方法論研究会・ジョイントセミナー・Realism for Social Sciences 関係者皆様
お世話になっております。新年度に入って大学はじめ各種教育研究機関も例年
とは異なり、講義、セミナー、学生指導その他全般に渡る新型コロナウイルス
への対応、準備ですっかり追われてしまっている感があります。皆様お元気で
お過ごしでしょうか。
3月13日に、5月以降(現状、夏以降でなければ到底見通しが立たない状況
ですが)に延期したシリーズのワークショップ Realism for Social Sciences
の準備会議を行いました。会議では、当該シリーズ初回のタイトル
「リアリズムと社会科学の方法」
ということについて、今後の問題意識を統一する、大変興味深い、いくつかの
論点がありました。大変遅くなってしまったのですが、まとめとして、以下に
整理させて頂きました。ただ、司会進行役、浦井の個人的視点と問題意識に依
る部分が大きいため、全貌をお伝えするところとしては甚だ不十分と思います。
不足のところ、これに続く投稿で、皆様に補って頂ければ幸いです。
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会議は、まず予定講演者である三井泉氏、そして守永直幹氏による、講演内容
に向けての概要ならびに、司会側からのお知らせとして、この先、当該テーマ
Realism for Social Sciences ということに向けて、過去数年の方法論研究会
ワークショップの内容をどのように総括していくかとの見通しが語られました。
一つは同タイトルでの Springer での書籍の構想であり、もう一つは、同じく
当該タイトルを出発点とした分野横断型研究領域の構築(関西学院大学の村上
裕美氏に代表をお願いし、当面、経済学、医療、哲学、文学の4分野からなる
形にて科研費申請中)について、それぞれ説明がなされました。
続けて全体討論に入りましたが、司会者の問題意識から、大まかな流れを以下
のようにまとめさせて頂きました(不十分と思いますがご勘弁下さい)。
●守永氏のご講演の内容予告の中で、特にルソーの捉え方について、ルソーの
伝え方は(いわば)「音楽」的であり、一般意思は、そのような想像力(構想
力)の下で、我々に提起されたものである、という主張が極めて印象的(村田
康常氏もそのように語られました)でした。
●そのような「想像力」について、それを、あくまで「学問」の中で、学問の
「方法」としての水準で、取り扱える可能性ということについて、葛城政明氏
からのご指摘がありました。
●そのような「学問」の「方法」ということを、例えば「緩やかな論理」と言
い換えた場合、どうか。例えば「問いと応え」を表す矢印。「伝わる」ことを
表す可換性。そういったもの(要するに圏論的な普遍言語)として把握すると
いったことについて、どのような問題点があるかとの、司会者からの質問に対
して、塩谷氏から、そういった形の把握で失うものとしての「内側からの視点」
(つまり図式的に展望してしまうということの危険性とも言えるでしょうか)
という返答がありました。
(もちろん展望できないものを展望したかのように見せかけて、実は展望して
いないということも、あるいは展望していないと言いつつ、実はしっかり展望
しているということも、あるとは思います。そもそも今日我々が依拠する言語
ならびに議論そのものが、そうした主語的展望を不可避としているところがあ
る以上、これは常に「問い」の可能性として、それが準備されているかどうか
といった事柄に依存していると言うべきではないかと思います。)
●一方それに対し、ある程度の「外側からの視点」(個々主体の展望)を許す
立場としての「多元論」という言い方を(千葉大学の田村先生が久々にお越し
になって、そのような言い方をして下さったと思いますし、竹内先生の立場も、
しばしばそのように感じられますが、それを)許すとすれば、それは(つまり
多元論的な立場は)どこかで「実践」の「リアリティ」と対決せねばならない
事態に、最終的には直面すると思われます。(例えば、政治的な決着といった
実践の場において、「多数決」のような。)
●ここで、理論の「実践」ということにおけるリアリティというのは、前述の
分野横断型領域研究において、哲学班が受け持っている研究計画です。
●そのように考えると、理論の「実践」ということにおけるリアリティという
ことが、学問にもたらす「方法論」とは、理論が「見えてない」ものの重視と
いうことに向けて、「見えている」ものにかかるバイアス、つまりは「見たく
ない」ものを強いて表面化すること、と深く関わっているように思われます。
理論(あるいは学問)においては、それが「見えている」ものを強調するだけ
では言うまでもなく不十分で、また、それが見えていないものが「ある」とい
うことを強調するだけでも(おそらく)不十分で、それが、「見ようとしてい
ない」もの、「見たくない」もの、逆に言えば「見たい」もの、という意味で
の、いわば学問の「主体性」(三井泉氏)(もしくは、これは後日、メールに
てご意見頂いた鈴木岳氏の言葉で言えば「イデオロギー」)が問題となるので
はないか、ということです。
● 多元論的に、様々な理論を認めるにあたっては、それらの中から「実践」
においては、何かが選ばなければならず、それ故、そのような(学問の主体性
までを含めた)全体性を通じて、多くの議論は相互に協調し合わなければなら
ず、そのように協調し協働し得る共通の枠組み(方法=論理)が提供されねば
ならない、ということになります。言わば村田康常氏の言われる「多即一」と
なるような「方法=論理」を提供せねばならない、ということです。(そして
そういった場合に、手段として、理論と一体化したゲーミングや計算機による
シミュレーションといったことが、実践のメカニズムを構築する上で、有効に
なる可能性もあるかもしれません。)
●上のことの具体例を考える上で、三井先生の挙げて下さった経営の問題(AI
に会社の社長を任せるといった発想)は、(とりたくない)「(経営)責任」
を「科学」にとらせる、という視点とも重なって、大変興味深いです。科学の
側に向けて言うと、科学では責任をとれないということ(科学としては「見え
ていない」のみならず「見たくない」ことによって)を、明らかにする(主体
としての)責任が、各専門科学分野それぞれにあるのではないか、ということ
につながると思います。これは、医療における死の遮蔽、もしくは死の医学化
の問題とダイレクトに関わり、ます。また、「主体」および「全体性」の問題
を通じて、レヴィナスや和辻の倫理につながるようにも思われます。「実践」
をキーワードにする社会の科学の方法論というのは、実のところレヴィナスの
「第一哲学を倫理」というような発想に近いのかもしれないと思いました。
●鈴木先生から後日メールでご意見を頂きました。上にも少し反映させて頂き
ました。
