友愛と正義
みなさま
後期の授業もたけなわ、毎年そうなのですが、泥縄で必要文献を読み漁る日々で、
なかなか時間が取れずにいます。が、重要な議論ですし、思いついたことを書き
留めておくことは、いつか必ず役に立つものです。今の自分にできる範囲で応答を
試みようと思います。とはいえ、現時点では思いつきを書き連ねるに終わりそう
です。
掲示板に貼り付けようと思ったのですが、どうにも難しく、長く、読みづらく、
失礼ながら添付ファイルで送らせて頂きます。
[添付]: 39743 bytes
守永直幹 2018/11/21(Wed) 21:22 No.157
正義と友愛(1)浦井先生
正義と友愛(1)浦井先生
>西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、一層立ち入れば
>「そもそも主語というものを必要とはしない」そのような意味での「述語的」論理という
>ものを考えているのではないか
ずいぶん読み返していないので、大雑把な話になってしまいますが、西田はまさに「そも
そも主語を必要としない」境地を理想としているように思います。主語なき述語の世界が
理想ではないか?
たとえば「我と汝」という論文で、我と汝の奥底を掘って行ったら共通の基盤に出会う、
と言ってたような。その深みに向けて晦渋な議論を繰り広げる。でも、方向が逆ではないか。
私たちはそもそも我も汝もない世界を生きていて、我や汝はそこから派生する制度にすぎ
ない。むしろ我や汝が共有する社会にこそ考えねばならぬ問題がある。謎がある。
我を言葉と論理で掘り抜いても、無が待つだけではないか。というか、実際に彼は無と
出会うのです。差異の論理を振り回した挙げ句、差異なき境地を夢見る。そんな論じ方の
帰結として、一切は無だと観じるに至る。そこに諦念と悲哀が漂う。本来、我と汝の関係に
は友愛があってしかるべきなのに。
>ホワイトヘッド的な緻密な立場というもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、
>これは以前からずっと気になっております。
ホワイトヘッドは言葉と論理の限りを尽くし、ヨーロッパ世界全体を説得せんとした。彼の
置かれた立場や教養が、緻密で厳密な語り方を強要した、という側面は確かにあるでしょう。
他にも、もっと多様な語り方があり得たはずです。この件にかんしては後で触れます。
>cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
>調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どういう
>位置にあるのか。これは「真」という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味
>からしてもです。言い換えれば、「幸福」ということについて、ということです(ちなみ
>に、経済学的に言えば、これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくる
>かと思います。)
幸福にかかわるのが経済学だとしたら、至福を問うのが哲学だと言えるかもしれません。
また「調和」は真善美という高度な理念ではなく、「友愛」amitiéという素朴な視点から
考えるべきではないか。これもまた以下で触れることにします。
>西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、一層立ち入れば
>「そもそも主語というものを必要とはしない」そのような意味での「述語的」論理という
>ものを考えているのではないか
ずいぶん読み返していないので、大雑把な話になってしまいますが、西田はまさに「そも
そも主語を必要としない」境地を理想としているように思います。主語なき述語の世界が
理想ではないか?
たとえば「我と汝」という論文で、我と汝の奥底を掘って行ったら共通の基盤に出会う、
と言ってたような。その深みに向けて晦渋な議論を繰り広げる。でも、方向が逆ではないか。
私たちはそもそも我も汝もない世界を生きていて、我や汝はそこから派生する制度にすぎ
ない。むしろ我や汝が共有する社会にこそ考えねばならぬ問題がある。謎がある。
我を言葉と論理で掘り抜いても、無が待つだけではないか。というか、実際に彼は無と
出会うのです。差異の論理を振り回した挙げ句、差異なき境地を夢見る。そんな論じ方の
帰結として、一切は無だと観じるに至る。そこに諦念と悲哀が漂う。本来、我と汝の関係に
は友愛があってしかるべきなのに。
>ホワイトヘッド的な緻密な立場というもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、
>これは以前からずっと気になっております。
ホワイトヘッドは言葉と論理の限りを尽くし、ヨーロッパ世界全体を説得せんとした。彼の
置かれた立場や教養が、緻密で厳密な語り方を強要した、という側面は確かにあるでしょう。
他にも、もっと多様な語り方があり得たはずです。この件にかんしては後で触れます。
>cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
>調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どういう
>位置にあるのか。これは「真」という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味
>からしてもです。言い換えれば、「幸福」ということについて、ということです(ちなみ
>に、経済学的に言えば、これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくる
>かと思います。)
幸福にかかわるのが経済学だとしたら、至福を問うのが哲学だと言えるかもしれません。
また「調和」は真善美という高度な理念ではなく、「友愛」amitiéという素朴な視点から
考えるべきではないか。これもまた以下で触れることにします。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 09:43 No.158
正義と友愛(2)村田先生
>今の私の職場(短大の保育科)で求められる教育内容にも、「遊びと言葉」というテーマ
>は合致してきます。「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域
>が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました
なるほど。教育の現場で、これらの諸概念を掘り下げ、かつ試すことは大いに意義があり
そうです。
とはいえ私が問題にしたいのは、もっと原初的な場で何が起こっているか?です。子供の
世界は大人により守られている。そうではなく、誰も守る者のいない世界、神にすら見放
されたような世界で何が起こっているか?
ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会
のルールを学ぶ上でとても役立つ。社会に出て行くためのリハーサルであり、本格的な冒険
を前にした小手調べであると、とりあえずは言えるでしょう。学者のやる学問も、大方は
この範疇を出ないでしょう。ホイジンガやカイヨワの遊びにかんする議論はもっぱらこの
次元の遊びにかかわる。
この意味での遊びと、ニーチェやハイデガー、バタイユ、オイゲン・フィンクらが説く遊戯
としての存在、ないし遊戯としての世界は位相が違う。こちらは実存主義的な世界遊戯と
でも言うべきものですね。区別が必要です。
ところで世界の場合も社会の場合も、たんなる遊びとか、そのルールとかで済まない次元が
出てくる。すなわち《法》とは何か? この肝心の問いが上記の「実存主義」のグループに
はまったく無かったのではないかというのが、かねてよりの私の疑念です。
あらためて浦井先生のお言葉を引用しますと、それは以下の「菱木先生の問い」と関わる。
>菱木先生の問い、そのような遊戯が、どのように「例えば美ということとして成り立つ
>としても、世における善といったことと調和するのか」という問いであった(……)
>この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和するのか、という
>ことになるようにも思われます。
この意味での「調和」は、たんなる遊びの規則に留まらず、もっと根源的な法の問題に抵触
するはずです。真・善・美というギリシャ的な理念は、その背景として法への問いとセット
になっていた。プラトンもアリストテレスも「法とは何か」と問うています。子供の遊び
から大人の遊戯へ、ひいては「仕事」への移行にあたり、この問題が問われねばならない。
しかるに20世紀の実存主義の流れにおいて、それが問われることはほとんどなかった。
ニーチェの「力への意志」がナチスに利用され、ハイデガーが積極的にそれに加担すること
になったのは、おそらくこの問題と関わっている。存在への問いには、法への問いが欠落
している。
>言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこに
>すでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉
>以前の世界です。
言語以前の世界が「原初的」な世界だと私は思いません。そもそもホワイトヘッドなら、
そうした言い方を拒むはずです。いまだシンボリズムが十全な形で到来していない世界に
も因果効果が働いている。原始的とも思える生物にも現前的直接性への視界が開けている。
そこには私たちがいまだ言葉や記号として表現できずにいる象徴体系が歴然と存在する。
この意味での象徴体系は動物とも共有可能なもので、たとえば公園でボールを投げると
飼い犬が喜び勇んでそれを取ってくる。大得意で飼い主の足元に置く。この遊びに言葉は
介在しませんが、たしかに濃厚なコミュニケーションが成立している。子供たちの素朴な
遊びも、これに近い。親と言葉で話す以上に、彼らはペットの動物たちと意思を通じ合わせ
ている。言葉が発達し、大人になるにつれ、そうした身体言語を介した全方向的なコミュ
ニケーションを私たちは忘れてしまう。動物と話せなくなる。
もっと大局的に見て、そもそも宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの
精緻な法則性を示している。そこにはほとんど遊びはない。過酷なまでの法則が支配する
世界です。この宇宙で、ある種の「自由」を享受できるのは、人間や動物のような高度に
有機組織化された存在だけです。自由とは、ひいては遊びとは高度なルールを前提とした
戯れであり、途方もなく贅沢な営為なのです。
バタイユのように一切は戯れだと言い切ってしまえば、世界は極めて解り易くなる。これに
対してホワイトヘッドは生成消滅する世界の理(ことわり)を求めた。サイエンスの発達と
ともに、世界を動かす法則に関する知識は深まる一方ですから、彼の理論もまた複雑化を
余儀なくされる。しかるに哲学が何かしら意味ある営みたらんとする限りで、こうした複雑
化・精密化は避け難いと、おそらく彼は覚悟していた。
上で浦井先生が指摘された「ホワイトヘッド的な緻密な立場」、それはこの問題と関わる。
かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以前の次元で作動
している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化せんとしていたからだと私は
思います。そうすることでインド=ヨーロッパ語族的な主語―述語論理を突き崩そうと
企てた。それは論理を貫徹するような形で遂行されるほかなかった。
これは西田哲学の行文が晦渋なのと性質が異なります。西田には、この意味での身体性や
象徴体系への理解がほとんどなかった。たとえば、かれの「行為」の概念はあまりに抽象的
です。そうであるがゆえに、やたら小難しい議論を際限なく繰り広げることになったのでは
ないか。それが私の西田および京都学派への現状での評価です。
>遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な
>構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。
ここで村田先生が仰っていることはまさにその通りなのですが、ホワイトヘッドにおける
論理の要請は、その根底に身体や環世界への透徹した眼差しを前提としている。それは論理
や体系性をそれ自体として第一義的な目的としていたわけではない。あくまで結果として、
そのような表現をせざるを得なかったということだと思います。そこには倫理的な要請が
あった。それが後楽園の学会で私が言わんとしたことです。この点が、これまでホワイト
ヘッド学会では全く論じられてこなかった。
>人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても(……)
>もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポ
>ーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようと
>しているのです。
ホイジンガは確かにそう考えていたように思います。私もバタイユをやっていた頃は似た
ようなことを考えていました。しかし今は違う見方をしています。根源的なものは遊びでは
ない、と思うようになった。それはホワイトヘッドの影響かもしれません。根源的なものは
秩序への意志ではないか。宇宙はまず秩序を求めたのではないか。そう思うようになった。
なぜ秩序が必要か。それは生存のためです。
>この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを
>意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動
>(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。
ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的なものとは創造、ないし創造への衝動で
しょう。それをcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、そこに創造されるものとは
宇宙の秩序です。宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。
最初に遊びがある、という言い方をホワイトヘッドは絶対しないはずです。
秩序への要請こそが有機体の哲学の核心にあるものです。むろんそれは旧弊な秩序を墨守
することではあり得ない。宇宙は新しいものとして創造され、新しさへ向けて不断に前進
する。その前進の過程に関わるものが冒険であり、冒険の中に遊びを見ることはむろん可能
です。が、根源的なものはあくまで秩序である。そして秩序は合理的なものでなければなら
ない。さもなければ無です。合理的なものであるかぎり、それは理論的に解明できる。これ
がホワイヘッドの信念だと言えましょう。
『過程と実在』の心臓部は命題論だと私が見るのは、それがまさに秩序生成への鍵概念と
なるからです。人間社会の秩序は命題の設定から始まる。命題は法として共有され、社会を
有機組織化する。それがなければ社会は存続できません。私たちはまず生きねばならない。
生きるためには食べねばならない。遊びが可能になるのはずいぶん後の段階です。
愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせるかという課題を担う。
法学は社会を暴力から守り、いかに安定的に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前
に迫りくる死や病いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。というか、
遊びではとうてい済まない。
>まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出す
>ことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけ
>ではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発
>性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それが
>ホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼は
>あまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。
「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』なんだと思います」
というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホワイトヘッドの体系から、こうした論理
を導き出すのはかなり無理があり、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要が
あるのではないか?というのが私の印象です。
>「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておく
>べきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった
>「余剰」も、何世代か先に体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そう
>なったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、
>広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、
>その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな
>風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。
ここで村田先生が仰っていることはまさに至言と言うほかありませんが、私たちとしては
ホワイトヘッドの体系性への要請が、秩序への強烈な意志から来ていることを忘れるわけ
には行かない。それが遊びといかに折り合えるのか。実際には、そんなに簡単なことでは
ないのではないか。
むしろ私たちがホワイトヘッドから学ぶべきは、その体系性への意志、秩序への渇望の方
なのではないか。むろんそれは素朴な理性礼賛とは縁もゆかりもないものです。また、極東
小国で思索する私たちが、その挙措を単純にまねることも意味を成さないでしょう。私たち
は自分なりのやり方で、ありうべき秩序への問いを洗練させねばならぬ。それこそが今の
あからさまなポストモダン状況、ないし土俗性への回帰とも言うべき悲惨な状況において
求められていることです。
>ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々
>思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で
>一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界との
>あわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。
>
>言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえた
>かもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしま
>う、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。
>無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャル
>としてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界
>が広がっているように読めます。
>
>それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論
>を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように
>思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み
>方ができそうなところが出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的
>抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていく
>ようなところがあります。
>
>守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとの
>ことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に
>切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論
>とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、
>ぜひ。
以上の「リクエスト」、まさに我が意を得たりという感があります。今どうこう言えません
が、将来の宿題とさせて頂きます。ただし、いささか難しすぎる要求です(笑)私としては、
遊戯の哲学者としてのホワイトヘッドという解釈を貫徹するには、まさに村田先生こそが
このリクエストに自ら応えるべきではないか?という感想を持ちます。ぜひ。
>は合致してきます。「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域
>が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました
なるほど。教育の現場で、これらの諸概念を掘り下げ、かつ試すことは大いに意義があり
そうです。
とはいえ私が問題にしたいのは、もっと原初的な場で何が起こっているか?です。子供の
世界は大人により守られている。そうではなく、誰も守る者のいない世界、神にすら見放
されたような世界で何が起こっているか?
ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会
のルールを学ぶ上でとても役立つ。社会に出て行くためのリハーサルであり、本格的な冒険
を前にした小手調べであると、とりあえずは言えるでしょう。学者のやる学問も、大方は
この範疇を出ないでしょう。ホイジンガやカイヨワの遊びにかんする議論はもっぱらこの
次元の遊びにかかわる。
この意味での遊びと、ニーチェやハイデガー、バタイユ、オイゲン・フィンクらが説く遊戯
としての存在、ないし遊戯としての世界は位相が違う。こちらは実存主義的な世界遊戯と
でも言うべきものですね。区別が必要です。
ところで世界の場合も社会の場合も、たんなる遊びとか、そのルールとかで済まない次元が
出てくる。すなわち《法》とは何か? この肝心の問いが上記の「実存主義」のグループに
はまったく無かったのではないかというのが、かねてよりの私の疑念です。
あらためて浦井先生のお言葉を引用しますと、それは以下の「菱木先生の問い」と関わる。
>菱木先生の問い、そのような遊戯が、どのように「例えば美ということとして成り立つ
>としても、世における善といったことと調和するのか」という問いであった(……)
>この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和するのか、という
>ことになるようにも思われます。
この意味での「調和」は、たんなる遊びの規則に留まらず、もっと根源的な法の問題に抵触
するはずです。真・善・美というギリシャ的な理念は、その背景として法への問いとセット
になっていた。プラトンもアリストテレスも「法とは何か」と問うています。子供の遊び
から大人の遊戯へ、ひいては「仕事」への移行にあたり、この問題が問われねばならない。
しかるに20世紀の実存主義の流れにおいて、それが問われることはほとんどなかった。
ニーチェの「力への意志」がナチスに利用され、ハイデガーが積極的にそれに加担すること
になったのは、おそらくこの問題と関わっている。存在への問いには、法への問いが欠落
している。
>言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこに
>すでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉
>以前の世界です。
言語以前の世界が「原初的」な世界だと私は思いません。そもそもホワイトヘッドなら、
そうした言い方を拒むはずです。いまだシンボリズムが十全な形で到来していない世界に
も因果効果が働いている。原始的とも思える生物にも現前的直接性への視界が開けている。
そこには私たちがいまだ言葉や記号として表現できずにいる象徴体系が歴然と存在する。
この意味での象徴体系は動物とも共有可能なもので、たとえば公園でボールを投げると
飼い犬が喜び勇んでそれを取ってくる。大得意で飼い主の足元に置く。この遊びに言葉は
介在しませんが、たしかに濃厚なコミュニケーションが成立している。子供たちの素朴な
遊びも、これに近い。親と言葉で話す以上に、彼らはペットの動物たちと意思を通じ合わせ
ている。言葉が発達し、大人になるにつれ、そうした身体言語を介した全方向的なコミュ
ニケーションを私たちは忘れてしまう。動物と話せなくなる。
もっと大局的に見て、そもそも宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの
精緻な法則性を示している。そこにはほとんど遊びはない。過酷なまでの法則が支配する
世界です。この宇宙で、ある種の「自由」を享受できるのは、人間や動物のような高度に
有機組織化された存在だけです。自由とは、ひいては遊びとは高度なルールを前提とした
戯れであり、途方もなく贅沢な営為なのです。
バタイユのように一切は戯れだと言い切ってしまえば、世界は極めて解り易くなる。これに
対してホワイトヘッドは生成消滅する世界の理(ことわり)を求めた。サイエンスの発達と
ともに、世界を動かす法則に関する知識は深まる一方ですから、彼の理論もまた複雑化を
余儀なくされる。しかるに哲学が何かしら意味ある営みたらんとする限りで、こうした複雑
化・精密化は避け難いと、おそらく彼は覚悟していた。
上で浦井先生が指摘された「ホワイトヘッド的な緻密な立場」、それはこの問題と関わる。
かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以前の次元で作動
している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化せんとしていたからだと私は
思います。そうすることでインド=ヨーロッパ語族的な主語―述語論理を突き崩そうと
企てた。それは論理を貫徹するような形で遂行されるほかなかった。
これは西田哲学の行文が晦渋なのと性質が異なります。西田には、この意味での身体性や
象徴体系への理解がほとんどなかった。たとえば、かれの「行為」の概念はあまりに抽象的
です。そうであるがゆえに、やたら小難しい議論を際限なく繰り広げることになったのでは
ないか。それが私の西田および京都学派への現状での評価です。
>遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な
>構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。
ここで村田先生が仰っていることはまさにその通りなのですが、ホワイトヘッドにおける
論理の要請は、その根底に身体や環世界への透徹した眼差しを前提としている。それは論理
や体系性をそれ自体として第一義的な目的としていたわけではない。あくまで結果として、
そのような表現をせざるを得なかったということだと思います。そこには倫理的な要請が
あった。それが後楽園の学会で私が言わんとしたことです。この点が、これまでホワイト
ヘッド学会では全く論じられてこなかった。
>人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても(……)
>もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポ
>ーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようと
>しているのです。
ホイジンガは確かにそう考えていたように思います。私もバタイユをやっていた頃は似た
ようなことを考えていました。しかし今は違う見方をしています。根源的なものは遊びでは
ない、と思うようになった。それはホワイトヘッドの影響かもしれません。根源的なものは
秩序への意志ではないか。宇宙はまず秩序を求めたのではないか。そう思うようになった。
なぜ秩序が必要か。それは生存のためです。
>この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを
>意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動
>(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。
ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的なものとは創造、ないし創造への衝動で
しょう。それをcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、そこに創造されるものとは
宇宙の秩序です。宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。
最初に遊びがある、という言い方をホワイトヘッドは絶対しないはずです。
秩序への要請こそが有機体の哲学の核心にあるものです。むろんそれは旧弊な秩序を墨守
することではあり得ない。宇宙は新しいものとして創造され、新しさへ向けて不断に前進
する。その前進の過程に関わるものが冒険であり、冒険の中に遊びを見ることはむろん可能
です。が、根源的なものはあくまで秩序である。そして秩序は合理的なものでなければなら
ない。さもなければ無です。合理的なものであるかぎり、それは理論的に解明できる。これ
がホワイヘッドの信念だと言えましょう。
『過程と実在』の心臓部は命題論だと私が見るのは、それがまさに秩序生成への鍵概念と
なるからです。人間社会の秩序は命題の設定から始まる。命題は法として共有され、社会を
有機組織化する。それがなければ社会は存続できません。私たちはまず生きねばならない。
生きるためには食べねばならない。遊びが可能になるのはずいぶん後の段階です。
愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせるかという課題を担う。
法学は社会を暴力から守り、いかに安定的に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前
に迫りくる死や病いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。というか、
遊びではとうてい済まない。
>まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出す
>ことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけ
>ではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発
>性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それが
>ホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼は
>あまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。
「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』なんだと思います」
というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホワイトヘッドの体系から、こうした論理
を導き出すのはかなり無理があり、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要が
あるのではないか?というのが私の印象です。
>「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておく
>べきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった
>「余剰」も、何世代か先に体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そう
>なったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、
>広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、
>その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな
>風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。
ここで村田先生が仰っていることはまさに至言と言うほかありませんが、私たちとしては
ホワイトヘッドの体系性への要請が、秩序への強烈な意志から来ていることを忘れるわけ
には行かない。それが遊びといかに折り合えるのか。実際には、そんなに簡単なことでは
ないのではないか。
むしろ私たちがホワイトヘッドから学ぶべきは、その体系性への意志、秩序への渇望の方
なのではないか。むろんそれは素朴な理性礼賛とは縁もゆかりもないものです。また、極東
小国で思索する私たちが、その挙措を単純にまねることも意味を成さないでしょう。私たち
は自分なりのやり方で、ありうべき秩序への問いを洗練させねばならぬ。それこそが今の
あからさまなポストモダン状況、ないし土俗性への回帰とも言うべき悲惨な状況において
求められていることです。
>ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々
>思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で
>一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界との
>あわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。
>
>言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえた
>かもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしま
>う、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。
>無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャル
>としてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界
>が広がっているように読めます。
>
>それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論
>を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように
>思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み
>方ができそうなところが出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的
>抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていく
>ようなところがあります。
>
>守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとの
>ことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に
>切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論
>とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、
>ぜひ。
以上の「リクエスト」、まさに我が意を得たりという感があります。今どうこう言えません
が、将来の宿題とさせて頂きます。ただし、いささか難しすぎる要求です(笑)私としては、
遊戯の哲学者としてのホワイトヘッドという解釈を貫徹するには、まさに村田先生こそが
このリクエストに自ら応えるべきではないか?という感想を持ちます。ぜひ。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 09:48 No.159
正義と友愛(3)村上先生
>「思うに命題とは、その意味を共同で担保し、限定し、未来に手渡そうとする善意志なき
>ところでは、無意味に堕すものなのだ。命題の文言に意味が内在しているわけでは更々
>ない。共同の努力なきところでは、あらゆる命題は無意味の淵に沈む」
>
>「未来の法を構想する企て」としての哲学につながって行くと思うのですが、ここでおっ
>しゃる善意志というのは、「万人にとっての普遍性」を持つものである、と考えてよろし
>いでしょうか。
「万人にとっての普遍性」であり、なおかつこの要請は人間社会を超えて、生命世界全体を
牽引すべきものであるとホワイトヘッドは考えているように思います。そこにベルクソン
との接点があり、また両者の独特の進化論的発想につながって行くはずだと考えています。
ところで “pro-position” という概念ですが、以前に村上先生から質問を受けたということ
もあり、上記の「善意志」との絡みで若干の補足を試みておきます。
この語は伝統的に「命題」と訳されてきましたが、それで良いのかどうか実は問題です。
原意から考えると、命題とは各人の視座から見て取った世界の像(ライプニッツのいう表象)
を切り閉じして「前に置くこと」、それにより世界を枠取りし、見えるものと見えないもの
を線引きすることです。そこには積極的(ポジティブ)な抱握と、消極的(ネガティブ)
な抱握が生じる。
命題化とそれに伴う概念化により、世界は図式化され、デザインされる。そうした命題化へ
エネルギーを供給するのは欲求であり、ひいては欲望です。一切は流動的な多様体の中で
生じている。いくつもの活動が相俟って、活きた有機的な組織体が立ち上がる。それが宇宙
の実相です。
「前に置く」pro-position と「上に投げる」super-ject は密接に関わる1つの事態です。
前か、上かの違いはありますが、それはどちらも脱―自的な運動を表わす。反復される《自》
を出、生成として前へ、上へと超脱する。そこから見えた情景が命題化される。その意味では
命題化こそが存在するものの本質的な働きです。人間とは命題化する存在だと見なすことが
できます。のみならず生命それ自体に、そんな運動性があるのではないか。生命は、今際
(いまわ)の際に世界をありのままに見ようと欲する。
前に置かれたものは、自らを他に示す。たとえ提題者が個人でも、命題は万人に共有され
ねばならない。すなわち「公的」でなければならぬ。命題を介して私たちは自らを表現する。
表現の核心には必ずや命題が抱懐されている。人間とは、ひいては生命とは、主体である
と同時に自己超越体である。それは命題化により前進する活動体なのです。
ところで主体とは同時にネクサス(隣接体)でもあります。主体と主体の間には絆が想定
される。絆とは法でもあり得ますが、まず第一義的に「友愛」(フィリア)と見なさねば
ならない、というのがアリストテレスの主張です。
ところで、ホワイトヘッドの挙げる卓越した文明の5要件には肝心の自由・平等・友愛が
含まれていない。あまりに当然と考えたのか。しかるに平和も美も、自由や平等ひいては
友愛という基盤なしには存立し得ないはずだ。友愛なき平和などあり得ない。そして法、
法における正義なしには。
ようは、ホワイトヘッドの文明の5要件は最高度に組織化された社会の話で、文明そのもの
の基礎要件ではない。
17世紀の天才の世紀を言祝ぎ、近代科学の同伴者であろうとしたホワイトヘッドには
「友愛」という次元への理解がなかった。ルソーへの関心も薄い。英米系の哲学者だから、
ということもあるのでしょうか。これにたいし、たとえば同時代のフロイトは、ひどく
倒錯した形ではあるにせよ、父殺しにおける兄弟の共犯性に着目している。
友愛は正義に先立つと喝破したのがギリシャのアリストテレスでした。近代の曙にあたり、
その重大さに気づいたのがモンテーニュで、16世紀ルネサンスの偉人です。『自発的隷従
論』で知られる、無二の親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーをペストで失った彼は、故郷の
尖塔に引きこもり、友愛という概念を手掛かりに世界全体を問いにかけることを決意する。
それが『エセー』という企てでした。
ところが、17世紀科学革命を牽引したデカルトやライプニッツは、そんな人間的な問題
など歯牙にもかけなかった。むしろ前世代のモンテーニュを小馬鹿にしていた。機械主義の
時代が始まります。
18世紀に入って、ルソーが改めてこの問題を取り上げ直したと言えます。が、友愛におけ
る透明性の概念(スタロバンスキー)を無自覚に国家規模に拡大してしまったために、後世
に大いなる禍根を残すことになった。フランス革命の思想家&革命家たちは友愛を兄弟愛
(fraternité)と解釈し、いわば「義兄弟」の契りを交わす。そのあげく兄弟による父=王
殺しという、まさにフロイトの図式通りの蛮行を行なうことになる。
これを痛烈に批判したのがイギリスのエドマンド・バークで、その保守主義の流れを引く
ホワイトヘッドが、友愛概念を歯牙にもかけないのはどこか頷けるものがあります。
19世紀はニーチェしかいません。20世紀のファシズムと大衆消費社会の時代、ニーチェ
の影響のもとにバタイユとブランショが改めて友愛を問う。
むろん、このリストにマルクスの名を忘れてはなりません。来たるべきヨーロッパ、来たる
べきコミュニズムは友愛の成否にかかわる。デリダが晩年に考えていたのはこのことです。
私たちは「女」の、そして「動物」の友になれるか?
