2018年3月9日セミナー『貨幣・価値と事実の「関係性」』その後

2018年3月9日、方法論部会セミナーでのご報告、ご講演、ディスカッションに基づき、その
全体まとめとして、またこの先の一層の発展に向け議論を深めて頂く目的で、このスレッド
を立ち上げました。

特に、前年から引き継いだお話として村田康常氏(名古屋柳城短期大学)に方向付けて頂
いたテーマ「価値ある事実:ホワイトヘッドの多即一の論理」に向け、経済学側からは神谷
氏による「貨幣価値の非決定性」、そして塩澤氏の顕示選好とベイズ統計モデルといった
観点から、「具体的に」切り込んでいくことができればと思っております。

当日は、全体ディスカッションの時間を、特にこの総合的な問題に費やすことができればと
願っておりましたが、幾分時間不足になってしまいました。当方の力量不足、お詫び申し上
げます。また、当日のセミナーにご参加頂けなかった方々も大勢おられますので、ここで再度
議論を深めることができればと願っています。


当該セミナーに前後して、私と鈴木岳氏、長久領壱氏、守永直幹氏、塩谷賢氏、村田康常氏
の間ではメールでのやりとりがなされておりまして、その内容をお伝えすることも、ここでの
大きな目的です。その内容を含めて、以下まずは当方のここまでの理解として、独断を恐れ
つつ、(1)セミナー前、(2)セミナー時、(3)セミナー後、それぞれについて、この先の議論の
きっかけになるのではと思われる内容をまとめてみました。不十分があると思いますが、叩き
台として頂ければ有難く存じます。


(1) セミナー前のやりとり: 「主体」について、鈴木氏ならびに守永氏の問題提起。村田氏「具体性を置き違える誤謬」の二つの意味。

(2) セミナー時のやりとり: 「数」の取扱い、またそれを含めたホワイトヘッドとベルクソンの違いについての守永氏の問題提起。

(3) セミナー後のやりとり: カント的「近代」との対置。経済学における「貨幣の価値の非決定性」の意味と「具体性を置き違えの誤謬」。


それぞれについて、以下3つの投稿を続けます。

なお、当日の配布資料を除きましては、私が村田康常先生から頂戴したメールの文章を除い
て参考資料等まだ一切挙げておりません。まずは投稿者のご判断で投稿時の添付ファイルと
して下さい。ご要望に応じて、以下URL(数理経済学会ホームページのセミナーメニュー)

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html

からご覧頂ける当該セミナーの広報欄に、セミナー後の追加的資料としてアップロードさせて
頂きます。

浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:34 No.55
(1). セミナー前
当日参加をお願いした一部の方々と、事前の簡単な打ち合わせをおこないました。そうした
中、今回を経てまた次回以降に引き継ぐべき重要な論点も存在しているように思います。以
下その詳細をまとめます。

鈴木岳氏からの経済学理論における「主体」の取扱いについての問題提起に端を発する形
で、更に守永氏からはそれを一層深める形でホワイトヘッドにおける「主体」の取扱いについ
ての問題提起があり、フッサール的な超越論的主体、デリダの差延等、「主体」概念とそれに
まつわる問題をいかに、どこまで取り扱うか(取り扱わないか)が議論されました。守永氏の
ご忠告にもかかわらず、主体の問題にこだわったというわけでは無いのですが、一応これは
大切な論点と思われます。マクロ経済学における「ルーカス批判(合理的な期待とは何かと
いう問題を含めて)」、あるいはゲーム理論における「合理性の共通認識」といったことが、
この問題と関わると思います。これらは、そもそも「社会認識」とは何かという問題として経済
学理論(あるいは Weber にまで戻るとすれば社会科学一般)の根底に存在しており、そして
いわゆる「経済人」という概念においては、そうした部分が理論上(一つには困難ということ
もありますが、一つにはそれが「役に立たない」という理由によって)空白のままになっている
と思います。合理的主体の合理的とはどういうことか、合理性の共通認識という場合の合理
性とはどういうことか、そうしたことを空白のままに、経済学的には「主体」agent 概念が与
えられる以上、これが超越論的にも subject と捉えられることは、経済学理論の専門家に
於いてはありえないことで、しかしながら、言説として、これが一般的な知として広がった際
には、そこに大きな乖離が生ずるのは間違いなく思われます。(これは別の機会でですが、
葛城政明氏より、私が関心と問題意識を持っているところは、agent でも subject でもなく、
self ではないか、agent - self - subject をきちんと分けた方が良いというアドバイスを頂き
ました。そうかもしれません。というか、それらは少なくとも究極においては、一致せねばなら
ない、と当方が考えているのは間違いないです。)

「貨幣」というものを理論が取扱うにあたっては、そのような空白部分が理論内部に持ち込
まれてくることを余儀なくされるところがあり、そのことが経済学理論から本質的な貨幣の
問題を遠ざけているのではないか、そういった論点が重要になってくるように思います。これ
らが、ホワイトヘッド的な「具体性を置き違える誤謬」という問題(経済学理論を「具体例」と
するならば)に関わってくるのではないかと考えます。


村田康常氏からは、まず「具体性を置き違える誤謬」について、それを二つに分けるべきとい
う示唆を頂きました。以下、村田氏のメールのその部分を抜粋します。


   「具体性を置き違える誤謬」というのは、2つの意味があります。

   まず、それは「研究者の倫理」程度のことを言っているのだ、という大雑把な理解です。
   これは間違っていません。「具体性を置き違える誤謬」は、科学の方法を用いる者に
   とって、いわば当たり前のことを言っているわけです。

   …

   このように見てしまうと、「具体性を置き違える誤謬」というのは、かなり粗削りな考えだ
   ということになります。しかし、そのような粗削りで雑駁な考えであるために、具体性を
   ホワイトヘッドは価値と事実が受肉するという出来事の関係性の内に求めている、と
   いった彼自身の哲学内部の事情からはある程度切り離して、科学哲学や科学方法論
   の一般的な議論の中で語ることができる考えでもあります。

   そして、このホワイトヘッド哲学の内部事情が、「具体性を置き違える誤謬」という考えの
   2つ目の意義です。


上記のような観点から、(1)粗削りな研究者倫理、(2)ホワイトヘッド哲学の内部事情、という
ことを分けて考えたいと思います。つまり、「具体性を置き違える誤謬」について、経済学でも
良く言われるように、理論が現実と乖離していないか、常に注意しましょう、という当たり前の
こと(もちろんそれは最終的には最も大事なことかもしれないのですが)から一歩進んで、更
に深い問題、価値が事実から切り離せないということそのものに問題を見出す方向、そして
「具体性を関係性の内に求める」ということと絡めて、議論を深めたく思います。

また、ホワイトヘッドにおいて「主体」がどのように扱われているかについて、村田康常氏は以
下のようにまとめて下さっています。


   ホワイトヘッドの「主体(subject)」「客体(object)」という語の使用は、カントの主-客構図
   を批判するために使われていて、いわばカントの構図をひっくり返した存在論・認識論の
   構築を目指していたために、かえってデカルト/カント的な語彙のまま残されている、と
   いうことです。守永さんがおっしゃっていたように、subject / objectには、行為論的な文脈
   では「主体/客体」、認識論の文脈では「主観/客観」と訳される傾向に即して、ホワイト
   ヘッドでは「主体/客体」という訳語が当てられています。


これは当方の理解ですが、ホワイトヘッドにおいては具体性を関係性の内に置こうとすること
と相俟って、「認識」ということも「行為」もしくはプロセスとして、それこそ「多即一」的に扱わ
れる、ということかなと、思っております。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:41 No.56
(2). セミナー当日
当日の配布資料は以下URL(数理経済学会ホームページ Seminar Menu)から Download
できる形になっています。

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html

全体ディスカッションの時間を独立して確保することができず司会の不備を反省しております。
個々のご報告ならびにご講演内容についての詳細をここでまとめるということは、私の力量を
越えておりますので、全体を通した総合という視座より、簡単にキー概念的なところで、まとめ
ます。

塩澤康平氏のお話: 「表現」として得られるデータ(例えば価格と需要量のみといったもの)
から、その背後にある構造(何人のどのような人々が合理的に行動した結果であるというよう
なもの)を取り出すということです。この問題を、真実というべきものがあって、それに近づく
と考えるなら、今回の話には直接つながらないのですが、「合理化」ということ自体そもそも
一つの架空のお話に過ぎないという立場で考えれば、積極的にそうした「価値」を取り込む
ことで、始めてモデルが作れる、という話として、関わって来るかと思います。

神谷和也氏のご講演: 「貨幣」の持つ「交換の媒体」という特性に特化した基本的なモデル
(サーチモデル)の下で、「貨幣の価値の非決定性」について、実験を含めた考察です。この
場合、貨幣の価値が Focal Point として(つまり参加者の思惑の一致のみで)決まるという
ことがポイントで、それならば思惑が一つ変われば、均衡すなわち貨幣の価値も変わるという
ことであり、言い換えれば指揮者がいるのといないので大違いということです。貨幣について
は市場ではなく、政府の役割を認めるという立場になります。今回の話との関連で言うと貨幣
の価値が、標準的な経済理論が主体 agent として想定する(欲望の記述も含めた)ものの
「事実」だけからは決まらず、その主体の subjective なところ、そのマーケットを見渡す主観、
のようなところ、価値判断といったものに、必ず関わるということになります。