●本セミナー初期の頃よく出席して下さったS氏と当該の問題をメールでやり
とりしており、その中で気付いたのですが、後期ウィトゲンシュタインとの関
わりが、結構抜け落ちていたので、重要かもしれないと思い始めております。
この点、村田康常氏の「遊戯」「遊び」と、言語ゲームということとの間での
連絡が、鍵であるように思えて参りまして、村田先生に少しご教示頂けたらと
お願いしております。
以上です。
関わりについてです。
私の考えをざっくり申し上げておきますと、プラトン以来、西欧はつねに「実在」
を問題にしてきた。それ以外はほとんど考えて来なかったと言っても決して過言
ではない。プラトン『ソピステス』が、いかに過激で深甚な懐疑論を繰り広げる
にしても、その彼方に真実在を想定している。そして、それ自体は必ずしも否定
すべくもない。
西洋のキリスト教社会が古典古代を受け入れ得たのは、この実在に対する暗黙の
信頼を信仰の体系に組み込み得たからでしょう。その過程でギリシャ世界における
認識論の深さと広がりが単純化されてしまった。たとえばアリストテレスにおける
「魂」の問題、それが有する想像力の問題が軽視され、ホッブズやルソーがそれを
改めて主題化せんとした努力の意味も、近現代の哲学の動向においては見失われて
いる。はなはだ素朴に実在なり、真実在なり、メタ実在なりが語られてしまう。
そして、それが西洋社会の改めての自己肯定に利用される。そのことに危機感を
持つべきである。
以下、添付ファイルを貼りつけさせて頂きます。
[添付]: 49975 bytes
修正を加えました。さほど大きな変化はありません。これを
もって、とりあえず完成稿と見なします。
それでは4時半にお会いしましょう。
(追伸)さらに少し書き換えました。失礼しました。
[添付]: 54592 bytes
一言だけ申し添えておいたほうがいいように思います。
葛城先生が仰った、多元的なものとは具体的には何かという
問いはとても重要で、哲学的には色々言うべきことがあるで
しょうが、それはそれとしてもっと具体的に考えるべき問題
があるように思います。
医学&医療、政治&統治はむろんのこと、教育&教養しかり、
法学&法律しかり、あるいは人類学や民俗学における多様性、
多元性をどう考えるべきか等々、実際の現場のことをもっと
私たちは知る必要がある。
より直接的には経済学や経営学における《多と一》ひいては
他性というものをどう捉えるか。
現実の世界は経済および科学技術により、この上なく一元化
が進行している。むしろ経済学においてこそ、この問いは
深甚なかたちで問われるべき課題なのかもしれません。
こちらの BBS では、本日の Zoom ミーティングのご案内を差し上げられなかった方々にもメール
連絡が届いていると思われますことと、もう一方で、本日ご参加頂いた方々の中にもメール連絡
が届かない方々もおいでになりますので、先ほどメーリングリストを更新しました。また、加え
て当方からも、本日の説明ならびに一言、追加させて頂きます。
本日、大阪大学の方法論研究会月例会議を先月に引き続き Zoom にて行いました。議題は五月初旬
にホワイトヘッド学会の村田康常氏からご提案のあった Realism for Scocial Sciences
をテーマとするパネル的な討論会を次回ホワイトヘッド学会で企画できないかということに関し
てです。特にシンポジウムを企画しておられる千葉大学の田村高幸先生の企画「有機体を支える知の枠組みを与える方法―多元的一性の視点から」(仮題)」
と、Realism for Social Sciences とを整合的にリンクさせることができるか、ということが、
話し合われました。田村高幸先生そしてホワイトヘッド学会会長の田中裕先生にもご参加頂き、
大変有意義な会議になりました。内容の詳細については、また機会を見てまとめさせて頂こう
と思っておりますが、とりあえずその要諦というべきところと当方が把握しておりますところ
は以下となります:
「多元的一性」すなわち「多即一」という問題は、「ホワイトヘッド的にダイナミックな統合
作用」として捉える。(このとき、それを形而上学的に捉えてしまう嫌いについて、塩谷氏の
ご指摘はありますが、それは、そうならないようにできる限り様々に手を尽くすということ--
例えばレヴィナス的に全体を超える無限、協働的に製作するといったグッドマン、後期西田的
な絶対無といった概念が、鍵になると思われる。)学問の成立ということもまたそうした協働
的製作、問うプロセス、として捉えるべきであろう。その意味で、田村先生のテーマは学問の
方法ということを通じて Realism for Social Sciences の哲学部分と完全にリンクすることが
確認されました。(更に、ウィトゲンシュタイン問題を含めれば、「遊び」問題とも絡むこと
になって、埋めるべきところが埋まるようにも思われます。)
蛇足となるかも知れませんが、直前の投稿で守永先生が言われた経済学におけるリアリティと
いうか、多性の問題について。本日の会議でも、そこを言いたくて、しかしどうもうまく言え
なかった部分なのですが、それは「学者としての営み」というレベルでの「個(別)性」と言
いましょうか、「怖れ」とか「不安」、または「期待」あるいは「利益の相反(であれば犯罪
ですが)」、それらが学問の「実践」という段階において、ダイレクトに制約となって関わる
という、いわば学問の実践上のリアリティ問題があるということが、申し上げたかった点です。
多元性ということを、そのような実践の状況に関連付けて見つめないと、特に経済学のような
学問分野においては、学問が「骨抜き」になる…(発言者が責任を回避するようなバイアスの
かかった、想像力の欠如した、議論しか出てこなくなる)と思います。そのような意味で、特
に重要な多性(の具体例として私が肌で感じるもの)を挙げるとすれば、それは、今日で言う
とケインズ的な蓋然性の把握、つまり本質的、本源的、絶対的な不確実性を直視して、それと
対面しようとする想像力でしょうか。
通常、専門家は「怖れ」について語る場合は、単なる素人であることがしばしばですが、端で
それを聞いている者は、科学者の(怖れ)意見として聞いてしまうので、学問的に真摯な態度
としては、「◯◯の怖れ」を語る際に、「何が分かっていないか」を「何が分かっているか」
以上に、説明することが必要であり、「多元的である」というのが特に重要であるのも、そう
いう「何が分かっていないか」ということを推し量らせるためにあるのでなければならないと、
それが「多即一」というダイナミックなプロセスであると思います。
方々にもメール連絡が届いていると思われますことと、もう一方で、本日ご参加頂いた
方々の中にもメール連絡が届かない方々もおいでになりますので
これは失礼しました。昨日のミーティングは「ホワイトヘッド学会と、Realism for
Social Sciences の企画を整合的にリンク」するための打合せで、こちらの板と必ずしも