アリストテレス=モンテーニュは、2つの体が1つの魂を共有するのが友愛だと断じて
います。これにたいしてデリダ『友愛の政治学』は「差異だ、差異だ」と言い募るばかりで、
いっこうに話が噛み合わない。モンテーニュの読解としても至って底が浅い。
とはいえ、そこにニーチェからシュミットに至る「敵の政治学」を対置するのが、この人の
真骨頂でしょう。また、そんな分岐の起点としてアウグスティヌスを召喚するところに虚を
突かれました。デリダは気づいていないようですが、この神学者は友愛を記号化したのです。
それが以後のヨーロッパ文明の動向を決定づける。
去年に引き続き、人間・動物・機械というテーマで授業を始めたのですが、機械の裏面が
友愛だと見なすと大変面白いことになる。実際フーリエにおける社会とは愛の機械である。
これはヨーロッパ近代の極めて重要な動線なのですが、ハイデガー=デリダの視野には
全く入っていない。科学史&技術史にさっぱり関心がないのです。
その対極に、山本義隆の畏怖すべき労作『16世紀文化革命』がある。文化をあくまで技術
革命の視座から見る。この革命をもっぱら牽引したのはアカデミズムの外にいた商人や
医者や技術者です。この点をもっぱら強調する。しかるに、それは否定すべくもない。と
いうか、否定する者など誰もいないでしょう。それは結局16世紀ヨーロッパ技術史に過ぎ
ない。
やはり16世紀と言えば、モンテーニュやラブレーです。あるいはシェークスピアやセルバ
ンテスです。かれらが引き起こした精神の革命ともいうべきものが16世紀ルネサンスで、
その意義を改めて科学史や技術史との関係から考えないといけない。それは哲学的にやる
しかない。この意味での「哲学」が山本さんの本にはない。あくまで思想史にすぎない。
思想史でしかないという点で、それは日本の旧弊な大学的知の枠内にとどまっている。
などという議論を思いつきで話し始めて、このままでは授業が混沌状態に陥りそうなので、
あまり深入りはせず、このテーマは来年に回そうと思っているのですが、いい機会ですので、
ここで若干紹介しておきました。
ごく大ざっぱな触りにすぎませんが、言わんとするところは、真・善・美といった高尚な
理念とは別に、アリストテレスにはもっと根源的な倫理の次元における友愛への注視が
ある。それは正義、いいかえれば法との関係で考察されねばならない。この点にようやく
思い至ったという次第です。
*
本日は平常授業がお休みで、若干時間に余裕があり、この機会に書けることを書いておく
ことにしました。公的な生活ばかりか、遺憾ながら私的生活も混沌状態に陥りつつあり、
今日でないと無理っぽいので、乱文乱筆を顧みず、掲示板にアップしておくことにします。
**
貼付ファイルだけでは不親切かと思い、若干筆を入れ、掲示板にも貼り付けておくことに
します。
>「思うに命題とは、その意味を共同で担保し、限定し、未来に手渡そうとする善意志なき
>ところでは、無意味に堕すものなのだ。命題の文言に意味が内在しているわけでは更々
>ない。共同の努力なきところでは、あらゆる命題は無意味の淵に沈む」
>
>「未来の法を構想する企て」としての哲学につながって行くと思うのですが、ここでおっ
>しゃる善意志というのは、「万人にとっての普遍性」を持つものである、と考えてよろし
>いでしょうか。
「万人にとっての普遍性」であり、なおかつこの要請は人間社会を超えて、生命世界全体を
牽引すべきものであるとホワイトヘッドは考えているように思います。そこにベルクソン
との接点があり、また両者の独特の進化論的発想につながって行くはずだと考えています。
ところで “pro-position” という概念ですが、以前に村上先生から質問を受けたということ
もあり、上記の「善意志」との絡みで若干の補足を試みておきます。
この語は伝統的に「命題」と訳されてきましたが、それで良いのかどうか実は問題です。
原意から考えると、命題とは各人の視座から見て取った世界の像(ライプニッツのいう表象)
を切り閉じして「前に置くこと」、それにより世界を枠取りし、見えるものと見えないもの
を線引きすることです。そこには積極的(ポジティブ)な抱握と、消極的(ネガティブ)
な抱握が生じる。
命題化とそれに伴う概念化により、世界は図式化され、デザインされる。そうした命題化へ
エネルギーを供給するのは欲求であり、ひいては欲望です。一切は流動的な多様体の中で
生じている。いくつもの活動が相俟って、活きた有機的な組織体が立ち上がる。それが宇宙
の実相です。
「前に置く」pro-position と「上に投げる」super-ject は密接に関わる1つの事態です。
前か、上かの違いはありますが、それはどちらも脱―自的な運動を表わす。反復される《自》
を出、生成として前へ、上へと超脱する。そこから見えた情景が命題化される。その意味では
命題化こそが存在するものの本質的な働きです。人間とは命題化する存在だと見なすことが
できます。のみならず生命それ自体に、そんな運動性があるのではないか。生命は、今際
(いまわ)の際に世界をありのままに見ようと欲する。
前に置かれたものは、自らを他に示す。たとえ提題者が個人でも、命題は万人に共有され
ねばならない。すなわち「公的」でなければならぬ。命題を介して私たちは自らを表現する。
表現の核心には必ずや命題が抱懐されている。人間とは、ひいては生命とは、主体である
と同時に自己超越体である。それは命題化により前進する活動体なのです。
ところで主体とは同時にネクサス(隣接体)でもあります。主体と主体の間には絆が想定
される。絆とは法でもあり得ますが、まず第一義的に「友愛」(フィリア)と見なさねば
ならない、というのがアリストテレスの主張です。
ところで、ホワイトヘッドの挙げる卓越した文明の5要件には肝心の自由・平等・友愛が
含まれていない。あまりに当然と考えたのか。しかるに平和も美も、自由や平等ひいては
友愛という基盤なしには存立し得ないはずだ。友愛なき平和などあり得ない。そして法、
法における正義なしには。
ようは、ホワイトヘッドの文明の5要件は最高度に組織化された社会の話で、文明そのもの
の基礎要件ではない。
17世紀の天才の世紀を言祝ぎ、近代科学の同伴者であろうとしたホワイトヘッドには
「友愛」という次元への理解がなかった。ルソーへの関心も薄い。英米系の哲学者だから、
ということもあるのでしょうか。これにたいし、たとえば同時代のフロイトは、ひどく
倒錯した形ではあるにせよ、父殺しにおける兄弟の共犯性に着目している。
友愛は正義に先立つと喝破したのがギリシャのアリストテレスでした。近代の曙にあたり、
その重大さに気づいたのがモンテーニュで、16世紀ルネサンスの偉人です。『自発的隷従
論』で知られる、無二の親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーをペストで失った彼は、故郷の
尖塔に引きこもり、友愛という概念を手掛かりに世界全体を問いにかけることを決意する。
それが『エセー』という企てでした。
ところが、17世紀科学革命を牽引したデカルトやライプニッツは、そんな人間的な問題
など歯牙にもかけなかった。むしろ前世代のモンテーニュを小馬鹿にしていた。機械主義の
時代が始まります。
18世紀に入って、ルソーが改めてこの問題を取り上げ直したと言えます。が、友愛におけ
る透明性の概念(スタロバンスキー)を無自覚に国家規模に拡大してしまったために、後世
に大いなる禍根を残すことになった。フランス革命の思想家&革命家たちは友愛を兄弟愛
(fraternité)と解釈し、いわば「義兄弟」の契りを交わす。そのあげく兄弟による父=王
殺しという、まさにフロイトの図式通りの蛮行を行なうことになる。
これを痛烈に批判したのがイギリスのエドマンド・バークで、その保守主義の流れを引く
ホワイトヘッドが、友愛概念を歯牙にもかけないのはどこか頷けるものがあります。
19世紀はニーチェしかいません。20世紀のファシズムと大衆消費社会の時代、ニーチェ
の影響のもとにバタイユとブランショが改めて友愛を問う。
むろん、このリストにマルクスの名を忘れてはなりません。来たるべきヨーロッパ、来たる
べきコミュニズムは友愛の成否にかかわる。デリダが晩年に考えていたのはこのことです。
私たちは「女」の、そして「動物」の友になれるか?
