって十分にあるでしょう。私は村田さんの「遊び」
を「自由」と読めるのではないか、と思っております。
> もちろん、ここで言う原初的とか(言葉以前の)経験の原初相というのは、決して原始的とか文化以前とか、あるいは禅仏教的な分別知以前といった意味ではありません。
>
> 言葉以前の世界が原初的だといった言い方をホワイトヘッドはそもそも拒むはずと守永先生がおっしゃったのは、ホワイトヘッドに即して言えばむしろ逆で、言葉以前の経験の原初相の豊かさを論究するのがホワイトヘッド哲学の中心的な主題だったと言わなければならない。
禅仏教的な「分別知」以前のところに、自我、自覚、あるいは意識の統一といった概念を絡め
てくると(それは主体性ということに関わりますが)、そのような原初的な命題の世界になるの
ではないかと、私は思っております。そのような観点から、村田さんと守永さんのお話の共通
点を探っていきたく、思っております。
> 守永先生が示されたのは、この自由な創造活動が、単に何かが精緻な法則性を逸脱しながら動き回っているといった「盲目的な」乱舞にとどまらず、まさに秩序を目指し、しかも「新しさ(novelty)」としての秩序を目指した活動である(のはなぜか、またいかにしてか)、という論点です。遊び概念からホワイトヘッドを解釈するとき、ここが急所になる、という問いかけは、私は大事に受け止めて、数年単位の時間をかけて取り組んでいこうと思います。
村田さんが最後にまとめられた事柄ではありますが、この点について、まったくの同感で、私
においてその切り口は、学問の「自由」性、普遍性、ということになるかと思います(なにぶん
数学的な理論家というのは単純が好きなので…お許し下さい)。
村田さんの「第三相」という概念に関連して、私もまた、自身の研究計画に関して、今や遂に
第三ステージに入らねばならない、入るべき時期が来た、と考えております。
引き続き、先生方を何よりの頼りと致しております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲
このスレッド「2019年3月方法論セミナーへの準備:スレッドNo.148「ホワイトヘッド学会@後楽園」 とNo.157「友愛と正義」を受けて」は、浦井先生が説明されたように昨年(2018年)12月にスレッドNo.148とNo.157ならびにその後のメールで交わされた議論のうち、みなさまの目に触れないメールでの議論をオープンにし、そこからさらに議論を展開していこうという主旨で浦井先生に立てていただいたものです。
浦井先生の上の記事「12月3日のメール内容(浦井):村田康常先生の守永先生へのリプライ(No.162)を受けて」のもとになった12月3日のメールに私が12月6日に返信したメールを下に(少し手直しして)掲載します。
ここでは、自己が自己自身を創造的に生みだしていくという自由で自立的な創造活動がもっている問題が指摘されます。すなわち、自己が自己自身の主体的な自己創造活動の対象(客体)になり(つまり自己が自己自身を対象化・客体化し)、そのことによって自己の自由な主体性が奪われていくという問題です。
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浦井先生、守永先生、村上先生
浦井先生の12月3日の上記メールと前後して同じ12月3日に私もこのBBSのスレッド「ホワイトヘッド学会@後楽園の感想」に「Re: 構想力と象徴、そして学問というスタンス」という記事を投稿しましたが、これは12月3日の浦井先生からのメールへの応答ではありませんでした。そこで、改めてこの12月3日に浦井先生からいただいたメールに対して応答を試みたいと思います。
浦井先生からのメールでは、私がむきになって守永先生に反論している部分は穏やかに回避して、論旨だけをうまく取り出してくださいました。ありがとうございました。ホワイトヘッドの宇宙論をそのまま遊びの哲学として解釈する際に直面する問題点を守永先生が指摘してくださったことには本当に感謝しています。ホワイトヘッド思弁哲学の方法論としての「想像力の飛躍」が、「遊び」だというだけでは終わらず、同時にそれは「秩序への意志」でもあるということ、そしてホワイトヘッドの思弁哲学の方法論は「想像力」だけでなく「論理体系」あるいは「一般的諸観念の合理的な体系」をめざすものでもあるということが、守永先生の論点でした。それは、私にとって重大な指摘でした。さらに、整合的で十全で「緻密」な論理体系によって表現するというホワイトヘッドのスタイルの背後には、情緒的あるいは実存論的な不合理性(というか不条理というか)を洞察するような直接経験とともに、宇宙に秩序を、社会に法を見いだす倫理的な観点があるという指摘も守永先生の論点でした。
いずれもその通りで、遊びを幾つもの相に重ねて見たり、遊ぶ主体が遊ばれる「具」にもなっていくという遊びの再帰性を重大視したりするような視座と、守永先生が強調されるような秩序への意志、法の重要性を核にすえる視座とは、相互に否定し合うというよりも、ホワイトヘッド宇宙論を解釈するための(そしてこの宇宙や社会や人間を解釈するための)相補的な観点となるという予感がしています。
遊びは、既存の秩序を成立条件としつつも、新たに秩序を創造するという意味で、創造性の具体的な活動様態だといえます。しかし、遊びには、新しさをめざすという創造性とともに、自らが創り出したものによって自らが制約され条件づけられる、という再帰性も孕んでいます。それが、今回BBSに投稿した浦井先生への応答のなかで論じようとしたことでした。
遊びには、新しさへの創造性とともに、それ自身の存立・展開を条件づけ制約するような再帰性もある、ということ、そこに、浦井先生が守永先生の指摘を再度強調されたような、主体性とその客体化あるいは物象化の問題が生じてきます。
どういうことかというと、遊びにおいては、遊ぶ主体が、その遊びを通して新たな秩序や規則を創り出していくことによって、その秩序や規則がその遊び自体を制約し条件づけて、そのことによって遊ぶ主体が、遊びによって限定され条件づけられるような客体ないしは、遊びの「具」になってしまう、という問題です。
この問題は、有機体の創造活動が自己自身に向けられるときに不可避的に生じます。自己自身に向けられた創造活動は、自己を秩序のうちに限定することで自己から自由を奪っていくという方向に働くおそれがあります。さらに、新たな秩序の創造には、古い秩序を破っていくという解体ないしは破壊もともないます。創造活動がもっている既存の秩序を超え出ていこうとする側面が強くなると、自己の存続に必要な外的・内的な秩序を破壊するという方向にも働くおそれがあります
