セミナー「文明と経営」その後

2017年5月6日(土)、村田晴夫先生(桃山学院大学名誉教授)をお迎えして
日本大学で行われたセミナー「文明と経営、その哲学的展望に向けて」を受け、
特にそこから提起された問い:

   私たちはそれぞれ専門を異にしますが、それぞれの学問にとって
   「具体性」とは何か、その具体性を置き違えるとはどのようなこ
   とか、学問における具体性置き違えがどのような帰結を文明社会
   に引き起こすか、具体性を置き違えないとはどのような学的態度
   ・方法なのか、そのためにどうすればよいのか(村田康常氏)

について、引き続き考えていくためのスレッドです。

【参考資料】
村田晴夫「文明と経営、その哲学的展望に向けて」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/DocMurata1.pdf
守永直幹「象徴としての人間」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaNingen.pdf
守永直幹「生命と象徴」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimei.pdf
村田晴夫「守永氏の「生命と象徴」に応える」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyMorinaga.pdf
村田晴夫「浦井先生の 5.22 コメントに触発されて思うこと」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyUrai.pdf
浦井 憲「ここまでの見取り図」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/UraiMitorizu.pdf
浦井 憲「ここまでのまとめ:学問と倫理」http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/UraiGakumon.pdf

浦井 憲 2017/06/04(Sun) 22:49 No.1
塩谷先生のコメント書き起こし
塩谷賢氏の5月6日セミナー最終ディスカッション時におけるコメントの書き起こしです。ご本人から、聞き取った人の判断で用いてもらって良いとのご許可を頂きましたので、以下にアップロードさせて頂きます。

塩谷賢氏セミナー時コメントの書き起こし http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/ShiotaniComment.pdf

 具体性は「在る」のか、という三井先生の問いから出発し、それでも「主体の成り行く」ところに具体性を認め、「関係性」ということを手掛かりに、そして具体性の Misplaced ということが仮に必然であるとしても、それでも幾分「マシ」な Misplaced ということを模索していく、そういう期待を我々は持って良いのか。当方からそのような質問をさせて頂きました。続いて田中裕先生から、「理論」における、具体性の置き違えの必然といったことのお話があり、それに続く形で頂戴したコメントです。

 村田晴夫先生のコメントを挿んだものです。再度見直しますと、村田先生にお答え頂いた「人間」の置かれる「場」こそ、確かにヒエラルキーと、その循環という「関係性」の下で捉えられた場であります。しかしそれは、鳥瞰的に捉えられたところの、「人間の置かれる場」であるとも受け取れます。ここで「具体性の Misplaced」ということが問題となる、まさにその場は、その「人間の置かれた場」というよりも、その「人間」の「主体性」にとっての「場」であり、鳥瞰的に捉えられた場とは、少し異なるのではないか。つまり、もちろん同じ場ではあるのですが、それを鳥瞰して外から眺めた場と、その鳥瞰された中に(人間の一人として)入り込んで、眺めた場は、異なるものとして扱うべきではないか。そういうことではないでしょうか。

 そして、そのレベル(つまり具体性の Misplaced というレベル)の具体性を取り扱うにあたっては、鳥瞰的に配置されたところの位置としての場(その存在あるいは実在)ということと独立に、むしろその「鳥瞰された主体の立場から見た場」の問題として、鳥瞰されたレベルのものの存在あるいは実在の問題から自由な形で、いわば関係性のみに関わる問題として、取り扱うことができるのではないか。そうであるとすれば、具体性の存在という問題と、具体性の Misplaced という問題は区別して考えることができるし、またそうするべきではないか。塩谷先生の問題提起を、幾分私なりに都合良く引き寄せて捉えている可能性はありますが…そういうことではないかと、引き続き考えてみます。
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 22:55 No.2
その他の資料
この掲示板では添付ファイルとしてワード文書、PDF、TXT、PPT、その他画像ファイルなども指定できます(約800KBまで可能です)。しかし、掲示板の仕様で添付ファイルは1つに限られており、また過去ログに入ってしまうと、添付文書は消えてしまいます。

そこで、基本的な資料については、こちらで数理経済学会のサーバーに保存し、ここからリンクを張ります。

村田晴夫『《アンデレクロスの八章》「世界の市民」に向けて』http://center@ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataEssay.pdf

守永直幹「生命と機械の間で」
(1)企業と主体の変容 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimeiKikai-01.pdf
(2)機械とは何か http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaSeimeiKikai-02.pdf

村田晴夫『「文明と経営・生命と象徴から学問と倫理へ」――浦井憲先生の整理を受けて、改めて考えること(1)――』http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataGakumonRinri-01.pdf
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 23:27 No.3
投稿に関する留意点
以下、このスレッドにおける返信は左上の「返信投稿」ボタンを押せば、返信投稿用のフォームが出てきますので、そこにコメントを入れていただけば良いのですが、その後、投稿にあたっては、

  タイトルの右側にある 「投稿する」 ボタン 

を押して下さい。間違って、左上の「返信投稿」ボタンを再度押してしまうと、折角のコメント内容が消えてしまいます。ご注意下さい。その他何か気の付いた点があれば、随時ここに追記していきます。
浦井 憲 2017/06/04(Sun) 23:42 No.4
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生
お忙しいところ、このような掲示板を立ち上げていただき、心から感謝しております。また、先生に整理していただいた今までの議論の見取り図も大変参考になります。全体を通じてじっくりと読ませていただき、いずれ議論に参加していきたいと思います。取り急ぎ御礼まで。
三井 泉 2017/06/06(Tue) 19:08 No.5
塩谷先生のセミナー時のコメントをアップロードしました
上記 No.2 の記事に、塩谷先生のコメントへのリンクを貼りました。

 三井先生、ご投稿有難うございます。No.2 の記事にも書いたところですが、三井先生からのご質問をきっかけに、当方にとりまして重要な問題が、きわめてクリアーになってまいりました。非常に有難く思っております。引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2017/06/07(Wed) 22:40 No.6
Re: セミナー「文明と経営」その後
お知らせ

村田晴夫先生先生から、下記の本をいただきました。その末尾に下記のようなエッセイが掲載されております。本掲示板上の議論とも関連すると思いますので、参考までにお知らせ申し上げます。尚、このエッセイ全文の本掲示板への公開については、村田先生に許可をいただければ幸いです。本書は、私の先輩でもある谷口照三先生からもいただいておりますので、村田先生からいただいた分を、浦井先生にお渡ししたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

谷口照三、石川明人、伊藤潔志編著『自由と愛の精神−桃山学院大学のチャレンジ−』大学教育出版(2016)所収

村田晴夫著『アンデレクロス』(桃山学院大学広報第96−112号,2000.10〜2003.12)のエッセイ

目次
第一章:現代文明と教養
第二章:地域社会と世界市民のために
第三章:文明の変貌と転換
第四章:「自由」と「愛」について
第五章:「愛」そして「開く」ということについて
第六章:「自由」と「愛」と「家庭」
第七章:「生きられる学問」のために
第八章:世界の平和そして愛

ご参考までに
三井 泉 2017/06/08(Thu) 15:09 No.7
村田晴夫先生の「世界の市民」に向けてのエッセイ
三井先生、情報有難うございます。当方も本日大学で、村田晴夫先生からお送り頂いた本を受け取りました。村田晴夫先生、大変有難うございます。さっそく勉強させて頂きます。

 本の第2章と付録のエッセイのうち、もしお許しいただけるならば、付録のエッセイの方を、私の方でPDF化し、こちらの掲示板から皆が見ることのできるようにアップ致します。
浦井 憲 2017/06/09(Fri) 14:33 No.8
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

さっそく私のエッセイをアップして頂き、ありがとうございます。
浦井先生にお手間を取らせることになり恐縮です。

先日の村田先生からの質問に応え、私なりの考えを述べたものです。
あと数回ほど続きます。学会発表のための準備でもあります。

この際、件の「具体性置き違い」にかんしても、ホワイトヘッドの
文脈に即した議論をすべきかも?などと考えています。

この言葉はベルクソン批判の文脈から出てきて、以前も論じたことが
あるのですが、その再検討を始めると、かなり長くなりそうです。

ところで、PDF化したエッセイですが、行間が狭く、文字が読みづらく
ありませんか?設定上こうなってしまうんですかね。もし何とかなる
ようなら、行間を少し広げて下さるとありがたい。

それと表題が「機会」となっております。「機械」の誤植です。

次回は「機械とは何か」について論じます。機械論の系譜を遡ると
なかなか厄介なことになりますが、今回はごく手短かに。送付できる
のは来週になろうかと思われます。

学会発表の際は、この件を少し突っ込んで論じようかと思っています。
ホワイトヘッドのみならず、ベルクソン哲学の再検討が必要です。
ドゥルーズ+ガタリにも継承される、きわめて重要な問題です。

有機体論と機械論を接合しようとしたのがドゥルーズ+ガタリでした。
ここらの流れがよく見えてきて、個人的には裨益されることの甚だ多い
議論の機会となっています。

[添付]: 20737 bytes

守永直幹 2017/06/10(Sat) 12:08 No.9
村田先生、守永先生投稿ありがとうございます
村田先生からご承諾いただき、エッセイ『《アンデレクロスの八章》「世界の市民」に向けて』を上記 No.3 記事にリンクします。村田先生における「人間」観、「世界の市民」に向けた「自己生成」ということがエッセイとしてまとめられており、貴重な資料と思います。個人的には、4章で述べられている極めて脱存在論化 (de-ontologizing) された「愛」(自我の放棄)と「自由」(自己を確立)という対蹠的な取扱いに、感銘を受けております。そして、それらの葛藤と調和ということを倫理・道徳における根源的なものとして捉えるという6章の視座に、大きな問題「普遍的な倫理」ということに向けた、可能性を感じております。

 守永先生、有難うございます。村上さんが対応して下さいましたが(なぜ訂正できたのか不明ながら)、タイトルの誤変換申し訳ありません。PDF 文書の行間も含め、再アップしました。守永先生のお話は、常に聖と俗が混交してそこが魅力なのですが、今回のテーマはいよいよその真骨頂という気がいたします。J.R.Hicks が良い理論(モデル)とはどのようなものかについて、それが現実と乖離していることによって、なぜかという「良い問いを導く」モデルのことである、と分類したと思います。経済学は当初からこの現実との乖離問題に悩まされたが故に、早くから体系化を余儀なくされたのかも知れません。まさに、批判されるためにこそ、体系化はなされて来た。ところが近年では、学の側にそのような「体系化を逃れる」ことによって、批判を交わそうとする向きがあるように思います。これは学としては、衰退というべきであろうと思っておりますが、いかがでしょうか。続く「機械」について、これは私の興味からは「普遍的言語」と極めて密接に関わるものと、引き続き楽しみにしております。