アリストテレス=モンテーニュは、2つの体が1つの魂を共有するのが友愛だと断じて
います。これにたいしてデリダ『友愛の政治学』は「差異だ、差異だ」と言い募るばかりで、
いっこうに話が噛み合わない。モンテーニュの読解としても至って底が浅い。
とはいえ、そこにニーチェからシュミットに至る「敵の政治学」を対置するのが、この人の
真骨頂でしょう。また、そんな分岐の起点としてアウグスティヌスを召喚するところに虚を
突かれました。デリダは気づいていないようですが、この神学者は友愛を記号化したのです。
それが以後のヨーロッパ文明の動向を決定づける。
去年に引き続き、人間・動物・機械というテーマで授業を始めたのですが、機械の裏面が
友愛だと見なすと大変面白いことになる。実際フーリエにおける社会とは愛の機械である。
これはヨーロッパ近代の極めて重要な動線なのですが、ハイデガー=デリダの視野には
全く入っていない。科学史&技術史にさっぱり関心がないのです。
その対極に、山本義隆の畏怖すべき労作『16世紀文化革命』がある。文化をあくまで技術
革命の視座から見る。この革命をもっぱら牽引したのはアカデミズムの外にいた商人や
医者や技術者です。この点をもっぱら強調する。しかるに、それは否定すべくもない。と
いうか、否定する者など誰もいないでしょう。それは結局16世紀ヨーロッパ技術史に過ぎ
ない。
やはり16世紀と言えば、モンテーニュやラブレーです。あるいはシェークスピアやセルバ
ンテスです。かれらが引き起こした精神の革命ともいうべきものが16世紀ルネサンスで、
その意義を改めて科学史や技術史との関係から考えないといけない。それは哲学的にやる
しかない。この意味での「哲学」が山本さんの本にはない。あくまで思想史にすぎない。
思想史でしかないという点で、それは日本の旧弊な大学的知の枠内にとどまっている。
などという議論を思いつきで話し始めて、このままでは授業が混沌状態に陥りそうなので、
あまり深入りはせず、このテーマは来年に回そうと思っているのですが、いい機会ですので、
ここで若干紹介しておきました。
ごく大ざっぱな触りにすぎませんが、言わんとするところは、真・善・美といった高尚な
理念とは別に、アリストテレスにはもっと根源的な倫理の次元における友愛への注視が
ある。それは正義、いいかえれば法との関係で考察されねばならない。この点にようやく
思い至ったという次第です。
*
本日は平常授業がお休みで、若干時間に余裕があり、この機会に書けることを書いておく
ことにしました。公的な生活ばかりか、遺憾ながら私的生活も混沌状態に陥りつつあり、
今日でないと無理っぽいので、乱文乱筆を顧みず、掲示板にアップしておくことにします。
**
貼付ファイルだけでは不親切かと思い、若干筆を入れ、掲示板にも貼り付けておくことに
します。
守永直幹 2018/11/22(Thu) 10:01 No.160
Re: 友愛と正義(2)村田先生
守永先生が私(村田康常)に宛てた投稿(「正義と友愛(2)」)は、たいへん参考になりました。応答すべき点も多く、論点をきちんと把握し整理した上で1つずつ答えていくべきところですが、そのための時間も手間もかけられない毎日で、たいへん雑な文章になってしまいますが、これ以上の彫琢は断念してひとまずの応答をお返しします。かなりの長文で、読むのに時間がかかりますが、お時間のあるときにご笑覧ください。
まず、秩序の創造がホワイトヘッドの哲学の主眼点だという守永先生の論点は、ホワイトヘッド読解のいわば王道で、ほとんどの研究者がまさにここを主題としてそれぞれの視点からホワイトヘッド解釈を行ってきました。創造性と調和(あるいは創造性と秩序)をいかに論究するか、がホワイトヘッド哲学の、そしてホワイトヘッド哲学解釈の、ど真ん中の主題です。これから守永先生がホワイトヘッド哲学の中に秩序への意志を看取しながら論究していく先が、とても興味深く、議論の筋道を凝視していたいです。
遊びについては、守永先生のおっしゃることは、3つの論点以外は大賛成です。
世界も社会も実存も、守永先生が言うように、遊びのようなレベルでは済まない、切実でのっぴきならない側面や、鉄面の論理がある。そこは確かです。ただし、そういう論理性も、遊びという活動が包摂してしまう、というところまで「遊び」概念は広げられると私は思っています。真面目さも、論理も、少し深い相まで降りると、遊びとは対立せず、むしろ遊びに包摂されていきます。
ちょうど、ヘラクレイトスの「火」が、表面的にはロゴスと対立するものでありながら、「永遠に生きる火」のメタファーが示す躍動し渦巻く宇宙全体のその旋回する姿自体がロゴスだと論究されていくことによって、「火」の躍動がコスモスすなわち美的秩序の宇宙のロゴスとして示されるのと類比的です。遊びも現象の表層では真面目と対立しますが、生死がかかったような真面目で真剣な活動そのものもまた「遊び」概念のなかで捉えるような観点に立つことが、ホイジンガの到達点でありフィンクの出発点だったと思います。
遊び概念に照らしてホワイトヘッドを読解しようという今回の私の議論も、まず、そういう「遊び」概念の深まりに立つことから出発しました。ですので、守永さんが最初に、子どもの遊びの世界は大人によって秩序づけられ守られた世界の中で成立している、という理解を立てて、そこからホイジンガやフィンクへの言及を含む議論全体を組み立てている点は、賛同できません。常識的にはその通りなのかもしれませんが、そういう秩序のなかでの遊びが成立するプロセスそのもの、遊びを成り立たせる秩序自体が成立していくプロセスそのものが遊びだという、そういう観点に立たなければ、ホワイトヘッド宇宙論を遊び概念で論究することはできないでしょう。人間の文化的な生活も文化そのものも生み出すような世界の諸活動を遊びと捉えるような、そのような意味での遊び概念まで降りていくのが、ホイジンガの議論であったし、そういう遊び概念を前提として宇宙を論じたのがフィンクだったし、ホイジンガのそういう到達点を批判しながら遊びの文化哲学を展開したのがカイヨワでした。
遊びも真面目な活動も、一切の活動を成立させる秩序の生成する創造活動そのものが、遊びである、ということが、彼らが(ホイジンガは最終的に、フィンクは論究すべき前提として、カイヨワは批判的に、そしてベンヤミンは批判しつつ立ち返るべき原点として)共有している「遊び」理解の大づかみな概観です。そして、そういう遊び理解に立てば、なぜホワイトヘッドの宇宙論が遊びの宇宙論なのかも見えてくると思います。「常識的」に見られた遊びや子どもの生活の成立してくるプロセスやその根底に開けている世界を問うことで、子ども理解も遊び理解も深まる、そして、その深まりはホワイトヘッド読解にもつながっていく、というそういうところで私はこの夏以来、ワクワクしています。
守永先生の議論はいつも目まいがするほど面白く、示唆に富むのですが、今回の遊び議論では、出発点のところで、ホイジンガでもカイヨワでもフィンクでもベンヤミンでもなく、常識的な狭い遊び概念をもってきて、結局、論理や真面目さやのっぴきならない生死の世界の切実さとは切り離され、対比されたものとしての遊び、という見方しかできなくなってしまった点は、物足りなかった(すみません!)です。
むしろ、なぜバタイユの蕩尽や遊戯では不十分なのか(なぜバタイユが守永さんにとって遊戯の哲学としても、経済の哲学としても不十分なのか)、その点を論じていただくと、遊戯の哲学とも、またおそらくはバタイユと経済学に関する議論とも、接点が出てくるとともに、守永先生のバタイユ批判を経由したベルクソン論、ホワイトヘッド論にも展開する議論となるのではないかと期待します。
バタイユはさておき、西田幾多郎は私もいつかまた正面に据えて論じたいです、私の大学院のときのホワイトヘッド体験はいつも西田哲学とホワイトヘッド哲学の対話という主題をめぐっていたので、いつかその原点に帰りたいと思っています。
また、ホイジンガやカイヨワの系譜と、ニーチェやハイデッガーやフィンクの系譜とは、守永先生がおっしゃるとおり、確かに大きな違いがありますが、強い接点も見いだされると思います。ホイジンガのホモ・ルーデンスは、最初に遊びと真面目や切実さを対立させて、その対比によって遊びを定義してから議論を開始しますが、最後には、真剣な真面目さや切実さで勝負する世界も含めて、人間が文化的な存在として生きている宇宙全体が遊びだという観点を拓こうとしています。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の末尾で次のように述べていました。
「人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見いだす。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ『すべては遊びなり』がのし上がろうと構えている。」
「すべては遊びなり」とはどういう社会、どういう自然、どういう宇宙なのか。少なくとも、それは旧約聖書「伝道の書(コヘレトの書)」の「空の空なるかな、すべては空なり」という世界、守永先生の言葉とは少し違う意味かもしれませんが、神にまで見捨てられた世界を示した言葉として2千年間キリスト教文化圏に響いてきた言葉が示すような、そんな世界に代わる世界だということをホイジンガは最後に示そうとしています。「すべては空」の神なき世界に代わって、確かに神なき世界であったとしてもそこに満ちた創造活動を形容するには「すべてが遊びなり」の世界とみるような少し積極的な観点を示そう、というのがホイジンガの結論部分だと思います。結論部分なので、彼自身は、「すべてが遊びなり」という観点から論究された自然哲学や宇宙論を示してはいませんけれども、しかし、遊戯の宇宙論を展開したフィンクに連続していくホイジンガの観点がここに確かに示されていると思います(もちろん両者の違いは守永先生が示したように明確ですが)。
ここで「すべてが遊びなり」というホイジンガの最後に提示した積極的観点が、この「世界に満ちている生成消滅の創造活動」を示すメタファーだと理解すれば、これはフィンクの遊戯の宇宙論やニーチェ、ハイデッガーの遊戯の存在論(生成論)にも通じるし、またホワイトヘッドの宇宙論にも通じると思います。
「遊び」を、高度に秩序づけられた舞台でなければ成立しえない、守られた活動性と見るような限定的な視座から解放したのが、ホイジンガでした。そして、そんな風に「なんでもあり」のところまで到達してしまった「遊び」概念を、もう少し文化的な事象を論じることのできるレベルまで引き戻した(つまり『ホモ・ルーデンス』の最終到達点を、この本の中盤の文化論の地平まで引き戻した)のが、カイヨワです。しかし、カイヨワも人間が人間以外の何か(自然とか聖なるものとかおそらくは機械とか)と触れあい交わりあう活動や感覚をほぼすべて遊びと呼んでいますし、考えられている以上にカイヨワの世界は「すべてが遊びである」という世界に近いと思います。
遊びは、規則のなかで成立する活動である以上に、規則を成立させる活動だということは、ホイジンガもカイヨワもアンリオもベイトソンも強調しています。そこに、秩序のなかで成立する活動性が、また、旧来の秩序を超えて新たな秩序を創造する活動となる、というホワイトヘッドの創造性/調和の議論が見えてきます。ホワイトヘッド宇宙論が遊びの宇宙論であるというのは、そのような意味です。
守永先生に基本的には賛成ですが、おかしいな、と思う3つの点のうちの1つが、こういう「遊び」概念についてです。守永先生はカイヨワもホイジンガもフィンクも知悉しているので、遊びを「大人によって秩序立てられた世界のなかではじめて成立するような子どもの遊び」として見る見方をはみ出しながらこれを包摂するような彼らの議論に立ってみた方がよかったと思います。
ホイジンガの「遊びは秩序を創造する。遊びイコール秩序である」(ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社、講談社学術文庫、2018年、31ページ)という言葉とその前後の箇所では、遊びを可能にする秩序とともに、遊びによって成立していく秩序が語られています。言い換えると、遊びは、規則によって制約された自由な活動であるとともに、自由な活動によって規則を生成させていく活動でもあるということです。
遊びを成立させる秩序を論じようとすると、その秩序を成立させる活動としての遊びが見えてくる、という遊び概念の広がり・深まりが、ホイジンガやカイヨワやフィンクなどに見られる共通点です。
ホイジンガは端的に「遊びはすべて、なによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。せいぜいそれは遊びの義務的焼き直しにすぎない」(ホイジンガ、前掲書、26ページ) と言っています。日本の絵本の歴史を開拓してきた老舗出版社「福音館書店」の編集長・社長だった松居直は、保育士や幼稚園教諭に向けた雑誌の連載のなかでホイジンガのこの言葉を引用して、「子どもは遊びによって自由になり、その中で創造性を発揮します。遊びの中で好奇心を働かせ、独創性の芽を自発的に育てているのです。自発的な遊びによってこそ自由をしるのだといっても過言ではないでしょう」(松居直『絵本の現在 子どもの未来』日本エディタースクール出版部、2004(1992)、14ページ)と述べ、さらに、保育者と保育を志す者たちに向けて、「それゆえにこそ、教えられたり、管理されたりしなければ遊べない子どもたちは、すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失しているのです。大人が安全性を過度に意識しすぎることによって、制約され、管理されている現代の幼児の遊びは、幼児教育をなしくずしにしているのではないでしょうか」(松居、前掲書、14-15ページ) と警告しています。だからこそ、保育・幼児教育の現場から遊びをもう一度考えるときに、ホイジンガ、カイヨワ、ベンヤミン、フィンク、あるいはフリードリヒ・フォン・シラー、さらにはベイトソンやチクセントミハイ、梁塵秘抄から北原白秋、谷川俊太郎まで、遊びの哲学のさまざまな系譜を総ざらいしながら宇宙の創造活動それ自体が遊びであるというところまで徹底してみる必要があると思われるのです。