村田康常氏のご講演については、ご本人から事前に頂戴していたメール文での今回ご講演
の要点と思われるところを、以下そのままご紹介させて頂きます。


   ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論では、価値が受肉した事実の世界を存在論的・認識論的
   な角度を絡み合わせながら描いていると思います。事実への価値の受肉はどこでおこるのか。
   認識主観において、というデカルト以来の(特にヒュームとカント以降の)近代認識論の潮流
   に抗して、ホワイトヘッドは、まずは諸事実は価値と不可分に結びついて生成するという存在論
   を展開します。主観的偏重のない「なまの事実そのもの」といったものを認識することができな
   いのと同様に、主観的な価値評価の観点を離れた普遍的な「価値そのもの」をそのまま認識
   することはできません。価値評価は、認識される客体から認識する主体への関係性の中で成立
   します。そこに、主観的なパースペクティブの多様性に応じた、価値評価の多様性が生じます。
   問題は複雑ですが、今回注目したいのは2点です。

   まず、価値判断や価値評価を入れない「事実そのもの」を、客観的なものとして、つまりいかなる
   認識主観にも同一の認識をもたらすような仕方でアクセスすることが可能なものとすることを
   ホワイトヘッドは否定しています。そのような仕方で没価値的な事実そのものとしての対象(客体)
   にアクセスするような認識の成立こそが科学だとするような科学理解を否定するわけです。「没価
   値的な事実」は高度な抽象化だという主張が、このような批判の根拠になっています。気をつけ
   なければならないのは、ホワイトヘッドが、価値を脱色された「なまの事実そのもの」という認識の
   成立を否定しているのではなく、そのような認識は高度な抽象化の産物であり、そのような認識
   だけに基づいて何らかの判断やアクションをその対象に及ぼす場合、そのような判断は価値と不
   可分に結びついた事実の具体性を見誤っているがゆえに、場合によっては破壊的に作用すること
   すらある、ということを彼は主張しているということです。

   次に、価値判断の多様性と同様に、価値と不可分の事実についての認識も多様だという認識の
   多元論は、知の相対性とともに、知の途上性をも主張しているということです。ホワイトヘッドは、
   不可知論を主張しているのではなく、最後究極的な唯一の知といったものはフェイクだと言って
   いるのであり、知の営みは常に途上であり、創造的に前進しつつある、ということを主張しています。


今回のご講演では、当方司会の進め方が悪く、議論という形で上記問題を皆で論ずるというところ
に至らなかった感が強いので、この点、ぜひともこのBBSで補足できればと願っております。これに
ついては、セミナー後のやりとりがありますので、そちら(次の投稿)に続けます。

最後に、当日のディスカッションからは、特に守永先生からご指摘のあった、ホワイトヘッドにおける
「数」の取扱いについて、ということを、議論の出発点として挙げさせて頂きます。「具体性を置き違
える誤謬」については、ベルクソンからの影響、あるいは塩谷先生のご指摘ではジェイムズからもと
のことですが、特にホワイトヘッドにおいては、「数」の取扱いについて注目すべきところがあるので
はないかということでした。これもまた、セミナー後のやりとり(次投稿)にて改めて触れさせて頂く
ところですが、ホワイトヘッドとベルクソンの関係は、今回議論の大詰めに関わる問題として、大変
興味があります。守永先生どうか宜しくお願い致します。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:43 No.57
(3). セミナー後
すでに一週間を過ぎてしまいましたが、その間、また数名の先生方と、メールを通じたやりとりをさせて頂き
ました。


まず、村田康常先生からは、以下のようなご連絡を頂きました。


  発表では、みなさまと議論したかったことがいくつもありましたが、私の説明の拙さのせいで、「具体性
  を置き違える誤謬」は当たり前のように科学者や哲学者みんながやっている、というところだけで議論
  が膠着してしまって、その先に十分に進めなかったのが、本当に申し訳ないです。

  その先で論じたかったのは、なぜこんな「具体性を置き違える誤謬」に気を付けるといった当たり前の
  ことを科学や哲学が留意しなくてはならないのか、それは科学や哲学といった学問の世界にだけ固有
  の事情ではなく、人間の経験や認識そのものに関わる問題ではないのか、というところでした。


当日の話を更に発展させて行く上で、以下の論点を挙げさせて頂きたく思います。

セミナーでは、特にホワイトヘッドとベルクソンの「違い」に話が行ってしまった感があります(もちろんそれは
非常に興味深い点です)が、むしろ「ホワイトヘッド&ベルクソン&ジェイムズ」をひとまとめにして、「カント的
近代」と対置させる、そのことの方に当方が司会として誘導すべきであったと反省しております。

この点は、哲学の方々には当然すぎると思われるところかもしれないですが、それ以外の方にとっては全然
自明ではなかろうと思います。村田康常先生ご指摘の論点も、まずこれを前提にしておかなければ、「近代」
科学の根底にある問題という形で、議論が進まないのではと思います。「具体性を置き違える誤謬」の現代
における意義、ということを考えるならば、その点が必須であったであろうと、思われるということです。

また、それを前提とすれば、ホワイトヘッドとベルクソンあるいはジェイムズ等との違い、ということにも、却って
その意義がともなってくるのではないか。「近代」との対決、と捉えるならば、ホワイトヘッドとベルクソンの違
いということにもまた、相互に補完的なものとして、位置付けることも可能になってくるのではないかと、その
ように予感しております。


続けて、守永氏から、神谷氏の「貨幣価値の非決定性」について、その意義についてのご質問があり、以下
のような形で(あくまで当方の理解する一つの意義として)お答えしております。

「貨幣の価値の非決定性」の一つの意義について、これはいわば神谷氏の取り扱うような純粋な交換のみ
を基調とするモデルにおいて「さえ」、貨幣の価値が(純粋な事実判断=ファンダメンタルズのみによるとい
うよりも)人々の Focal Point として定まるという他ない、ということが言えているということです。

今日のマクロ経済学では、貨幣の価値というものが「純粋な事実判断から決まるものであり、そこに人々の
価値判断的要因の入り込む余地は無い」としておきたい、というのが主流の考え方になっています。それに
対して、このようなシンプルなモデルでも、非決定性が出る(この場合非決定性とは、ファンダメンタルズ=
事実に関する判断のみでは決定できない、という意味です)というのは、一つの重要な批判になってきます。
(もちろんマクロの主流派は、こうした問題についても、世代重複モデルといったもの等々を通じて、そうでは
ないモデルがあるということを十分知っており、その上で、こちらのモデルで「良いのだ」という立場を取って
いるだけですから、そういう反例が一つ増えたからといって、直ちに影響があるということではありません。)

今日主流派のマクロ経済学はそういうものですが、一方で、かつて1970年代頃までのマクロ経済学の主流
(ケインズ経済学)の基本的な考え方はそうではなく、まず将来の不確実性ということに本質的な意味があ
るものとして捉え、貨幣はそのことと結びついて本質的な意味を持つ、その場合に政府の指揮が有効である、
という路線でした。例えば Focal Point というのは誰かが指揮をすればそこに向かうということであり、指揮
者が必要、あるいは指揮者に意味がある(政府の役割を認める)、という方向の議論になります。ケインズは、
そのような立場の方が一般的と考え、自らの理論を一般理論と唱えたわけです。(この反対は、もちろん市場
が第一であり、政府は基本的に市場の働きを乱すな、という方向の議論になります。)

普通に考えれば、ケインズ的な(一般的な)考え方の方が、常識的と言わざるを得ないと思います。

では今日の主流派が上のような立場を取る理由は何かと考えますと、その一つとしては、おそらく「理論家が
自らの結論に責任を取らねばならないということに直面した際、はっきりと分かっていることだけに着目して、
分かっていないところについては、議論の対象としないということを、選びたがる」からではないかと、これは
経済学者という集団の内側から見ていて、私の印象に過ぎないと言われればそれまでですが、そのように思
います。

いわば「具体性をわざと置き違える」ことで、自らの発言の道徳的責任を回避しようとする傾向、と言えるの
ではないかと思います。そのような傾向(暗黙的な価値判断)が、経済学のような現実社会およびそこでの
政策と密接に関わるような社会科学においては、その学者集団の主たる潮流をそもそも作り上げる(これは
専門家というものが作り上げる、今日の学問あるいは科学という「科学観」からして決して無視できない重要
なファクターであると思いますが)際に、働きがちということでしょうか。

また、言い換えるとこれは、「いかなる場合でも具体性を置き違えざるを得ない」ということ(社会科学の出発
点として、Weber 的には当然のこと---価値自由という言い方をするにせよ、価値を置かざるを得ないという
ことは当然のこととして認めているという意味において---であったと思うのですが)を忘れ、「いっそ具体性
を置かなければ誤謬に陥らない」、と考えるかの如くに、「具体性を置かないという選択肢」を安易に手にし
得ると考える誤謬、のように思います。この誤謬の背後に、学者という道徳的責任、ひいては学問という場所
の問題があるのではないかというのが、当方においては前年から気になっているところでもあります。

誤解を恐れず申し上げれば、この「学問」という「場所」の問題に立ち帰るなら、我々には「拠り所とするもの」
が、あると言わざるを得ないのではないか。それはおそらく知ることそのものであり問うことそのものであり、
そのような表現の自由そのものの拠り所でもあると思います。それが「多即一」の話ではないかと私には思
われ、また、守永氏の言われるベルクソンとホワイトヘッドの違いということについては、「数」ということがそ
のこと(拠り所とするもの)とどのように関わるか、という重大な話につながると思っております。