自己自身が、自己の創造活動の対象(客体)となることによって、この創造活動がもっている秩序への限定性が自己自身を縛って自由を奪ってしまったり、逆に自己の既存の秩序を強く破壊して自己の存続条件を奪ってしまったりする、ということが生じるおそれがあるわけです。
法にも同様のことがいえます。成文法も自然法も、システムが自らを新たに作り出す、という創造性と、そのシステムが、自ら作り出したものによって制約され限定されるという再帰性という問題を孕む、という意味では、やはり遊びの問題と密接にかかわってくるのだと思います。作られたものが作るものを作る、というのは西田幾多郎の表現ですが、それは、「遊び」の活動にも「法」のシステムにも当てはまります。秩序を作る創造的な活動としての遊び、ないしは秩序形成としての法のシステムは、自らの形成活動によって作り出された秩序によって制約されたり、この形成活動によって破壊されたりする。田辺元は歴史的主体の創造活動を「被限定即能限定」と表現しましたが、ここでは順番が逆で、創造性という能限定が、そのまま能動的だったはずの自己に回帰して自己が自己の産み出したものによって条件づけられ限定され、場合によっては破壊されるという被限定に転じる、つまり、能限定即被限定となってします。そこにからむ再帰性は、法システム論においてルーマンが繰り返し取り組んだ問題の一つでした。法体系の歴史をオートポイエーシスとして見る、というのは、ほんのひと昔前には強い輝きを放っていた論題でした。
ホワイトヘッドの有機体の哲学は、そういったシステム論にも強い親和性があります。みずからが創り出し改変した環境によってみずからが制約され条件づけられる、というのが有機体のあり方だ、としたのはホワイトヘッドの『過程と実在』、特に「有機体と環境」の章です。そういう観点からホワイトヘッドやベルタランフィやノーバート・ウィーナーを読む、ということは日本でも盛んにおこなわれていました。
浦井先生は今回のメールで、私が仮に分けた遊びの3つの相、という思いつきを丁寧に拾い上げて、そこから学問とは何か、というご自身の問題に関わる思索を展開されましたが、この遊びの3つの相という仮の分類はまだまだ不十分で、そこに遊びの再帰性ないしは自己回帰性という問題を重ねることが重要になってきます。
守永先生とのやり取りのなかで浮かび上がった「自由と限定性」の問題も、この創造性と再帰性(ないしは回帰性)の問題に関わってきます。というのも、自由な創造活動にとって最も厄介な問題が、ここであらわになってくるからです。自らが存続し活動するための外的・内的な環境を作り出していくという有機体のあり方は、自己言及的であるだけでなく、自己の自由な創造活動によって自己自身が限定され、その自己限定によって自己の自由が失われていくという自家中毒的なあり方になるおそれもあるからです。自己の自由で創造的な活動(の産物)によって自己自身が制約され限定されて自由を失っていく、ということが、創造されつつ自らを創造するという自己創造的被造物としての社会システムや法や秩序や人間を含む有機体の宿痾となるような問題です。
自らの自由な創造活動がこの活動の主体に対して再帰的に働くことによって、主体の活動が新たに秩序づけられるのですが、そのような創造性とともに、この自己への再帰性によって自己の活動は自己自身の産み出した秩序によって限定され制約されていきます。この自己限定の側面が創造性よりも強くなってくると、自己の創造活動の本来の自由が失われて、自己が自己の産み出したはずの秩序によって限定されて創造性を失い、同じ秩序を反復的に保持するような活性の低いあり方へと堕していくいきます。これは「創造性」と「秩序」とのバランスが崩れて、「新しさへの創造的な前進」よりも「同一的な秩序の反復」が優勢になり、有機体が死に体になっていくという問題、ホワイトヘッドの別の言葉で言えば「自由」と「限定性」のコントラストが崩れるという問題です。
遊びの創造性は、このような問題を孕んだ再帰性ないしは回帰性と結びついています。ホイジンガは、遊びの創造性について次のように言っています。
「遊びは秩序を創造する。遊びイコール秩序である。不完全な世界と雑然とした生活の中で遊びは一時的で条件つきの完全さを実現する」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社学術文庫、31 ページ)
この遊びが創造する秩序が、その遊びの創造活動自体を存立させる秩序となり、その創造活動を限定し制約する条件となっていきます。この遊びの再帰性という問題は、ベンヤミンが指摘しています。さらにベンヤミンは、遊びの再帰性には規則性やリズムがあるということを示唆しています。
「あそびの世界が個々の規則やリズムをすべて支配している――この大法則、つまり繰りかえしの法則こそ、あそびの理論が最後に研究しなければならないものだろう。子どもにとって繰りかえしがあそびの基本であり、「もう一度」というときがいちばん幸福な状態である、とわたしたちは知っている。……じじつ、どんなに深い経験であっても、すべて、あきることなく最後の最後まで、繰りかえしと回帰をのぞみ、出自の場である原=状況の回復をのぞむものである。「二度やれるものなら/なんでもすばらしくなめらかにできるのだが」。このゲーテの箴言どおり、子どもはふるまう。ただし子どもにとって重要なのは、二回ではなく、何回もであり、百回も千回もである。……おなじことを繰りかえす、これが、そもそも共同ということではないか。「かのようにふるまう」のではなく、「繰りかえしやる」こと。このうえなく心をゆさぶる経験が習慣へと転じること。それがあそびの本質である。/ほかならぬこのあそびこそ、ありとあらゆる習慣の産婆なのである。」(ヴァルター・ベンヤミン『教育としての遊び』丘澤静也訳、晶文社、64 ページ)
遊びにふける子どもは、その瞬間が絶えず新しく生起することを、しかも同じ瞬間が何度でも永遠に回帰することを欲しているといえるでしょう。再帰性を欲する無垢な意欲が子どもの遊びの根底にあることを、ベンヤミンはあたかもニーチェを思わせる口ぶりで次のように表現しています。
「ずっと昔から子どもは、あらゆるものが永遠回帰する、ということを知っていた。」(ベンヤミン『この道、一方通行』細見和之訳、76 ページ)
自己に回帰することが新しさを意欲することといかに結びつくか、というとき、システム論的な秩序の理論は、ベンヤミンが示唆するような遊びの理論を参照する必要があるでしょう。遊びにおける自由意志は、自らに回帰することを意欲し、自己が自己の活動によって限定されることを意欲する、しかもこの自己限定のうちに自由がある、というかたちで、遊びは自由と限定性のコントラストを描き出し、このコントラストを強めながら展開していきます。創造的かつ再帰的、能限定即被限定、自由にして自己限定的、という有機体や社会や宇宙の創造活動の在り方を論究するには、秩序への意志論とともに、遊び論が相補的に展開される必要があるでしょう。