直結しているわけではありませんでしたね。BBS に書き込むよりメールで流すべきだった
かもしれません。うっかりしておりました。
>経済学におけるリアリティというか、多性の問題について。「学者としての営み」という
レベルでの「個(別)性」と言いましょうか、「怖れ」とか「不安」または「期待」、それら
が学問の「実践」という段階で、ダイレクトに制約となって関わるという、いわば学問の
実践上のリアリティ問題があるということが、申し上げたかった点です。
ここでいう「怖れ」「不安」「期待」というのが、経済学の内部事情を詳らかにしない私ども
素人にはピンと来ないところでありますし、逆に言えば、経済学徒ならずとも誰でも「怖れ」
「不安」「期待」はあるわけで、どうしてそれが問題なのかよく解らないというところが
昨日私が言いかけようとした点です。
むろん竹内先生が仰ったように、経済学がとりわけエンジニアリング化していて、それから
独立した形で理論的・原理的な言説を発しにくいという、いわば技術的問題なら解るような
気がしますが、それにしてももっと具体的に分節して頂かないと、やっぱりよく解らないと
いうのが正直なところです。
>多元性ということを、そのような実践の状況に関連付けて見つめないと、特に経済学の
ような学問分野においては、学問が「骨抜き」になる(……)そのような意味で、特に重要
な多性を挙げるとすれば、それは、今日で言うとケインズ的な蓋然性の把握、つまり本質的、
本源的、絶対的な不確実性を直視して、それと対面しようとする想像力でしょうか。
蓋然性ないし不確実性の直視および、それにたいする想像力ということであれば、それなり
に私にも解るような気がしますが、これにしてもあらゆる学問ひいては表現活動が本来
そういうものだと言えなくもありません。
>学問的に真摯な態度としては、「◯◯の怖れ」を語る際に、「何が分かっていないか」を
「何が分かっているか」以上に、説明することが必要であり、「多元的である」というのが
特に重要であるのも、そういう「何が分かっていないか」ということを推し量らせるために
あるのでなければならないと、それが「多即一」というダイナミックなプロセスであると
思います。
で、いきなり学問論に飛んでしまうという点に、おそらく葛城先生も違和感を表明なさって
いたのだと思われます。
素人なりに考えると、経済現象というもの、ひいては広い意味での社会における「トラン
ザクション」というものは、それこそかつて栗本慎一郎さんが論じていたように本来多様
極まりない現象であるはずです。それが現代社会においては貨幣により甚だしく一元化
されている。なぜこんなことになってしまうのか。
そこには「価値」の問題がかかわる。貨幣による価値づけがむやみに強力なものになって
いて、それはなぜか、それをどう脱構築すべきか、という点が現代の経済学に問われている
ことでしょう。
で、それは必ずしも個々の経済学者の学問にたいする真摯さとか、真面目さといった学問論
に収斂すべき問題ではなく、学者個々人の有り様とは切り離された形で、具体的に色々と
論ずべき問題であろうと思われる。
昨日もちらっと申しましたが、フーコーの言説がインパクトを持ちえたのは、必ずしも彼が
「哲学者」であったからではない。医療や公衆衛生の歴史のなかに具体的な主題を見出し、
それを近代の人文科学の展開と結びつけ、その倒錯を告発したからでしょう。
レヴィ=ストロースにしても、人類学という多様極まりないコーパスのなかで、たとえば
近親相姦の禁止のような普遍的で、かつ人類を1つの構造の中に組み入れるようなテーマ
を見出したからこそ、その言説は人類学を超えたインパクトを持った。
いちばん目立つ例がマルクスで、かれはヘーゲル哲学から経済学を引き出したのではなく、
資本の分析から新しい哲学を導き出した。
例をあげればきりがありませんが、そうした具体的なものの中から「哲学」を見出す営み
こそ肝心で、そのときの哲学は定冠詞つきのものではなく、不定冠詞の複数性の哲学となる
でしょう。むしろそうした生々しい現実から知を引き出す営みこそが、フーコーがいう意味
での「現代的」かつ「今日的」な哲学のスタイルなのだと思われる。そして、フーコーの
言葉を信じるなら、それには内/外の二者択一を脱して、ひとり境界に立つ、そんな哲学的
態度、哲学的生を生きることが要請される。
まあ、そこまで困難な途を歩まずとも、もっと一般的に経済学者が私たち素人に語る場合
には、何らかの具体的な経済現象から出発することが期待される。そうすれば他のジャンル
の人たちと話の糸口が見つかるでしょうし、むしろそんな「語り口」を工夫すること自体が、
現代における真正の知の営みであるだろうと私には思われる。それこそがむしろ、フーコー
のいう「境界の知」の実際の有り様なのかもしれません。
それは浦井先生の仰るところの「何が分かっていないか」を語る営みでもあるでしょう。で、
おそらく私どもは誰も彼もほとんど「何も解っていない」というのが現実で、そのことは
べつだん恥ずべきでもない。「怖れ」「不安」「期待」といった心理的な問題ではなく、現代
における知識の構造そのものに由来するのですから、それを具体的に対象化せねばなら
ない。それこそが学問的営みだと言えなくもない。
思うに、現代の経済学者1人ひとりがそんな企てに身を挺するとき、新しい経済の哲学、
ひいては新しい哲学そのものが生まれるのではないでしょうか。
やはり当然ではないところが問題なわけで、それが良く分かります。有難うございます。
守永先生がご指摘下さった表現が、ある意味、当方の答にもなっているのではないかと思います。
> 極まりない現象であるはずです。それが現代社会においては貨幣により甚だしく一元化
> されている。なぜこんなことになってしまうのか。
>
> そこには「価値」の問題がかかわる。貨幣による価値づけがむやみに強力なものになって
> いて、それはなぜか、それをどう脱構築すべきか、という点が現代の経済学に問われている
上のご指摘に、時として「誤解」の危険があることも含めて、「今日の」経済学の良い面も、悪い
面も、問題点も、そしてリアリティも、含まれていると思います。
まず、誤解から申し上げますと、経済学は上の意味での「貨幣による価値づけ」には関与しており
ません。関与していないどころか、そういう意味での「貨幣」は「今日の」経済学の純粋理論の中
に、第一義的なタームとして入っていません。厳密に表現すると、大学のミクロ経済学理論の中級
レベルのコースで、消費者、生産者、均衡、最適性、加えて市場の失敗、外部性等一通りのコース
を解説し終わる間に、「貨幣」は一切出てこないという、そのような意味においてです。
もちろん、貨幣は出て来ませんが、所得も、価格も出てきます。つまり、今日の経済学が関与し
ているのは「価値情報」という意味での「貨幣的な情報縮減性」であって、貨幣ではありません。
ただし、その「貨幣的な情報」というのは、今日の経済学理論における最も重要な「リアリティ」