以上、叩き台として頂ければ幸い、ここまでのまとめです。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:46 No.58
追記: ホワイトヘッドとM.ウェーバー
当方がすぐ上の投稿にありますような形で急にM.Weberを出してしまったところで、守永先生より、追加的
な問題提起を頂き、ホワイトヘッドとM.ウェーバーの比較というのも、近代化論という枠組みで可能ではない
かとの問いかけを頂きました。

有難うございます。Weber については、当方も書きつつ気になっておりました。思えば、「社会」の「科学」を
成立させるために事実判断と価値判断を明確に切り分けた Weber と、今回の話は方向性としては真逆の
ものなので、自然に出たわりに、整理が必要と感じておりました。

守永先生からはメモをファイルで頂戴いたしまして、また必要に応じてアップロードして頂ければと思います
が、なるほど、Weber における理念型の位置付けが現在の問題と直結しているように思われます。そして、
それは、論理実証主義や分析哲学においては純粋な分析判断とか、言語といった概念に対応するところと
して洗練化されるところとなり、そうしたものが20世紀的科学の基礎となり、20世紀の経済学などがそこ
にそのまま乗っかった、と思います。

しかしそもそも経済学などは、Weber が基礎づけようとした「社会」の「科学」そのものですので、「近代」の
「科学」の問題点を明確にしようとするのがホワイトヘッドの意図にあったとするならば、まさに今日経済学
に見られる問題点には、正しくその近代の科学の問題点が明らさまに浮き彫りにされている、ということが、
あり得そうに思います。今回の「貨幣」における問題点などは、そういう意味で恰好の題材であると思います。

もう一点、大きな流れで言うと、ウェーバーにおける理念型、論理実証主義における言語、そして多即一の
「論理」というものがあるように思います。この点極めて興味があります。何とぞ宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2018/03/19(Mon) 14:51 No.59
Re: 2018年3月9日セミナー『貨幣・価値と事実の「関係性」』その後
浦井先生、諸先生

セミナーと、その前後の議論の動きが一目で解るようになっていますね。
これ自体がなかなかの労作と言えそうです。とても参考になりました。
まことに、ありがとうございます。

ところで私は今、このセミナーで話題にしたホワイトヘッドとベルクソン
の関係について、とりわけ「具体的なものを置き違える誤謬」を巡って
論文をしたためております。

このキャッチフレーズについて調べ、考えを深めるにつれ、これは容易
ならざる深い根と広がりをホワイトヘッド哲学において持っていると
確信するに至りました。

締切が月末迄で間に合うかどうか解りませんが、好い機会なので、それを
仕上げるのに全力を注いでおります。そんなわけで、この論考が完成する
まで、自分がこちらの掲示板に投稿するのは無理だと思われます。

逆に、それなりの形ができたら投稿して、皆さんのご批評を仰ぐことも
考えております。

ホワイトヘッドについて、あるいはベルクソンについて、ずいぶんと
あちこちで発表したり、論文を書いたりしてきました。新しい資料も
どんどん出つつありますが、ここらで自分の考えをまとめておかないと
もう後がないと些か焦っております。

ではまた後で。近いうちに。
守永直幹 2018/03/22(Thu) 15:10 No.60
3月9日セミナーのその後(具体性置き違えの誤謬と多即一)
ジョイント・セミナーでの議論全体がこのBBSで要約され、さらにその前後のメールでのやりとりも網羅されて、全体が通覧できるようになりました。守永先生がおっしゃるように、浦井先生のたいへんな「労作」の恩恵は、とても大きいです。感謝いたします。

3月9日のジョイント・セミナーで私は、予定していた発表をうまくこなすことができませんでした。これは、ひとえに私の発表のまずさのせいで、司会を務めてくださった浦井先生には一切責任のないことです。

そこで、このBBSをお借りして、セミナーでは用意していたけれどもうまくお伝えできなかったことを言葉にしておきたいと思います。幾人かの先生方にはすでに3月11日付けのメールで書きました内容で、少々長文ですが、このあとの議論に何かつながっていけばと思います。

まるで3題噺のように、「価値と事実の二元分裂という図式の批判」「具体性を置き違える誤謬」「ホワイトヘッド哲学の多即一」というテーマをつなごうとして、詰め込みすぎた観がありましたが、そのうち後者2つがどう繋がるのかは、セミナーではほとんどお話できませんでした。「多即一」の「即」をbeないしはequalと解するのではなく、becomeとかbecomingと解する、というのが私の話のオチになるはずでした。以下で、そのオチまでの話を書きます。

「具体性を置き違える誤謬」という考えは、科学や哲学がその方法によって何を捨象しているのか、何をエポケーしたのか、を常に意識しなければならない、という当たり前のことを言っています。しかし、それは厳密には不可能な話です。何を捨象していたのかをリストアップし尽くすことはできません。明晰判明な理論が捨象しているのは、ほとんど現実世界のまるごと全体です。逆に学問的関心と方法によって掬い出され、選択され強調されたのは、その中の、主題に関連するごくごく一部のことにすぎません。他のほとんどが「雑音」や「誤差」として消されています。「ラボ」とか「実験室」とか「サンプル抽出」とかは、この多様な世界のほとんど全体からなるさまざまな「雑音」を消して研究の主題となる領域だけを選択的に残す努力の一つです。先日の塩澤先生の統計学のお話は、そういう研究の「努力」を劇的に効率化するための従来の手法に対して、より具体性をもたせるためにギリギリの効率化よりもある程度の手間をかけた方がよい、ではどれだけの手間をかけるのがよいのか、といった方向での意欲的で可能性の高いチャレンジだと思いながら拝聴しました(違っていましたらご指摘くださるとありがたいです)。

科学も、哲学も、それぞれの専門に応じた方法によって、数えきれない「多」から、慎重に「一」を生成しています。そしてその方法は、絶えず吟味され改良されています。

そうやって、学知において、「多」から「一」が生成するというプロセスが繰り返されるのだと思います。その「一」には、しかし、マスクされ誤差や雑音として消去された数えきれない「多」が、微かに反映しているかもしれません。手持ちの方法ではその痕跡が認められなくても、それらの「多」が消されてしまったわけではないことを、方法を用いる者は知っておかなければならないというのが、「具体性を置き違える誤謬」という考えの訴えるところです。発表では、これを便宜的に「第一の意味」と呼びました。それらの「多」は、研究をはじめたときの最初の環境設定のところでエポケーされていただけなのです。それでも、保留され排除されたそれらの「多」なるものの余韻というか痕跡というか微弱な影響連関は、理論として提示された「一」が前提としているものであり、この「一」の中にいろいろな仕方で反映されています。一つ一つを読み取るにはまた別の方法によって膨大な費用と手間と時間と努力を傾注しなければならないような無数のものが、生成してきた一つの理論、一つの命題、一つの学説の中に、あるいはその余白にあります。

ホワイトヘッドはこのように「一」なる統一体がそれ自身を超えた「多」なるものの全体を含み、その「一」のパースペクティヴからこの「多」を表現している、という多即一的な観点をライプニッツから引き継いでいます(ライプニッツはいわゆる『モナドロジー』14断章で、モナドを「多を含み、表現する一」としての「1つの実体」と呼んでいました)。科学や哲学の1つの命題あるいは理論も、宇宙全体を前提としています。「ある特殊科学の領域を構成する事実の1つの類は、宇宙に関するある共通の形而上学的前提を必要とする」(PR 11. 邦訳18)とホワイトヘッドは述べて、「命題を現実世界におけるその体系的脈絡から引き裂くことはできないというこの学説」(PR 11. 邦訳18)が科学と哲学の基本的な在り方を規定しているとしています。言い換えると、科学や哲学の「命題は、その意味のうちに前提されているあるタイプの体系的環境を要求するがゆえに、部分的真理を体現することができる」(PR 11. 邦訳18)ということです。

直接経験の個々の契機を凝視すると、その個別的な契機のうちに個別的限定性を超えた全体的な関連が見出される――個は全体を含み、全体を表現しており、一は多を含み、多を表現している、言い換えると、多は一の内的構成要素となっていて、世界全体が1つの経験の契機のうちに含まれている。これは、西田幾多郎の言葉を借りて、ホワイトヘッド哲学における「多即一」の論理と私が呼んでいるものです。ホワイトヘッドは、次のように述べています。「われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、その理解は、それ自身を超えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に、そしてその限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていくということである。」(PR 14. 邦訳23)

ちょうど、空中を落下する水滴の表面に周囲の全世界が映し出されているように、個々の「一」のうちに、それと関連する全宇宙の「多」なる要素が、その「一」の固有のパースペクティヴから映し出されている、といったイメージです。手間ひまを惜しまなければ、その水滴がいかなるパースペクティヴからいかなる世界を映しているかを観察することも可能です。一のうちに多を、個のうちに全体を見ることができる、ということは、私たちの認識だけでなく、科学や哲学などの学知においてもいえるはずだ、というのがホワイトヘッドの信念です。