子どもの生活や保育・幼児教育の現場において、遊びの宇宙論という観点から遊びを捉えなおす必要があると私が主張するのは、守られた遊びや作られたルールや整えられた環境や所与のシステムの中でのゲームといった意味での「制約され、管理されている現代の遊び」の蔓延(子どもの生活のなかにも大人の生活においても、個人の趣味的活動においても社会の生死をかけたような真剣な営みにおいても)によって、遊びがもつ想像力と創造性が、「なしくずしに」なっているという危惧があるからです。うまく言えていませんが、そういう危惧と、しかしそこに何か新しい面白さの種のような、創造性や想像力の飛躍に結びついていくような期待とがあるから、遊びの宇宙論が保育や幼児教育や子どものケアにも、ホワイトヘッド哲学にも、つながっていくという強い予感を抱くわけです。
> ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的な
> ものとは創造、ないし創造への衝動でしょう。それ
> をcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、
> そこに創造されるものとは宇宙の秩序です。宇宙の
> 秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決して
> その逆ではない。最初に遊びがある、という言い方
> をホワイトヘッドは絶対しないはずです。
このように守永先生は書かれ、また、投稿された「正義と友愛(2)」の冒頭部分では「子供の世界は大人により守られている」あるいは「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会のルールを学ぶ上でとても役立つ」と書かれています。このような意味で、秩序によって守られ、大人によって、社会のルールによって守られたものとして「遊び」を捉えているかぎり、それは「せいぜい遊びの義務的焼き直しにすぎない」とホイジンガが切り捨てたような遊びの派生形態であり、そのような観点からは、上記のような遊びのもつ「自由」や、所与の秩序からの逸脱と新たな秩序の「創造」といった特徴は見えにくくなってしまうおそれがあります。遊びには、守られ、ルールによって制約されつつ秩序づけられてはじめて成立しうるという限定性あるいは制約性と、そのような制約を脱して新たな秩序をめざそうとする自由とのコントラストがあます。このコントラストにおいて根源的な創造性が具体化され現実化される、という洞察は、まさにホワイトヘッド哲学の主張するところです。守られ、教えられ、管理され、制約された条件においてしか遊べないとしたら、子どもたちも大人も、「すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失」している、と言わざるをえません。
守永先生が示したような常識的に理解された範囲での遊び(秩序・大人・社会のルールなどによって守られて成立する遊び)を遊びの第一の相と呼ぶとすると、その相を成立させるための創造活動もまた、遊びと呼ぶべき活動であり、ひとまずそれを第二の相と呼ぶことにします。第一の相での遊びは、深刻さや真面目さや切実さといった概念と対立する活動ですが、第二の相はそれらをも包摂するような秩序創造という意味での遊び概念ということになります。それは、それ自身と対立するものも包摂するような創造的な活動ですが、そこには、全体として最終的な活動目的となる「何のため」が欠けている。あるいは、かりそめの「何のため」が第一・第二の相において見えていたとしても、その底のところでは、究極の目的も根拠も基盤も安定した大地も秩序もない活動性の大きな渦のようなものが広がっている。それは、なじみのものへの愛着を抱きつつも、それを超え出て「新しさ」を求めていく衝動、としか呼べないような匿名の活動性です。それを「空なるかな」と見るのではなく「遊び」と見る、といういわば第三の相の「遊び」概念、遊びの形而上学的宇宙論とでもいうべき概念が開けている。
第一の相は、守永先生が言ったような「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係」であるという遊び理解、「秩序が成立して初めて許される」ものとして遊びを理解するレベルで把握されている遊びです。それはホイジンガが議論したレベルですらなく、むしろホイジンガもカイヨワも、そのような第一の相の遊びが成立するための秩序を創造する活動まで含めて、遊びと呼んでいる。この、自らが成立する条件にもなる秩序を自ら創造する活動性、というのが遊びの第二の相です。そして、その第二の相の遊びとしての秩序創造の活動そのものには、それを成立させるような秩序立った場はない、世界は秩序を生み出す遊戯的な創造活動の渦だ、という意味での遊びの宇宙あるいは宇宙の遊びというのが第三の相です。
そこまで遊びの論究を深めていこうというのが、フリードリヒ・シラー、ニーチェ、ホイジンガ、カイヨワ、フィンクなどの「遊びの哲学」の系譜です。その系譜が示すこうした第二、第三の相の「遊び」概念は、ホワイトヘッドの宇宙論における創造性の解釈に使える、というのが、私の見立てです。
フィンクは「世界は遊ぶ」と言っていますが、これも、第二、第三の相で遊びを見ている見方です。そして、第一の相の秩序によって限定されつつ秩序によって守られた人間の遊びは、第二、第三の相での「世界の遊び」から論じられなければならないとしています。
「世界は遊ぶ。しかし、人格としてでも、「仮象」や「非現実性」や空想的舞台をかち得るというように遊ぶのでもない。われわれが世界の遊びを語ろうとするなら、われわれは人間の遊びの遊び構造を決定的に改め考えねばならず、しかもこの遊びが世界の支配から派生したものである場合の諸特徴において改め考えねばならない。」(フィンク『遊び―世界の象徴として』千田訳、320ページ)
私も、保育や幼児教育で遊びを論じる時には、一度、遊びの宇宙論という相に立って、そこから論じなければならないと思います。遊びを、大人の作った秩序ある世界のなかで守られた単なる児戯と見るような視点を捨てて、そういう第一の相での遊び理解も到達点に含んだ、もっと大きな世界の活動性として見るような、ホイジンガの到達点、フィンクの出立点、ニーチェの観点に届こうとする試行錯誤のなかで遊びを考えてみると、子どもの遊びの世界も(私には)よりリアルで面白く深く見えてくるし、そもそも世界ぜんたいをよりリアルに面白く深くとらえる視点が開けていくように感じます。
その開けていく先で、ホワイトヘッドの宇宙論とも深くつながる(ベンヤミンともかかわる)創造性と秩序の両方に触れながら両方を含んだ宇宙が見えてくるように感じます。遊び概念をそこまで拡大延長していくのが、今の私のねらいです。
ここがおそらく守永先生の「(宇宙の)創造的衝動=秩序(への意志)」という理解と、「(宇宙の)創造的衝動=秩序ないし調和への意欲=遊びの源泉」という私の理解とが重なる点であるとともに、分岐する点でもあるのでしょう。秩序立った宇宙としてのコスモス(秩序としての宇宙)を新たに意欲する創造性の宇宙的衝動によって生起する、「遊び=秩序を創造する活動」に満ちた宇宙(創造活動の場としての宇宙)という理解は、世界が新しさへと創造的に前進するプロセスを論究するホワイトヘッド宇宙論の中心的な主題に迫る可能性をもっていると確信しています。
これに関連して、守永先生の書かれたことで首肯できない記述があったので、少し触れておきます。それは、経済学や法学や医学が生死にかかわることを扱う真剣勝負の世界だから、学問には遊戯性があるなどとは言えない、遊びとは対極の真面目なことを、真面目に議論しているのだ、という論旨です。
> 愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせ
> るかという課題を担う。法学は社会を暴力から守り、いかに安定的
> に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前に迫りくる死や病
> いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。とい
> うか、遊びではとうてい済まない。
生死の壮絶な営みも、食うか餓死するかの営みも、遊びどころじゃない、というのはその通りなのですが、その言葉は学問の言葉ではなく、生死や食うか飢えるかの局面での言葉です。同じ局面からは、真面目に学問やっているどころじゃない、という言葉だって切実な叫びとして出てくるでしょう。ここで守永さんが遊びを否定する言葉は、そのまま、学問を否定する言葉にもなりえます。
生死がかかっているような営みであっても、その営みを学としては「遊び」という観点から見ることの意味はあるし、たとえばそのように見ることで何かが見えてくるのではないかという探求が学問であって、必死の営みは「遊び」ではとうてい済まないといった常識的な枠組みに固着した観点からの学問は勉強の対象ではあっても、研究の営みではないのではないでしょうか。もう一度言いますが、生死の営みも、その営みがかかった学問の営みも、宇宙の遊びという観点から遊び戯れと捉えるような観点から論究することが、学問を論究する学としての哲学の営みの1つとして成立するはずです(その論究に可能性があるのかどうかといった問題は確かにありますが)。そして、そうやって遊び概念で括ることで、守永先生も認めるような、遊び概念につながっている想像力や自由、創造性、秩序の創発と発展と頽落と破壊、そこに見られる関係性とプロセス、美と真、そしておそらくは倫理性などが一つの観点から見えてくるでしょう。そこまで拡張すると、それはもはや「遊び」という言葉で呼ぶ必要がないのではないかという異論もあるかもしれませんが、この異論に対しては、ある語をその通常理解されている意味の範囲を超えて適用していくことがホワイトヘッドのいう思弁哲学の想像的飛躍の論理であり、そこで彼はまさにこうした想像力の飛翔による適応範囲の拡大と越境を「遊び」という語で表現している、と言うしかないです。
守永先生は次のように書きました。
> 「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』
> なんだと思います」というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホ
> ワイトヘッドの体系から、こうした論理を導き出すのはかなり無理があ
> り、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要があるのではな
> いか?というのが私の印象です。
私は逆の印象をもっています。もとの学会発表原稿では、想像力の議論を主題にして論究していますが、確かに、自由と限定性のコントラストをしっかりと踏まえる必要はあります。守永先生が逆の印象をもたれたのは、私の言葉不足が主な原因ですが、もしかすると守永先生が今回の「正義と友愛(2)」の議論の最初のところで、遊び概念をホイジンガやフィンクに依らずに限定的に理解してしまったために、その概念でホワイトヘッドを解釈するのは無理があると思えてしまったからではないでしょうか。ホワイトヘッド哲学を規則や秩序への意志に貫かれた論理体系と見ているかぎりは、遊びとのつながりは見えにくいのかもしれません。
しかし、新しい秩序を創造する活動には規則性や法則性とともに、それをすり抜けたり裏をかいたりする活動としての「遊び」の要素が不可欠で、そこを宇宙の創造性の焦点だと見るのは、ホワイトヘッドの哲学のど真ん中を射抜く解釈じゃないかという自負はあります。遊び概念を根源的な活動性まで拡張することは、そんなに特殊な議論ではなく、シラーもホイジンガもフィンクもベンヤミンも、ほぼ同じ方向で拡張させています。そうやって再定式化された遊び概念は、ホワイトヘッド解釈にはかなりぴったりくると思っています。また、きっと幼児教育や保育における遊びの議論にも(そして子ども理解にも)風穴を少し開けられそうな観点が見えてくるだろう、という期待ももっています。
ただし、遊びの哲学者としてホワイトヘッドを解釈するには、文献の裏付けがちょっと弱いです。私が見るかぎりホワイトヘッドは、“play”という語を重要なところで2回だけしか使っていません。いずれも、『過程と実在』の第一部第一章、思弁哲学の方法としての「想像力」や「直接経験の観察」に関する箇所です。
少なくとも、この2か所では、「遊び」という語を想像力の躍動する「遊び」という意味でホワイトヘッドは使っている、ということは確かです。しかしそれ以上、遊びの哲学との直接的な関連を文献で裏付けるのは無理なので、あとは解釈するわけですが、私は、十分見込みがあると思います。なぜなら、ホワイトヘッドの哲学は、秩序を創造性の成立条件として見るような創造性の理解にとどまらず、むしろ、創造性を究極的なものと見て根源に据える立場であり、秩序ある宇宙の宇宙論を語るのではなく、秩序の創造プロセスとしての宇宙を語る形而上学的宇宙論の哲学だからです。宇宙論だけでなく、遊び概念からホワイトヘッド哲学に接近するアプロ―チはまた、彼の教育哲学を介して、保育・幼児教育にもつながっていく可能性までもっているとも思います。
続いて、守永先生に賛同できない第2点ですが、言葉が発せられる以前の経験の世界をホワイトヘッドは「原初的」とは呼ばないとされた点です。彼が決してこういう言い方をしないと守永先生がおっしゃるのは間違いではないかと思います。命題や言葉や意識が成立する以前の経験の世界を分析しながら、それを「原初相(primal phase)」と呼んだのは、ホワイトヘッド自身です。そのような意味での経験の「原初相」の論究は、ホワイトヘッド哲学においてむしろ中心的な論題でした。経験の契機が成立するプロセスの論究は、ホワイトヘッド哲学の主題で、身体性を論究するwithnessの議論とか、象徴とか命題とかいろいろなかたちで論究されていますが、それらの核となる経験の分析は「抱握理論」で提示されています。この抱握理論では抱握というプロセスないしは関係性の具体的事実が、原初相と派生相、補完相に分けて分析されていて、だいたい「命題」の成立する混成的抱握の成立までが「原初相」に相当します。
こうしたホワイトヘッドの議論を踏まえて、またジェイムズの純粋経験論、西田の原初相という語も意識して、私はこれまで、言葉や分別知としての意識が成立する以前の直接経験(純粋経験)の世界に関して、経験の「原初相」とか「原初的」という言い方をしてきました。もちろん、ここで言う原初的とか(言葉以前の)経験の原初相というのは、決して原始的とか文化以前とか、あるいは禅仏教的な分別知以前といった意味ではありません。