 村田先生から、当方のまとめに向けて、更に応答を頂戴いたしました。ご検討いただき、大変恐縮です。まずはゆっくりとご教示いただいた内容をかみしめつつ、またまとめてご連絡申し上げる所存ですが、問題の中でも、その最後の「B関係性」、そのまた最後の部分の「学問の自由」にかかわるところのみ、少し述べさせていただきます。

 上記、守永先生の今回の文章中にもありましたが、哲学の役割として、専門知の限界を見破るということ、これは大事なことと思います。そして、同時にそれは「論理」あるいは「論理学」のような位置づけのものに向けても、なされねばならないと思います。したがって、村田先生のご指摘、

> そこには学問の自由という問題が出てくることにもなる。
> これはこれで非常に大きな問題ではあるが、ここには一種の相対性があるのではないだろうか。
>どこまで行っても、絶対と言える学問はあり得ないということではないだろうか。

につきまして、まったくその通りであります。私が「学問」という表現で括ったところは、とりあえず「ひとつの論理--思考の普遍的必然的な法則--を共有するような範囲」ということで、これはとりあえず「現状の」と取っていただく以外無く、相対的と言う以外ありません。そして、それについて考える場は、当然哲学であろうと思います。

> 哲学として語ること、これがこれからはより重要な学的営為と期待されるのだと、私には思われる。

しかし、この「哲学として語る」とは、あくまで「学」として語るという意味で、どういうことなのか。それが当方におきましては「学の場」という問題意識です。私には、そのことが、守永先生におかれては「機械」というテーマ、そしてまた一方では、村田先生の、上にも述べた「愛」と「自由」における、いわば「de-ontologizing」ということに、深く関わっているように思われます。

 まさに、このことが、学問という立場における「愛」(学問が、自らの限界を自ら知ることをもって、自我を放棄すること)と、「自由」(学問が、そのような自らの問いを立てることで、自らを確立すること)として、学問内在的に捉えられる「倫理」として、把捉できるのではないかということです。少し、綺麗にまとまりすぎて、怖い気もしますが。
浦井 憲 2017/06/10(Sat) 18:14 No.10
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

前回の続きをお送りします。お手数をおかけしますが、アップして頂くと
励みになります。この後も何回か続きそうです。

「つづく」としたものの、その後「機械」という問題について、考えたり
読んだりしていて、きわめて巨大な問題であることが判明しました。

というか、これまでなぜ気づかなかったのか不思議です。もっと若ければ、
人生を捧げてもいいぐらいの大問題でした。残念至極です。

あまり話を広げるわけにも行かず、どこかで収斂させねばなりません。
学会発表でその一端を開陳したあと、今年後期の授業で「生命と機械」
と題した授業をやろうと思っています。


守永直幹

[添付]: 38142 bytes

守永直幹 2017/06/22(Thu) 00:48 No.11
守永先生 「生命と機械の間で」(2)機械とは何か のPDFをアップしました
守永先生の「生命と機械の間で」の(2)機械とは何か のPDFリンク
を No.3 その他の資料 記事に追加しました。


これは以前から一度、守永先生のご見解をお伺いしたかったところで、
大変興味深いです。

そうするとやはり、機械と生命を(定義的に)分かつところは、目的
に合うようにつくられているかどうか、といったあたりになってくる
でしょうか。するとそれはもうほとんど「何らかの言語でプログラミ
ングされている」ということ、あるいは材料が組み合わされて、どの
ような働きをするかについてのアルゴリズム的なフローチャートが書
ける、その意味で「設計図がある」ということとほぼ同義ではないの
でしょうか。

問題は、そのようなプログラミングの「言語」として何が認められて
いるのか、ということになってくるのではないでしょうか。ですから、
「人間」にとって、そのような普遍的「言語」あるいは普遍的「論理」
の可能性を、部分的にであれ(例えば有限の代数とか)手にしている
と考えるならば、少なくとも「人間」にとっての機械の定義は、明確
になる、というように、当方には思われます。

また、上のような(機械の定義というような)問題を取り扱うために、
哲学的議論の重要性については決して疑うところではないのですが、
その「哲学的議論」ということの何であるかについて、限定が一切無
い形で当該の議論に挑むよりも、私は敢えて「哲学的議論」とは何か
という限定を付けて挑む方が(学問の自己組織化という意味で)実り
があるように思えます。その意味でも、普遍言語もしくは普遍論理と
でも申し上げた方が誤解が少ないかも知れません、そのようなものが
まずは根底にあるのだという立場を取る方が(これは学問ということ
の範囲を、定義的に象徴システムの中で限定することにつながって来
ると思いますが)望ましいと考えます。それによって学問という自己
組織化において、学問の自由、そして学問による学問の否定、という
ことを通して、学問的な当為が得られるということの方が、望ましく
思われます。

「哲学的議論」ということに上述した限定を加える問題は、村田先生
に申し上げた「哲学として語ること」への限定としてもあるべきでは
ないかと考えます。村田先生におかれては、「人間」は成り行くもの
として、「愛」および「自由」もまた、極めて普遍的な関係性として
取り扱っておられるわけですが、そのような普遍的な関係性としての
取扱いを要請することが、即ちそういった限定に相当しているのでは
ないでしょうか。そしてそれは、学問が学問自体を肯定、そして否定
する場でもあると思います。
浦井 憲 2017/06/25(Sun) 03:20 No.12
Re: 機械と普遍言語について
浦井先生

さっそくエッセイの続きをアップして頂き、ありがとうございます。

いまだ全ての議論を尽くしたわけではありませんが、現時点で答えられる
範囲で、浦井先生のご質疑に答えようと思います。

いささか長くなり、掲示板に貼り付けるのが躊躇われたので、添付
ファイルでお送りします。

[添付]: 17994 bytes

守永直幹 2017/06/26(Mon) 21:36 No.13
村田晴夫先生と守永直幹先生のコメント
 村田先生から、守永先生の「機械とは何か」、およびそれに対する当方の意見に向けたコメントを頂戴しました。以下にリンクします。

・村田晴夫『守永直幹先生の《生命と機械の間で》(2)「機械とは何か」そしてそれに対する浦井憲先生のコメントを読む』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataMorinagaUrai20170626.pdf

 また、守永先生から上に頂いた当方の No.12 の意見へのコメントもPDF化しましたので、以下にリンクいたします。

・守永直幹『機械と普遍言語』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MorinagaUrai20170626.pdf

 いずれのコメントも、時間的経緯が明確になる方が良いと思われましたので、No.3 ではなくまずはこちらの記事にリンクいたします。(ご要望、必要に応じて No.3 にもリンクを貼ります。)

 ご教示大変ありがたいです。また精読の上、ご連絡申し上げる所存ですが、まずはリンクのお知らせ、ならびに御礼まで。
浦井 憲 2017/06/27(Tue) 00:28 No.14
Re: セミナー「文明と経営」その後
村田先生

私のエッセイに懇切な感想を頂き、まことに恐縮です。

ご返事を掲示板に貼り付けようと思ったのですが、どうも長くなると
読みづらいように思います。今回も添付ファイルでお送りすることに
しました。

[添付]: 19716 bytes

守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:24 No.15
Re: セミナー「文明と経営」その後
村田先生/莫大数と無限

*添付ファイルと同じ内容を試しに掲示板に貼り付けてみます。見づらいようなら
消去します。


私のエッセイに懇切な感想を頂き、まことに恐縮です。

そう言えば、ベルタランフィがいましたね! かれは現代的なシステム有機体論を提起し、
ロボット・モデルを徹底的に批判していました。『人間とロボット―現代世界での心理学』
という本もあります。うっかり失念していました。

近年の脳科学や認知科学の興隆で、その壮大なシステム有機体論はすっかり忘却の彼方に
追いやられてしまった感があります。が、『一般システム理論』(1968年)〔長野敬・太田
邦昌訳、みすず書房、1973年〕は、このジャンルの20世紀における広がりを概観する
上で必読の教科書であり、名著だと思います。

なるほど、細部の知見やデータに関しては古くなったのは事実でしょうが、かれが提起
した大きな枠組みとヴィジョンは乗り越えられていない。というか、その仕事を受け
継いだ現代的なシステム有機体論が構築されるべきだと私は思っています。

村田先生がご指摘なさった莫大数の問題はたしかに重要です。そこでの文脈を要約すると、
以下のようになります(22-4頁)。

オートマン理論の基本命題とは、有限個の言葉(ないし記号)で定義可能な事象は
オートマン、たとえばチューリング・マシーンで実現できるというものです。定義上、
オートマンは有限個の事象なら実現できるが、無限個の事象は実現できない。

では、それが無限ではなく、莫大な数であったらどうか。要素の数がさほど多くなくても、
相互作用するシステムでは演算過程で莫大な数が出現し、チューリング・マシーンでは
処理し切れない。システムは破綻する。

そうした工学的システムとは異なり、有機体システムは自己復元する機能を持つ。それは
オートマンには備わっていない開放システムである。

チューリング・オートマンがいかに現代的な意匠を取ったとしても、なんらかの攪乱要素
に出会うと自己調節ができず、失敗する。また計算に必要な段階数が莫大な数の場合も、
うまく行かなくなる。

オートマンのような閉鎖的システムではない、開放的なシステムとして一般システム論を
構想するとき、どうしても「階層秩序」の概念が要請される。

ここでベルタランフィは、ボウルディングの図式を紹介しています(25頁)。そこでは
「静的な構造」「時計じかけ」「調節制御機構」「開放システム」「下等な生物」「動物」
「人間」「社会=文化システム」「シンボル・システム」といったシステムの主要レベル
の見取り図が提示されている。

とりわけベルタランフィが生命現象の研究から出発して、シンボル・システムを重視して
いたことを私としては強調しておきたい。ホワイトヘッドの構想と極めてよく似ています。

上記の文脈で、ベルタランフィは無限集合の問題と切り離して莫大数の問題を論じて
います。数学的には、どうしてもこの問題が出てくるのでしょうが、私の関心は別の
ところにあります。