であると私は位置づけております。それを放棄するなら、経済学は経済学でなくなる、と言っても
過言では無いと考えております。ゲームにはなるかもしれませんが、経済学の本質は、あくまでも
価格理論(価格=価値情報=貨幣的な情報)であるというのが、私の見解です。
ちなみに、ケインズは、初めて、この価格理論から脱却して、所得分析というべきマクロ経済学を
提案したと言えると思いますが、今日のマクロ経済学は、それを放棄して、再度この価格理論へと
回帰しています。
さて、問題は、この価格理論(貨幣的な情報の理論)が、実際に「貨幣」と関わる、その関わり方
です。言い換えれば「理論」「実践」「製作」におけるその実践の段階です。ここにおいて、今日
の経済学理論は(上に述べた通り)その理論の中に、「貨幣」を持っていないのですが、それでも
現実の世界には「貨幣」があるわけで、では何が起こるかというと、私が先に書いた通りで、そこ
に「実践のリアリティ」として生ずるのは、個々の経済学者の「怖れ」であり「不安」、あるいは
「期待」が出てくるばかりで、とんでもない状況(理論がまともに実践に活かされない)であると、
それが私が申し上げたかったことです。
この状況を打開するには、「貨幣的情報」の経済学理論を、現実社会の「貨幣」に接続する、道筋
をつけるというのは、王道ですが、この王道は、上にも少し述べた通り、かつてケインズが(当時
の古典派に向けて)試みたことではあります。新古典派に向けてこれを試みるという作業は、いわ
ゆるルーカス批判というもので阻まれます。(これは簡単に言うと、モデルの全体性が展望されて
しまう限り、いわば「貨幣的情報」と「貨幣」の差異、理論と現実の差異は、消失してしまう、と
いう話です。)
この消失は、理論にとっては(現実との差異が無くなるというのですから)むしろ好都合なのです。
もちろん、それは、とんでもない逆転、本末転倒ではあります。
この消失は、例えばモデルに「無限性」のようなものを導入した場合、再現してくるのですが、そ
れも「展望できなければ」というだけの話です。その無限
が展望されてしまう限り(例えば、今日のマクロ経済学の言葉で言うと、横断性条件のようなもの
がある限り)理論は現実から乖離せずにおれるわけです(正確には理論から乖離した現実を相手に
せずに話ができる、その範囲を確保しているという本末転倒なだけなのですが)。
唯一の突破口と言えるものが、無いわけでもありません。実は「世代重複モデル」という「死」と
「無限性」を経済モデルに導入した理論があります。これはいわばモデル内の主体に「死」を導入
することで、モデル内の主体にとっては全体性を展望できなくする(することにも意味がないよう
にする)ことと、加えてそのような主体が「無限」に世代として連なっていくことで、モデルを開
いたものにするわけです。
世代重複モデルでは、「貨幣」が初めて活きます。ちなみにこれも(特に本職の方に)誤解が多い
のですが、普通の世代重複モデルは、ワンショット均衡あるいはせいぜいが一時的一般均衡の枠組
なので、その貨幣が「信用創造」の貨幣であるという把握が困難になっているようです。けれども、
これはサミュエルソンがその当初の論文でタイトルとしたように「ローン」であり、歴とした信用
貨幣の方を指す概念です。(もっとも一時的均衡の枠組みで具ラモンが現金としての money を強調
しすぎて混乱を招いたのは、一般均衡
界隈の研究者の責任と言うべきですが。)
私個人としては、こうした世代重複モデルの枠組みに合わせて、信用創造の明確な仕組みをを記述
するというのは、とても大事なことだと思っています。これは森嶋が、晩年試みていたこと(信用の
一般均衡)と重なります。
あるいは、「貨幣的な情報」という、経済学に於けるほぼ絶対のリアリティ(と私が感ずるもの)に
重点を置いて、現代の経済学の枠組みそのものを大きく書き換えるという作業も、あり得ると思って
います。経済学理論の本質は、アダムスミス以来の「貨幣的な情報」による「情報縮減」の意義です。
これがスミスの言う見えざる神の手であり、ハイエクの言う自由な市場における情報の効率性であり、
今日の経済学理論では、厚生経済学の第一基本定理(貨幣的情報下の分散的資源配分メカニズムは、
効率的である)と呼ばれるものの本質です。
もう一方で、厚生経済学の第二基本定理というのは、「効率的で望ましい状況」であれば、それは
「市場=貨幣的情報下での分散的資源配分システム」で実現できるか、という話です。これも経済
学理論の本質を形成する一つです。マクロ経済学で言うと、ターンパイク定理などは、こちらに
分類してしまえるでしょう。ミクロ経済学で言うと、コア収束などは、こちらに分類してしまえる
ものです。
このようにカテゴリーを再構築してしまうことをもって、経済学理論の本質を守りつつ、その現実
への適用可能性を大きく担保しなおす作業、個人的にはそのような作業が大切と考え、取り組んで
おりますが、まだその足場を作っている最中…というところです。
つい、長々と書いてしまいました…すみません。
> ちなみに、ケインズは、初めて、この価格理論から脱却して、所得分析というべきマクロ経済学を
> 提案したと言えると思いますが、今日のマクロ経済学は、それを放棄して、再度この価格理論へと
> 回帰しています。
価格理論から「脱却」したというのは、まずい言い方で、むしろそれをきちんと「一般化」したと
いうべきです。だから「一般理論」なわけですから。
今日のマクロは、この「一般理論」を放棄して、再度、特殊理論に舞い戻ってしまったと言えると
思います。というか、多分ほとんどの方は「一般理論」がどうして「一般理論」だったのか、理解
しておられない(興味が無い)んではないでしょうか。
すぐに返事を差し上げるつもりでしたが、いざメディア授業が本格的に始まると、思いの
ほか忙しく……
目下、非対面型としては C-learning とBlackboard、対面型としては ZoomとTeams と
いう4種類のメディアを用いて授業を行なっており、それらに習熟するのがなかなか大変
です。とりわけマイクロソフト社の Teams がやたら重く、ソフトバンクに言ってローター
を新製品に取り換えたほか、やむなく自分もDellのノート型パソコンを最新型に買い替え
る羽目に。おかげで通信環境に何ら問題はなくなりましたが、それやこれやで20万ほどの
出費で、大赤字であります。
ネット型授業だと楽なように勘違いしておりましたが、学生からの問い合わせや質問など
が引きも切らず。課題をやって写真に撮ったものをメールで送らせるのですが、いちいち
チェックしてコメントを返すのに、やたら時間を取られます。これまでは「やっときなさい」
で済んだのに……
*
浦井先生のコメントを読み、しごく解りやすくなった部分と、自分なりの観点からこれは
申し上げておいた方がよさそうだという部分があります。じつはこの後者にかんしては、
かねてより「めくら蛇に怖じず」で申し上げてきたことであり、いくら先生から懇切に説明