言葉以前の世界が原初的だといった言い方をホワイトヘッドはそもそも拒むはずと守永先生がおっしゃったのは、ホワイトヘッドに即して言えばむしろ逆で、言葉以前の経験の原初相の豊かさを論究するのがホワイトヘッド哲学の中心的な主題だったと言わなければならない。言葉が成立する以前の直接経験の世界においては遊びと形容すべき創造活動が渦巻いている、それは自らの成立条件である秩序を脱して、新たに秩序を創造する活動性である、この直接経験の世界は抱握理論においては主として「原初相」の分析において扱われている、そしてこの原初相の分厚さを緻密に論究しつつ派生相・補完相へのプロセスを描くことがホワイトヘッドの主題だというのが私の論点です。言葉以前の経験の「原初相」という語が示す世界をあまり単純に考えてしまうと、確かにこの主張を批判したくなってきますが、ホワイトヘッドは、言葉が成立する以前に実に分厚い経験の相があると考えていて、まさにその豊穣さを分析するために『過程と実在』の第二部をすべて使い、また第三部の前半もこの経験の原初相の分析にあてられています。命題論も象徴理論も身体性に関する議論も、抱握理論における原初相の分析も、すべて、言葉が発せられる以前の経験の原初相の論究として見なければならないと思います。また、そこから派生相・補完相に向かっての経験の展開を論究していくところは、現象学や認知哲学にも通じる面白さがあるので、そこで経験のより高次の相で秩序が生成され意識的な立場が現れてくるプロセスの論究も遊び概念のなかで見ていきたいと思います。
守永先生の議論のなかで違和感をもった3つ目が、宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの精緻な法則性を示しているという点についてです。ホワイトヘッドは、この精緻な法則性とコントラストを描くような「偶発性」や「撹乱する要素」に注目しています。これは、「ゆらぎ」とか「遊び」と言っていい。時計仕掛けのごとく精緻な法則性を示していると見える宇宙であっても、ホワイトヘッドは、この宇宙の精巧な運行のひとつひとつの契機を構成するアクチュアル・エンティティのうちに物的な極だけでなく、概念的な極も(微細ではあるが)見出しています。そういう両極性のゆえに、宇宙には、精緻な法則性とともに、常にゆらぎや偶然性がある。
すべての事物や出来事には、法則やそれがそれ自体であるといったアイデンティティなどの因果的で物的な限定性があって、この物的な限定性の効果をホワイトヘッドはアクチュアル・エンティティの「物的極」の働きとしました。また他方で、こうした限定性とは対照的な新しさへのゆらぎがあります。この対照性は、「アクチュアル・エンティティの心的極と物的極という二極性」、あるいは「自由と限定性」といった対概念をなす主題のかたちで『過程と実在』に何度も登場し、ホワイトヘッドはまさにそこを論究します。
この点に関して、さまざまな議論をホワイトヘッドは展開していますが、ごくごく簡略化して言うと、自由なゆらぎは、概念的な極の働きによります。そして、概念的な極の働きが極端に大きくなっているのが、人間や動物のような高次の有機体です。言い換えると人間や動物においては、自由と限定性のコントラストが極大になっていて、自由な活動性がほぼ絶えず湧出しているのです。しかし、人間や動物に限らず、程度の差はあっても、一切の事物や出来事が両極性をもったアクチュアル・エンティティとそのネクサスであり、したがってそこには程度の差はあっても自由と限定性のコントラストが見出されます。言い換えると、自由な活動としての創造活動は、確率や複雑さはどんどん低くなりますが、人間や動物だけでなくすべてのネクサスやアクチュアル・エンティティに見出されるものだとされています。私たちの今の文脈に引き付けて言うと、自由な活動としての遊びやゆらぎは、特別に高度なルールや精巧な秩序が成立していなくても、たえず生成消滅しているといえます。そういう意味で、時計仕掛けの機械論的宇宙ではなぜないのか、を論究するのが、ホワイトヘッド宇宙論の最大のねらいだったと言えます。
守永先生が示されたのは、この自由な創造活動が、単に何かが精緻な法則性を逸脱しながら動き回っているといった「盲目的な」乱舞にとどまらず、まさに秩序を目指し、しかも「新しさ(novelty)」としての秩序を目指した活動である(のはなぜか、またいかにしてか)、という論点です。遊び概念からホワイトヘッドを解釈するとき、ここが急所になる、という問いかけは、私は大事に受け止めて、数年単位の時間をかけて取り組んでいこうと思います。
この宇宙が唯物的機械論の宇宙ではなく、新しさへの創造的前進のプロセスであるということを論理化することが、ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論の主題であり、そこで、厳格な法則性を逸脱するような偶発的で撹乱する要素において顕著に見られるような自由な活動(と、この活動による新たな秩序の創発)を論究するのが、彼の有機体の哲学の一方の特質です(もう一方には、論理化をうながすが論理では捉えきれないような価値的・美的な直観という事態があります)。そして、そこに、身体性の問題があって、これは象徴理論や命題論と並行して論じられるべき問題です(ホワイトヘッド自身は身体論をwithness(witnessではなく、「でもって性」「をもって性」とでも訳すしかない語)の議論から出発させて、有機体と環境、象徴、命題と続けて論じています)。
遊びは宇宙の秩序が確保されて初めて許されるような、そういう第一の相の遊びだけではない。最初に遊びがある、という言い方は私はしていませんが、確かにそのように言ってもいいし、それはホワイトヘッドの創造性の哲学に合致すると思います。秩序が確保されたところに初めて許されるような遊びの表層とは別に、その根っこを見ていくと、遊びにはもっと深い相があることが見えてきて、フィンクが言ったような、世界それ自体が遊ぶといった見方が出てきます。こういう遊び概念に照らしてみることで少し見えてきたような世界の創造活動こそが、上で言ったような意味での経験の「原初相」だ、という考えは、ホワイトヘッド哲学の読解としてほぼど真ん中ではないかと思います。ホワイトヘッド宇宙論では、いきなり宇宙の秩序が主題となるわけではなく、その秩序が生成するプロセスの論究が主題です。秩序と創造性の両者を見ながら、創造的に前進する宇宙の秩序形成のプロセスを理論化する諸議論をなるべく統一的に理解したいというのが、私の読み方の基本です。
守永先生の議論に寄せて表現してみると、以下のような感じになると思います。経験の原初相においていきなり秩序が立ち現れているわけではなく、新たな秩序を目指す関係性の複合体が旧来の秩序を新しさの誕生する場として享受し(enjoy)つつ、新しさへの創造活動はその旧来の秩序が許す活動としてというよりもむしろこの所与の秩序を脱していく方向で活動を展開する。そこでは、秩序よりも創造性が主導的です。
反対に、秩序が先にたって創造性が背後に退くような局面では、同一の秩序の反復のなかでの活動性として、頽廃とか麻痺とか退屈とかばかり生まれてきて、そういう宇宙は柔軟性を欠いて固まってしまって新しさがなかなか出てこない。ホワイトヘッドはあちこちで、そういう疲労したり頽落したりした宇宙や生活への危惧を表明しています。
確かに、守永先生が言ったような「宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。」といった遊び概念(第一の相での遊びの理解)でもってホワイトヘッド宇宙論を解釈することはできないでしょう。ホイジンガもカイヨワもフィンクもそういった遊び概念は認めはしますがあまり重視していませんし、むしろそのような遊びが遊びとして派生してくるより一般的な活動を遊びとして論究することが彼らの主題でした。彼らが探求したのは、秩序をめざす宇宙の衝動としての遊びであり、秩序が確保されて許される遊びという第一の相は、このような根源的な相における遊びから派生してくる嫡子にすぎません。ですから守永先生の言葉は逆で、宇宙の遊びとしての創造性があって、初めて秩序が生成する。決してその逆ではない。そう考えないと、創造的衝動/秩序への意志と言っても、その言葉が描く秩序ある宇宙としてのコスモスは固まってしまって、結晶化した宇宙しか見えてこなくなるように思われます。
あたかも時計仕掛けに見える広大な宇宙のなかで、地球の生命圏のように、ほんとうにほんの一部にすぎないような領域であっても、生命が生きる場を拓いていくためには、どうしても根源的な相での遊びが、つまり時計仕掛けの法則性や厳密な因果的限定性の束縛を脱するような自由な創造活動としての遊びが、必要です。そこを論究するためにこそホワイトヘッドは緻密な論理性と、美的な感性との両方を必要としたのだと思います。そして、規則や秩序や論理性や緻密さも十分に重要なのですが、ホワイトヘッドにとっては美的な感性において宇宙が開示されるという側面の方がはるかに重要だったのだろうと思います。
ホワイトヘッドは緻密さを重視する論理家でありつつも、その本性はむしろロマンティストです。近代科学の席巻した時代、プリンキピア・マテマティカによって自分が切り拓いた現代論理学が哲学を乗っ取った時代に、この美的世界の実在を表現するのは韻文の詩とともに緻密な論理体系だという確信をもって、緻密であっても汲み尽くすことのできない探求美的形而上学的宇宙論を無理を承知で緻密でかつ開かれたままの論理体系によって暫定的に表現することを目指したのです。その探求を彼自身が「ロマンス」と呼んだのでした。
守永先生が、
> かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以
> 前の次元で作動している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化
> せんとしていたからだと私は思います。そうすることでインド=ヨーロッパ
> 語族的な主語―述語論理を突き崩そうと企てた。それは論理を貫徹するよう
> な形で遂行されるほかなかった。
とおっしゃっているのは、まさにその通りです。ベルクソン的な「しなやかな動作」をホワイトヘッド哲学において論究するためには、象徴理論、命題論、身体論を読み解いていく必要があります。
守永先生にいただいたご指摘はとてもありがたく、自分の議論がどういう問題をもっているのか、どういう理解のされ方があるのか、はたまたどんな可能性が内蔵されているのか、いろいろと勉強になります。
最後に、ホワイトヘッドの「命題」について。
命題論は、私も発表原稿にして学会発表したことがあります。2015年に立正大学で開かれた「アメリカ哲学フォーラム」で命題論をメインにして、言葉以前の命題の成立と多世界論というのをテーマにシンポジウムで発表しました。要するに今回守永先生にリクエストしたテーマです。しかし、あの学会は学会誌がなく、論文にはなっていません。しかも私は、守永先生のとは違う切り口で、先行する世界の物的抱握とそこに例示された永遠の客体あるいはそこに例示されたものとコントラストや関連性のある永遠の客体とを抱握するハイブリッドな抱握として、価値や意味をもった事実の事柄が成立する、という切り口で命題論を論じていて、その主眼点は、価値や意味の内在する事実の世界の論究にありました。主語―述語の形式で言葉が発せられていく以前のところで命題を論じるという点では、あの発表は守永先生と同じ問題意識をもっていました。
今は、想像力あるいはイメージと、象徴作用あるいはシンボルという対比を、命題・言葉・意識が成立していくプロセスの原初相から補完相まで貫く遊びの創造性といった観点から考えたいと思います。問題圏は重なりますが、守永先生は、ベルクソンの図式論や多様体論も視野においた命題論を論じられる可能性をもっていますし、ホワイトヘッド解釈の最大の問題点の1つでもある善・悪(と真や美とのからみも)を論じるという主題もあります。ですから、いつかお時間ができたときでいいですから、ぜひ、お願いします。
ここまで不十分にしか答えられず、申し訳ありません。説明不足の部分は、今後の課題といたしますが、わずかでも参考になる可能性があるものとして、遊びの哲学関連で最近私が書いたものが、Cinii ArticlesとかGoogle Scholarで検索すると、名古屋柳城短期大学の機関リポジトリに載っています。ここでの議論に関係する主題をホワイトヘッドやホイジンガやフィンクやベンヤミンやベイトソンとからめて書いていて、一部は答えになるものもあるかと思いますので、もしお時間があれば(とっても忙しそうですが)、見てみてください。
まず、秩序の創造がホワイトヘッドの哲学の主眼点だという守永先生の論点は、ホワイトヘッド読解のいわば王道で、ほとんどの研究者がまさにここを主題としてそれぞれの視点からホワイトヘッド解釈を行ってきました。創造性と調和(あるいは創造性と秩序)をいかに論究するか、がホワイトヘッド哲学の、そしてホワイトヘッド哲学解釈の、ど真ん中の主題です。これから守永先生がホワイトヘッド哲学の中に秩序への意志を看取しながら論究していく先が、とても興味深く、議論の筋道を凝視していたいです。
遊びについては、守永先生のおっしゃることは、3つの論点以外は大賛成です。
世界も社会も実存も、守永先生が言うように、遊びのようなレベルでは済まない、切実でのっぴきならない側面や、鉄面の論理がある。そこは確かです。ただし、そういう論理性も、遊びという活動が包摂してしまう、というところまで「遊び」概念は広げられると私は思っています。真面目さも、論理も、少し深い相まで降りると、遊びとは対立せず、むしろ遊びに包摂されていきます。
ちょうど、ヘラクレイトスの「火」が、表面的にはロゴスと対立するものでありながら、「永遠に生きる火」のメタファーが示す躍動し渦巻く宇宙全体のその旋回する姿自体がロゴスだと論究されていくことによって、「火」の躍動がコスモスすなわち美的秩序の宇宙のロゴスとして示されるのと類比的です。遊びも現象の表層では真面目と対立しますが、生死がかかったような真面目で真剣な活動そのものもまた「遊び」概念のなかで捉えるような観点に立つことが、ホイジンガの到達点でありフィンクの出発点だったと思います。
遊び概念に照らしてホワイトヘッドを読解しようという今回の私の議論も、まず、そういう「遊び」概念の深まりに立つことから出発しました。ですので、守永さんが最初に、子どもの遊びの世界は大人によって秩序づけられ守られた世界の中で成立している、という理解を立てて、そこからホイジンガやフィンクへの言及を含む議論全体を組み立てている点は、賛同できません。常識的にはその通りなのかもしれませんが、そういう秩序のなかでの遊びが成立するプロセスそのもの、遊びを成り立たせる秩序自体が成立していくプロセスそのものが遊びだという、そういう観点に立たなければ、ホワイトヘッド宇宙論を遊び概念で論究することはできないでしょう。人間の文化的な生活も文化そのものも生み出すような世界の諸活動を遊びと捉えるような、そのような意味での遊び概念まで降りていくのが、ホイジンガの議論であったし、そういう遊び概念を前提として宇宙を論じたのがフィンクだったし、ホイジンガのそういう到達点を批判しながら遊びの文化哲学を展開したのがカイヨワでした。