そして、こうした学知の生成のプロセス、「多」から「一」が生成するプロセスは、認識のプロセスそのものについても言えます。というか、私たちの認識のプロセスが、そもそも、現実世界の判別もできないような無数の与件からいくつかの要素を選択し、意識においてそれを強調し補正し解釈もしていると言った方がいいでしょう。そこにも「多」が「一」になる、というプロセスが絶えず起きています。注意してよくよく見ると、その「一」には、マスクし排除した無数のものが反映しているのが分かるかもしれません。その「一」は、「多」を含み、「多」を代表する「一」(「多」を表象する「一」)、「多即一」の「一」だということ、こういうことがホワイトヘッドを読みながらみなさんに伝えたいと思っていたことです。「抱握(prehension)」とか「合生(concrescence)」のプロセスというホワイトヘッドの独自の術語は、このことを意味しています。私たちの経験は、現実世界の「多」なる与件が、「今、ここ」において「一」なる経験の統一体へと生成していく瞬間瞬間のプロセスの連続だということです。

ホワイトヘッドやW. ジェイムズが指摘するように、私たちの経験の各場面も、自分でそのとき意識している範囲というのはものすごく狭いけれども、その一場面一場面を克明に凝視し、ものすごい試行錯誤の手間や努力を傾注すれば、どの場面にも無数の連関があり、その連関はそのシーンを超えて空間的にも時間的にも因果的にも連想的にも広がっていって現実世界のほぼ全領域に及んでいくということが、見えてくる(かもしれません)。

たとえば、先日、阪大のジョイント・セミナーですばらしい経験をした、あの一瞬一瞬の中にも、メンバーのそれぞれの、そこに至るまでの膨大な経験やその経験をもたらした状況の重なりや広がりがあり、メンバーとは認識されないような要素、たとえばキャンパスのたたずまいとか会議室の内装や備品とかあの日の天気とか朝刊の報道とか誰かの不在欠席までもが、その一瞬一瞬の経験を構成する要素になっている。議論された言葉だけでなく、たとえばマイクの電源のオン・オフも、発表者や聴衆の表情やしぐさも、資料のフォントサイズやレイアウトなども、議論の方向を左右した要因だった可能性があります。たとえば私はレミオロメンの「3月9日」を聴きながら研究棟までの坂を登ったのですが、それがセミナー中もずっと心の中に鳴り響いていました。そういった混然となった無数の要因もひとまず情的・雰囲気的に背景的なトーンとして漠然と感じながらも、意識は研究発表の議論のそのつどの焦点に向けられたり、理解のための努力に向けられたりしていました。

このように、漠然としたものも判明なものも含めて無数の「多」が、その大半を背景へと退きながら、前景に「一」の焦点的領域を形成していきます。つまり、「多」が「一」となる、という瞬間瞬間が連なりながら、その前景的な「一」の連続性が生成します。たとえば、坂を登る途中、音楽を聞きながらその後の発表で話そうと思っていることに意識を集中している。そのような経験の持続というか連続性は、「多」が「一」へと生成する瞬間瞬間の出来事の連なりで、いわば、非連続のものの連続です。そして、その一つ一つの契機の中に、背景へと追いやられた無数の「多」があります。その「多」にも関係性の濃淡があって、前景的なものに濃い関連をもっていてすぐ近くに感じられる要因から、ごくごく薄く間接的な関連がかろうじて認められるかもしれないようなはるか彼方の要因まで様々です。

このような、多が一になる、というのは、認識のプロセスだけでなく、万有の存在のプロセスでもある、というところまで議論を拡大すれば、それでホワイトヘッドのプロセスの哲学の要点は尽くされたといってもいいと思います。まるで仏教哲学のようですが、「今、ここ」での私も、今、開花しようとしている桜の一輪一輪も、一切が、それぞれのおかれた現実世界の「多」なる要素を受けて生成していく新しい「一」だということです。これをホワイトヘッドの「多即一」の論理と呼ぶことが許されるなら、「多即一」の「即」は、becomingということで、「一即多」の「即」は、increaseということになるでしょう。

この関係性は、おそらく現実世界の全体に及んでいます。比喩的にいえば光円錐の内側のように、あのときのあの場での私を頂点にしてはるか彼方の半影のように霞んでいくかぎりない領域の全体が、あのときの私という「アクチュアル・エンティティ」の「現実世界(actual world)」だということです。

・・・・・・長文、失礼しました。
村田康常 2018/03/22(Thu) 23:28 No.61
Re: 社会と価値
ただいま鋭意、論文作成中なので、ここでの議論に参加はできないと思われる
のですが、折角ですので先に浦井先生と村田先生宛てに送ったメールを掲示板に
アップしておこうと思います。

その前にホワイトヘッドにおける「価値」の問題について、私の観点から若干コメント
しておきます。主著『仮定と実在』の第3部・第2章・第3節においてホワイトヘッド
は「価値づけ」の問題を扱っています。

邦訳下巻では「概念的感じの主体的形式は《価値づけ》という性格を持っている」
(437頁)とされます。感じはフィーリングで、私は「実感」と訳したほうが良い
と思っています。で、この概念的感じをホワイトヘッドは別のところで、古い哲学
用語なら「欲求」と言うかもしれないと述べている。平明に言いかえれば、私たちが
主体として何かを欲求するとき、そこには必ず価値づけを伴う」というわけです。
当たり前です!

価値づけは個人の感性を超え、永遠的客体と関わる。これはプラトンならイデアと
呼んだようなものです。ホワイトヘッドは価値付けが3つの特徴を持つと言います。
これもまた、私が絶望的なまでに単純化してみましょう。

1)実感が主体を伴うとき別の実感ないし主体と関わる。――いいかえれば欲求は
他者の欲求を欲求するというわけです。

2)価値づけにおいて永遠的客体が対象に侵入する。いわば欲望の対象になり、
利用しうるものと見なされる。

3)価値づけられた対象を利用することに意味が付与される。そこにおける永遠的
客体の重要性が強められたり、弱まったりする。――いわば価値が上下に変動する。

がっかりするほど当たり前のことを書き並べているのですが、ホワイトヘッドと
しては価値について一言せざるを得なかった。それは実感が主体という統合された
形式を経て、永遠的客体と関係を結ぶ。そうした統合のプロセスにおいて、統合し
得ないものがポロポロ出てくるわけで、それらを価値論的に整序する必要がある
からです。

価値は公的なもの、あるいは社会的なものと関わります。『過程と実在』に伏在する
大きなモチーフは、私ごとにすぎぬ実感がいかに社会化されるかを解明することです。
至るところで公/私の区別が説かれる。そして最終的に勝利を収めるのはつねに「公」
なのです。そして公的なものとは幾何学的なものである!ようは数学だ、と言うの
です。許せませんね!

この件は余り注目されることがありませんが、ホワイトヘッド哲学の肝とも言うべき
点です。ここではあまり深入りできません。いずれ論文に書くつもりです。さぞや浦井
先生を喜ばせるかと思うと、いささか残念です。

「私」が1だとすれば、公は多でしょう。私が多に繰り込まれる過程がプロセスだと
言えなくもない。とはいえ、それはあくまで公であり、一定の社会です。それもまた
1である。

ここでのホワイトヘッドの議論が怪しいのは、私と公をつなぎ、媒介するものとして
本来なら無数の社会的階層があるはずなのに、その意味での社会学的展開に(ベルク
ソン同様)失敗している、と私は見ます。というのも、ホワイトヘッド文明論では、
社会的統合の原動力として、社会的闘争ではなく、むしろ美の創造や平和が説かれる
からで、そこには私と公の弁証法的なダイナミズムがそこにはない。この点が例えば
マックス・ウェーバーあたりと比較すると顕著な特徴です。

さて以下で村田先生宛てと、浦井先生宛てに送ったメールを2通アップしますが、
私には上記のような問題意識がある。それをお含みの上、読んで頂ければ幸いです。
守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:50 No.62
Re: 美と価値
村田先生、諸先生

当日言いかけて、経済学者のいる席であまり深入りしても?と思い、飲み込んだ
質問があります。それはムーアの『倫理学原理』にかんしてです。価値と事実を
二分し、人間における価値の問題を自然科学的なもの(「自然主義的誤謬」)から
切り離すことで彼が擁護したのは美であり、その審美主義的態度がケンブリッジの
知識人サークルに人格的な影響をあたえた。とりわけケインズらの青年層を魅了
した、というのが教科書的なストーリーだったように思います(違ったかも?)