されてもいっこうに納得していない論点であります。それをもう一度取り上げておきます。
それは、まさに以下の問題にかかわります。
>今日の経済学が関与しているのは「価値情報」という意味での「貨幣的な情報縮減性」
であって、貨幣ではありません。ただし、その「貨幣的な情報」というのは、今日の経済学
理論における最も重要な「リアリティ」であると私は位置づけております。それを放棄する
なら、経済学は経済学でなくなる、と言っても過言では無いと考えております。経済学の
本質は、あくまでも価格理論(価格=価値情報=貨幣的な情報)であるというのが、私の
見解です。
>問題は、この価格理論(貨幣的な情報の理論)が、実際に「貨幣」と関わる、その関わり
方です。今日の経済学理論はその理論の中に「貨幣」を持っていないのですが、それでも
現実の世界には「貨幣」があるわけで(……)とんでもない状況(理論がまともに実践に
活かされない)である(……)
以上の浦井先生のお話を、私は以下のように要約したいと思います。
今日の経済学が関与しているのはあくまで価値情報である。これは別の言い方をすると
貨幣を介した情報の縮減性であって、貨幣そのものではない。この意味での価値情報、
ようは価格理論こそが経済学の本質であり、そのリアリティである。ところが、価値情報
と貨幣は異なる。もし両者が厳密に一致するなら、経済学者は経済の動向を完ぺきに予想
でき、ことによると市場で大儲けできるかもしれない。しかるに両者は蓋然的には相関する
(ように見える)ものの、コヒーレントに一致することはない。
ここで私の考えを端的に言わせてもらうなら、貨幣とは外部性なのだと思います。外部性の
象徴こそ私たちが「貨幣」と呼ぶものではないか。で、この意味での貨幣に現代経済学が
関与し得ないのは当然のことのように思える。
これはたとえば詩人に「言葉とは何ぞや?」と問うに似ている。そんなことを考えて詩作
する者など誰もいない。言葉は使うもの、使用するものであり、それにより一定の効果を
上げることができればそれでいいわけです。かつて詩人はポリスの民に仕えた。あるいは
王に仕えた。共同体の要請を言葉にするものが詩人だった。
近代以降、詩人は仕える相手を失う。近代の大衆は詩を必要としない。かくしてマラルメ
のいう「芸術のための芸術」の時代になる。むろん少しでも売れた方がいいでしょうし、
そこに文学的流派が生まれることもある。一国における一時代の文学的な価値観が形成
されることすらあるでしょう。その一方、あくまで自分が信じる美や価値観に殉じるのを
選ぶ「呪われた」詩人も出てくる。
貨幣にしても使用するのが何より肝要です。使わず溜め込む吝嗇漢は、上記の「呪われた
詩人」のような存在と言えましょう。破滅を運命づけられています。おそらく内部留保に
血道を上げる日本企業もまた……
さて、使用するかぎりはそこに価値が関わる。交換され、価格の体系が形成されねばなら
ない。むしろこの価値情報の体系性が担保されることが肝要で、そこで「貨幣とはなにか」
と問うことなどバカげている。貨幣とはたんに交換の手段にすぎないからです。商品の価格
ないし価値は、つねに後づけで決まる。
そんな「使用」に還元されぬ価値をもたらすもの、それを私は「外部性」と呼びたい。
これを詩と経済を対比させて論じてみましょう。
ありふれた詩人、あるいは現代の作詞家たちにとって言葉の存在は自明です。それを自明と
考える者には決して見えない外部性、それが言葉の記号性ないし超越性です。それは権力と
歴史に刺し貫かれている。
同様に、私たち現代の消費者にとって経済の存在は自明です。私たちにとって貨幣は交換の
手段でしかない。コンビニでものを買うとき、ほとんど意識すらしない。そんな一般の経済
人には決して見えない外部性、それが貨幣の象徴性そして超越性ではなかろうか。
それはたんなる情報の縮減性ではない。情報が差異の体系であるとするなら、それを超えた
もの、それ以前のもの、それを攪乱するものを貨幣はもたらす。それは濁りであり、雑音で
あり、乱調である。ざらざらして、体系に吸収不可能なものである。
たとえ目下の貨幣の役割が暗号貨幣へと移譲されるに至っても、それが記号として書き
込まれ、ひとの目に晒されるものであるかぎりで――ことによると今の貨幣以上に、それは
システムの攪乱要素になる可能性があります。貨幣が記号に近づけば近づくほど逆に、その
不安定性が高まるという逆説的な可能性はないだろうか。
一言でいえば、安定した体系性に還元不可能なもの――その意味で私は「外部性」という
言葉を使いたいと思うのです。
言葉にすぎぬものが言葉を超えた映像と情動と運動をもたらす、記号にすぎぬものが記号
を超えたヴィジョンを垣間見せる。むしろそれこそが言葉の本質であり、私たちが言葉に
秘かに期待するものではなかろうか。
私たちは言葉の意味がその内にあると信じてしまう。しかるに、それは言葉の外にある。
私たちは貨幣の価値がその内にあると信じてしまう。しかるに、それは貨幣の外にある。
むろん形式的には内と外を整合的につなげば、言葉は了解可能なものになり、貨幣はコント
ロール可能なものになるでしょう。しかるに、それを許さないような《外》、私たちの想定
を超えたもの、そもそも想定不可能なものを私は外部性と呼ぶのです。この意味での超越性
は、べつだん神秘的なものではない。言葉の外に神はおらず、経済の外に神の手など働いて
いない。
外なる神を夢見ることは、競馬必勝法を求めるようなものです。これは断言できることです
が、少なくとも中山競馬場に神などおりません。馬券が当たらないのは神が居るからでも
居ないからでもない。悪魔が居るからでも居ないからでもない。端的に、当たらないので
ある!なのに、誰かは必ず当たっている。1人も当たらないレースなどめったにない。時に、
すべては偶然の戯れだと言いたくもなるわけです。しかるにそうではない。これが今回、
私が強調したい論点です。
貨幣はなぜ濁ってしまうのか。透明ではあり得ないのか。それは自らの外部とつながること
で、その生命を得ているからです。貨幣は市場と結びついている。市場は生活と結びついて
いる。そして生活とは、本来的に不安定なもの、見通しの効かぬものである。そこから貨幣
はやってくる。
マラルメは晩年、「いかなる骰子の目も偶然を廃位することはないだろう」(Un coup de dés
jamais n'abolira le hasard)という長い題名の詩を書きます。この詩の題名については色んな
解釈がありますが、じつのところ至極単純な話だろうと私は思います。
と申しますのも、1つの骰子には6つの面しかなく、それを2つ組み合わせたところで、
出目には限りがあります。出目は蓋然的です。それは必ずしも偶然ではない。マラルメが
言わんとするのは、そんな蓋然的な真実についてではない。世には予測不可能な偶然という
ものがある。それがいわば王座につき、世界を支配する。
一発の銃弾により世界戦争が始まる。偉大なる王が病気で突然死する。単勝1倍台の馬が