現代の情報機械は、二進法的なモデルをすでに超えつづある。近いうちに量子コンピュー
ターで駆動するようになるでしょう。ベルタランフィは、チューリング・マシーンで莫大
数を扱おうとすればテープが足りなくなるから無理、と冗談を言っていますが、いまや
人類はそれを容易に扱える方途を手にしつつある。その結果、はじめて正面から「無限
とはなにか?」が問われることになるのではないでしょうか。

そして、これは村田先生が指摘される宗教の問題と関わると私は思います。自然は無限で
あり、宇宙は無限であり、神は無限である。「無限」というヴィジョンを持つに至ったのは
生命世界で人類だけだったのではないでしょうか。

ジョルジョ・アガンベン『開かれ――人間と動物』(岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社)は、
ハイデガーの動物論を引き、人間は動物との関係で人間生成するという事実を細々と
論じています。

私の考えでは、動物は世界に充足しているが無限という概念を持たない。ゆえにハイデガ
ーの言葉を用いれば「世界貧乏」(Weltarmut)である。人間はこの窮乏を引き受けつつ
人間生成する。ハイデガーの言葉を用いれば「現存在化」するわけですが、それはあくま
で無限との関係で言えることであり、この問題を存在論的差異に還元してはならない。

人類文明はいかに無限を縮減するか考え、いくつものスタイル、ないしタイプを創出して
きた。宗教に関しては一神教モデルや多神教モデルが挙げられる。宗教とは無限との応接
であり、応答だったと言うことができます。

莫大数が計算可能になり、真の無限が文明に流入するとき、これらの旧い宗教モデルは
用を為さなくなるのではないか。というか、至るところで宗教の無効化が進行していて、
それは無限の現前を人類が予感している。いや、実感しつつあるからではないでしょうか。

宗教について語るべきことは多々あるでしょうが、それこそ「莫大」な議論を要すことに
なりそうです。今回は、これ以上の論及は控えます。

ベルタランフィのシンボル論と、ホワイトヘッドのそれとを比較する試みは、いずれ
ちゃんとやるつもりです。
守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:27 No.16
Re: セミナー「文明と経営」その後
浦井先生

貼り付けてみましたが、どんなものでしょうかねえ?
守永直幹 2017/06/29(Thu) 20:29 No.17
守永先生、投稿有難うございます
守永先生、投稿有難うございます

このくらいなら、私には問題なく思われます。有難うございます。

 一昨日水曜日、阪大では6月度の方法論研究会をいつものメンバーで開催しました。追って、その際の議論を踏まえた形で、機械の問題、普遍論理の問題について投稿いたします。私も同程度の長さにはなると思います。

 すみません。返信投稿のやりかたをしくじったので、再投稿です。
浦井 憲 2017/06/30(Fri) 02:02 No.19
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (前編 1/3)
先週水曜日の阪大での方法論勉強会の議論を踏まえて書かせて頂こうと思って
おりましたもので、大変遅くなってしまいました。

当日、勉強会では村田先生の「アンデレクロスの八章」エッセイの紹介を中心
に、合わせて当方の普遍論理についての話(この掲示板における)をさせて頂
いたところです。長くなりますので (前編 1/3) (中編 2/3) (後編 3/3) と3
回に分けて投稿します。(前編 1/3) は、先週水曜日の議論、特に竹内先生と
福井先生から出た質問にお答えするものになります。中編および後編は、村田
晴夫先生ならびに守永直幹先生に向け、お応えするところです。



竹内先生、福井先生をはじめ、当方が「普遍論理」あるいは「普遍言語」とい
う概念を用いて何かを言わんとする場合、いくつかの誤解があるということを
強く感じました。まずそれを先に申し上げます。私は「数理が論理を普遍的に
網羅する」というようなことを考えているのでも、また言いたいのでも、決し
てありません。しかしながら、論理が数理によって描き尽くされるということ
が考えにくいとすると、それと同じ程度に、数理、少なくとも有限代数--小学
校低学年の算数--程度の数理に含まれる論理を、認めない論理というものも、
考えにくいと思います。

理性ということを考えていく上で、そういう共通部分を理性の中に見出してい
くということは、理性における理、rational つまり ratio の意味から考えて
も、数学的なもので(上に述べたような、たとえば小学校2年生までの算数に
内包されているような論理、といった形で)合意というか、説明することが、
最も理解される可能性が高いと考え、普遍的論理ということを述べる上で数理
ということに言及しています。このような普遍的論理(共通部分)を認めると
いうことは、普遍的論理そのものの限界を、明らかにできる可能性とつながり
ます。それを語る言語もまた必要ですが、望ましいのは普遍的論理の範囲内、
つまり自己言及的に語ることができるということです。そして、そのことを通
じて、学問において(つまりその普遍的論理を用いる学問である限り)、何が
「できないか」を、学問内在的に明らかにしていくことができます。ゲーデル
の第一、第二不完全性定理は、その特殊例になって来ると思います。

村田晴夫先生の言われる「システム不完全性の原理」というのは、従って私に
は大変納得のいくものです。村田先生はこれを、人間あるいは組織が成り行く
becoming ということやホワイトヘッド哲学的なものを背景にした原理として
扱っておられると思います。当方は、そのような原理が一般的に成立するため
の条件を(数学的あるいはできるだけ普遍的な形で)模索したいと願っており
ます。


私が、数学的、すなわち言語的、論理的な段階において(普遍的という言葉を
用いて)この問題を取り扱いたいというのには、以下のような意味もあります。

竹内先生および福井先生には、村田先生のアプローチを含めて、これが「シス
テム論的アプローチ」であるという強い印象をお持ちであるようです。

私はこういう話を、例えば「システム論」といった俯瞰された分野での一見解
という形で片付けることには反対です。これは学問を含めた文明そのものに向
けての話であり、そのためには科学方法論や、哲学そのものという舞台で、論
ずる(議論の場として)必要があると考えています。私が普遍論理に拘る理由
は、まさしくそこにあります。「システムの不完全性の原理」といったものは、
これは、普遍論理にかかわる普遍論理のみによる定理である、という形にする
ことが望ましいと考えています。論理を用いる学問的言説である限り、例外と
なることなど無いということです。学問という世界そのものも、当然その対象
に含まれるのであり、その下で「学問が学問を学問的に否定する側面」という、
絶対的な話がここで出てくる可能性があると、私は思っております。

こういう、いわば絶対的な話というのを、もしかすると嫌っておられるのかも
しれません。しかし、これは最後の後編で語ることになりますが、そういった
絶対的な話が「一切無い」とすることにもまた、一種の落とし穴がある可能性
について、考えて頂きたいと思います。絶対的な話というのも、一つくらいは
あっても良いのではないでしょうか。



次に、これは福井先生と私が共通して疑問と捉えているものですが、村田先生
のアンデレクロスにおける「真善美」の捉え方についてです。ホワイトヘッド
哲学的なものをベースに、村田先生はこれらが究極的には一致するという立場
を取っておられます。ホワイトヘッド哲学の上であくまで話をするという場合
であれば(このあたり当方まだまだ不勉強で申し訳ありませんが)良いのかと
思われますが、ホワイトヘッド哲学の素人からすると、「真善美」が一致しな
かったらどうなるのか、という疑問が出てまいります。

私は、これは一致というよりも、整合的である、つまり究極的に真も善も美も、
それぞれが追求して出てきたことを、互いに尊重し、共存できる、という意味
ではないか、と捉えております(不勉強にて甚だ恐縮ながら、またご教示頂け
れば幸甚に存じます)。

そのような立場からすると、学問的な立場を突き詰めて得られた結論が、例え
ば「善」のすべてではないにしても、その一部を形成するということは、認め
られて良いということになります。私の議論においてはそれで十分であります
し、また乗っかっている哲学的前提としても、むしろ緩やかなものになるよう
に思います。そういう解釈でも構わないか、一度、これはご教示いただければ
有難く存じます。



前編の最後に、これは特に福井先生、竹内先生に向け申し上げるべきことです
が、村田先生の「システムの不完全性の原理」について、誤解があると思われ
ます。あそこで村田先生が「前に」進むとか、あるいは「グローバル化」、と
いったことに重く関連させて不完全性の話をしておられるように読めてしまう
のは事実ですが、必ずしもそのように読む必要はないと思います。むしろそう
読まない(脱存在論化する)方が望ましいと思います。今日の歴史的事実とい
う存在の上で、これを読むのではなく、学問的に(哲学的に)「問う」という
こと、その行為自体を通じて、そうした存在を脱存在論化することによって、
我々が「既に置き違えている具体性」に関するところを、可能な限り取り払う
ことができ、またそれが必要なのではないかというのが、私の見解です。

また、福井先生の言われた、de-ontologizing することと、エポケーしたとき
捉えられなくなる問題についてですが、それがあることも全くそのとおりです
が、しかし、それも今ここでの問題の本質にはならないと考えています。ここ
で問題となるのは、例えば私の場合、とりあえず「普遍論理」なるものの存在
を横において、学問の形式について捉えようとしているわけですが、ところが
それで出てくる結論もまた、まったく形式の中で閉じた、学問の形式について
の結論です。故に、そこに内容を後から何か付け加えたとしても(論理自体が
それによって変容するというような事態--それがどういう事態か、すくなくと
も学問では普通生じないのではと考えて良いと思いますが--が生じない限り)
結論はまったく変わらない、そのような場所で話をしているということです。

そもそも、網羅的な話をしようというのとは真逆の話ですから、こうした議論
には捉え損ねているものがあるのではないか、ということそれ自体が、深刻な
(その議論にとって悪い意味での)問題になりません。むしろ「こうした議論
が捉え損ねているものがある」ということこそ、結論です。その意味で、竹内
先生にも福井先生にも好意的に捉えて頂ける可能性があるのではないでしょう
か(ここでいきなり好意に頼るのも、変な話ですが)。

(前編終わり)
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:29 No.20
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (中編 2/3)
中編です。ここからは、守永先生および村田先生から頂戴した先の応答に即し
て書かせていただきます。

中編では特に守永先生に向け、機械の定義について、当方の見解を述べさせて
頂きます。



守永先生におかれては、機械の能力が人間を越えるということ、あるいは見分
けがつかなくなるということと、機械の定義が困難になるということが、幾分
混同して用いられているように思われます。私の立場は頭からそう定義すべき、
というものです。故に守永先生の立場に対して、これはむしろ提案と言うべき
かもしれません。