功利主義に還元されることなき美という理念は、必ずしも目新しいものではなく、
ヨーロッパの近代美学における基本的主張と見なせます。それに改めて燃料を
投下した、というにすぎない。ホワイトヘッドはまさにその潮流のど真ん中に
いました。

ホワイトヘッド形而上学の最後の言葉は神でも論理でもなく、端的に《美》だと
私は思います。もっと言えば、美の創造である。創造されるべきものは美である。
一即多の論理をホワイトヘッドから取り出すにしても、かれはそれを価値論的
体系に結びつけるのではなく、何よりもまず美に結びつける。美は通常の価値を
超えています。むしろ価値そのものを担保するものです。

なのに「美とはなにか」という、この肝心な点がホワイトヘッドの体系においては
余りに曖昧かつ抽象的で、不限定である。そう私はホワイトヘッド学会で告発して
憎まれてきました(笑)それは恐らくケンブリッジ・サークルで共有されていた
審美観があって、あらためてそれを説明する要を彼が感じなかったからでしょう。
古い世代の人だから、それで済んだ。

しかるにベンヤミンのいう「複製技術時代」の現代に生きている私たちとしては、
もはやそんなオリジナルとしての美、あらゆる価値の源としての美というプラトン
主義的な理念は受け入れがたい。美と価値をめぐるヨーロッパの伝統的な思想を
脱構築する必要があるのではないか。これが以前からの私の主張です。

ホワイトヘッドの哲学を価値論的観点から読み、これを経済学とつなげるという
アイデアは、ノーマン・ブラウン『エロスとタナトス』Life Against Death(1959)
が手をつけていますが、これはあまりにフロイト的で、性革命を通じた体制への
異議申し立てという臭みを拭えない。明らかに時代的な限界を感じさせ、今と
なってはちょっとどうか?という感があります。これをもっと現代的な観点から
やり直す、という企ては必ずや意義のある仕事になるでしょう。



当日も申し上げましたが、数ひいては記号(シンボル)という問題を巡って、
ホワイトヘッドとベルクソンは鋭く袂を分かちます。このことはようやく最近に
なって私にもだんだん解ってきたことで、以前は似たようなものだと錯覚していた。
ベルクソンが曖昧にしている部分をホワイトヘッドが厳密に記号化したのだ、と
いうぐらいの認識でした。

しかるに両者には明確な立場の違いがある。それがシンボルとイメージの対立と
いう問題です。アクチュアル・エンティティと純粋持続の対立と言ってもよい。
ベルクソンが「エンティティ」(あるいは real thing)という概念の使用を自らの
体系において許すとは思えない。ベルクソニスムの最後の言葉は精神であって、
決してモノではない。

ホワイトヘッドの「具体者を置き違える偽り」というのは、なかなかよくできた
キャッチフレーズで、ごく一般的に用いて、社会科学が得てして陥りがちな過ちを
上から目線で告発するには便利な言葉だと思われます。が、ひとたび具体的なもの
とは何か、抽象とは何かと疑えば、はなはだ問題含みとなる。

当日、塩谷先生はウィリアム・ジェームズからの影響について一言されましたが、
多分あったとしても微弱なもので、ここでの具体と抽象を巡る議論はベルクソン
『時間と自由』に由来すると断言できる。というのも、ホワイトヘッド自身が
該当個所でベルクソンの名前を挙げているからです。

知性による自然の「空間化」をベルクソンが批判したのは正しいが、そうした
空間化はちょっとした歴史上の「偶発時」にすぎず、知性はこれを注意深く
避けることもできると『科学と近代社会』で述べている。ベルクソンは反知性
主義だというラッセルの非難にいわば言質を与えているわけです。

この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。

今にして思うと、ホワイトヘッドはベルクソンから決定的な影響を受けている。
それを無意識のうちに抑圧しようとして、こんな乱暴な挙措に至ったのではないか。
今回『時間と自由』を読み返し、以前の自分の読解はそこでの含みのある論述を
単純化しすぎていた、と気づきました。すぐにも論文を書こうと思います。

ベルクソンは科学による自然の歪曲を非難したのは事実です。しかるにそれを
放置したのでは全くなく、だからこそ逆に「持続」概念を提起したのです。そう
することで、自然科学による「具体者を置き違える偽り」を克服せんとした。
知性には何もできないと白旗を掲げているわけでは豪もありません。

とはいえ、もっと深いところでベルクソンが知性批判ないしヨーロッパ近代の論理
中心主義の批判を遂行しているのは事実で、この肝心な点をホワイトヘッドは見ない。
おそらく気づいてもいない。それが甚だ問題です。

処女作である『時間と自由』で、若きベルクソンは科学の根底にある数学、そして
数学の根底にある数と幾何学の問題と正面から対決を試みる。そもそも数とは何か?

この件にかかわるベルクソンとホワイトヘッドとの関係は甚だ問題含みで、いま
鋭意、論文作成中です。
守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:53 No.63
Re: ホワイトヘッドとM・ウェーバー
浦井先生、諸先生

>「いかなる場合でも具体性を置き違えざるを得ない」ということ
>(これは社会科学の出発点として、Weber 的には当然のことであった
>と思うのですが)を忘れて、「いっそ具体性を置かなければ誤謬に陥ら
>ない」、と考えるかのごとくに、「具体性を置かないという選択肢」を安易
>に手にし得ると考える誤謬のように思います。この誤謬の背後には、学者
>という道徳的責任、ひいては学問という場所の問題があります。

近代化論という枠組みから、ホワイトヘッドとマックス・ウェーバーを比較する
のが可能ではないか?と思い至りました。が、とうてい今ここでやるわけには
参りません。ただ若干のメモのようなものを書き綴りましたので、参考までに
添付ファイルでお送りしようと思います。

[添付]: 27623 bytes

守永直幹 2018/03/23(Fri) 02:56 No.64
Re: 価値と貨幣
肝心なことを書き忘れました。

なぜ哲学者たちが価値について論じると過度に抽象的になるのかと言えば、
彼らの視野に貨幣が入っていないからだと思います。

貨幣は言語とともに古い。あるいは、それ以上に古い。人類の最も原初的な
シンボリズムの1つです。むしろ「最古」と言うべきかもしれません。

ホワイトヘッドが価値を論じるとき、それを自らのシンボル理論と結びつける
べきだった。その必要を感じなかったのは、貨幣のシンボリズムの持つ呪力とも
言うべきものを彼が知らなかったからだと思います。

ならばマックス・ウェーバーは?と言えば、先の『客観性』論文で、経済学者が
貨幣の起源を探究しようとしないのは怪しからん!と難じてはいるのですが、
ならば肝心の御大はどうかと言えば??
守永直幹 2018/03/23(Fri) 03:12 No.65
Re: 美と価値:守永先生のご質問に応えて その1
守永先生のご投稿、いつもながら面白く、ワクワクしながら拝読しました。美の問題について、また数の問題について、守永先生のご質問にお答えしなくてはならないのですが、その前に、これ2つの質問の前提となっていたホワイトヘッドとベルクソンの読解について、気になっていたことがありまして、こちらからも1点、質問と要望をお伝えします。

「RE:美と価値」で、守永先生は、ホワイトヘッドのベルクソン引用について次のように書かれています。

> 当日、塩谷先生はウィリアム・ジェームズからの影響について一言されましたが、
> 多分あったとしても微弱なもので、ここでの具体と抽象を巡る議論はベルクソン
> 『時間と自由』に由来すると断言できる。というのも、ホワイトヘッド自身が
> 該当個所でベルクソンの名前を挙げているからです。
>
> 知性による自然の「空間化」をベルクソンが批判したのは正しいが、そうした
> 空間化はちょっとした歴史上の「偶発時」にすぎず、知性はこれを注意深く
> 避けることもできると『科学と近代社会』で述べている。ベルクソンは反知性
> 主義だというラッセルの非難にいわば言質を与えているわけです。
>
> この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
> こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
> 一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。
>
> 今にして思うと、ホワイトヘッドはベルクソンから決定的な影響を受けている。
> それを無意識のうちに抑圧しようとして、こんな乱暴な挙措に至ったのではないか。

ホワイトヘッドが「具体性を置き違える誤謬」という考えを最初に述べる際に、ベルクソンに言及して、ベルクソンのいう「空間化」が、抽象的なものを具体的なものとみなす人間の認識上の誤謬の典型例だと言っている箇所について、守永さんは、批判を加えています。ベルクソンは「空間化」などと言っていない、言いがかりだ、というのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。今パッと手元にあるベルクソンの翻訳を見てみても、こんな箇所が目に留まります。

「さて、空間が等質的なものとして定義されるべきだとすると、逆に、等質的で無際限ないかなる媒体も空間だということになるように思える。というのも、等質性の本義がここでは一切の質の不在に存している以上、等質的なものの2つの携帯が互いにいかにして区別されるかは分からないからだ。にもかかわらず、ひとはこぞって、時間を、空間とは異なるが、空間と同様に等質的で無際限な媒体とみなす。こうして等質的なものは、それを満たすのが共存(coexistence)であるか継起(succession)であるかに従って、二十の携帯を帯びることになる。たしかに、時間を、諸々の意識状態がそこで展開されるかに見える等質的な媒体たらしめるとき、まさにそのことによって、時間は一挙に与えられる。ということはつまり、時間は持続から引き剥がされることになろう。このように少し反省してみるだけで、われわれは、ここで自分が無意識のうちに空間に舞い戻っていることに気づかされるはずだ。」(意識に直接与えられたものについての試論、第二章、ちくま学芸文庫から出ている合田正人・平井靖史訳で113ページ)

こういった議論を中心に、この第二章、ひいてはこの『試論』全体について、「時間の空間化」と解釈するのは一般的な読解だと言えます。特にホワイトヘッドが誤読しているとか、言い掛かりをつけているとも思えません。

むしろ、ホワイトヘッドの科学批判は、守永さんがセミナーでの質問の中でおっしゃっていたように17世紀の科学だけに向けられているというわけではありません。どの時代の科学にも、また哲学にも、この誤謬に陥る危険があるというのがホワイトヘッドの主張するところでしょう。それだけでなく、注意して読むと、ホワイトヘッドは、近代科学批判の中で登場させた「具体性を置き違える誤謬」という考えを、科学に限った話としないで、おそらくベルクソンと同じような広い射程で展開しています。この「誤謬」の考えと取り組む中で、科学批判からその前提となっている認識批判へと考察が広まって、『過程と実在』に展開されるような、象徴・命題理論や抱握理論を核としたプロセスの哲学の洞察が具体化され定式化されていったのだと思います。このあたりは私の発表でも中心のテーマだったつもりなのですが、もっと議論を彫琢しないといけませんね。