遊びも真面目な活動も、一切の活動を成立させる秩序の生成する創造活動そのものが、遊びである、ということが、彼らが(ホイジンガは最終的に、フィンクは論究すべき前提として、カイヨワは批判的に、そしてベンヤミンは批判しつつ立ち返るべき原点として)共有している「遊び」理解の大づかみな概観です。そして、そういう遊び理解に立てば、なぜホワイトヘッドの宇宙論が遊びの宇宙論なのかも見えてくると思います。「常識的」に見られた遊びや子どもの生活の成立してくるプロセスやその根底に開けている世界を問うことで、子ども理解も遊び理解も深まる、そして、その深まりはホワイトヘッド読解にもつながっていく、というそういうところで私はこの夏以来、ワクワクしています。
守永先生の議論はいつも目まいがするほど面白く、示唆に富むのですが、今回の遊び議論では、出発点のところで、ホイジンガでもカイヨワでもフィンクでもベンヤミンでもなく、常識的な狭い遊び概念をもってきて、結局、論理や真面目さやのっぴきならない生死の世界の切実さとは切り離され、対比されたものとしての遊び、という見方しかできなくなってしまった点は、物足りなかった(すみません!)です。
むしろ、なぜバタイユの蕩尽や遊戯では不十分なのか(なぜバタイユが守永さんにとって遊戯の哲学としても、経済の哲学としても不十分なのか)、その点を論じていただくと、遊戯の哲学とも、またおそらくはバタイユと経済学に関する議論とも、接点が出てくるとともに、守永先生のバタイユ批判を経由したベルクソン論、ホワイトヘッド論にも展開する議論となるのではないかと期待します。
バタイユはさておき、西田幾多郎は私もいつかまた正面に据えて論じたいです、私の大学院のときのホワイトヘッド体験はいつも西田哲学とホワイトヘッド哲学の対話という主題をめぐっていたので、いつかその原点に帰りたいと思っています。
また、ホイジンガやカイヨワの系譜と、ニーチェやハイデッガーやフィンクの系譜とは、守永先生がおっしゃるとおり、確かに大きな違いがありますが、強い接点も見いだされると思います。ホイジンガのホモ・ルーデンスは、最初に遊びと真面目や切実さを対立させて、その対比によって遊びを定義してから議論を開始しますが、最後には、真剣な真面目さや切実さで勝負する世界も含めて、人間が文化的な存在として生きている宇宙全体が遊びだという観点を拓こうとしています。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の末尾で次のように述べていました。
「人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見いだす。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ『すべては遊びなり』がのし上がろうと構えている。」
「すべては遊びなり」とはどういう社会、どういう自然、どういう宇宙なのか。少なくとも、それは旧約聖書「伝道の書(コヘレトの書)」の「空の空なるかな、すべては空なり」という世界、守永先生の言葉とは少し違う意味かもしれませんが、神にまで見捨てられた世界を示した言葉として2千年間キリスト教文化圏に響いてきた言葉が示すような、そんな世界に代わる世界だということをホイジンガは最後に示そうとしています。「すべては空」の神なき世界に代わって、確かに神なき世界であったとしてもそこに満ちた創造活動を形容するには「すべてが遊びなり」の世界とみるような少し積極的な観点を示そう、というのがホイジンガの結論部分だと思います。結論部分なので、彼自身は、「すべてが遊びなり」という観点から論究された自然哲学や宇宙論を示してはいませんけれども、しかし、遊戯の宇宙論を展開したフィンクに連続していくホイジンガの観点がここに確かに示されていると思います(もちろん両者の違いは守永先生が示したように明確ですが)。
ここで「すべてが遊びなり」というホイジンガの最後に提示した積極的観点が、この「世界に満ちている生成消滅の創造活動」を示すメタファーだと理解すれば、これはフィンクの遊戯の宇宙論やニーチェ、ハイデッガーの遊戯の存在論(生成論)にも通じるし、またホワイトヘッドの宇宙論にも通じると思います。
「遊び」を、高度に秩序づけられた舞台でなければ成立しえない、守られた活動性と見るような限定的な視座から解放したのが、ホイジンガでした。そして、そんな風に「なんでもあり」のところまで到達してしまった「遊び」概念を、もう少し文化的な事象を論じることのできるレベルまで引き戻した(つまり『ホモ・ルーデンス』の最終到達点を、この本の中盤の文化論の地平まで引き戻した)のが、カイヨワです。しかし、カイヨワも人間が人間以外の何か(自然とか聖なるものとかおそらくは機械とか)と触れあい交わりあう活動や感覚をほぼすべて遊びと呼んでいますし、考えられている以上にカイヨワの世界は「すべてが遊びである」という世界に近いと思います。
遊びは、規則のなかで成立する活動である以上に、規則を成立させる活動だということは、ホイジンガもカイヨワもアンリオもベイトソンも強調しています。そこに、秩序のなかで成立する活動性が、また、旧来の秩序を超えて新たな秩序を創造する活動となる、というホワイトヘッドの創造性/調和の議論が見えてきます。ホワイトヘッド宇宙論が遊びの宇宙論であるというのは、そのような意味です。
守永先生に基本的には賛成ですが、おかしいな、と思う3つの点のうちの1つが、こういう「遊び」概念についてです。守永先生はカイヨワもホイジンガもフィンクも知悉しているので、遊びを「大人によって秩序立てられた世界のなかではじめて成立するような子どもの遊び」として見る見方をはみ出しながらこれを包摂するような彼らの議論に立ってみた方がよかったと思います。
ホイジンガの「遊びは秩序を創造する。遊びイコール秩序である」(ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社、講談社学術文庫、2018年、31ページ)という言葉とその前後の箇所では、遊びを可能にする秩序とともに、遊びによって成立していく秩序が語られています。言い換えると、遊びは、規則によって制約された自由な活動であるとともに、自由な活動によって規則を生成させていく活動でもあるということです。
遊びを成立させる秩序を論じようとすると、その秩序を成立させる活動としての遊びが見えてくる、という遊び概念の広がり・深まりが、ホイジンガやカイヨワやフィンクなどに見られる共通点です。
ホイジンガは端的に「遊びはすべて、なによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。せいぜいそれは遊びの義務的焼き直しにすぎない」(ホイジンガ、前掲書、26ページ) と言っています。日本の絵本の歴史を開拓してきた老舗出版社「福音館書店」の編集長・社長だった松居直は、保育士や幼稚園教諭に向けた雑誌の連載のなかでホイジンガのこの言葉を引用して、「子どもは遊びによって自由になり、その中で創造性を発揮します。遊びの中で好奇心を働かせ、独創性の芽を自発的に育てているのです。自発的な遊びによってこそ自由をしるのだといっても過言ではないでしょう」(松居直『絵本の現在 子どもの未来』日本エディタースクール出版部、2004(1992)、14ページ)と述べ、さらに、保育者と保育を志す者たちに向けて、「それゆえにこそ、教えられたり、管理されたりしなければ遊べない子どもたちは、すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失しているのです。大人が安全性を過度に意識しすぎることによって、制約され、管理されている現代の幼児の遊びは、幼児教育をなしくずしにしているのではないでしょうか」(松居、前掲書、14-15ページ) と警告しています。だからこそ、保育・幼児教育の現場から遊びをもう一度考えるときに、ホイジンガ、カイヨワ、ベンヤミン、フィンク、あるいはフリードリヒ・フォン・シラー、さらにはベイトソンやチクセントミハイ、梁塵秘抄から北原白秋、谷川俊太郎まで、遊びの哲学のさまざまな系譜を総ざらいしながら宇宙の創造活動それ自体が遊びであるというところまで徹底してみる必要があると思われるのです。
子どもの生活や保育・幼児教育の現場において、遊びの宇宙論という観点から遊びを捉えなおす必要があると私が主張するのは、守られた遊びや作られたルールや整えられた環境や所与のシステムの中でのゲームといった意味での「制約され、管理されている現代の遊び」の蔓延(子どもの生活のなかにも大人の生活においても、個人の趣味的活動においても社会の生死をかけたような真剣な営みにおいても)によって、遊びがもつ想像力と創造性が、「なしくずしに」なっているという危惧があるからです。うまく言えていませんが、そういう危惧と、しかしそこに何か新しい面白さの種のような、創造性や想像力の飛躍に結びついていくような期待とがあるから、遊びの宇宙論が保育や幼児教育や子どものケアにも、ホワイトヘッド哲学にも、つながっていくという強い予感を抱くわけです。
> ホワイトヘッド哲学に忠実に従うかぎり、原初的な
> ものとは創造、ないし創造への衝動でしょう。それ
> をcosmic driveと呼んでもいいでしょう。ただし、
> そこに創造されるものとは宇宙の秩序です。宇宙の
> 秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決して
> その逆ではない。最初に遊びがある、という言い方
> をホワイトヘッドは絶対しないはずです。
このように守永先生は書かれ、また、投稿された「正義と友愛(2)」の冒頭部分では「子供の世界は大人により守られている」あるいは「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係であり、それ自体が社会のルールを学ぶ上でとても役立つ」と書かれています。このような意味で、秩序によって守られ、大人によって、社会のルールによって守られたものとして「遊び」を捉えているかぎり、それは「せいぜい遊びの義務的焼き直しにすぎない」とホイジンガが切り捨てたような遊びの派生形態であり、そのような観点からは、上記のような遊びのもつ「自由」や、所与の秩序からの逸脱と新たな秩序の「創造」といった特徴は見えにくくなってしまうおそれがあります。遊びには、守られ、ルールによって制約されつつ秩序づけられてはじめて成立しうるという限定性あるいは制約性と、そのような制約を脱して新たな秩序をめざそうとする自由とのコントラストがあます。このコントラストにおいて根源的な創造性が具体化され現実化される、という洞察は、まさにホワイトヘッド哲学の主張するところです。守られ、教えられ、管理され、制約された条件においてしか遊べないとしたら、子どもたちも大人も、「すでに成長のエネルギーを、そして自由の精神を喪失」している、と言わざるをえません。
守永先生が示したような常識的に理解された範囲での遊び(秩序・大人・社会のルールなどによって守られて成立する遊び)を遊びの第一の相と呼ぶとすると、その相を成立させるための創造活動もまた、遊びと呼ぶべき活動であり、ひとまずそれを第二の相と呼ぶことにします。第一の相での遊びは、深刻さや真面目さや切実さといった概念と対立する活動ですが、第二の相はそれらをも包摂するような秩序創造という意味での遊び概念ということになります。それは、それ自身と対立するものも包摂するような創造的な活動ですが、そこには、全体として最終的な活動目的となる「何のため」が欠けている。あるいは、かりそめの「何のため」が第一・第二の相において見えていたとしても、その底のところでは、究極の目的も根拠も基盤も安定した大地も秩序もない活動性の大きな渦のようなものが広がっている。それは、なじみのものへの愛着を抱きつつも、それを超え出て「新しさ」を求めていく衝動、としか呼べないような匿名の活動性です。それを「空なるかな」と見るのではなく「遊び」と見る、といういわば第三の相の「遊び」概念、遊びの形而上学的宇宙論とでもいうべき概念が開けている。
第一の相は、守永先生が言ったような「ごく一般的に言って「遊び」とはルールに守られた社会的な諸関係」であるという遊び理解、「秩序が成立して初めて許される」ものとして遊びを理解するレベルで把握されている遊びです。それはホイジンガが議論したレベルですらなく、むしろホイジンガもカイヨワも、そのような第一の相の遊びが成立するための秩序を創造する活動まで含めて、遊びと呼んでいる。この、自らが成立する条件にもなる秩序を自ら創造する活動性、というのが遊びの第二の相です。そして、その第二の相の遊びとしての秩序創造の活動そのものには、それを成立させるような秩序立った場はない、世界は秩序を生み出す遊戯的な創造活動の渦だ、という意味での遊びの宇宙あるいは宇宙の遊びというのが第三の相です。
そこまで遊びの論究を深めていこうというのが、フリードリヒ・シラー、ニーチェ、ホイジンガ、カイヨワ、フィンクなどの「遊びの哲学」の系譜です。その系譜が示すこうした第二、第三の相の「遊び」概念は、ホワイトヘッドの宇宙論における創造性の解釈に使える、というのが、私の見立てです。
フィンクは「世界は遊ぶ」と言っていますが、これも、第二、第三の相で遊びを見ている見方です。そして、第一の相の秩序によって限定されつつ秩序によって守られた人間の遊びは、第二、第三の相での「世界の遊び」から論じられなければならないとしています。
「世界は遊ぶ。しかし、人格としてでも、「仮象」や「非現実性」や空想的舞台をかち得るというように遊ぶのでもない。われわれが世界の遊びを語ろうとするなら、われわれは人間の遊びの遊び構造を決定的に改め考えねばならず、しかもこの遊びが世界の支配から派生したものである場合の諸特徴において改め考えねばならない。」(フィンク『遊び―世界の象徴として』千田訳、320ページ)
私も、保育や幼児教育で遊びを論じる時には、一度、遊びの宇宙論という相に立って、そこから論じなければならないと思います。遊びを、大人の作った秩序ある世界のなかで守られた単なる児戯と見るような視点を捨てて、そういう第一の相での遊び理解も到達点に含んだ、もっと大きな世界の活動性として見るような、ホイジンガの到達点、フィンクの出立点、ニーチェの観点に届こうとする試行錯誤のなかで遊びを考えてみると、子どもの遊びの世界も(私には)よりリアルで面白く深く見えてくるし、そもそも世界ぜんたいをよりリアルに面白く深くとらえる視点が開けていくように感じます。