どうやら、一生懸命浦井先生の応答に再応答しようとしているうちに、守永先生への応答になってしまったようです。改めて、この部分を深めながら、次にどこかでこの遊び論を発表することを目標に、考察を進めたいと思います。
浦井先生、守永先生、よい刺激と問いと導きをありがとうございます。
村田康常
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村田先生、守永先生、村上先生
引き続き、大変興味深い考察、応答をいただき、大変有難うございます。BBS では12月3日に
ご投稿頂いた村田先生の内容(「ホワイトヘッド学会@後楽園」スレッド No.163)を含めて、
お返事を書かせて頂いていたところなのですが、本日(12月6日)頂戴したメール内容も含め
て、改めて書かせて頂いております。
本日(12月6日)頂いた内容から:
> 自己に回帰することが新しさを意欲することといかに結びつくか、というとき、システム論的な秩序の理論は、ベンヤミンが示唆するような遊びの理論を参照する必要があるでしょう。遊びにおける自由意志は、自らに回帰することを意欲し、自己が自己の活動によって限定されることを意欲する、しかもこの自己限定のうちに自由がある、というかたちで、遊びは自由と限定性のコントラストを描き出し、このコントラストを強めながら展開していきます。創造的かつ再帰的、能限定即被限定、自由にして自己限定的、という有機体や社会や宇宙の創造活動の在り方を論究するには、秩序への意志論とともに、遊び論が相補的に展開される必要があるでしょう。
>
> どうやら、一生懸命浦井先生の応答に再応答しようとしているうちに、守永先生への応答になってしまったようです。改めて、この部分を深めながら、次にどこかでこの遊び論を発表することを目標に、考察を進めたいと思います。
遊びということの自由性を、再帰性ということとともに論じて下さったのが、今回の
要点と思います。再帰性というのは、今日の経済学がちょっと忘れてしまったところ
のものでもあり、そして時々悪戯のように思い出すこともあるところのものなのです
が、そういう社会の科学における、最も重大な案件でもあります。とても重要な点を
補完して、ご指摘下さったと思います。
先の第一の相、第二の相のお話を、私が今日の学問のあり方という問題に強いて
援用させて頂いたところをもって、仮に第一層、第二層と(言葉を変えて)呼ばせて
いただくならば、まさしく第三の相を実現するための第三層は、学問をする専門家
の自己回帰、即ち学問の「自由」性を、そして学問の主体性を取り戻す、「再帰」の
層でなければならない、ということになってくるかと思います。また、そうなるときに、
初めてこの話は一つの閉じた(自分に戻ってくる話の)体系として、完成してくると
いうふうにも思われます。
自由ということは、自ら根拠付けることでありますから、正しくそれは主体性であり
ますし、また自らを自らが根拠付けるということは、再帰性という表現を通じて、今回
村田さんが最も遊びと結合させることを強調された概念でもありますので、このよう
に考えさせて頂いて、問題無いのではないかと思います。
月曜日(12月3日)の BBS にアップして下さった表現(No.163)を通じて申し上げ
ますと、まさしく問題となっておりますのは、
> 遊びが創造性を具体化した活動だという見解が最終的に向き合わなければならないのが、遊びを通して創造される世界は調和的な秩序、友愛と優しさと愛情の世界を実現しているのか、という問い
という問いでありますし、そのことに向け、少なくとも「遊び」というキーワードから
見えつつある状況について、
> 「世界の遊び」が「平和」を実現するとすれば、それは、対立するものを一つの原理、一つの形式、一つの生き方、一つの理想のもとに統合するような「画一化の福音」ではなく、多様性と冒険を許容し、多様な諸要素が多様なままでコントラストにおいて調和するような「調和の調和」の実現によってだろう、といったような答えになっていくだろうと思います。多様性とは何か、画一化とは何か、対立とは何か、そして調和とは何か、対立するもののコントラストにおける一致とは何か、また、いかにしてか、といった山のようにたくさんの問いが出てくると思いますが、
というのは、極めて十全な言葉を尽くして下さったものと感じます。
そして、そこに今回の再帰性(単なる繰り返しではなく、自由性、主体性と絡めた
概念として)が加わりますと、まさしく「遊び」に「自由」と「主体」が加わった形で、
いよいよ問題の核心に迫っていくことができる準備が整いつつあるように思われ、
とても期待します。
再度本日(12月6日)頂戴したメールの内容に戻しますと、
> 遊びは、既存の秩序を成立条件としつつも、新たに秩序を創造するという意味で、創造性の具体的な活動様態だといえます。しかし、遊びには、新しさをめざすという創造性とともに、自らが創り出したものによって自らが制約され条件づけられる、という再帰性も孕んでいます。それが、今回BBSに投稿した浦井先生への応答のなかで論じようとしたことでした。
>
> 遊びには、新しさへの創造性とともに、それ自身の存立・展開を条件づけ制約するような再帰性もある、ということ、そこに、浦井先生が守永先生の指摘を再度強調されたような、主体性とその客体化あるいは物象化の問題が生じてきます。
>
> どういうことかというと、遊びにおいては、遊ぶ主体が、その遊びを通して新たな秩序や規則を創り出していくことによって、その秩序や規則がその遊び自体を制約し条件づけて、そのことによって遊ぶ主体が、遊びによって限定され条件づけられるような客体ないしは、遊びの「具」になってしまう、という問題です。
再帰性の中で、翻弄される、という問題が残っているように思います。この点につい
て、一言私が上で「三つの相」をあえて「三つの層(ステージ)」と言い換えたことと
合わせて、意見を述べさせて下さい。
上述されたような「具」になるという問題、主体が客体になると言う問題は、主体の
主体性が喪失することによってのみ生ずる問題として、「成り行く」ものが主体性を
もって「問い直し」を続ける限りにおいて、「層」の異なる問題として排除されること
が、期待できるのではないかと思います。もちろん、思考停止してしまえばそこで終
わってしまうのですが、我々には幸いにして記憶というものがあり、必要に応じて、
そのかつての経験を乗り越えることができます。というか、否、実は同じ事に向けた
繰り返しへの郷愁をいくら募らせたとしても、全くの同一繰り返しなどは、実際には
不可能であり、いくら「もう一回」と願っても、それは無理だということを、必ず子供