ホワイトヘッドがベルクソンについて言っている「空間化」とは、そのような言葉としては登場しないのかもしれませんが、『意識に直接あたえられたものについての試論』英訳で『時間と自由』ないし『時間と自由意志』という表題でも知られている第一作での議論が念頭にあるのは明らかです。そのなかでも、一般に「時間の空間化」が議論されているとされるのは、第二章「意識的諸状態の多様性について―持続の観念」が、ホワイトヘッドの念頭にあったはずです。不勉強にして、ベルクソンが「空間化」という語を使っていないのかどうか知らないのですが、一般には、この第二章を中心にした持続の観念の議論は「空間化された時間」と「持続」とを対置して、前者の「空間化された時間」を批判しながら、後者の「持続」を論究していくというように読解されていると思います。

「時間の空間化(あるいは等質化)」、「空間化された時間」という読解は、言い掛かりや粗雑な引用というよりも、むしろ極めて一般的なベルクソン読解ではないでしょうか。確かに、ホワイトヘッドが、彼の重要概念になっていく「具体性を置き違える誤謬」を最初に導入するところでベルクソンに言及しながら、原典の箇所を参照したり引用したりせずに「空間化」とだけ言っているのは、粗雑だと言われても仕方ないでしょう。しかし、おそらく、当時も一般的に『試論』の第二章は「時間の空間化」への批判をバネにした「持続」の論究と解されていたのだと思います。

ベルクソンが「時間の空間化」を厳しく徹底的に批判したのと同様に、ホワイトヘッドも「具体物の抽象化(とそれにともなう抽象物を具体的なものと思い込むこと)」を批判している。両者には、知性が犯しがちな認識上の陥穽を指摘しつつ、そこからリアリティを論究するという同じ思弁が働いています。ですから、ホワイトヘッドはこの「具体性を置き違える誤謬」を導入する際に、同じ批判を行って、同じ方向をめざしていた先達であるベルクソンに言及したのでしょう。

ベルクソンは、「時間を空間化して認識しているのに、その空間化された時間を真の時間だと思っていること」を徹底して批判しながら、「持続」の考えを論究していきます。一方、ホワイトヘッドも、「具体的なものを抽象化して認識しているのに、その抽象物を具体的なものだと思っていること」を批判しながら、彼自身の「プロセス」や「抱握」の考えの論究に入っていきます。
たとえばホワイトヘッド研究でも知られる中村昇先生もこんな風に言っています(この先生の書く本は素晴らしいです)。

「『試論』の第二章は「純粋持続」が登場する章であり、この本の著者がもっとも力をいれた部分だ。だが同時にこの章は、ベルクソンの「空間論」が展開されているところでもある。「純粋持続」と「空間」とは、表裏一体なのだから当然といえば当然だろう。ベルクソンとよく比較されるホワイトヘッドも、この「純粋持続」と「空間」との関係を「具体性置きちがいの誤謬」の例のひとつとして示していた。つまり、もっとも具体的なありかたである「純粋持続」が、いったん抽象化されて時計や数直線上にあらわれる「時間」になると、後者の方が具体的なものだと勘ちがいされるというわけだ。」(中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』講談社メチエ、53ページ)

この文章が出てくるベルクソン本の章タイトルは、ずばり「空間化」です

むしろ、問題は「空間化」という語をベルクソンが使っていないとか、知性が必然的に空間化の誤謬に陥るなどとはしていないといったことではなく、空間をめぐる議論の中でベルクソンが、多の問題、つまり多様性と単一性の問題、守永さんの注目する「数」の問題を扱っている点です。これは、ホワイトヘッドが、「具体性を置き違える誤謬」の議論の中で、実体概念とならんで特に「単に位置を占めるということ(simple location)」について論究していることと重なります。Simple locationは、私見ですが、まさに、空間化の問題(ホワイトヘッドでは、延長連続体の空間化・時間化の問題、あるいは、抽象的な「点」や「線」等が物質の運動を数学的に記述する際に導入される問題)を扱っています。ホワイトヘッドは初期の頃からこの問題を数学的にどう扱うかということに取り組んできました。

たとえばホワイトヘッドのケンブリッジ大学時代の論文「物質世界の数学的概念について(On Mathematical Concepts of the Material World)」(1906年)では、「物質世界の古典的概念」に批判が向けられています。「物質世界の古典的な概念」とは、物体(matter)の構成要素である存在(entity)ないし究極的素材が「空間の点(point)」および「時間の瞬時(instant)」を占有する「粒子(particle)」であるという考えに基づいて物質世界を理解するような概念構成を指します。近代の数学的自然学あるいは近代自然科学は、客観的実在を、空間的な点と時間的な瞬時を占める基本的粒子によって構成される物質的世界のことだとみなす暗黙の前提に立っていたというのです。議論の道具立てとしては、数論だけでなく、幾何学、射影幾何学等々が用いられていて、私にはたいへん難しい議論ですが・・・ (“On Mathematical Concepts of the Material World,” 1906, in Alfred North Whitehead: An Anthology, selected by F. S. C. Northrop & Mason Gross, New York; The Macmillan Company, 1953. (「物質世界の数学的概念について」藤川吉美訳、『初期数学論文集』ホワイトヘッド著作集第1巻、橋口正夫、松本誠、藤川吉美訳、松籟社、1983年、所収)

この問題に取り組んだ先達者としてライプニッツの名前が挙げられています。そのことは前に私も「ホワイトへッドとライプニッツ」という論文で書きました。ベルクソンも、数学的手法こそ用いていませんが、同じ問題に取り組んだ先達として『科学と近代世界』で言及されたのだと思います。ベルクソンが『時間と自由』で数、多、などの問題を空間論において扱ったことは、『科学と近代世界』でベルクソンの「空間化」に言及したときにも当然ホワイトヘッドの念頭にあったはずです。なにしろ、同じ問題(延長ないしは持続ないしは含み含まれ合う関係性ないしは継起するプロセスが、離接的な多が単に位置する均質な空間・時間とされていくという問題)にホワイトヘッドは初期の数学論文群において取り組んでいたのですから。

そうすると、知性批判のところだけでホワイトヘッドがベルクソンに言い掛かりをつけているとするのは問題だと言わなければなりません。純粋持続だったはずのものが等質な空間に置き換えられていくというところで「数」や「多」に関するベルクソンのものすごく魅力的な議論が出てきますが、これに対応するのが、ホワイトヘッドの初期の数学・応用数学の仕事のかなりの部分だと思えます。

こうしたことを考えると、ホワイトヘッドが、ベルクソンから受けた決定的影響を抑圧しようとして乱暴な挙措に出た、といった批判は、的はずれではないかと思います。むしろ、ホワイトヘッドに対する批判よりも、守永先生のベルクソンに対する読解の中に、とても斬新な論点が伏在しています。つまり、ベルクソンの、特に『試論』の、分けても第二章では、一般に考えられているのと違って「空間化」といった議論はされていない、という論点です。これは、私の不勉強もあるのでしょうが、これまで誰も言ってこなかったことではないかと思います。

守永先生には、この点についてぜひ、明らかにしていただきたいです。純粋持続が、等質空間化されて、時計や数直線で表される時間という概念が出てくる、というのが「空間化された時間」といった語で表されている一般的なベルクソン解釈だと思いますが、そうでないとしたら、ベルクソンは何を言わんとしているのか。ここで、『試論』第二章の「数」の概念が重要になってくるのでしょう。

同じく、守永先生に検討していただければ、と思っているホワイトヘッドのベルクソンへの言及箇所が2つあります。その2つは、ホワイトヘッドが別の時期に書いた2つの本に出てくるのですが、同じ内容のものです。

「エラン・ヴィタールが物質へと逆戻りしてしまう」というものです。

1つは、科学哲学3部作の第一作、『自然認識の諸原理』の巻末、私が中期のホワイトヘッドの諸著作の中でもここが特に一番重要だ、と思っている箇所です。この本の最終章は、唐突に生命の「リズム論」が展開されていて、それだけでもたいへん面白く重要なのですが、その末尾で、テニスンとワーズワスの詩句が引用されていて、その2つの詩句の間に、一言、ベルクソンの物質への逆戻りだ、という言葉が挟まれているのです。ここは、全著作中でも特筆すべき重要な箇所だと常々思っています。しかし、やはりベルクソンの引用は、原典も参照箇所も示されていません。

2つ目は、もっとあとの形而上学3部作の中心である主著『過程と実在』が刊行された直後に出されたもう1冊の本『理性の機能』の中です。私の個人的な印象ですが、この本は、ベルクソン哲学の強い影響を受けて書かれていて、特に『創造的進化』へのアンサーソングではないかと思っています。とにかくベルクソン的な本です。その中にも、チラっと「リズム論」が出てくるのですが、そこでも、ベルクソンの名前が挙げられて、同じ「エラン・ヴィタールの物質への逆戻り」といった意味の言葉が出てきます。そこでは、ホワイトヘッドは、生命に満ちた自然の動的なプロセスの中には、よい存在へ、よりよい存在へと向かおうとする「上向きの趨勢」と、これとは逆の「緩慢な衰頽を伴った静的な生存」という趨勢とが相まっているということを述べているのですが、上昇と下降(あるいは弛緩、衰頽、静的な存続)の2つの趨勢について、ベルクソンを引き合いに出しています(松籟社の著作集第8巻の31ページ。索引で「ベルクソン」を探すと見つかります)。「上向きの趨勢」としての「エラン・ヴィタール」と、下降し衰えて弛緩していく趨勢としての「物質への逆戻り」を対置して、生命に、ひいては宇宙には、この2つの方向が見られると言っています。