出遅れる……
そうした偶然の王位を蓋然性が廃し、その座を奪うことなど決してないだろうと詩人は
言うのです。いくら蓋然性の計算をやり尽くしても、偶然性の到来を避けることはできない
だろう。その王座を揺るがすことはできないだろう、と。
そして、そんな偶然性こそがマラルメにとっては美の実在性の根拠とも見なすべきもの
でした。外なるものが今この時に奇蹟のように立ち顕われる。実在するに至る。それが美の
契機、美の実在の刻(とき)です。バタイユが「好運」と呼んだ一刻です。
マラルメの詩では蓋然性にすぎぬものと偶然性が対比され、偶然性の優位が宣言されて
いる。この場合の偶然性は、あくまで蓋然性との対比で見出されるものであり、すべては
偶然だとか、すべては遊びだとか決めつける、そんな粗雑な眼差しが把捉できるものでは
ありません。あらゆる蓋然的な可能性を尽くしたところにしか、偶然の王座は姿を顕わさ
ない。しかも、その後の詩の展開を読むに、それは一瞬姿を顕わしても忽ち消え去るような
何かなのです。語り手である難破船の船長の死とともに、一切の魂のドラマは底知れぬ海の
晦冥に姿を消します。
マラルメは詩の言葉の本質を問うて、その記号性の生起と消滅をいわば蓋然性と偶然性の
戯れとして1篇の詩に結晶化してみせたわけです。
さてそこで、身の程もわきまえず、私が主張したいのはこういうことです。貨幣の本質は
蓋然性にあるのではない。価値や価格といった予測可能な差異の体系性の内にあるのでは
ない。むしろその外に、本来はいかなる意味でも予測不可能な偶然性からその生命を貨幣は
得ている。私たちは価格が一定の蓋然性の計算のもとに決まるように錯覚している。多くの
人がその錯誤を共有しているかぎり、たしかに価格は一定の枠内で決まる。が、それはそも
そも幻想のごときものである。そんな幻想を担保するのが貨幣の役割であり、貨幣とは経済
幻想の象徴である。共有された幻想が崩れれば、価格や価値など一瞬にして崩壊する。経済
理論も、経済学も跡形もなく消滅する。実際のところ、そんな場面に私たちは歴史上何度も
立ち会ってきたはずである。
ちなみに、マラルメの時代に本の消滅という事件が(何度か)ありました。19世紀末の
フランスで、売らんかなの商魂から版元が本をたくさん出しすぎた。折も折、大衆の娯楽の
対象が自転車やハイキングに移り、誰も本を読まなくなった。途方もない暴落が起き、出版
機構が一時的に停止したのです。マラルメはそれを見た。書物とはいずれ消滅するメディア
だという確信を持つに至った。むしろだからこそ、『骰子の一擲』という最後の書物を推敲
することに精魂を傾け、その途次で頓死するのです。
今だってまだ本はあるじゃないか、本の時代は終わってないじゃないかと強弁する人たち
が大勢いる。しかるに、そんな人たちはいまだ書物の死を体験していない。書物もまた死ぬ
ものだと自覚していない。だからこそ「来たるべき書物」(ブランショ)に想いを馳せる
ことができないのです。
無理やりこの「書物の死」を経済学の理論に結びつけてみましょう。経済学もまた死ぬの
です。というか、実際にはもう何度も死んでいるのです。なのに自分たちが死んだこと、
死すべき存在たることにいまだ気づいていない。理論の内に死が折り込まれているのに、
それを見ないで済ませている。思えばマルクスの経済学批判とは、じつはこの点に懸かって
いたのではないか。
マラルメは詩が外から来るものであることを弁えていた。むしろ外から来るものを受け
止める器として自らの最後の書物を準備した、と言えるでしょう。
来たるべき経済学者もまた、あたかも詩人のように、体系を死に至らしめる致命的なもの、
すなわち貨幣を自らの体系の内に容れるべきではなかろうか。というか、正確に言うなら、
経済学という体系が生きているように見えるのは、我知らず秘かに貨幣によって生かされ
ている、あるいは生き延びさせられているからではあるまいか。
体系は自らに死をもたらすものによって逆に生かされているのではないでしょうか。いわば
ゾンビのごとく。そしてゾンビとしての生を肯定することこそが、じつは真に生きること
なのではないかと私は疑う者であります。
[添付]: 26218 bytes
あとで読み返して、書き落としていた点に気づきました。付言しておきます。
>貨幣は市場と結びついている。市場は生活と結びついている。そして生活とは、
>本来的に不安定なもの、見通しの効かぬものである。
なぜ生活が本来的に不安定なのか。それは生活が自然と結びつき、切り離せないからで
しょう。私たちは息をし、飲み、食べる。肉体自体が自然の産物で、その影響を被るのを
避けられない。外から来た病いに、ウイルスに感染する。現身(うつしみ)は病み、老い、
劣化し、死滅してゆく。ひとときも動きやまぬプロセスの渦中にある。
それと蓋然性と偶然性の対比ですが、これはケインズとホワイトヘッドの対立点でも
あります。
高踏で難解を極めるケンブリッジでのホワイトヘッドの講義に最後まで出席していた学生
がケインズでした。なのに、この愛弟子の博士論文、というか教授資格論文と言うべきかも
しれませんが、のちに『確率論』として結実する論文を「十分に哲学的ではない」として
師は撥ねつけた。哀れ、稀代の秀才ケインズは留年する羽目に…… かれがアカデミズムを
去り、経済官僚として頭角を現わす一因となります。
のちにケインズから贈呈された『確率論』についてホワイトヘッドは『過程と実在』で触れ、
いささか微妙な言い回しで、自分の考えと大きく異なるものではないと賛同を示している。
本当にそうだろうか?というのがかねてより疑問で、自分の論文で以前ちらっと触れた
ことがあります。実際には両者の思想は全然違うのではないか?弟子が蓋然性の人である
としたら師匠は偶然性の人で、ぎりぎりのところで両者は相容れないのではないか。
この論点にかんしては、いずれちゃんとした論文を書くつもりです。
大阪大学の竹内です。通りすがりに、「蓋然性」と「偶然性」というワードに反応してしまいました。確率をめぐるこの二つの概念については、Hackingを始め議論が展開されています。
次の2冊が参考になるかもしれません。
イアン・ハッキング (2013)『確率の出現』慶應義塾大学出版会
ジェームズ・フランクリン (2018)『「蓋然性」の探求』みすず書房
個人的には、「蓋然性」とみるか「偶然性」とみるかで、未来への開かれ方が違うように思うのですが。
時間がないので、この辺で。
具体的な書名を教えていただき、ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。
私としても蓋然性と偶然性について現代的な議論が喧しく
行なわれていることを知らぬわけでもないのですが、
かなりテクニカルな議論となり、目下のところ余り深入り
できそうになく……
この問題を一時代前のケインズとホワイトヘッド、ひいては
マラルメやバタイユ、九鬼周造あたりにまで遡って論じたら、
新しい別の切口を見出せるのではないか?というのが、かねて