も知ってしまいます。
そして子供は大人になっていくという…悲しいけれども、それは皆が経験して来た
事柄でもあると思います。
この悲しみは、ダイレクトに「消滅」とか「死」ということと関わっていると思いますが、
そうした永劫の悲しみが根底にある限り、上記の「問い直し」は、続けられざるを得
ないものであると思います。加えて言えば、そのような「悲しみ」こそ、最も普遍的に
「共感」されるものの候補の一つではないか、と思います。「死」ということ、「孤絶」
ということが、いずれ「遊び」ということも「永遠の楽しい時間の繰り返し」などという
ものも、完膚なきまでに破壊してしまいます。そしてそうであるからなお一層、我々は
生のせつなの喜びを、遊びを、大切に思い、永遠の繰り返しへの憧憬をもち、郷愁
を募らせる、またそこへの憧れと、届かぬものへの悲しみを、共感しようとするので
はないかと思います。友愛ということもまた、そうしたものの中で、生まれてくるもの
であるように思います。
遊びの「真の」主体性、自由性というのは、そのようなところを根源にしているので
はないでしょうか。私は、西田が、ありとあらゆるものの根源になければならないと
述べる「宗教」というのを、上のような内容にかかわるものとして、把握しているの
ですが。
学問、倫理、そして遊びの根底には(西田的に言えば)宗教(あるいは「死生観」の
ようなもの)がなければならぬ…ということでしょうか。
浦井 憲
P.S. ホワイトヘッド的には、おそらく宇宙論そのものなので、そのものが死生観も
含んでいるのでしょうね。「遊び」についても、それは死生観までをも含んでいるの
だ、と言うことは可能でしょうね。すべては戯れであると。でもそうすると、主体性や
自由性について述べたとしても、翻弄は翻弄されるで終わってしまうような…嫌い
がありますね。なるほど。すみません、これら一人合点ですが、メモ的なものとして、
どうかお許し下さい。
ホワイトヘッド哲学を「遊びの哲学」という観点から読解するという今の私の主題に沿った応答ですが、読みかえしてみると、浦井先生の問うている近代の学問の専門分化の問題、あるいは学問における自由性や主体性の問題、さらには「具体性を置き違える誤謬」にまつわる問題圏に触れていく議論のなかの1場面となっているように思います。
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浦井先生、守永先生、村上先生
これまで主に浦井先生と交わしてきた議論は、私の関心にひきつけて言えば、ホワイトヘッド哲学を遊びの哲学の観点から読むという方向の核心部分に徐々に迫っているのかもしれません。とはいえその接近はまっすぐな線ではなく、大きく螺旋を描きながらその軌道がゆっくりと焦点に向かって迫っていくような感じがします。再帰性あるいは自己回帰性、遊びのリズムと秩序、遊びの主体性とその客体化、という議論まで来て、浦井先生が12月6日のメール(上のNo.176の記事)において生成と消滅、あるいは生と死、そして永遠への憧憬ないしは恒常性の希求あるいは過ぎ去ったものが回帰することを求めるといったところまで議論を深め、とうとう遊びの楽しみと悲しみが交錯するところ、遊びの歓喜と悲哀という問題圏が見えてくるところまで来たようです。ホワイトヘッドの言葉で言うと、現実世界のアクチュアリティを新しい唯一的な価値の実現という創造性のうちに見るだけでなく、その価値創造の興趣(zest)に必然的にともなう価値の享受(enjoyment)あるいは価値の客体化と、その価値が永劫に過ぎ去っていく(perpetually perishing)という価値経験における主体的直接性の消滅とが、いよいよ問題になってきたということだといえるでしょう。この最後の一文で用いた語はほぼすべてホワイトヘッド哲学の最重要のキーワードです。
そこで、ホワイトヘッド哲学が、この生成と消滅について語る際に、主体(subject)の客体化(objectification)あるいは主体的直接性(subjective immediacy)の消滅と客体的不死性(objective immortality)の獲得という言葉とともに語るのが、「自己超越体(superject)」あるいは「主体-自己超越体(subject-superject)」という語です。このsuperjectという語の日本語訳は、「自己超越体」という語が一般的ですが、「自己」という語をとって、「超越体」といった表現でもいいと思いますし、守永先生は「超体」という訳語を試みています(ここでは、主体の客体化を自己回帰性とからめた議論と対照させるために、客体化する主体が自己回帰するだけでなくむしろ自己を超え出ていく、という意味で、あえて「自己」という語を残したままにして、「自己超越体」という従来の訳語を使いたいと思います)。
ホワイトヘッド哲学に照らしながら、「遊び」における主体性や客体化を議論する際に、再帰性や自己回帰性とともに、遊びにおける自己超越性についてもより突っ込んだ考察をしなければならないと思われます。というのも、ホワイトヘッド哲学では、「主体(subject)」という語は常に「主体-自己超越体(subject-superject)」を意味するとされているからです。
自己が自己であるということは、自己が自己自身を限定するということ、そのような意味での自律であるとともに、また、自己が自己自身を超え出ていき、自己自身の制約や限定性や生成消滅の有限性を超え出ていくという意味での自由でもあります。自己はただ自己に由るという意味での自由とともに、自己を超え出ていくという意味での自由もまた、主体性に含まれています。自由と限定性のコントラストというホワイトヘッドの議論は、このような意味も含んでいると解釈できます。ホワイトヘッドは、主体の生成消滅のプロセスにおける主体の客体化を主体-自己超越体と表現していると解されてきましたが、主体の客体化だけでなく、主体がそれ自体へと生成していくことも自己限定であるとともに自己超越であるという意味で、主体-自己超越体を理解することもできると思います。言い換えると、自己への生成と生成した自己の主体的直接性の消滅の両方にわたって「自己超越体」だと考えることが可能だということです。
難解に読まれてしまいがちなこのホワイトヘッド哲学の核となる洞察と理論にアプローチするために、自己超越性/自己回帰性のコントラストや自由と限定性のコントラストを「遊び」という概念で解釈してみることは大きな可能性をもっているのではないかと感じます。