おそらくホワイトヘッドは、自説がベルクソンに多くを追っていることを示そうとしているのだと思います。ベルクソンが厳密にそういう言葉を使っているのかどうかのテクスト・クリティークは彼の関心の外ですが、他のところではデカルトやロックやバークリやヒュームの言葉の長い原文引用があったりジェイムズの論文を刊行年まで指定して議論したりしているのに、ベルクソンに言及するときにはそういう丁寧さがなくて言及・参照の仕方が少々雑である、というのは、その通りだと思います。

少なくともホワイトヘッドは、ベルクソンやウィリアム・ジェイムズやデューイを反主知主義だとする批判から、彼らを擁護しようとしています。たとえば、ホワイトヘッドは、具体性を置き違える誤謬が「歴史的な偶発時」だとは言っていません。この誤謬は「必然的」というわけではない、知性が「必ず」この誤謬に陥るというわけではない、そのような意味で「偶然的だ」と言っていますが、このときホワイトヘッドが批判しようとしているのはベルクソンではなく、知性主義=科学主義と見るような、近代の科学至上主義です。ベルクソンは、知性の働きを科学的認識や合理性に限定しないで知性のより根源的で広い可能性を示しているという点を、ホワイトヘッドはむしろ高く評価し、自分が数学者としてやってきた仕事とベルクソンが哲学で推し進めてきた仕事が同じ方向を向いていることを寿いでいるのだと思います。
村田康常 2018/03/25(Sun) 15:45 No.66
Re: 空間と持続
村田先生、諸先生

私の書き方が雑で、誤解を与えた部分があるように思います。
私はこう書きました。

>この個所を以前、論文で取り上げてホワイトヘッドの粗雑な引用を異を唱えた
>こともあります。が、その時の認識としては、ベルクソンは「空間化」などと
>一言も言ってない。言いがかりも甚だしいという程度の認識でした。(……)

ホワイトヘッドは引用句で“spatialization”という語句を使っているのですが、
これに一対一対応するフランス語が(私が見落としているのかもしれませんが)
『時間と自由』には見当たりません。そもそもベルクソンは近代科学の「空間化」
を批判しようとしたのでは必ずしもない。

純粋持続を時間の中で捉えねばならないのに、私たちはどうしてもそれを共存する
諸要素の継起として空間に展開して捉えてしまう。この部分を取り上げ、ホワイト
ヘッドは「空間化」と呼ぶのでしょうが、ベルクソンにとってあくまで関心がある
のは純粋持続です。べつだん空間批判をやりたいのではない。

むしろ彼が真の標的にしているのは物質概念です。ベルクソンが「空間」を目の敵に
したかのように論じるのは(ハイデガー『存在と時間』もそうなのですが)かねがね
ヘンだと思っています。相手が違っている。

むしろホワイトヘッドは空間を解体するのに急で、物質概念そのものを手放そうと
しない、という印象を私などは持っている。Entity がキーワードなんですから。

『時間と自由』においては、とりわけ「数」の問題が重要です。村田先生の仰る通り、
これをホワイトヘッドの初期数学論文と比較検証する必要を私も感じています。
さらに言えばフッサールの『算術の哲学』とも。先日も申したように、この仕事は
あいにく途中で頓挫しています。我ながら恥ずかしいかぎり。

>ベルクソンは科学による自然の歪曲を非難したのは事実です。しかるにそれを
>放置したのでは全くなく、だからこそ逆に「持続」概念を提起したのです。そう
>することで、自然科学による「具体者を置き違える偽り」を克服せんとした。
>知性には何もできないと白旗を掲げているわけでは豪もありません。

さて、ここでベルクソンが持ち出すのが持続概念で、それにより空間ひいては自然
そのものの歪曲を正し、これを脱構築せんとするわけです。持続が一定の空間性及び
物質性を孕むのは事実です。それは時空連続体であり、精神と物質の混合体です。
これを捉え、ハイデガーのように「ベルクソンは時間を空間化したにすぎない」と
曲解する者が出た。話はまったく逆で、時間と空間を二元的に捉えるような視座を
ベルクソンは解体しようとしていたのに。

ここでホワイトヘッドとの重大な違いが露呈します。というか、それがあるからこそ、
ホワイトヘッドはベルクソンのテクストを正確に引用せず、何度も同工異曲の批判を
繰返したのだと私は見ている。

>とはいえ、もっと深いところでベルクソンが知性批判ないしヨーロッパ近代の論理
>中心主義の批判を遂行しているのは事実で、この肝心な点をホワイトヘッドは見ない。
>おそらく気づいてもいない。それが甚だ問題です。

ホワイトヘッドはベルクソンの「反知性主義」を受け入れがたいと思っている。
クリアカットした概念を用いれば、空間化に陥ることなく自然を正当に捉えることが
できる、と。そのためにもホワイトヘッドは最低限の物質概念を手放すわけには行か
ない。

ところがベルクソンは、クリアカットされていようがいまいが、シンボルである限り、
それは自然を歪曲してしまうと答えるでしょう。それが『形而上学入門』における
回答です。鋭角的なシンボルではなく、流れるようなイメージを用いるべきだ、と。

たとえば彼は、純粋持続を論じるにあたり、動物や植物の例を出します。人間は知性
という病いを病んでいる。これを治癒するには知性そのものを脱構築せねばならない。
その意味で彼の立場は16世紀のモンテーニュに連なります。

とはいえ20世紀のベルクソンは、人間がなぜこんな有り様に成り果ててしまったか、
人類史および生命史という形で説明する必要に迫られる。ベルクソニスムが進化論を
取り込むに至ったのには必然性があります。

ベルクソンの疑問は、われわれはアリでも良かったはずなのに、なぜ人間になんか
なってしまったのだろう?というものです。それには理由があるはずだ、と。

かれにとって知性とは原罪なのです。ホワイトヘッドは決してこういう見かたを
しないと思います。おなじく進化論を扱うにしても、アプローチが大きく異なる。
ホワイトヘッドにとって進化概念の重要な点は、その「創発性」でしょう。

私に言わせてもらえば、シンボル体系を構築してしまったのは人間だけです。
それが人間と動物の大きな違いである。これにたいし両者はイメージ能力を共有
している。であるならば、イメージの哲学ないし技術(アート)により、人間を
生命世界に還帰させる途が開けるはずだ。――あいにくベルクソンの思想が、
そこまで到達することは遂にありませんでした。

細々と論じればキリがありません。目下、この問題にかんして私は論文を書いて
いて、もしホワイトヘッド学会が受け付けてくれれば、というか、そもそも期日
までには間に合えば、活字にできるかもしれません。

まあ、活字にしなくてもいいのですが、とりあえず月末まではこの仕事に専念する
つもりです。それを以て村田先生への正式な回答としたいと思います。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 01:14 No.67
Re: ピュタゴラスとヘラクレイトス
村田先生、諸先生

今ふと思いついたので書き足しておきますが、ホワイトヘッドは
どう考えても現代におけるピュタゴラスの継嗣ですね。あるいは
プロティノスの美の使徒と言ってもいい。

これにたいしてベルクソンはヘラクレイトスに連なる系譜の人だと
思います。ただそれが十分とは言えず、所詮プロティノスに留まった、
という気もする。

両者ともにプロティノス的な美を共有している。それはキリスト教
的なものを振り切れないからでしょう。

真にヘラクレイトス的なものはヨーロッパ文明には2度と出現して
いない。そして、それが必要とされる日が近いうちに必ずや訪れる
ことになるでしょう。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 05:22 No.68
Re: 補足
村田先生、諸先生

補足しておきます。

ベルクソン『時間と自由』は持続と自由について述べた本である。

にもかかわらず、空間性を否定し、時間の重要性について述べた
本であるような誤解が生じた、ということが言えそうです。

まあ、必ずしも「誤解」とは言えず、世間がそう解するのは無理も
ないことだったのかもしれません。間違いとは言えない。

いつそうなってしまったのか、どうもそこに歴史的・思想史的な
経緯がありそうな気がしてきました。

たとえば、ウィーンでは要素一元論を説いたマッハがいて、実体
概念を否定し、ヨーロッパの伝統的な二元論を悉く批判した。
当然ながら時間と空間という概念をも批判することになる。
日本では野家啓一先生の編集による『時間と空間』という訳書
まである。マッハは20世紀のヒュームとも言うべき過激な人
でした。

時代的にはベルクソン『時間と自由』よりやや後ですが、両者の
関係は以前から気になっています。

ドイツ系や、科学畑においてはマッハの影響は至って強かった。
ことによると、たとえばハイデガーなどは、そっちの観点から
ベルクソンのことを色眼鏡で見ていたのかも?