自動生成であろうと、学習であろうと、遺伝子云々であろうと、プログラムを
勝手に改良するアルゴリズムであろうと、いずれにしても、その基になるアル
ゴリズムがあるのであれば、設計図が存在することに変わりはなく、その機械
を野放しにして、動きが分からなくなったからといって、それを生物扱いする
ことは無いのであって、その意味から「機械である」ということの定義は明白
です。量子コンピューターなどと言っても所詮はただの並列計算ですし、そこ
には巨大な有限と無限の間の、決して超ええることのできない断絶がある、と
考えてしかるべきです。

有理数の全体が実数直線の上でスカスカであるように、我々が知りたいこと、
問うべきことの数は明らかに実無限以上の濃度で存在し、対して我々が数理的
に解決できる問題の数は、どのように膨大なデータを用いようと、いくら巨大
になろうとも、高々有限です。

作者が不明で、挙動も残念ながら解析不可能なコンピューターウィルスが生物
と呼ばれるべきかどうか、議論の必要は無いと思います。単に仕組みの分かる
人が現実としていないということと、その内容を論理で汲み尽くせない(機械
ではない)ということは混同されるべきではありませんし、その区別を危うく
するような事例は、挙げていただいたものを含め、私の知る限り、今のところ
生じていないと思います。


ですから、人間と全く区別のつかないロボットが、人間の感情と全く区別のつ
かないようなものを持って、ある日人間を襲い始めるなどということがあった
としても、全然不思議ではありませんが(そして、SFではなく、もう既に現象
として、それはとっくに起こっていることなのでは、とも思いますが)そして
人間の定義も、種々モノの定義さえも、全然明白ではありませんが、それでも、
「機械の定義だけは明白」と言うべきだと私は思います。言い換えれば「仕組
みが明白(現実的にという意味ではなく、明白にしようと思えば、原理的には
できるという意味で)だから機械である」ということです。



しかし、同時に守永先生の問題としておられる「機械の定義」ということが、
もう少し深い意味を持って来るということも否定できません。上の言葉で言う
と、では「明白とはいったいどういうことか」という問題です。そして、この
ことは簡単に解決する問題ではありません。これが、私が「普遍言語」あるい
は「普遍論理」ということで問題にしたいことです。「明白である」とはどう
いうことか、それを(一部でも良いので)明白にしようというのが、普遍言語
ということです。そういうものがないと、「何が機械なのか」ということも分
からなくなるということになります。




ついでに、いくつか(これは脈絡のない独り言も含めて)メモ的に書かせて頂
きます。


・ちなみに2045年問題についてですが、たかが計算と論理の組み合わせで
得られるという意味での知性であれば、超えたいというなら超えさせておけば
良いのであって、その時こそ、カント的な意味での理性>悟性を超えた、真の
知性の何たるかが問われる時であり、楽しみです。しかし結局はそういう興味
深いことは起こらないと思います。話をいろいろ見聞きしていると「知性」の
定義すらろくにできていないままで、知性を超えるとかまったく意味不明です
し、加えて人間の知性を超えたら人間より優れたものを作り出すというのは当
たり前というかほぼ定義通りであって、単なる言葉の遊びのように思われます。


・たとえば、ありとあらゆることがロボットによって可能になるというのは、
かなり定義矛盾に近いものだと思います。誰か一人でも「ありとあらゆること
がロボットによって可能になるのは嫌だ」と思っているなら、「その人を喜ば
せること」が可能になるためには、「ありとあらゆることがロボットでは可能
にならない」、ことであるからです。福井先生などは、いやそういうことまで
含めて、そういう人も満足させてしまうほどに、全能のロボットを作ることが
できるようになるに違いないと言われます。私も、それは幾分否定しません。
しかし最終的には、新たな不満が容易に出てくるでしょう。人は、自分でやら
ないと満足しないもので、何かに助けてもらっていると考えるだけで、不満に
なる生き物です。ロボットの定義が「プログラミングされたもの」である限り、
人がロボットによって満足のすべてを与えられることはないわけです。


・黒魔術化というのは、どうすれば良い結果が出るか(例えば勝負に勝てるか)
ということについて方策が無いこと(例えばこれはロボット同士で戦わせたら、
何のことはない単純なトリガー戦略を持たせたら結局は一番生き残ったとか、
そういう意味で)と読みます。そのことと、プログラムが無いということは全
く別問題であって、時間さえかければ「なぜそのような動きをしたのかは」必
ず解析でき、説明でき、納得できます。つまり、AIがなぜ「予測し得たのか」
は分からなくとも、「なぜそのように予測したのか」は明確に説明できるとい
うことです。それがすなわち「機械」ということだと思います。

(中編終わり)
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:32 No.21
哲学における学としての制約(普遍言語)とAIの黒魔術化 (後編 3/3)
後編です。普遍言語について、守永先生と、また村田先生から頂戴した問いに
応えるという形で、まとめさせて頂きます。



普遍言語というのは、本当に普遍でなくてはなりませんから、守永先生も含め
て万人に納得していただけるものでなければなりません。守永先生は映像と言
われました。私は、それでもまだ不十分と思います。それはまだ対象物であり、
主語となるもの、そこに深く関わり、重く乗っかっております。そういうもの
ではなく(従って「言語」ではなく「論理」の方が、いくぶん誤解無く伝わる
かと思うというのは先日の連絡でも述べたところですが)、いわば主語あるい
は目的語中心の文法のあり方に対して、述語部分の働き方を記号的に抽出し、
それらの、対象物への働き方についてのみ捉える、というような形でしか、明
確には扱えないと思います。西田が「場所の論理」と言ったものは(全然明確
ではないですが)非常に近いように思います。

守永先生が「問う」ということそれ自体を問うのが目的だと言われましたが、
私も、まさにそのあたりが注目すべきところであると思います。

問いを立てるということ、つまりそのような「作用」のレベル、いわば学問
が学問であるための「関係性」のレベル、そのようなレベルに、普遍言語と
いうこと(何度も書いたとおり、これは普遍的な言語というよりも「普遍的
な論理」と言った方が幾分誤解が無いかもです)を見出したいです。

「問う」こと「そのもの」が、私も「学問」の目的と呼ぶに相応しいと思い
ます。「知る」こととも言えますが、知る前に、問いがあるように思います。

哲学の「学」ということに「制約」を与えると、強いて述べましたが、それ
はそのことにむしろ警戒していただきたいと思ったからです。同時に「それ
を通じて初めてできることがある」、ということも、強調したかったからで
す。制約を入れないと、自由がすべてになってしまい、村田先生の表現を使
わせて頂くと「自由と愛の葛藤」が生じないことになります。あるいは制約
を曖昧にしておくと、その葛藤が骨抜きになります。実際、その曖昧さ故に、
葛藤は学問の外に追いやられてしまいます。


これは前編で竹内先生、福井先生に向けて申し上げた「絶対的」な話を一切
「無い」ものとして排除する立場の落とし穴、でもあります。曖昧なままで
学の限界を語っても、それは学問の外側の話であり、既存の学問にとって、
それは「思惟の怠惰の褥(Hegel)」となるのみです。学問世界が真に葛藤
するべきところでは葛藤せず、手近な問題を解いて遊んでいる、そんな世界
になります(現に多くの分野でそうなっていると思います)。


誤解を避けるために敢えて申しますが、こんな学問しか認めないということ
をしたいための制約ではありません。しかし、学問とはこういうものでしか
ないのだから、諦めるべき、という制約ではあるかと思います。そのような
諦めによって、むしろ象徴システムという表現で言えば、象徴システム全体
の重要性を強調することになる、そして学問を含めて、種々自己組織化の、
他には代え難い役割を強調することにもなる、そのようなための制約です。

不変言語のその全容は不確定かもしれません。確定させる必要も無いと思い
ます。また、その制約も、守永先生が考えておられるより、ずっと緩いもの
で、守永先生ご自身も、ずっと無意識に保持しておられるものである、逆に
そうでなければならないと思います。



村田晴夫先生の補足して下さった問いに応えつつ、全体をまとめます。


> 問題は浦井先生も仰るように、その「哲学的議論」とは何かを論ずるときの言語と論理
> であると思います。あるいは価値観を排除した語りでしょうか。
> 例えば、「機械とは何か」という問題について論ずるときに、価値観を出来るだけ抜き
> にした議論がまず基礎になければならないでしょう。「出来るだけ」と限定したのは、
> 絶対ということが保証されないからです



> 普遍論理を数学などに現れている論理、あるいは内包されている論理、と解してよいで
> しょうか。
> この辺りのことを含めて、普遍言語あるいは普遍論理とはどういうものであるか


有難うございます。村田先生から問いかけならびにヒントをいただいて、ここ
までも書いてまいりましたように、かなりこの問題が、私自身の中でも明確な
ものとなり、まとまって来たように思います。ご教示心より感謝申し上げます。


村田先生が「哲学として語る」ことにおいて上のように述べられた


> 価値観を排除した語り


ということについて、そのための方策の一つが、私は「関係性」化するという
ことだと思っております。「関係性化する」ということ。これは特に20世紀
中盤以降、普遍的な論理ということを考える上で、まさしく鍵といいますか、
有力な道具あるいは方針になって来ていると思います。数学においては圏論、
社会学においても関係性的転回といったものがそれに当たると思います(西田
と「脱底(存在論)化 de-ontologizing」については、田中裕先生の論文を、
大変参考にさせて頂きました)。

そして、数学的な論理、これが、その普遍的な論理の一部を形成することは、
ほぼ疑い無いように思われます。

「数学」というと、守永先生に限らず、私の周辺の多くの先生方が眉を顰める
と思いますが、ここは、幾分そうならざるを得ません。もっとも、かなり厳選
されるべきですし、厳選された後も、変更の余裕を持たせるべきであろうと思
います。そして、その全体を完全には確定すべきでない、と思います。何度も
申し上げた通り、しなくてもできることがあると考えております。

学問というものが学問的に(その成り行く自己組織化の中で、解けない問題と
して)永遠に追求すべき問題は、実はそのようなものをどう確定するか、そこ
に尽きてくるのではないかとも思われます。


しかし、今の所(幸か不幸か)部分的にはですが、かなり限定されて来ている
ようにも思います。

機械(ロボット)の定義も、今日のコンピュータープログラミング言語という
ようなところ(もう少しダイレクトにはCPUを制御するところである機械語)
に依存してくることを思えば、結局は有限の代数(つまり小学校低学年までで
習う加減乗除に含まれる論理)あたりは、普遍論理というべきものを構成する
道具として、ほぼ確定してきている…のではないか、と考えます。