このところ毎夜、帰宅してから浦井先生や守永先生の言葉を読みかえすということをしながら、特に最後に浦井先生からいただいた言葉に刺激を受けて、自己超越体としての主体の自己限定と自己超越ということのうちに遊びの本質があるのではないかというような考えが徐々に浮かんできているようです。想像力の飛躍によって活性化されるのが遊びであり、したがって、遊びは自己の条件となる秩序を創出するという活動性であるとともに、同時に、自己を超え出る活動性でもある、ということがいえるのではないかと思われます。浦井先生は上の12月6日のメールのなかで「実は同じ事に向けた繰り返しへの郷愁をいくら募らせたとしても、全くの同一繰り返しなどは、実は不可能であり、いくら「もう一回」と願っても、それは無理だということを、子供も知ってしまいます。」(No.176)と書かれていますが、自己も、自己が馴染み、愛着し、求めているような他者や環境も、全く同一の繰り返しなどは不可能だということが、この主体と客体化と自己超越体という論題にからんできます。言い換えると、自己の自己自身への回帰性とか反復とかに対して、自己の自己自身に対する差異ということがからんでくる。そのために、同一物の永遠回帰ではなく、自己への回帰が自己の差異化でもあるという仕方で、生成消滅する出来事とその出来事たちによって織り成される世界の創造的前進プロセスは、円環的ではなく螺旋的に進んで行くということが言えると思います。
いろいろ刺激をいただいて、感謝いたしております。まだ固まってきていませんので、もう少し考えてみます。
ホワイトヘッドの「主体-自己超越体」という問題に関連させつつ話が展開しているところです。
前年三月頃にも超越論的な主体ということについての話が出ていた と思います。今回はそれ
がいよいよ問題の鍵となって、現れて来ているのではないかと、個人的にはそのように感じて
おります。主体が自己を超越するという、そのような主体のあり方についての議論が、いわば、
「遊び」における主体性とは何か、という問題として、富、Redundancy, 遊びを含めた一連の
テーマに重要な切り口を与えてくれるのではないかと、期待するところです。
**************************
村田康常先生、守永先生、村上先生
ご連絡有難うございます。村田先生が、遊びの「楽しみ」と「悲しみ」の交錯ということを通じ、
ホワイトヘッド哲学の大変難解な部分を、これほどに身近な問題として導いて下さったこと、
感謝申し上げます。
> 現実世界のアクチュアリティを新しい唯一的な価値の実現という創造性のうちに見るだけでなく、その価値創造の興趣(zest)に必然的にともなう価値の享受(enjoyment)あるいは価値の客体化と、その価値が永劫に過ぎ去っていくという価値経験における主体的直接性の消滅とが、いよいよ問題になってきた
すべて、ホワイトヘッド哲学のキーワードということで、今後の読解に役立てたいと思います。
有難うございます。
> ホワイトヘッド哲学が、この生成と消滅について語る際に、主体(subject)の客体化(objectification)あるいは主体的直接性(subjective immediacy)の消滅と客体的不死性(objective immortality)の獲得という言葉とともに語るのが、自己超越体(superject)あるいは主体-自己超越体(subject-superject)という語です。
実は、まったく偶然なのですが、私もこのところ、いわば「超主体的」ということについて、この
先(近代の超克という意味で、学問、技芸広く全体に渡って)鍵となる、少なくとも、そのため
の手がかりとして、極めて重要であるという気がしてしかたがなかったところなもので、大変
興味深いです。
> 再帰性や自己回帰性とともに、遊びにおける自己超越性についてもより突っ込んだ考察をしなければならないと思われます。というのも、ホワイトヘッド哲学では、「主体」という語は常に「主体-自己超越体」を意味するとされているからです。
> ホワイトヘッドは、主体の生成消滅のプロセスにおける主体の客体化を主体-自己超越体と表現していると解されてきましたが、主体の客体化だけでなく、主体がそれ自体へと生成していくことも自己限定であるとともに自己超越であるという意味で、主体-自己超越体を理解することもできると思います。
なるほどです。そのように「主体」性を捉える立場が、我々が通常「主体」性として、自覚、自己
認識といったことを行っていることと、ダイレクトに翻訳可能かどうか、また翻訳するためには
どういう前提が必要か、そういったところを詰めていかねばならないとは思うのですが、とても
重要なことがらと思われます。
引き続き、しっかり考えたいと思います。
加えてですが、「遊び」「主体性」「自由」と、3つが連なると、何かそこに「希望」(と呼ぶのが
良いのかどうか幾分不安ですが…)があるような気がします。
自由も、主体性も、確かに良い言葉なのですが、もしかすると、場合によっては、本当に疲れて
しまったとき、精神が疲弊しきっているとき、そこから我々は何も導き出せなくなりそうな、そこで
窮地に陥ってしまいそうな、そんな堅苦しさがあるような気がするのですが(特に自由=根拠
と言ってしまうと、その分その方向の力が強まりますよね)、しかし、そこに、それは究極「≒遊び」、
と並んでくれると、何か一気に、希望が出てくるような気がします。そういう(いわば、そういう
「論理的」というか、「学問的」というか、「哲学的」に支えられた)希望が、我々には必要である
ような気がします…。
> 自己も、自己が馴染み、愛着し、求めているような他者や環境も、全く同一の繰り返しなどは不可能だということが、この主体と客体化と自己超越体という論題にからんできます。言い換えると、自己の自己自身への回帰性とか反復とかに対して、自己の自己自身に対する差異ということがからんでくる。そのために、同一物の永遠回帰ではなく、自己への回帰が自己の差異化でもあるという仕方で、生成消滅する出来事とその出来事たちによって織り成される世界の創造的前進プロセスは、円環的ではなく螺旋的に進んで行く
ここでの「差異」について、それは子供の頃には、場合によっては「成長」としての喜びに
も関わっているでしょうし、そして、まあ年を経れば「老い」としての悲しみにも、関わって
くるのでしょうか…。もちろん、そういった「成長」を悲しみに、「老い」を喜びにも、変えて
いける、そのようなところに、先にあった「subject-superject な(真の、超)主体性」が関
わっているのでしょうか。そんなふうに、思われます。
Lou Reed が(すみません…以下通じなかったら、どうかお許しの程) Berlin の Ending
において、
I'm gonna STOP WASTING my time ...
(もう時を無駄にするのはやめよう)と、過去の自己を超えて歩き出しつつ、それをもって、
なおかつ、
... Sad Song ...