よりの私の関心事であります。
>経営者が興味を持っているのは、貨幣そのものではなく、資産や負債、収益や損失、株価
の変動、などとして表される数字の増減に過ぎません。また、経営するということは、お金
を貯めるとではなく、資金をいかに回すか、また回転率を高めるか、という動きそのもので
あり、これを止めることが法人の死に結びつく、という強迫観念に突き動かされている、と
いうことです。
なるほどと膝を打ちました。経営と経済の関係について自分の思うところを少し述べます。
経営者はもっぱら自分の会社の「数字の増減」に関心を持ちます。経営学そのものもまた、
個々の会社の動向や、それらの集合としての国家単位の経営に関わりを持つ。
実際には個々の経営は基本的に国家に組み込まれています。そして、国家におけるマクロな
「数字」を扱うのが経済学だと見なされている。経済学が中小企業の経営に容喙することは
ない。それは個々の企業の経営陣の仕事であり、経営学の仕事であり、官僚や銀行家の仕事
でしょう。そこに国家単位の経営が問われるようになると、経済学が介入してくる。
なぜそんな役割分担が生じるかと言えば、経済学が《数》を握っていると見なされている
からで、数が経済を支配し、世界を支配すると暗黙のうちに理解されているからです。
経営者ないし経営学が扱うのはローカルな、いわば「小さな数」であるのにたいして、経済
学が扱うのはグローバルな「大きな数」です。小さな数は経営者の采配でコントロール可能
だと見なされている。他方で、大きな数を扱うのは経済官僚であり、経済学者の使命だと
目されている。ゆえに、とても威張っている。
小さな数は《人》と関わる。ひと次第で何とかなると皆、楽観ないし達観している。これに
たいし、大きな数が人の思惑を超えることも皆、薄々気づいてはいる。コントロールする
ことなど無理だ、と。ただそんな悲観的なことは誰もはっきり口に出して言いたがらない。
人すなわち「小さな数」に関わる知は、どんどん放恣になり、厳密さを失う傾向がある。
数すなわち「大きな数」に関わる知は、いよいよ厳密になり、厳格さを極める傾向がある。
しかるに、どちらの方向もはなはだ怪しい。
中小企業であるか大企業かを問わず、また地方か国家であるかを問わず、《人》の支配を
自明視して、合理的な経営の理念を失った組織は崩壊するしかない。
同様に《数》の支配を当然視して《人》を見失った経済もまた、合理性の追求を金科玉条
として、生きた社会を破滅に追いやるのではないか。
ひとが頼りにならぬことは誰もが知っているので大過ないのですが、なぜか数のほうは
信じられると多くの人が錯覚している。そのあげくが、たとえばサブプライムローンの不良
債権化に端を発する2007年の世界金融危機でした。そこでは数学者が司祭として君臨
し、そのあげく市民経済を破綻に追いやった。
貨幣の問題は、この意味での《数》それも大きな数に関わります。それは近代以後の経済学
に取り憑いた宿痾のようなもので、現代の経済学から数理を切り離すとしたら、いわば心臓
を切り取るようなもので、今とはまるで異なるものになる、というか死んでしまうでしょう。
逆に言えば、経営学から《人》を切り離すとすればどうか?
いったん経済学から数を切り離してみる。あるいは、経営学から人を切り離してみる。
そこにどんな風景が見えるか、いちど試してみたらどうだろうか?
おそらく数なき経済学は哲学に直面し、人なき経営学は歴史に直面することになるのでは
ないか。そして実際のところ、それこそが今、必要なことではなかろうか。
別の言い方をすれば、数でもなく人でもないところに私たちはある種の構造を見出す。
それは、いわゆる構造主義の構造とは何の関係もありません。もっと深いところで私たち
を動かしている構造――社会の仕掛けであり、仕組みです。
経営学とか経済学といった区分以前に、そうした社会の基底に目をやること、その仕組みを
究明し、それに働きかけることが知性の役目だと私は信じる者です。
なるほど、経営(学)のリアリティにおいては、全体性の代わりに個別ながらも動的な、
ダイナミズムがありますね。そのぶん貨幣との関わりも、ミクロ経済学理論の価値情報と
いうことよりも、ずっと信用(貨幣)に近い部分があると思います。
守永先生の人間という表現をお借りするならば、経済学理論は、まず人間とダイナミズム
を捨てて、理論を閉じたところがあり、経営学はダイナミズムを残して理論を開き、残りの
部分が人間という問題に託されている、というところでしょうか。
個人的には、人間を捨てたタイプの経済学理論を相手にせねばならない、というような段階に
おいて、蓋然と偶然の違いについてはまず目を瞑るということもありなのではないか…と考え
ております。加えて、「数」を「取り扱う」ということについて、大事なのはその「扱い方」
の方であって、「数」ということに、まずは問題があると考えない方が良いだろう、とも考え
ております。
あと、まあ、細かい点はいろいろあるのですが、それはさておいて、守永先生が貨幣について
持っておられるお考えに、上記の点を加味させて頂けるならば、大筋(特に前段の方に向け、
かなりの大筋になりますが)合意します。
早速のご意見を有難うございました。大変興味深く拝見しました。私の書き方も悪かったのですが、私の書いた世界は、「経営」のリアリティーであり、経営学のリアリティではなく、しかも、その「経営」あるいは「経営学」のリアリティーが、「現実」とはズレてきているのではないか?という点が、大きな疑問なのです。守永先生のご指摘、「経済は大きな数字」「経営は小さな数字」と言われましたが、実は、単純に数字だけを言うなら、この4月にGAFA+M(マイクロソフト)の時価総額は560兆円で、遂に日証第一部の総額を超えてしまいました。また、取引スピードで言えば、Amazonは一分間に日本で2000億円以上の商売をしています!彼らは、国家の法律には一応?従いますが、そこに消費者がいる限り、やすやすと国境を越えていきます。このようなグローバル企業の実態に即したリアリティーを、経営学は全く描き出せてはいません。また、今年の前期は学生たちが家にいたため、「家で学ぼうビジネスの基礎」というタイトルで、徹底的に消費者視点の経営学をオンラインで提供したのですが、なんと、彼らの出会う製品やサービスを提供する企業(オンラインでもオフラインでも)、これらが向っている将来は、ほとんどが「無人化」「IT化」だったのです!コンビニも、現在の24時間営業や人手不足の問題を解決するために、無人店舗の実証実験に入りました。また、物流も、無人配送車の実証実験をしています。仕分けや梱包は時間と人件費を削減するために、かなり以前からIT化が進んでいます。音楽や映像は、サブスクリプションによる配信サービスが主流となりつつあります。このような動きは、コロナ渦でかなり加速されており、中小企業にも及んでいます。というように考えると、もはや経営現場に「人」がいないという事態が珍しくなくなります。また、本来は経営者がやってきた経営意思決定をどこまでAI化できるのか、ということが現実の大きな課題になっています。というような、経営実践のリアリティーを、おそらく経営者も完全に把握することができず、経営学者にいたってはほとんど描き出せていないと思います。時間感と空間感が、主体によってかなりズレているのかもしれないなどと思ったりしています。これはこれで、SF小説として描くなら面白いのかもしれません。実は、経営の世界を描くには、文学のリアリティーの方が、「リアル」なのかもしれませんね。村田沙也加『コンビニ人間』の「世界」のように。