ありとあらゆる学問とのかかわりになりますが、すべての学問が、自分の背後
で用いている論理を、隠れたものまできちんと認識して、出してくれば、共通
項も、明らかになると思います。(もちろんそれでも、議論が尽きるわけでは
ありません。)


有限代数などに内包されているレベルの論理と、具体的対象物に関する価値観
(それは具体性の置き違えが生じている可能性を否めない)を可能な限り排除
するための「関係性」化(脱存在論化)というアイデア、これらを通じて「問
う」ということそのもの、あるいは「知る」ということそのものを、学問に於
ける最も基本的な行為あるいは働きとして位置付ける、そのようなところが今
のところ、普遍論理を構成するための最小限の設定ではないかと、考えており
ます。

これまでは、ゲーデルの哲学や西田の哲学などを通じて、漠然と数学的な圏論、
トポスといったものが、そういうものになるのではと考えていたのですが、こ
の度の議論を通じて、そういったものから何を厳選して抽出すべきか、一段と
ターゲットが定まって来たように思います。更に整理しつつ、もうしばらく、
きちんと考えて、詰めていきたいと思います。


浦井 憲
浦井 憲 2017/07/04(Tue) 03:34 No.22
Re: 普遍言語とはなにか
浦井先生

*普遍言語とはなにか

一読してみたのですが、私の理解した限りでは、やはり浦井先生にとっての普遍言語は
「数学的な論理」に尽きているように思われます。もしそうだとすれば、やはり余りに
狭い言語理解ないしシンボリズム理解ではないでしょうか。

そもそも浦井先生が「普遍」という言葉をどういう意味で使っておられるか、いっこうに
腑に落ちません。

誤解のないよう申し上げますが、おそらく数学を否定する人間も、論理を否定する人間も、
ここにはいないと思います。

なるほど世の中に「お前は論理的じゃない!」と他人を攻撃する人間は幾らでもいますが、
「オレは論理そのもの、数学そのものを否認する!」と過激な主張をするような論者には
1人も出会ったことがありません。

それどころか今の地球上には、そんなラディカルな人間が1人も居なくなってしまった
のではないかと危惧されます。むしろそんな事態をこそ私たちとしては憂えるべきかも
しれません。

誰ひとり数学および論理の有効性を疑うわけではない。そのうえで、数学的論理がどう
いう意味で「普遍的」と言えるのかを浦井先生ご自身の言葉と論理で端的に説明して頂き
たい。それは必ずしも自明なことではないからです。ここでの説明では、私には納得が
行きません。

私がつねづね疑問視しているのは、数学や論理の力を過大視する風潮が世にあることです。
それらの人々を見るにつけ、そもそも記号体系への理解が狭すぎるのではないか?と
思っています。

「普遍言語」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべるのはライプニッツです。先便
でも少し言及しました。

もう少し説明を加えておきますと、この哲学者は何らかの記号体系を用い、他人の頭の中
に具体的な像を描き出せると信じていたように思われる。それが「表象」です。この表象
を以て、いかなる機械でも造り出し、使いこなせる。しかも、この表象は万人に共有可能
です。ライプニッツの表象の宇宙に「窓」は存在しないのです。

その際に用いる記号システムが数学である必要は必ずしもない。「中国の漢字を使えない
か?」と研究したりしている。これがいわゆる「ライプニッツの普遍計画」と呼ばれる
ものです。「表象」という用語は誤解を招く。いっそ「映画」とでも言ったほうが解り
やすいと、私は先に述べました。

映画でも、マンガでも、イラストでも、アニメでもいい。広い意味での現代の「ユニバー
サル・デザイン」は人間の身体や動作に根差した記号体系を前提にしていて、これは普遍
言語の一種だと見なせます。この意味での普遍言語がとりわけサブカルチャーを通じて
世界を1つに結びつつある。それはAV(オーディオ・ヴィジュアル)革命とも呼べる
ものです。

いまだ19世紀的な言説空間に自足する知識人が、20世紀に始まった、この巨大な知的
革命からすっかり取り残され、反動的な集団を形成しつつある。このことを私は危惧し、
色々な形で警鐘を発してきたつもりです。

むろん表象の体系だけでは自ずと限界があります。言語や論理、ひいては数学の重要性は
否定しようがない。問題はその先にあります。

「普遍言語」と言うからには世界の誰にでも通じる言語でなければなりません。もしそう
だとすれば、数学が普遍言語のわけがない。

たとえば、この機械を動かす仕組みはこれこれだと数学的に説明するより、映像で見せ、
目の前でやって見せた方がはるかに話は早い。浦井先生がいくら易しく数学的・論理的に
説明されても、私にはさっぱり通じないわけです(笑)そんな言語は、いささかも普遍的
ではない。

そんな身体言語では機械の原理が理解できず、生産過程がブラックボックス化してしまう
ではないか!と怒られそうですが、まさに!それが近代文明の帰結です。高度機械文明で
はもっぱら機械を使用した大量生産が行なわれるが、現場では機械の作動原理が見失われ
がちです。労働者は日々モノを生産するが、それがどのように造られるか、本当のところ
を誰も知らない。

たとえば今の自動車は各部位のコンピューター化が極端に進み、全体の構造を把握して
いる人間がほとんど誰もいないらしい。ひとたび誤作動を起こすと、壊滅的な事態に陥る。

この問題が究極的な形で現われたのが原発事故でした。想定外の事故が起こったとき、
東電の技術者には適切な対応が全くできなかった。慌てて設計図を探したが、どこにも
見つからない!という体たらく(笑)

身体=映像言語は、技術的・専門的かつ数学的な言語に伴われねばならない。両者は
クルマの両輪です。どちらか一方に偏ることなく、双方を有機的に結合する技術知が
求められている。

以上のごときものが、私にとっての(来たるべき)普遍言語のイメージです。

さて、もっと狭く絞り込んでみましょう。たとえば数学は物理学や化学、ひいては生物学
等においても使われる。ゆえに普遍言語だと見なすことは可能かもしれません。

ならば物理学を数学に吸収することができるでしょうか?あるいは化学を?まして生物学
を数学に吸収することは無理でしょう。数学は(英語がそうであるように)理系分野に
おける【共通言語】の1つには違いありませんが、決して【普遍言語】ではない。

物理化学現象を数学に還元することはできません。いちばん無理なのは生物学です。DNA
分析などは数学的にやるしかないでしょうが、今なお地球上で新種が発見され、それらを
分類せねばならぬ。そこで必要とされるのは生物の体の構造であり、生態です。目の前に
いる生物の姿や像を克明に観察し、それが生きて動いている環境を調査せねばならぬ。
これは数学的には絶対無理です。だからと言って、生物学そのものが無意味なわけでは
全くありません。

フーコーが『言葉と物』で強調していたエピステーメーの図式を用いるなら、タクシノ
ミア(=分類)とマテーシス(=数理)の対立は還元不可能ということです。

近代の始まりにあって、ライプニッツのような哲人はタクシノミアとマテーシスの双方の
学問に通じ、その両立不可能性を熟知していた。だからこそ記号により表象を立ち上げ、
それを共有するという構想を抱き、分類の知と数理の知を和解させようとしたのではない
か。記号を表象化し、表象を記号化する。これは確かに普遍言語の企てと見なせます。
なるほど17世紀には夢想に過ぎませんでしたが、現代においては必ずしも夢物語とは
言えなくなっている。

浦井先生は圏論がご専門(の1つ)ということもあり、代数学の普遍性を強調される傾向
があるように見受けられます。ならば代数学は数学の内部において普遍言語と言えるの
だろうか。たとえば代数学によって幾何学を吸収し、説明し尽くすことができるだろうか。

じつは、この点を論じているのがホワイトヘッド『数学入門』で、この数学者の答えは
「不可能だ」というものです。

幾何学の問題とは、煎じ詰めれば「序列」(オーダー)の問題であり、そのかぎりで代数的
に処理できるのは言うまでもない。しかるに、幾何学的問題を扱う際に私たちはどうして
もある種の「例」が念頭に思い浮かぶ。自分にとって特権的な「絵」に拘束されがちで
ある。それを代数構造に還元するのは不可能だと、この数学者は示唆するのです。

私はこれを「イメージ」の問題、あるいは「場所」の問題と考えます。幾何学の対象は
一定の場所を持つ。もっと言えば、場所なき場所を持つ。それはどこかに具体的に存在
する場所ではない。ゆえにイメージと言うしかありませんが、にもかかわらず、幾何学が
幾何学たるかぎりで、この見えない場所を還元できない。

この意味でのイメージ=場所とは、存在論に抵触する問題でもあります。なるほどホワイ
トヘッド哲学は有機体の哲学であり、それゆえに関係論的な哲学ですが、関係に還元し
得ない「イメージ/場所/存在」という問題を決して手放していない。それが彼の哲学の
深遠なところで、そこから実存論的なホワイトヘッド解釈が生まれてくる余地がある。

ただ残念ながら『数学入門』では、このアポリアを「示唆」するだけに終わっています。
この時代ホワイトヘッドは弟子のラッセルとともに『数学原理』(プリンキピア・マテマ
ティカ)の刊行を開始し、その第1巻が1910年に出ています。一般向けの著作『数学入門』
を出版するのは翌1911年です。『数学原理』の企てが破綻し、ラッセルらケンブリッジ・
サークルと決別し、単身アメリカに向かう。その過程で、この数学者は哲学者としての
思索を深めて行くことになります。

ここまで書いてきて、はたと気づきましたが、ことによると現代の経済学者にとって数学
の有効性ひいては普遍性が切実な問題として感じられる、という事情があるのかもしれま
せん。とりわけ浦井先生にとってそうなのかも知れない。とすれば経済学者としての立場
を踏まえ、数学が普遍言語たり得るか、どこかで具体的に論じる必要があるでしょう。

素人としての私に言わせてもらえば、「数学だけで広い世の中ぶった切るなんざ、しょせん
無理の皮でしょ?」という冷淡な回答になります(笑)申し訳ない。


** 機械、我らが隣人

「機械であることの定義は明白だ」と繰り返されていますが、むろんのこと機械にかん
する明白な定義は様々に可能でしょう。

注意して頂きたいのは、ここで私が明晰判明な定義を試みているのでは些かもなく、いか
に機械的なものが私たちの現代生活を侵食しているかを描き出そうと努めているに過ぎ
ない。別の言い方をすれば、機械的なもののイメージの外延を確かめようとしている。
たとえば機械の持つ正確さが、いかに私たちの生活を歪めているか。たとえば、テイラー
の管理主義が工場労働者にとっていかに過酷極まりないものだったかは、よく知られて
います。