(悲しい歌だぜ…)と、天使の歌声のごときコーラスに混じえて、それこそ「超主体的」な
歌声で繰り返す、あの心境に、重なるように思います。
死んで生きること、生きながらにして死んでいるようでもあること、禅なら、そのような境地
とも重なるのではないかと、そんなふうにも思います。
引き続き、しっかり考えていきたいと思います。取り急ぎ、御礼申し上げます。
浦井 憲
基調講演 『無知と富の経済哲学 -経済存在論試論-』 葛城政明氏(大阪大学) 90分
全体討論 『富・無知・合理性・Redundancy・遊び・貨幣、そして命題と主体性を巡って』 90分
葛城先生のお話は、富≒余剰≒Redunduncy ということが、「無知」(これは後にも
述べますように本質的で避けられないタイプの無知と言うべきものかどうかが問題
となると思いますが)とあいまってもたらすところ、すなわち、「必然」ということに近く
ても結局は「戯れ」に過ぎないそのようなものの引き起こすところが、実際には文明
における極めて重大な決定要因と言える(Social Ontology的に)という、そういう
お話と理解しております。
このお話は、まずここしばらく塩谷先生がご関心をお持ちであるところの「貨幣」の話
と密接に関わっていると思います。つまり、貨幣というものを、交換手段として眺める
視座、予め価値が定まったものどうしの交換という(通常の貨幣を捉える)視座に対
して、むしろ価値など未だ考えられていない遊びの部分(≒Redundancy)に向け、
それを積極的に見出していく、という視座に、深く関わっています。偶然ですが、私と
村上さんがここしばらくやっている satiation economy(選好が飽和的な構成員の
存在する経済)における貨幣的一般均衡(dividend equilibrium)の問題も、それと
同方向の貨幣を取り扱う話であり、いくらか運命的なものを感じます。
経済学方向に話題を限った前回(8月)のセミナーでは、ビットコインの話を絡めて、
公共財と貨幣の話を取扱いましたが、これも「フリーライドできる公共財」という、言
わば「政府が持つ余剰」に向けて、それを積極的に「取りにいく」ことを許す「政府の
貨幣発行」という問題意識でした。(地域貨幣などにも、同じ側面があると思います。)
この側面は政府で言うと赤字財政(建設国債)「が良い」という話になるので、若干
注意は必要ですが、純粋理論的にも議論が残されているのは間違い無さそうです。
現実社会を眺めていても、市場とか、競争と言いながら、結局は公金に群がる状況
がどこの国でも見られますが、それはすなわち強制的に集めた余剰(+貨幣発行権)
という、国家の余剰(≒Redundancy)の奪い合いとも見ることができ、(葛城先生
の言われる無知と富が今日も変わらず)経済を「動かす」最も大きな要因であると
いうのは、決して否めないこととも言えるように思います。(近代社会で言えば、即ち
それは「政府の力」であり、その力を強調する学説の代表がケインズ経済学と言え
ると思います。)
そのような現実の動学という観点からすると、市場における交換と最適な資源配分
という問題には、当然政府の役割という問題が絡んでくるわけです。大きな政府と
小さな政府という言葉を用いるなら、主義の問題になってしまいますが、純粋理論的
に申し上げても「スミスの見えざる手」が働くということについては、「政府の信用」が
入り込んだモデルだと(言えるとしても)かなり限定的なものになります。
(例えばモデルの設定次第で、弱い意味での最適 weak Pareto くらいなら言える
かもしれませんが、実はその下で satiate している人がいるとすれば、いかなる配分
も weak Pareto であったりするので、インパクトはかなり弱くなります。)
このように「信用」と「貨幣」の問題が今回のテーマにおいては「余剰」ということを
媒介にして密接に関わって来ると思います。そこをもって言い換えれば、富と無知の
問題はバブルの問題の一般化とも言えますし、またバブルが必然であることの証左
の問題とも言えるかと思います。すべてはバブルである、ということです。
(そして多分それは正しいです。これは以前議論された、岩井克人の貨幣論の話と
も密接に関わります。岩井克人氏は「超越論的」に「貨幣」を位置付けますし、そして
それはそれで正しいのですが、問題はそんな「貨幣」は「現実には絶対に存在しない」
ということの方だということです。すべてはバブル≒虚構である、その可能性を排除
できないことにこそ、真の問題が存在しているのだということです。もっともこの真の
問題ということと、現実的な経済政策ということもまた、別の問題です。)
◆
さて、貨幣と絡めてバブルという問題で表現してしまうと、葛城先生のお話は「遊び」
≒「余剰」の持つ、負の側面だけを強調してしまうように思います。それは、「遊ぶ」と
いうことの「主体性」ではなく、以前の投稿で村田先生の言われた、遊びに「翻弄」
されるという、主体性の喪失場面。そのような側面のみが、強調されているということ
になります。
全てがバブルであるとしても、すべてこの世がゆめまぼろしであるとしても、我々は
そうであるからといって生きることを止めはしませんし、(本当の意味で)良く生きる
ということについての考え方を、放棄しようとは思わないはずです。「学問の方法」と
いうのは、そういうことに向けて、開かれているのでなければなりません。
葛城先生は、ここで「Social Ontology」の問題として、新たな経済学の哲学を打
ち立てようとされるところと理解しております。そして私自身の関心は、その立場に
大きく賛同しつつも、しかしそこからの話(学問としての立場・方法論ということ)
になります。言わば、その具体的内容に関わってくると思います。
それは「富」ではなく、むしろ「無知」と関わります。「無知」とは何かということです。
裏から言えば、むろん「知」とは何かということでもあります。
ケインズは確かに本質的な不確実性を問題としました。けれども、その本質的な不
確実性(真の無知)を、単なる合理的ではない消費関数(一つの特殊な無知)、と
固定してしまったら、それは一つの合理的な説明としての IS-LM 分析でしかなく
なります。そして新古典派総合となって、行き着く先はルーカス批判です。今日では
行動主義経済学という名前で繰り返そうとしている学問的状況が、まさしくそれと
同じことです。Social Ontology に依拠する方法論は、そういう(「特殊な無知」
に基づくケインズ理論のような)ものを支持してしまう危険性を常に孕んでいるの
ではないか、というのが私の危惧です。Social であっても、ontology である限り、
それは宿命ではないか、という問題が、そこで提起されると思います。
ここで大事になってくるのは、無知という言葉の裏側にある、真の知とは何か、と
いうことだと思います。真の知の前ではすべてが無知です。ということは、無知とは
何かといえば、「全て」ということになります。それはある意味正しくて、今日社会も
また無知だというのは、間違いありません。
ではどうすれば良いのか、何を「学問」の立場として、方法論の根源に見出すべき
なのか。そこで、問題は「主体性」ということに突入せねばならないのではないか
ということです。
ここからが、守永先生の「命題」と「主体」性の問題、そして村田康常先生の「遊び」
と「主体-自己超越体」の問題と関わるところになります。
◆
「学問」とは何か、学問という立場、その役割と可能性、今日の学問の専門性という
あり方。これは今、こうして話をしている我々がまさしく乗っかっている立場でもあり