ここらへんの影響関係については、向こうの人でちゃんと調べて
いる人がいるかもしれません。この場合の「影響」というのは、
漠然とした「時代精神」まで含みます。

ホワイトヘッドがベルクソンについて、やたら「空間化」という
言葉を多用するのは、実際に著作を読んでのことではなく、
どこかでそれを耳に挟んだり、あるいは実際にベルクソンと会い、
意見交換した際に印象づけられたせいかもしれません。

ホワイトヘッド宅にベルクソンは何度か招かれていたようですし。
守永直幹 2018/03/26(Mon) 13:25 No.69
Re: 空間化の諸問題
村田先生、諸先生

週末までに新しい論文を書こうとモガいていましたが、とうてい無理と
諦めました。もっと時間をかけてじっくり検証し、秋の学会あたりで
発表することにします。

昨日ざっと『時間と自由』を眺めてみましたが、同書でベルクソンは
dérouler dans l'espace とか déployer dans l'espace という言い方
に終始しています。「空間の中に展開する、繰広げる」という意味です。

ベルクソンは新造語を作るのにひどく慎重な人で、ありきたりの仏語を
独特のニュアンスで用いる。こうした個所をホワイトヘッドはあっさり
「空間化」と言い換えたのでしょう。

ところで肝心のホワイトヘッドの"spatialization" ですけど、英語の
大きな辞書を引いても出ていませんね。日本語だと「空間化」というのは
さして特殊な単語とも思えませんが、実際には一対一対応する言い回しが
仏語にも英語にもない。

もしかするとホワイトヘッドの造語かもしれません。だからカッコに
入れて注意していたのかも。これは引用符ではないのかも。

ホワイトヘッドの初期科学論文、とりわけ『相対性理論』は(当然のこと
とはいえ)時間と空間の関係を論じるのに終始しています。その過程の
どこかで「空間化」という言葉が入り込んだのかもしれません。それを
ベルクソン批判に当たって流用したのではないか?そんな気がします。
が、それをテキストに即して検証するのは、なかなか厄介です。

また、ベルクソンを反知性主義だとかオカルトだとか言って口を極めて
罵ったのがラッセルです。

ベルクソンはシンボルにより真理に到達するのは不可能だと説く。私たち
はイメージやメタファーにより近接するだけなのだ、と。シンボル批判と
いう意味では紛れもなく反知性主義で、とりわけ記号論理の人ラッセル
には許しがたい存在だったのは想像に難くありません。

一方でベルクソンは、新しい科学と哲学の言語が真理を一歩一歩明らかに
して行くというヴィジョンについて語っている。この意味ではいっこうに
反知性主義などではない。というか、いっぱしの哲学者が単純な反知性
主義者などであるはずもない。

ホワイトヘッドはこうした「反知性主義」呼ばわりに対してベルクソンを
擁護しました。が、ベルクソンのシンボル批判にかんしては強い反感を
覚えていた。その複雑感情がベルクソン批判として表われている。

ベルクソンにはイメージによる思考という重要なモチーフがある。それは
人間ばかりか動物にも共通する。だからこそ彼は進化論に興味を持った。
ダーウィンその人よりも、ファーブルによる進化論批判に共感している。
ファーブルは昆虫における思考=行動を倦むことなく観察しつづけた
在野の哲学者だと言っていい。

まったく対照的に、ホワイトヘッドにおいて思考とはシンボルのみ。
はなはだ不可解なことに彼は思考におけるイメージの重要性について
考えたことが殆どなかった。それは彼においてはむしろ「命題論」として
表現される。命題はつねに公的なものです。

ゆえにホワイトヘッドの場合、シンボルと命題が strain-loci において
同時に生起する。それは幾何学の起源でもある。しかしそこにイメージは
存在しない。イメージは幾何学の秩序から逃れ続けるもの、私的なものと
してある。

以上のような論文をまとめるつもりです。
守永直幹 2018/03/27(Tue) 17:20 No.70
Re: アクサン訂正
アクサンを入れて投稿したら、おかしなことになってしまいました。
アクサンを外すとこうなります。

>derouler dans l'espace とか deployer dans l'espace という言い方
>に終始しています。「空間の中に展開する、繰広げる」という意味です。
守永直幹 2018/03/27(Tue) 17:24 No.71
Re: 空間化の諸問題
返信がすっかり遅くなってしまいました。

守永先生が私の不躾なリクエストに応えて、ベルクソンに対してホワイトヘッドが使った「空間化」という語についての、新しい解釈を見せてくださったこと、ほんとうに素晴らしいです。

これまで多くの論者が、ベルクソン哲学の読解として「空間化された時間」を「純粋持続」との対比で持ち出してきました。しかし、守永先生はこの「空間化」という語に疑問をもつことで、従来の読解ではこの語の背後にかくされがちになっていた「数」とか「多様性」についてのより立ち入ったベルクソンの議論に照明を当てて、新たな読解を進めつつあるようです。この読解がさらに進められることを切に願います。ホワイトヘッドとの対比の中で、ベルクソン哲学の従来あまり知られなかった重要な側面が見えてきそうです。

ホワイトヘッドのベルクソン解釈を批判して、『時間と自由』の特に第二章でのベルクソン哲学の展開について、「空間化」という語では捉えきれない「数」や「多」の概念に照明を当てることで、守永先生はベルクソンの知性批判や科学批判が、単なる反知性主義とか脱知性主義というレッテルには収まらない深みをもつことを示そうとしているようです。

守永先生のこの主題は、科学とは何か、認識とは何か、はたまた近代とは何かを問う幅広い射程をもっているように思えます。また、数学とリアリティとの関係も問われています。「多」と「一」は、数学と形而上学が交錯する問題圏です。パルメニデスやピュタゴラス以来、数学と形而上学とが重なる圏域で、この問題が追求されてきました。守永さんがホワイトヘッドを現代のピュタゴラスとされたように、ホワイトヘッドもこの系譜の正当な嫡子、現代哲学において珍しい数学と形而上学との合一した問題圏で思索した哲人だといえます。

しかし、ホワイトヘッドは、恐らくこの問題圏に詩人の詩作を重ねてきます。数学と形而上学と詩作、あるいは美学が重なるところが、ホワイトヘッド哲学のありかなのだろうと思います。守永先生が用いたたとえで言うと、プロティノスの系譜に当たるということでしょう。

「哲学は詩に似ている。それらはいずれもわれわれが文明と称している究極的な良識を表現する仕方を探し求めている。いずれも言葉の直接的な意味を超えて定式化することに関係している。詩は韻律に、哲学は数学的パターンに結びついている。」(ホワイトヘッド『思考の諸様態』の最後の言葉)

数の問題と美の問題、あるいは数学と美学・詩学は、ホワイトヘッドにとっては、まさに哲学することそのものに直結する主題だったといえます。

ホワイトヘッドはイギリス式にspatialisationと書いていますが、この名詞の元になっている動詞 spatialise(あるいはspatialize)は特に彼の造語というわけでもなさそうで、音楽理論、絵画論、音韻論、あるいは社会学でも用いられている術語のようです。
村田康常 2018/04/01(Sun) 22:45 No.72
Re: 空間化をめぐって
村田先生、諸先生

いささか雑な書き方でしたが、こちらの真意を汲み取って頂き、まこと
に痛み入ります。

今回、村田先生と話して「空間化」を巡って色んな問題が交錯している
ことに気づかされました。簡単に整理しておきます。

1)ホワイトヘッドのベルクソン批判は、どこを典拠にしているのか?

ホワイトヘッドは『過程と実在』で、むやみと"spatialization"という
単語を連発し、その際、必ずと言っていいほどベルクソンを批判して
おきながら、一切典拠を示さない。

ベルクソン自身はこの語を用いたことはなく、フランス語にも一対一
対応する語句はありません。したがってホワイトヘッドがベルクソンの
どんな文脈を念頭に置いているか、こちらで限定する必要があります。

2)そもそも ”spatialization”という単語はいつ生まれたのか?

思えば空間というものは一定の閉じた箱型の形状だから「空間」なので、
時空が「空間化」するという発想は異常とも言えます。この概念が生じた
のは20世紀初頭の物理学革命からかもしれません。ちなみにネットを
見てもspatializationという単語は今なお決して一般的ではない。アート
や建築、文化理論あたりで使われているにすぎません。

3)ホワイトヘッドはこの単語をどこで使い始めたか?

ベルクソンから摂取したように本人は言っていますが、事実ではない。
明らかにベルクソンにたいする1つの解釈にすぎません。ならばどうして
この語を使おうと思い付いたのでしょう。もしかすると先行するホワイト
ヘッド自身のテキストに、この単語を見つけることができるかも。

4)ホワイトヘッドはなぜ「空間化」に固執するのか?

ベルクソンはとくに空間化を批判しようなどとはしていません。この点に
拘っているのはホワイトヘッド自身です。それは自然と人間の二元分裂の
克服を彼が宿願としていたからで、かれには「空間化」こそが敵で、この
難題を知性を以て切り抜けようとしていた。その理路をテキストに即して
解明せねばなりません。

5)ベルクソンは『時間と自由』で空間を批判し、時間のほうが本来的
だと主張したという神話はいつ生まれたか?

普通に同書を読む限り、この本のテーマは「純粋持続に還帰することで
本来的な自由を取り戻せ!」というロックンロールです。なのに既成の
哲学史&思想史において、それが時間と空間の関係を扱った認識論で
あるかのように扱われる傾向が見られる。いつ誰がそんな誤読(?)を
始め、広めたのでしょう?

ざっと思いつくかぎりで、この5つほどの疑問が浮かびます。これらを
テキストに即して検証するのはなかなか厄介そうです。が、ホワイト
ヘッド哲学を考える上で、しごく重要な問題なのは疑いを入れません。

またベルクソン『時間と自由』が孕んでいた爆発力というものにも、
改めて気づかされました。私としては年来の宿題としている問題でも
あって、今年こそはこの件に取り組みたいと思っています。
守永直幹 2018/04/02(Mon) 19:58 No.73
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