「日証第一部」→「日本の東証第一部」
経営(学)のリアリティと書きましたが、(学)は「故にその学が目指すべき」の意で付けた
として、問題ないと思って付けたところです。有難うございます。
そうですね。数の大小ではなく、「全体性」を得るべくダイナミクスを犠牲にした経済学
と、部分のダイナミクスを活かす代償として人間に話を開いた経営学、という対比が良い
と思っております。共に人間に向けて開かれているという感じで、守永先生のお話にも継
がると思います。
そして、大小で言えば、まさしくご教示の通り、今日のリヴァイアサンは国家などではなく、
国際金融資本と多国籍企業、派手な表向きとしては GAFA &マイクロソフトといった今後の
情報インフラの鍵を握っている企業ですが、やはりその背後にある銀行資本、エネルギー、
軍産、製薬などの、国家ごときには縛られない、企業であり、その「文明の意味」でしょう
か。それを見据えなければならないと思います。
そのためには、経済学の全体性のリアリズムだけではだめで、また、経営学のダイナミクス
的なリアリズムだけでもだめで、それらが統合され得るような、新たな研究枠組みが必要
になると思います。村田先生の「文明と経営」は、少なくともそのような枠組みを提供する
ものであったと思います。
コロナ禍もまた、そのような(新たな)リヴァイアサンと旧リヴァイアサンである国家との
間で生ずる、壮絶な戦いのようにも見えます。その結果、勝ち残って来るものが何なのか、
まさに今、しっかりと見定めねばならないように思います。
今日の状況は、新たにこれからの「国家」のあり方や役割を、認め直す一つのきっかけに
なるかもしれません。また逆に、国家など、この先無くなっていくという、その予兆なの
かもしれないですね。そして「貨幣」はその各々の先々、どのようなものになっているの
か。あるいはどのようなものになるべきか。
そのようなことを考えさせられる昨今です。
先日の私の感想は、古いタイプの日本の経営および経営学を念頭に置いたもので、目下
栄華を極めるGAFA&マイクロソフトのような新しい情報産業を考慮に入れたものではあり
ませんでした。
ならば「古いタイプ」の経営(学)とは何かと申しますと、歴史的に見るとき、ドイツに
生まれた経営学がアメリカに移植され、とりわけフォードら自動車産業の経営をモデルに
構築されたもの、ということになるでしょう。そこでは経営者自身が経営学を開陳すること
が珍しくなかった。経営とは組織の問題であり、人の問題だった。その時代は「小さな数」
を考慮に入れていれば済んだ。経営と経済学は半ば一体化していた。
思うに70年代以降、多国籍企業が世に憚るに至り、経営と経営学の乖離は甚だしくなって
行った。だからこそ逆に、いわば古き良き時代への回顧として《ひと》を大事する経営と
いうキャッチフレーズ、ようは「きれいごと」が日本で持て囃されるようになって行った
のではないか。あるいは「ものづくり」とか。いわば経営学が日本的経営のアリバイとして
利用されるに至った。そして、そんな時代は遂に終わりを告げた。
いまや隆盛を極める情報産業により、これまでの重厚長大型産業、とりわけ自動車産業は
大きな方向転換を迫られている。GAFAやマイクロソフトは国家の単位を超えた産業の
新地平を切り開きつつある。その経営に口出しできるような経営学者は恐らく誰もいない
でしょう。というか70年代以降、国家を超えた企業経営が行なわれるようになって行った
とき、その潮流に掉さすような経営学者が――洋の東西を問わず――果たして居たのか
どうか。寡聞にして存じ上げない。はっきり申し上げるなら、その時点ですでに経営学は
1度死んでいたのではないか。
マクロ単位の「大きな数」を扱う経済学だけが、はなはだ不十分なかたちであれ、この世界
潮流を分析の対象とし、時に異議を唱える役割を担った。情報化に根差したグローバリズム
経済において《ひと》は消滅する。あらゆる産業がAI化に飲み込まれつつある。とはいえ
人間の役割はそう簡単に消し去れない。あらためて経済人を定義し直そうとして、たとえば
行動経済学のような学問が流行するのには理由があるのです。
私が「大きな数」と呼ぶものは、そこに無限の観念を抱懐するような数という意味です。
ケインズ以後の経済学は、どこかで無限という問題を抱えている。だからこそ蓋然性や確率
計算が問題になるのだとも言える。これまでの経営学は、この意味での「無限」を考慮に
入れずに済んできたのではないか。それは《ひと》を言い訳にできたからです。
三井先生がおっしゃるように、高度情報化した今の世界経済の動向は、経営学のみならず
経済学の手にも負えなくなっている。そもそも《学》の存立可能性自体が危ぶまれている。
学とは無縁に、世界規模の経済や経営が猛威を振るい、好き放題をやらかし、世界の民衆を
脅かし苦しめている。
《学》とはなにか。それは可能なかぎり広いパースペクティブを持とうとする営みです。
世界や国家のことばかり見て、市民や民衆の生活を考えない。あるいは富裕層の都合ばかり
鑑み、貧民を切り捨てる。そんなものは学の名に値しない。
これまでの学が扱ってきたのは、あるいは扱おうしてきたのは知識にすぎない、とも言える
でしょう。これにたいし21世紀の新しい学は、情報を相手にせざるを得ない。ならば情報
とはなにか。それは私たち個々の人間の意識を超えるもの、いわば人類の無意識の反映です。
私たちは情報化された経済現象のなかに自らの抑圧された欲望や願望を目にする。いや、
それどころではなく、いまや無意識は自らの主人に反抗し、私たちの死生すら左右するに
至っている。
コロナ禍は驚くほどの生命現象ではない。それは命の問題というより、徹底的に経済的な
問題です。私たちはかつてなく決定的に経済人と化している。経済の掟、その支配に逆らえ
なくなっている。この潮流を対象化し、批判しうるような知の体制が必要とされています。
それが経済学を名乗ろうが、経営学を名乗ろうが、大きな違いはないでしょう。
別の言い方、もっと穿った言い方をするなら、人間の学としての経済学も経営学もすでに
死んでいるのだ。みずからの死に気づいてすらいないのだ、ということです。
もし新しい時代の経済学なり経営学があるとするなら、それは自らが死人のよみがえりで
あること、いわばゾンビであることを認めうるようなゾンビ経済学、ゾンビ経営学である
ほかないのではないでしょうか。