ます。そこに関して、再帰性のある問題です。今回の葛城先生のお話は、それが広く
「方法論」のお話であるということを通じて、守永先生、村田先生のご関心と深く関
わるところになると考えます。
専門科学としての経済学というのは、村田康常さんの表現で言えば「第一の相」
の遊びになります。そして、それを俯瞰する立場というのも、已然として「第二の相」
の遊びという域を出ません。
いわば村田先生の言われた遊びの第一の相、第二の相あたりで、この話を止める
のではなく、第三の層に進まなければならないということです。そこでは、良いとか
悪いとか以前の、その前段階において「遊ぶ」ことの主体(subject-superject)
性ということが問題になります。そこを問題とせねば、「方法論」の話は完結しない。
村田さん、守永さんのお話を、そこに関わるものとして「方法論」の話に取り入れた
い、というのが、私の問題意識になります。
主体という問題は、ちょうど昨年の今頃にも、鈴木先生、守永先生をはじめとして、
とても話がはずんだところですが、まさしくその話の続きにもなります。とくに、守永
さんはずっとこの意味での「主体」性が鍵になるということを、私に伝え続けて下
さったと(私は)思っております。もちろん鈴木先生のお話であった(超)「主体性」
とも、この問題は直接的に関わっている(学問成立させるための)と思います。ここ
ではそれを「超越論的」主体ではなく、「主体-自己超越体」(ホワイトヘッド)として
見ようという立場の違いはありますが。
(「超越論的主体」の話というのも、この「主体-自己超越体」の話の特殊ケース
として見ることができるのではないかという気がしているのですが…すみません、
これは不完全で、まだ自分でも煮詰められていない見解です。)
守永さんがこの秋に「言語以前の命題」という表現とともに、そしてそれ以前にも
「共振」といった表現とともに、そして「友愛と正義」という言葉を用いて BBS で
も訴えられた問題の「背後」に、学問のための「遊びの第三の相」とは何であるか
ということのヒントが隠されている。そのように考えています。
簡単に言い換えれば、学問を「俯瞰する」にしても、その根拠は何か。その場所とは
何か。根拠や場所という表現が良くなければその媒介は何か。そういうことに問題
は降りてくるかと思います。
学問のあり方(方法論)ということから考えると、そこが最も大事なはずです。そこは
まさしく遊びの「第三の相」という、村田先生が言われたところと、具体的、現実的
にはどう向き合うのかという話(加えてそもそも向き合えるのかということも含めて)、
そういう話になると思います。
村田康常先生の言われる「遊びの第三の相」を、学問のあるべき方法として考えて
みるという話(これは村田晴夫先生の「文明と経営」延長線上の話として、学問の
あり方、学問するということの意義、といった話でもあると思います)は、すでに BBS
のこの投稿に先立つところでまさしく提起されているところですが(お時間あれば
眺めていただければと思いますが)、ここではそれをまとめて、少し発展させた形で、
簡単に再提起させて頂こうと思います。
「遊び」という表現で、この段階の学問のあり方を捉える場合、メリットは「楽しい」と
いうこと(幾分誤解を恐れず申し上げれば)ですが、デメリットは「遊んでる場合では
ない」という批判(これも誤解ですが)に晒されるということです。後者は特に深刻
ですが、禅における「遊戯三昧」(仏に会えば仏を殺し)といったことの真の意味等
と合わせて、その意味を訴えることで、ある程度、誤解は防げるのではないかと思い
ます。
論理も含めて、広く我々を共振させるもの。それは音楽とか、絵画、情景、詩、様々な
イメージ、頭 mind の働きだけではなく、広く身体それ以上を含めて訴えてくるもの、
それを広い意味での「命題」と呼ぶことにします。すると、我々が、もし主体として、そ
の中で我々に自由があるとするならば(これもそのような自由があるのか無いのか、
我々は共振するだけで、それに翻弄されているだけかもしれないので、分からない
のですが、それは自由があると思っているならそれでいいということで、どちらでも
いいので)、そのような「命題」に突き動かされる、共振を求める衝動に、より素直で
あるかどうかという、その程度のことなのかも知れません。
そこで、そのような最終的判断を、「遊び」というワードで捉えるとすれば、まずは、そ
の「主体」が「楽しむ」べき、ということになるかと思うのですが、この場合の「楽しみ」
というのは、感性による、至高の判断という段階にある、 本当の喜びでなければなり
ません。それによって、本当の(真の)幸福(善)による、至高の判断(美)というもの
を期待できるという、そういうものになり ます。よって、このような捉え方は、「真善美
の究極的な一致(即ち調和)を期待できるということ」こそが、本当の幸福であると
いう村田晴夫先生の定義と整合的かつ補完的なものになると(私は)思います。
更にこの「主体」というのは、単なる「主体」ではなく、「どこまでも問う」、「徹底的に
問う」、そのような主体でなければなりません。その意味で、「自己に再帰してくる」
ような主体。自己をどこまでも超越していくような主体、subject-superject 的な
主体でなければならないということがあります。
昨年7月の「哲学スルとはどういうことか」(どこまでも徹底的に問うことである)に
おける問題意識が、今再びここで活きてくるように思われます。そこに依拠すること
で、「遊ぶ」ということの「主体」性、そして真の喜び(善)による至高の判断(美)と
いうことを期待でき、また「問い続ける」ことができる。それが「学問」の場所であり、
そして最も広義の「方法」と言えるのではないか、ということです。
村田晴夫先生的な「真善美の究極的な一致」問題と、この学問の「方法論」問題
を綜合していくところでは、守永先生、村田康常先生には、また異なった考え方が
あるかもしれません(おそらくあると思います)。そのあたり、ぜひとも議論できたら
と思っております。
以上、今回の葛城先生のテーマと、それに関連する形でのこれまでの当セミナー
の議論をまとめるものとして、今回の全体討論『富・無知・合理性・Redundancy・
遊び・貨幣、そして命題と主体性を巡って』、開始前の、準備としての問題提起と
させて頂きます。
引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 (浦井 憲)
先ほどの投稿の第三部の真ん中あたりで「超越論的主体」との関わりで述べさせて頂いたところ:
>(「超越論的主体」の話というのも、この「主体-自己超越体」の話の特殊ケース
>として見ることができるのではないかという気がしているのですが…すみません、
>これは不完全で、まだ自分でも煮詰められていない見解です。)
について、少しだけ思うところがあったので、付記させて頂きます。
「主体-自己超越体」というものが「何らかの主体のあり方に対してそれを超える」という意味を
もって、それを言わば「写像」と捉えるのであれば、「超越論的主体」というのは、その写像の
不動点(とあるタイプの学問を成立させるためのという限定条件を付けた上で)という位置付け
になるのではないかと思います。写像と不動点の関係は、関係性と対象物の関係の、中間に来る
ように思います。これは現実の学問の流れ(現実的に用いられた方法論という意味で)の中でも
例えば経済学だと「ルーカス批判と合理的期待均衡」のような形状で、随所に現れているように