機械が人間に従うのでなく、人間の側が機械に従わされる。いつしか人間性そのものが
機械化される。心理学のような「御用学問」が、それを正当化する。

この点についてはベルタランフィ『人間とロボット――現代世界での心理学』(長野敬訳、
みすず科学ライブラリー)が、苛烈な批判を繰り広げていました。ヨーロッパ人である
彼は、移住先のアメリカ社会がすっかりロボット・モデルで洗脳されていることに我慢
ならなかった。悪罵の限りを尽くしている(笑)

「今日の心理学が人間自身による人間の自画像を作りあげて、社会の方向性を決める第一
級の社会的な力となっている」ことが問題だと彼は指摘します(同上、16頁)。

>ロボットとしての人間像は、現代という時代の時代精神を科学に投影したものである。
>基礎的な理論的概念というものはどれも煎じ詰めればそうした投影なのだ。人間は機械
>であり、プログラムに乗せることができる、人間機械はどれも組立ベルトから出てくる
>自動車のように千辺一律である、平衡あるいは快適が最終価値である、行動とは最小の
>出費で最大の利益を上げようとする一種の取引である――こうしたことは、商業主義の
>社会の哲学を余すところなく映し出している。刺激と反応といい、入力と出力といい、
>生産者と消費者といってもどれも同じ概念を違う言葉で表現しているまでのことだ。
>伝統的心理学の基本概念は、まさに商業主義の「金銭哲学」(ヘンリー)そのものである。
>広告屋の哲学には「脳の箱」(ブレインボックス)というやつがある。これは、心理学者
>たちの暗箱(ブラックボックス)である。(同上、16-7頁)

工学機械が私たちの社会、ひいては私たち個々人に与えた影響には空恐ろしいものがあり
ます。私たちは日常、機械のごとく正確無比に作動するように強いられ、それができない
モノは不良品として弾かれる。あるいは病気や老齢で以前のように動けなくなると捨て
去られる。エコノミストは「もっと稼げ、もっと社会の忠実な機械になれ!」と獅子吼
する。

近年の情報機械の発達は、新しいロボット・モデルを構築しつつあります。私たちを取り
巻き、私たちを従わせるのはもはや工学マシンではなく、脳モデルに従う情報機械です。
その(悪)影響はかつての工学機械より遥かに深甚になりかねない。まさしく魂そのもの
を奪われかねない。それが私の危惧です。

>時間さえかければ「なぜそのような動きをしたのか」は必ず解析でき、説明でき、納得
>できます。つまり、AIが「なぜ予測し得たのか」は分からなくても、「なぜそのように
>予測したのか」は明確に説明できるということです。それがすなわち「機械」だという
>ことだと思います。

ここでの浦井先生の自信が、どこから湧いて出てくるのか、私には理解しかねます。
というのも、現実社会では「時間」の問題は大きい。というか決定的です。無限に時間の
猶予が許されるわけでは当然ない。時間は限られているのです。

一定の時間内に解決し得ない問題は、解決可能な問題とは言えない。100年先に解決
可能であろうと請け合うのは単なる予言であって、合理的な見通しとは言えない。

ここでも原発と同じことが言えるでしょう。技術者たちは10万年先には何とかなるはず
だと言う(!)しかし、10万年先に人類が存続している可能性は極めて薄い。そんな
問題は解決可能とは言えないのです。

碁や将棋の対局で、棋士は無際限に考えているわけには行かない。たとえば1分将棋に
なると、その場でほとんど即答が求められる。株式や商売でも、素早く有効な解を出した
者が勝つ。なるほど「時間さえかければ」相手の動きを理解できるかもしれませんが、
その前に取引きが終わってしまう。そうしたら負けなのです。身の破滅なのです。

機械が人間を凌駕する速さと正確さを駆使するようになれば、人間の負けです。浦井先生
がご指摘なさるように、機械が人間を襲い始める現象はもう「とっくに起こっている」。
襲われて、死にかけているのに「あと3年あればオレは奴らのことを理解してやったのに、
残念!」と嘆いたところで無意味ですよね? そもそも3年で本当に理解できるかも定かで
ない。敗者は舞台から放逐されるのです。

こちらが時間をかけて理解しようと頑張っている間に、機械の方はじっと立ち尽くして
待っていてくれるわけではありません。機械の問題はたんなる理論的・数学的な問題では
なく、現実の労働現場の問題と密接に関わっている。

機械を理解する以前に、それをコントロールする必要がある。たんなる「理解」によって
は機械という現実を支配できないのです。

それこそが社会的問題の特性であり、広い意味で政治の問題だと私には思われる。私は
機械と社会の関係を論じているのに、浦井先生は機械と数学の問題に話を持って行こうと
する。ゆえに議論が噛み合わないのです。

さらに言えば、機械と人間の関係をたんなる「理解可能性」の問題にしてしまうと、
最終的には人間もまた機械だという結論に落ち着いてしまうのではないか?

ヒトゲノム計画は完了し、いまや人間の遺伝情報はほとんど解っている。いいかえれば、
人間は人間を理解できる。実際に人体の複製技術は急速に発展しています。時間さえかけ
れば、おそらく人間は人間を造れるようになる。「な〜んだ、人間は機械じゃん!」という
話になってしまうのではないか? いや、そういう軽薄な論者はもう沢山います。

機械はいよいよ人間に近づいて行くでしょう。それは避けられない。で、私としては
「機械が生命のはずないではないか!」などとは思いません。

私の立場は「機械を人間と截然と区別し、差別すべきだ」というものではありません。
むしろ逆に、機械もまた共存すべき地球上の生命と認めるべきではないか、というもの
です。そのうえで、この新しい隣人の危険をつぶさに知る。楽観も悲観もせず、ありの
ままを見て考えることが必要だと思います。


*** 真・善・美について

ご論文において村田先生はホワイトヘッド文明論を踏まえ、真・善・美が、とりわけ美に
おいて統合されると述べられ、大学教育におけるアートの重要性を強調なさっています。
私としても満腔の同意を惜しまぬところです。

ただ個人的には、その美の概念についてホワイトヘッド学会で何度となく問題にしてきた
経緯があります。端的に、ホワイトヘッドにおいて美とはなにか。この肝心な点について
彼のテキストは極めて曖昧なのです。

ここでは詳論を控えますが、かれは具体的な美術や芸術を念頭において語っているのでは
なく、自然美の本質を捉えようとしている。自然とは無数のアクチュアル・エンティティ
が生起し、結合し、消滅して行く舞台です。そこには無数の契機とパターンが顕われる。
それらをリズム論的に捉えようとするのがホワイトヘッドの有機体論です。生起したもの
が成功し、自らの運命を成就するのが美だと彼は思っているのではないか。そして美は
たちまち崩落し、悲劇に飲み込まれて行く……

美はつねに破滅に晒されている。一種の悲壮美ないしバロックの美学がホワイトヘッド
文明論の核心にある。そのことの当否は、もっと広い見地から論じられねばなりません。
守永直幹 2017/07/06(Thu) 19:52 No.23
Re: 普遍言語とはなにか
投稿してみましたが、やはり掲示板の形式だと、長くなりすぎかもしれませんね。

この掲示板の仕様なんですが、行間隔をもっと広げることはできないんですかね?
行と行がびっちり詰まって、老眼にはかなり読みにくい。

もし何とかなるようなら、設定を少しいじって頂けると有難いです。
守永直幹 2017/07/06(Thu) 20:04 No.24
守永先生ご投稿有難うございます
やや長いですが、まあ…良いのでは無いでしょうか。

有難うございます。

返答に少し時間を頂きますが、一点のみ。数学…を普遍言語であるなどと、私は思っておりませんし、そのように申し上げた覚えもありません。加えて言えば、数学とは何か…について、数学者でも簡単には言えないはずで、そう簡単に「数学」とは云々、と言うことはできないと思います。

私は基本的に、守永先生のご意見に反するところはなく、どちらかというと守永先生の世界観を支持したいのですが、それをご理解いただいているのかどうか…どうも各所で誤解が生じているのではないかという心配もあります。

まあ、ともかく、もう少し熟読して、お返事書かせていただきます。取り急ぎ、御礼まで。
浦井 憲 2017/07/08(Sat) 07:13 No.25
Re: 浦井普遍言語の謎
浦井先生

>数学を普遍言語であるなどと、私は思っておりませんし、そのように申し上げた
>覚えもありません。

そうなんですか! おかしいなあ?

>普遍言語というのは、本当に普遍でなくてはなりませんから、守永先生も含め
>て万人に納得していただけるものでなければなりません。守永先生は映像と言
>われました。私は、それでもまだ不十分と思います。それはまだ対象物であり、
>主語となるもの、そこに深く関わり、重く乗っかっております。そういうもの
>ではなく(従って「言語」ではなく「論理」の方が、いくぶん誤解無く伝わる
>かと思うというのは先日の連絡でも述べたところですが)、いわば主語あるい
>は目的語中心の文法のあり方に対して、述語部分の働き方を記号的に抽出し、
>それらの、対象物への働き方についてのみ捉える、というような形でしか、明
>確には扱えないと思います。西田が「場所の論理」と言ったものは(全然明確
>ではないですが)非常に近いように思います。

多分ここがいちばん詳しく書かれている部分のように思いますが、具体的にどういう
言語なのか、さっぱり判りません。それで何らかの数学的イメージで考えておられる
のではないかと思った次第です。

>もう少し熟読して、お返事書かせていただきます。

あまり内容が混み行ってくると、書くのが負担になるのではないかと危惧します。
無理にならない程度で、ご返答を頂ければ幸いです。私もそうさせて頂きます。
猛暑が続き、何かと大変ですし、読み捨てて頂いても何ら問題ありません。

じつはデカルトの人間=動物機械論にかんして、新しい発見があったので、
それについて少し書かせて頂ければ、と思います。

だんだん最初の目的から逸れていますが、最終的には収斂するはずです。
学会発表を控えているので、この機会に自分の考えをまとめたいというのが
私の偽らざる意図であります。