思います。実際には「関係性」であるところのものを、とりあえず「不動点」として見るという
のは、極めてあちこちで見られる方法であると(それだけに罪深いのかも知れませんが)改めて
感じ入ったところです。
連投でした。すみません。 (浦井 憲)
の方法論研究会がありました。
福井先生からのコメントを中心に三月の葛城先生のご講演内容に向けての討論の
準備が行われました。そこでの内容を含めて、何点か更なる概念の整理をさせて
頂きます。(箇条書きにしますので、ご自身の論点と無関係と思われるところは、
どうか適宜、飛ばしてお読み下さい。)
(1)先の浦井投稿 No.179 における◆印の第三部で以下のように書きましたが:
> 論理も含めて、広く我々を共振させるもの。それは音楽とか、絵画、情景、詩、様々な
> イメージ、頭 mind の働きだけではなく、広く身体それ以上を含めて訴えてくるもの、
> それを広い意味での「命題」と呼ぶことにします。すると、我々が、もし主体として、そ
> の中で我々に自由があるとするならば(これもそのような自由があるのか無いのか、
> 我々は共振するだけで、それに翻弄されているだけかもしれないので、分からない
> のですが、それは自由があると思っているならそれでいいということで、どちらでも
> いいので)、そのような「命題」に突き動かされる、共振を求める衝動に、より素直で
> あるかどうかという、その程度のことなのかも知れません。
この後半で述べたことは、現在の問題をいわゆる「自由意志」の有無という問題
からは独立させ得るということの、単なる確認です。「遊び」における「主体性」
の意義を考えるにあたって、そこに「神の導き」のようなもの、cosmic drive
のようなものが有るとしても無いとしても、問題ではなく、大事なのは「主体性
の役割」であって、そこにおける「自由性の存在(ひいては「主体」性の最終的
な存在)」では無いということです。
更に一段落置いて、次のように書きましたが:
> 更にこの「主体」というのは、単なる「主体」ではなく、「どこまでも問う」、「徹底的に
> 問う」、そのような主体でなければなりません。その意味で、「自己に再帰してくる」
> ような主体。自己をどこまでも超越していくような主体、subject-superject 的な
> 主体でなければならないということがあります。
ここで「問う」というのは、最もプリミティブには「聞く」(もちろん関心を持
ちながら)ということかも知れないと考えています。それは「共振する」という
こと(例えば理解するということを含めて)を求める、極めて根源的な探索行為
と言えるのではないかと、そのように思います。
(2)葛城先生の立脚点の一つである Social Ontology と、塩谷先生の近年暫く
ご関心のある中動態の話は、いわば「信念」故に存在する社会的実体という意味
から極めて隣接する概念であるように思います。従って、そこから先の話という
ことが必要になる際、「主体性」とは何か、という話がそれプラスということで
重要になるように思います。
経済学的には貨幣(通貨・法・公共政策を含む)の問題、貨幣的合理的一般均衡
(特に世代重複や選好飽和的な経済における、富の余剰によってドライブされる
信用のバブル)の問題が、それと密接に関わると思います。
(3) 主体性の問題のポイントは:「(例えば数学的に)表現している」こと
と「表現されたもの」との相違が解消され得ない(時折、されたかに見えるよう
ではあっても、それは関数 f を f の不動点で代用しているようなもの)という
ことにあると思います。加えて「学問」という営みにおける「主体-自己超越体」
性とは、「真の喜びに基づく至高の判断による真をどこまでも問う(絶対愛)」
というような形で、No.179 では村田晴夫先生的な「真善美の一致(調和)」の
問題として述べさせて頂いたのですが、もちろんこれは(とりわけ「学問の方法」
という観点からすれば)そのような「真善美の一致」というものが、どのような
意味で「偽である」かということを指摘するということの方に、あると思います。
(4)閉じたシステムと知:知はある意味閉じさせる(ストーリー化する)作業
であると思いますので、そういう意味では、知は全て無知です(無知という葛城
先生の用語については、無知→啓蒙、と言いたくなる嫌いはありますが、どちら
かというとソクラテス的な「無知の知」というニュアンスで、無知という言葉を
用いておられると思います)。
無知でいいのか、無知ではだめなのか。良い悪いではなく、主体性の問題。そこ
で出てくるのは「どこまでも問う」ということ、「問う」ことの根源性の問題で
はないか、という方向に議論を進めるのが良いのではないか、と思っております。
(5)2月の方法論研究会にて福井先生が強調されたことに、「開かれた豊穣性
を持つシステム(普遍経済における真の動学)」を取り扱うキーワードとしての
「進化論」ということがありました。
「宙ぶらりん(不確実性)」を楽しむ(遊び)ことと、進化(適応)戦略として
の豊饒性の重視(普遍経済における真の動学)ということが、その主旨です。
そういえば、守永先生がここしばらくずっと「進化論」と言及して来られたこと
を思い出し、私はそこにはちょっと距離を置いてきたのですが、福井先生と守永
先生のタームがつながったように思います。上述のような主旨であれば、私にも
理解できますので、またご教示願います。
(6)普通は、政府(ケインズ)v.s. 市場(ハイエク)という構図なのですが、
今回の問題に関しては、用語上微妙にややこしいことが生じているように思われ
るので、整理します。
葛城先生のお話(プラス福井先生の用語)では、
希少性(経済学) v.s. 豊穣性(普遍経済学)
という対立構図があって、その背景に本当に横たわっているのは、
知 v.s. 無知
という構図です。そしてその下で、話の具合によって、
小さな政府(官僚)&静学的市場 v.s. 大きな政府(市民)&動学的市場
となって来ます。こうなると非常にややこしいのです。政府と言いつつ官僚を
指す場合と政治家(市民の代表)を指す場合では、まったく逆の敵同士になり
ます。市場もまた、ハイエクの市場などは(無知)と関わりますので、むしろ
普遍経済の動学的市場と分類すべきです(もちろん小さな政府ですが、官僚で
はなく市民(政治家ではなくあくまで下からの力としての市民)と組になって
います)。ケインズは、蓋然性の意味からも大きな政府の意味からも当然右側
ですので、今回の話の中ではしばしばハイエクとは敵ではなく、味方同士です。
貨幣についてもまた、ハイエクと同様に二面性があります。例えば世代重複の
貨幣はオープンシステムでの信用と関わりますが、サーチの貨幣はクローズド
システムにおける交換の問題なので、どちらの意味で貨幣という言葉を使うか
で、話がややこしくなります。今回の話と関わる貨幣は、オープンシステムで
の信用、従って、右側とかかわる貨幣です。
(7)カント的立場との関わりについて:第一批判としての真、第二批判とし
ての善、第三批判としての美と分けるならば、既にそこに専門化の罠が入り込
んでくるという気がします。知ること science を分かること、分けられると
いうことにしたのは rational 割り切れることを知ということの最高位に置く
ことと極めて全体的に相性がよいわけですが、しかし、切り分けることと、切
り分けられたものとの差異は、常に残ります。学問の方法という立場から考え
ると、学問内から生ずる自己批判が、学問の中に再帰する経路(学問における
「主体-自己超越体」性)が欠落してしまうということではないかと思います。