ご迷惑かもしれませんが、見守って頂ければ幸いです。
守永直幹 2017/07/08(Sat) 12:12 No.26
Re: 暑中お見舞い申し上げます
浦井先生、および皆さま

そういえば忘れていました。

暑中お見舞い申し上げます。
守永直幹 2017/07/08(Sat) 12:14 No.27
Re: 添付ファイル「普遍言語とはなにか」
浦井先生

先の投稿、たしかに掲示板では長すぎるかもしれません。

添付ファイルを送っておきますので、掲示板の方を消して
頂いてもけっこうです。

どうやら自分で消去するためには暗号キーを必要とするようで、
よく解りません。

そこらへんの判断は、そちらにお任せします。

[添付]: 38400 bytes

守永直幹 2017/07/08(Sat) 13:24 No.28
村田晴夫先生からご投稿頂きました
 村田晴夫先生から、本日ご投稿を頂きました。以下にリンクを貼らせていただきます。

村田晴夫『浦井先生から頂いた問いについて 2017年7月9日』
http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/17p/MurataReplyUrai20170709.pdf

 まことに有難うございます。「真善美」の一致について、大変参考になります。ホワイトヘッドと西田から来るところなのですね。また、論文をご送付頂けるとのこと、心より感謝申し上げます。大変有難く、引き続き勉強させて頂きます。

 また、上記ご連絡の中でご質問頂きました『脱底化 de-ontologize』について、当方が参考にさせて頂いた田中裕先生の論文はネット上で公開されている…のかなと思われますので、以下にリンクを貼らせて頂きます。

田中裕『絶対無の創造性と矛盾的自己同一 西田哲学から歴程神学へ』東西宗教研究 第 14–15 号・ 2015–2016 年、pp.77-104
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/4519

 p.80 に、まず存在の脱底化(de-ongologizing)が出て参りますが、p.95 の L.J.マリオンによる神概念の脱存在化といったあたりを通して、最後の場所的弁証法に至るまで、大変興味深く勉強させて頂きました。

 村田晴夫先生からのご教示ならびに資料を頂戴し、また、守永先生ならびに諸先生方へのご返答を準備させていただく中で、私自身の中でこれまで数十年もやもやしていた問題が、日毎にクリアーになっていくのを実感しております。感謝に耐えません。

 梅雨も終わりに近づいているのではと思われますが、むし暑い日が続きます。どうか皆様ご自愛下さい。
浦井 憲 2017/07/09(Sun) 20:59 No.29
プログラムの存在と機械の定義(おそらく解決です)・普遍言語についての現状報告
 守永先生と話がまったくかみ合わず、どうもおかしいと思っていたのですが、ようやく思い至りました。どうやら守永先生は機械ということの外延的定義について述べておられ、私は内包的定義について述べている。守永先生は外延的定義が困難になりつつあると述べておられ、私は内包的定義が明白であると述べているだけなので、話がかみ合わなくても何ら問題はなく、まったく整合的であるということではないか、ということです。

 私は、機械の定義における外延的な困難さは、既にチューリングテストといったことが言われた時代から(人間がどうかということを含め)疑うところ無いものと考えておりますもので、守永先生が外延的定義という意味で、機械の定義の困難さを述べておられるのであれば、それに対する反対意見は一切持ってはおりません。

 一方、内包的定義については、これは帰納的関数といった概念が定式化された時代から、ほぼ明晰な事柄であると認識しております。これ以上明晰にする必要も無いと私自身は考えておりますが、これがなお不明晰であるとすると、これは大変深い問題であるということになり、普遍的言語といったことを持ち出さねばならなくなります。

 従いまして、もしも守永先生のご関心が、上記のとおり外延的な定義ということのみにあるとご判断されるようであれば、以下に私の述べる内容は、基本的に放置して下さって構わないのではないかと思われます。

 もしそうではなく、内包的定義についても拘りがあるのだ、ということであれば、以下もご一読下さい。



 さて、内包的定義が難しいという問題であるとすると、私の立場が守永先生と異なる点を明らかにするには、まず普遍言語(正確に述べると、その一部)という概念を明らかにせねばならないと、考えております。

 しかしその前に、普遍言語の謎ということをいったん離れ、機械の定義の問題の一歩手前、プログラムがあるということについても、整理確認をしておかなければ、話がこんがらがる一方のように思われますので、まずそれをしておきたいと思います。それほど長くはなりません。


 問題が、学という立場を通した普遍的な論理ということについてそれを認めるのかどうか、というところにあるのではないか、と私が申し上げるのは、まず次のような意味からです。つまり「明らかな仕組み」といった言葉を用いる際の「明らか」とはどういうことか、ということについての問題だという意味です。その話も、いずれはせねばならないのですが(そしてそれこそが普遍言語ということと関係するわけですが)、守永先生が問題と考えておられることに、それ以外の話が少なくとも含まれてはいないか、当方に若干その懸念がありまして、まずそのようなものを取り払わせて頂きたく、願っております。

 それは、次の点です。

  機械の動きが「現実として」説明できない、ということと、機械が
  プログラムに基づいて動いているのではない、ということが混同
  されていないか。

現実的には、今目の前にある時計にしても、それが一年後にコンマ何秒遅れるか進むか、その動きを精確に把握し、また説明することは不可能と思われます。しかし、時計に設計図があり、あるいはその明らかな仕組みを規定するプログラムがあるということについて、疑いを入れることは無いと思います。

 プログラムがあることは、「その挙動を納得のいく明らかな形で理解できる」ということであって、「現実的にその精確な動きを予測・説明できる」ということとは全く別の問題であると言うべきです。

 もし、上の混同が無いとすれば、機械というのは設計図がある、プログラムがある、その挙動を決めるアルゴリズムがある、プログラミング言語で書かれたソースがある。いずれにしても、そういう「明らかな仕組み」に従って動いている。それが機械の定義(内包的定義)ということで、現状、何ら問題無いと思います。



 上の内包的な定義に沿って、外延的な定義を得られるか、というのは、全く別の問題になるわけで、そうすると人間も所詮機械ではないのか、という外延的な問いは、問いとしては十分あり得る問いであり、単に未解決であるということです。おそらく永遠に未解決であろうと思います。

 なぜなら、内包的定義が上のものである限り、「人間が機械であるかどうか」は、今現在のところ何とも分からないものの、もしそれが将来的に「明白に分かった」場合、その瞬間から、人間はその自らの「明白な仕組み」を「明白に理解」することにより、その「明白な仕組み」では語りきれないような、複雑な行為を取ることができるようになる。つまりはそのような「明白な機械ではなくなる」可能性があるという、矛盾を孕んでいると思われるからです。上のことを厳密に述べるには、もちろん上の「明白」とはどういうことかが明白にならねばなりません(つまり普遍言語とは何かということが必要になって来るということです)。

 しかし、仮に普遍言語とは何かが「完全には」決定されずとも、以下のようなことは言えるかもしれません。

  事象として、人間が自らをかくかくしかじかの機械であると知り、
  かつまたそのままである、ということはあり得ない。

なぜなら、上述した「矛盾を孕んでいる」という部分を成立させるための論理は、普遍言語の全体でなく、まず一部であっても可能であるということが十分にあり得るからです。

 もし上記矛盾を成立させることができるとすれば、その下で人間は「その明白な仕組みを明白に理解した場合には、そのような機械ではなくなる」ということで、あり、少なくとも「そのような機械である」ということの直接的な否定ですから、まさに、そのような機械ではないわけです(まさに人間は「成り行く」ものだということです)。

 一方、「その明白な仕組みを明白に理解していない」段階では、文字通り、その明白な仕組みを明白に理解してはいないわけで、よって、いずれにせよ上記の事柄、

  事象として、人間が自らをかくかくしかじかの機械であると知り、
  かつまたそのままである、ということはあり得ない。

ということです。



 私は普遍論理の「一部」という言い方をしてまいりましたが、未だそれが何かということについては、明らかにしておりません。しかし、今や、結論からお迎えする、ずるい手段ではありますが、次のように考えていると言うことができます(結論からお迎えというのは数学の常套手段ではあります…)。

  上に述べた「上記矛盾を成立させることができる」最小の論理。
  それこそが、普遍論理の一部と呼ぶに、相応しく思われる。

これは、人間が「成り行く」ものであるということを示すための最小の論理、と言い換えることもできるかと思います。上で言う「最小」性については、数学的に(例えば公理ということによる具体性をもって)厳密に述べることもできますが、そもそも「数学が普遍的かどうか」という以前の問題を扱おうとしている状況において、そのようなことをしてもあまり説得力が無いと思われますので、いわば「もっとも控えめな」くらいに捉えて頂ければ幸いです。

 故に、まずは「上記矛盾を成立させる」ための見通しを立てるのが、現状では私にとっての先決問題となっております。少しだけ書いておくと、ゲーデルの第二不完全性定理を、可能な限り「関係性」のみに基づいて証明すること、それがどこまで可能かということ、そのことを用いて、普遍論理に接近しようと考えております。



 当方が普遍言語(学として持つべき制約)を重要と考える根拠は、決して上の事柄(機械の内包的定義や人間の「成り行く」性質の叙述)にとどまらず、先に3部に分けて投稿させて頂いた内容と重複しますが、村田晴夫先生の言われる「システムの不完全性の原理」そして「自由と愛の葛藤」へとつながるものと考えております。上で「人間」に対して述べた内容は、組織一般において、その目的や何らかの価値の追求といったことを通じて、その組織の「成り行く」性質の叙述、そしてシステムの不完全性の原理、そして「愛」、「倫理」へとつながるはずです。もちろんこのあたり、今回ご教示頂いた「真善美」の一致問題を関連させつつ、更に整理していきたいと考えております。
浦井 憲 2017/07/11(Tue) 03:08 No.30
上記投稿 No.30 での一ヶ所文字訂正
 すみません。当初の投稿時、一ヶ所「内包的」と書くべきところが「内縁的」になっておりました。また、一ヶ所改行が不適切なところもありました。現在の投稿文では修正済みです。
浦井 憲 2017/07/11(Tue) 03:23 No.31
「真善美の一致」と「哲学的営為」、そして「学に対する学」ということ
村田晴夫先生に向け「真善美」の一致ということについて当方からの質問をさせて頂いたところ、早速に先生のご論文を送付頂きまして、火曜日大学にてこれを受け取り、大変興味深く拝見いたしました。今現在、一層詳細に勉強させて頂いておりますが、『組織における美と倫理』組織科学Vol.33(2000) に先生の書かれた内容、また7月9日に頂戴したご投稿の内容をもって、ほぼ当方の疑問は氷解し、また当方の問題意識についても、一層明解な位置付けが可能となって来たように思われます。ご教示心より感謝申し上げます。

 上記論文において、基本的には西田哲学(善の研究)の立場から、「真善美」は「知意情」という、あるいは「思考、意志、想像」という、言うなれば役割分担をもって、組織の「成り行く」ところ、その「営為」に資する(前提となる)ものとして、位置付けられていると拝察いたしました。

 このような意味における究極の「真善美の一致」は、例えば「一致しなかったら」などという「言語分別」の前提のところにある一致であり、そのような分別の成立する世界そのものの全体的統一、調和のための契機として述べられた「究極の一致」として、あらゆる二元論的対立の以前にある、斉物的一元論とでも言うべきものとして、把握できると思います。

 おそらく誤解を恐れず思い切って簡単に述べさせていただけるなら、先の投稿にて当方が質問させて頂いた際(前編1/3)の「整合的である、つまり究極的に真も善も美も、それぞれが追求して出てきたことを、互いに尊重し、共存できる、という意味ではないか」という解釈も、許されるのではないかと、今は捉えております。真善美を各々追求することの全体としての調和ということ(それらの自己組織化としての世界の肯定ということ)とほぼ同義であると、捉えております。



さて、それではその文脈の下、当方の「普遍言語」の問題がどのように位置付け可能であるか、整理が一層できてきたように思います。

 村田先生が、やはり先の7月9日の投稿で述べて下さった点、

>  私が先の研究会で提起した類似の問題は「経営哲学とは何か」という問題であった。
>  それに対して私が出した答えは、〔1〕経営の意味を探究すること、〔2〕経営学の
>  方法論を論じ、探究すること、〔3〕経営者の哲学を探究することの3領分をその領
>  分として、これらの3領分は究極的には一致する、ということであった。それはまた
>  自己批判の可能性をも内包していて、自己言及あるいは自己組織化の条件を満たす
>  と思われる。
>
>  しかしこれは「経営哲学」という限定があっての論述である。このような限定、あ
>  るいは制約、があって「学」あるいは「哲学」を語ることができるのではないだろ
>  うか。

まさしく、村田先生の言われる部分に、当該問題の骨格が存在していると思います。

 村田先生は「文明と経営」において「哲学」という言葉を用いるにあたっては「学に対する学」という意味で、用いておられます。加えて学問での「具体性」ということについては、「主体の成り行く」ところに見いだすという立場を通しておられます。

 これらを合わせて考えると、「経営学における具体性」は、すなわち「経営学の成り行くところ」に他ならず、それを学として考えるのが「経営哲学」ということになると、当方理解しております。

 このような文脈において、村田先生は「哲学的営為」ということについては、それを「学」そのものということと、微妙ではありますが、やはり分けて考えておられるのかなと把握致しております。というのも「営為」とは、やはりその社会の中、自然の中、全体性の中においてそれこそ「学の学として成り行く」ところになされるものであり、決して(いわば思考、論理、分析、推論といった)「学」という知的活動の範囲内のみで、行われる事柄ではないからです。

 哲学的営為とは、従って哲学という「知」的活動そのものを含め、またその「善」的、「美」的活動まで含めた言葉であろうと考えられます。もちろんその重要性について、これから先(学問もまた「成り行く」ということの意味から考えて)疑いないものと考えます。当方はここで、村田先生の用いられる組織という概念を、いわば「学界」とでもいうべきところ(組織)に適用して述べていると申し上げると、通りがいいかも知れません。

 一方、当方が「普遍言語」といったことを問題とし、述べようとしている内容は、この「哲学的営為」という文脈で言えば、哲学における、狭い「知的活動」の範囲内で、何ができるのか、何をすべきか、その役割について述べようとしている、そのような位置付けになるかと思われます。

 村田先生が、7月9日投稿にて当方の質問を以下のように、

>  学とは何かを問うことは哲学の領分である。しかし、浦井先生の問題提起は、
>  その哲学における「自由」と「制約」を問うている。

言い直して下さったところですが、当方の述べる哲学における「自由」と「制約」は、従って村田先生の言われる「哲学的営為」の重要性とも、またその広い意味、即ち「善的活動」「美的活動」を含めたものとも整合的たらんとする、「知的活動」内の問題と、言えると思います。整合的たらんとするというか、むしろ、その「整合性」こそが、その主張内容と言えるとも思います。

 つまり、そういった「学に対する学」、「哲学に対する哲学」ということを考える場合、そこでの「知的活動」としての思考、論理こそが、普遍論理という位置付けになるのではないかと思います。また、それもまた「成り行く」ものである限り、少なくともその全体が明確に定まっているという必要はなく、またそうでない方が自然でもあります。そしてその普遍言語の普遍言語らしさとも言える「明らかさ」、「明晰さ」といったものは、「美的活動」によって、その広い「哲学的営為」の中で、評価される他無いと思われます。そして、「善的活動」としては、まず第一にその学問が自らの根拠を自らに求めるところ、すなわち「自由性」の意志として、既に原初的には現れていますが、それは最も原初的なものと言えるところに過ぎません。それに引き続いて(普遍言語の例えば一部をもって)「愛」が明らかにされ、またそれとの葛藤(これこそが、先の投稿で述べた、その限界をいい加減にすれば、葛藤もまたいい加減にもなるところですが)が明かになるにつれ、自己批判を通じて社会全体における「責任」が、またそれを通じて新たな「善的活動」の広がりが、見いだされることになると思います。それはまた「美的活動」にも戻っていくことになります。(一つをいい加減にすると全てがいい加減になってしまいます。)

 従って、美はこうした普遍言語の成立に必要であり、普遍言語は自由(という原初的な善的活動意志)と愛の葛藤を通じて、善的活動の豊かさにとって必要であり、そうした豊かさはまた社会全体との調和ということを通して、美的活動と関わるというのが、この「学に対する学」という層における、「学の成り行くところ」と言えるのではないかと、今はそのように考えるところです。

 以上、村田晴夫先生の「組織における美と倫理」にそのまま乗っからせていただく形で、思いつくままにともかく書かせて頂いたところですが、少し時間に焦って結論を急いだ部分もあるのではないかと恐れます。ゆっくり時間をかけ、更に検討させて頂きたいと思います。細部、いろいろと不十分な点不明確な点など、皆様方にぜひご指摘、ご教示いただければ有難く存じます。
浦井 憲 2017/07/13(Thu) 06:45 No.32
Re: セミナー「文明と経営」その後
みなさま、たいへんご無沙汰いたしております。

掲示板の投稿、たいへん面白く拝読しています。今もときおり二読・三読しています。

「日本ホワイトヘッド・プロセス学会 第39回全国大会」のご案内をさせていただきます。今年は、奈良県天理市の天理大学で10月14日(土)〜 15日(日)に開催されます。

初日のシンポジウムでは、守永直幹先生がシンポジウムで「生命哲学」をテーマにお話される予定です。このスレッドでの守永先生の議論の中でも、少し触れられていましたが、これまでの守永先生の議論は、おそらくこのシンポジウムに向けた準備という意味ももっていたものと思われます。下に案内とプログラムを貼ります。

ご都合の良い方、ぜひご出席下さい。


日本ホワイトヘッド・プロセス学会 第39回全国大会 プログラム

日 程: 2017年10月14日(土)〜 15日(日)
会 場: 天理大学 研究棟・3階

10月14日(土)
< 理事会 > 会場:第4会議室
時間:11時30分 〜 13時30分

< 公開講演 > 『「いのち」と医療』
会場:第1会議室
時間:14時 〜 15時
講演者
吉田 修(天理医療大学学長)

< 公開シンポジウム > 『「いのち」をめぐって―生命哲学と生命倫理の諸問題―』
会場:第1会議室
時間:15時15分 〜 17時45分
提題者
林 貴啓(立命館大学)
守永直幹(宇都宮大学)
田中 裕(上智大学)
司会
荒川善廣(天理大学)


< 懇親会 > 会場:心光館
時間:18時 〜 20時
       会費:4000円(予定)&#8195;
10月15日(日) 

<研究発表>(発表35分、質疑応答15分)

発表グループ1(会場:531演習室)

10時 〜 10時50分  
山浦雄三  「よく生きる」〜ホワイトヘッドの倫理の方位
司会・コメンテーター:谷口照三

10時50分 〜 11時40分  
猪原政治  企業の社会的概念の考察 ―ホワイトヘッドの思想をもとに―
司会・コメンテーター:谷口照三

(昼食休憩および総会:総会については下記参照)

14時 〜 14時50分  
Mア要子  ホワイトヘッドにおける美的調和と人間形成について
司会・コメンテーター:乘立雄輝

14時50分 〜 15時40分
大厩 諒  ジェイムズの哲学観 ―四つの特徴と根本的経験論―
司会・コメンテーター:乘立雄輝


発表グループ2(会場:533演習室)

10時 〜 10時50分  
飯盛元章  自然法則は変化しうるということについて
    ―ホワイトヘッドの「宇宙時代」とメイヤスーの「事実論性」の考察をとおして―
司会・コメンテーター:本郷 均

10時50分 〜 11時40分  
清水友輔  自然における超越と関係
    ―ホワイトヘッド哲学における「宇宙時代」の複数性について―
司会・コメンテーター:本郷 均
(昼食休憩および総会:総会については下記参照)

14時 〜 14時50分  
佐藤陽祐 過ぎ去ったものたちはどこにあるのか
―ホワイトヘッド哲学における「過去」について―
司会・コメンテーター:田中 裕

14時50分 〜 15時40分
有村直輝 ホワイトヘッドにおける神と両立不可能性
司会・コメンテーター:田中 裕

< 総会 >
会場:第1会議室
時間:13時 〜 13時50分
村田康常 2017/09/26(Tue) 00:36 Home No.52
村田康常先生、ご案内有難うございます
ホワイトヘッド・プロセス学会のご案内、まことに有難うございます。

学期の始まりが例年より早く、今週末から既に講義が始まるようです。恥ずかしながら昨日になってそれを知り、
慌しくしております。

ホワイトヘッド・プロセス学会の方は、地元奈良でもありますし、ぜひとも参加させて頂きたく思っております。

守永先生のご報告を含め、皆様方のお話をお伺いできる機会を大変楽しみに致しております。
浦井 憲 2017/09/27(Wed) 15:23 No.53
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