その開けていく先で、ホワイトヘッドの宇宙論とも深くつながる(ベンヤミンともかかわる)創造性と秩序の両方に触れながら両方を含んだ宇宙が見えてくるように感じます。遊び概念をそこまで拡大延長していくのが、今の私のねらいです。
ここがおそらく守永先生の「(宇宙の)創造的衝動=秩序(への意志)」という理解と、「(宇宙の)創造的衝動=秩序ないし調和への意欲=遊びの源泉」という私の理解とが重なる点であるとともに、分岐する点でもあるのでしょう。秩序立った宇宙としてのコスモス(秩序としての宇宙)を新たに意欲する創造性の宇宙的衝動によって生起する、「遊び=秩序を創造する活動」に満ちた宇宙(創造活動の場としての宇宙)という理解は、世界が新しさへと創造的に前進するプロセスを論究するホワイトヘッド宇宙論の中心的な主題に迫る可能性をもっていると確信しています。
これに関連して、守永先生の書かれたことで首肯できない記述があったので、少し触れておきます。それは、経済学や法学や医学が生死にかかわることを扱う真剣勝負の世界だから、学問には遊戯性があるなどとは言えない、遊びとは対極の真面目なことを、真面目に議論しているのだ、という論旨です。
> 愛知の学たる哲学はさておき、経済学はまず人民をいかに食べさせ
> るかという課題を担う。法学は社会を暴力から守り、いかに安定的
> に存続させるかに注意を払う。医学はまさに眼前に迫りくる死や病
> いと闘う。それは必死の営みであって、決して遊びではない。とい
> うか、遊びではとうてい済まない。
生死の壮絶な営みも、食うか餓死するかの営みも、遊びどころじゃない、というのはその通りなのですが、その言葉は学問の言葉ではなく、生死や食うか飢えるかの局面での言葉です。同じ局面からは、真面目に学問やっているどころじゃない、という言葉だって切実な叫びとして出てくるでしょう。ここで守永さんが遊びを否定する言葉は、そのまま、学問を否定する言葉にもなりえます。
生死がかかっているような営みであっても、その営みを学としては「遊び」という観点から見ることの意味はあるし、たとえばそのように見ることで何かが見えてくるのではないかという探求が学問であって、必死の営みは「遊び」ではとうてい済まないといった常識的な枠組みに固着した観点からの学問は勉強の対象ではあっても、研究の営みではないのではないでしょうか。もう一度言いますが、生死の営みも、その営みがかかった学問の営みも、宇宙の遊びという観点から遊び戯れと捉えるような観点から論究することが、学問を論究する学としての哲学の営みの1つとして成立するはずです(その論究に可能性があるのかどうかといった問題は確かにありますが)。そして、そうやって遊び概念で括ることで、守永先生も認めるような、遊び概念につながっている想像力や自由、創造性、秩序の創発と発展と頽落と破壊、そこに見られる関係性とプロセス、美と真、そしておそらくは倫理性などが一つの観点から見えてくるでしょう。そこまで拡張すると、それはもはや「遊び」という言葉で呼ぶ必要がないのではないかという異論もあるかもしれませんが、この異論に対しては、ある語をその通常理解されている意味の範囲を超えて適用していくことがホワイトヘッドのいう思弁哲学の想像的飛躍の論理であり、そこで彼はまさにこうした想像力の飛翔による適応範囲の拡大と越境を「遊び」という語で表現している、と言うしかないです。
守永先生は次のように書きました。
> 「彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに『遊戯』
> なんだと思います」というのは村田先生の実存主義的な解釈ですね。ホ
> ワイトヘッドの体系から、こうした論理を導き出すのはかなり無理があ
> り、それには彼の自由概念や想像力の論理に訴える必要があるのではな
> いか?というのが私の印象です。
私は逆の印象をもっています。もとの学会発表原稿では、想像力の議論を主題にして論究していますが、確かに、自由と限定性のコントラストをしっかりと踏まえる必要はあります。守永先生が逆の印象をもたれたのは、私の言葉不足が主な原因ですが、もしかすると守永先生が今回の「正義と友愛(2)」の議論の最初のところで、遊び概念をホイジンガやフィンクに依らずに限定的に理解してしまったために、その概念でホワイトヘッドを解釈するのは無理があると思えてしまったからではないでしょうか。ホワイトヘッド哲学を規則や秩序への意志に貫かれた論理体系と見ているかぎりは、遊びとのつながりは見えにくいのかもしれません。
しかし、新しい秩序を創造する活動には規則性や法則性とともに、それをすり抜けたり裏をかいたりする活動としての「遊び」の要素が不可欠で、そこを宇宙の創造性の焦点だと見るのは、ホワイトヘッドの哲学のど真ん中を射抜く解釈じゃないかという自負はあります。遊び概念を根源的な活動性まで拡張することは、そんなに特殊な議論ではなく、シラーもホイジンガもフィンクもベンヤミンも、ほぼ同じ方向で拡張させています。そうやって再定式化された遊び概念は、ホワイトヘッド解釈にはかなりぴったりくると思っています。また、きっと幼児教育や保育における遊びの議論にも(そして子ども理解にも)風穴を少し開けられそうな観点が見えてくるだろう、という期待ももっています。
ただし、遊びの哲学者としてホワイトヘッドを解釈するには、文献の裏付けがちょっと弱いです。私が見るかぎりホワイトヘッドは、“play”という語を重要なところで2回だけしか使っていません。いずれも、『過程と実在』の第一部第一章、思弁哲学の方法としての「想像力」や「直接経験の観察」に関する箇所です。
少なくとも、この2か所では、「遊び」という語を想像力の躍動する「遊び」という意味でホワイトヘッドは使っている、ということは確かです。しかしそれ以上、遊びの哲学との直接的な関連を文献で裏付けるのは無理なので、あとは解釈するわけですが、私は、十分見込みがあると思います。なぜなら、ホワイトヘッドの哲学は、秩序を創造性の成立条件として見るような創造性の理解にとどまらず、むしろ、創造性を究極的なものと見て根源に据える立場であり、秩序ある宇宙の宇宙論を語るのではなく、秩序の創造プロセスとしての宇宙を語る形而上学的宇宙論の哲学だからです。宇宙論だけでなく、遊び概念からホワイトヘッド哲学に接近するアプロ―チはまた、彼の教育哲学を介して、保育・幼児教育にもつながっていく可能性までもっているとも思います。
続いて、守永先生に賛同できない第2点ですが、言葉が発せられる以前の経験の世界をホワイトヘッドは「原初的」とは呼ばないとされた点です。彼が決してこういう言い方をしないと守永先生がおっしゃるのは間違いではないかと思います。命題や言葉や意識が成立する以前の経験の世界を分析しながら、それを「原初相(primal phase)」と呼んだのは、ホワイトヘッド自身です。そのような意味での経験の「原初相」の論究は、ホワイトヘッド哲学においてむしろ中心的な論題でした。経験の契機が成立するプロセスの論究は、ホワイトヘッド哲学の主題で、身体性を論究するwithnessの議論とか、象徴とか命題とかいろいろなかたちで論究されていますが、それらの核となる経験の分析は「抱握理論」で提示されています。この抱握理論では抱握というプロセスないしは関係性の具体的事実が、原初相と派生相、補完相に分けて分析されていて、だいたい「命題」の成立する混成的抱握の成立までが「原初相」に相当します。
こうしたホワイトヘッドの議論を踏まえて、またジェイムズの純粋経験論、西田の原初相という語も意識して、私はこれまで、言葉や分別知としての意識が成立する以前の直接経験(純粋経験)の世界に関して、経験の「原初相」とか「原初的」という言い方をしてきました。もちろん、ここで言う原初的とか(言葉以前の)経験の原初相というのは、決して原始的とか文化以前とか、あるいは禅仏教的な分別知以前といった意味ではありません。
言葉以前の世界が原初的だといった言い方をホワイトヘッドはそもそも拒むはずと守永先生がおっしゃったのは、ホワイトヘッドに即して言えばむしろ逆で、言葉以前の経験の原初相の豊かさを論究するのがホワイトヘッド哲学の中心的な主題だったと言わなければならない。言葉が成立する以前の直接経験の世界においては遊びと形容すべき創造活動が渦巻いている、それは自らの成立条件である秩序を脱して、新たに秩序を創造する活動性である、この直接経験の世界は抱握理論においては主として「原初相」の分析において扱われている、そしてこの原初相の分厚さを緻密に論究しつつ派生相・補完相へのプロセスを描くことがホワイトヘッドの主題だというのが私の論点です。言葉以前の経験の「原初相」という語が示す世界をあまり単純に考えてしまうと、確かにこの主張を批判したくなってきますが、ホワイトヘッドは、言葉が成立する以前に実に分厚い経験の相があると考えていて、まさにその豊穣さを分析するために『過程と実在』の第二部をすべて使い、また第三部の前半もこの経験の原初相の分析にあてられています。命題論も象徴理論も身体性に関する議論も、抱握理論における原初相の分析も、すべて、言葉が発せられる以前の経験の原初相の論究として見なければならないと思います。また、そこから派生相・補完相に向かっての経験の展開を論究していくところは、現象学や認知哲学にも通じる面白さがあるので、そこで経験のより高次の相で秩序が生成され意識的な立場が現れてくるプロセスの論究も遊び概念のなかで見ていきたいと思います。
守永先生の議論のなかで違和感をもった3つ目が、宇宙の運行自体が、あたかも時計仕掛けかと思えるほどの精緻な法則性を示しているという点についてです。ホワイトヘッドは、この精緻な法則性とコントラストを描くような「偶発性」や「撹乱する要素」に注目しています。これは、「ゆらぎ」とか「遊び」と言っていい。時計仕掛けのごとく精緻な法則性を示していると見える宇宙であっても、ホワイトヘッドは、この宇宙の精巧な運行のひとつひとつの契機を構成するアクチュアル・エンティティのうちに物的な極だけでなく、概念的な極も(微細ではあるが)見出しています。そういう両極性のゆえに、宇宙には、精緻な法則性とともに、常にゆらぎや偶然性がある。
すべての事物や出来事には、法則やそれがそれ自体であるといったアイデンティティなどの因果的で物的な限定性があって、この物的な限定性の効果をホワイトヘッドはアクチュアル・エンティティの「物的極」の働きとしました。また他方で、こうした限定性とは対照的な新しさへのゆらぎがあります。この対照性は、「アクチュアル・エンティティの心的極と物的極という二極性」、あるいは「自由と限定性」といった対概念をなす主題のかたちで『過程と実在』に何度も登場し、ホワイトヘッドはまさにそこを論究します。
この点に関して、さまざまな議論をホワイトヘッドは展開していますが、ごくごく簡略化して言うと、自由なゆらぎは、概念的な極の働きによります。そして、概念的な極の働きが極端に大きくなっているのが、人間や動物のような高次の有機体です。言い換えると人間や動物においては、自由と限定性のコントラストが極大になっていて、自由な活動性がほぼ絶えず湧出しているのです。しかし、人間や動物に限らず、程度の差はあっても、一切の事物や出来事が両極性をもったアクチュアル・エンティティとそのネクサスであり、したがってそこには程度の差はあっても自由と限定性のコントラストが見出されます。言い換えると、自由な活動としての創造活動は、確率や複雑さはどんどん低くなりますが、人間や動物だけでなくすべてのネクサスやアクチュアル・エンティティに見出されるものだとされています。私たちの今の文脈に引き付けて言うと、自由な活動としての遊びやゆらぎは、特別に高度なルールや精巧な秩序が成立していなくても、たえず生成消滅しているといえます。そういう意味で、時計仕掛けの機械論的宇宙ではなぜないのか、を論究するのが、ホワイトヘッド宇宙論の最大のねらいだったと言えます。
守永先生が示されたのは、この自由な創造活動が、単に何かが精緻な法則性を逸脱しながら動き回っているといった「盲目的な」乱舞にとどまらず、まさに秩序を目指し、しかも「新しさ(novelty)」としての秩序を目指した活動である(のはなぜか、またいかにしてか)、という論点です。遊び概念からホワイトヘッドを解釈するとき、ここが急所になる、という問いかけは、私は大事に受け止めて、数年単位の時間をかけて取り組んでいこうと思います。
この宇宙が唯物的機械論の宇宙ではなく、新しさへの創造的前進のプロセスであるということを論理化することが、ホワイトヘッドの形而上学的宇宙論の主題であり、そこで、厳格な法則性を逸脱するような偶発的で撹乱する要素において顕著に見られるような自由な活動(と、この活動による新たな秩序の創発)を論究するのが、彼の有機体の哲学の一方の特質です(もう一方には、論理化をうながすが論理では捉えきれないような価値的・美的な直観という事態があります)。そして、そこに、身体性の問題があって、これは象徴理論や命題論と並行して論じられるべき問題です(ホワイトヘッド自身は身体論をwithness(witnessではなく、「でもって性」「をもって性」とでも訳すしかない語)の議論から出発させて、有機体と環境、象徴、命題と続けて論じています)。
遊びは宇宙の秩序が確保されて初めて許されるような、そういう第一の相の遊びだけではない。最初に遊びがある、という言い方は私はしていませんが、確かにそのように言ってもいいし、それはホワイトヘッドの創造性の哲学に合致すると思います。秩序が確保されたところに初めて許されるような遊びの表層とは別に、その根っこを見ていくと、遊びにはもっと深い相があることが見えてきて、フィンクが言ったような、世界それ自体が遊ぶといった見方が出てきます。こういう遊び概念に照らしてみることで少し見えてきたような世界の創造活動こそが、上で言ったような意味での経験の「原初相」だ、という考えは、ホワイトヘッド哲学の読解としてほぼど真ん中ではないかと思います。ホワイトヘッド宇宙論では、いきなり宇宙の秩序が主題となるわけではなく、その秩序が生成するプロセスの論究が主題です。秩序と創造性の両者を見ながら、創造的に前進する宇宙の秩序形成のプロセスを理論化する諸議論をなるべく統一的に理解したいというのが、私の読み方の基本です。
守永先生の議論に寄せて表現してみると、以下のような感じになると思います。経験の原初相においていきなり秩序が立ち現れているわけではなく、新たな秩序を目指す関係性の複合体が旧来の秩序を新しさの誕生する場として享受し(enjoy)つつ、新しさへの創造活動はその旧来の秩序が許す活動としてというよりもむしろこの所与の秩序を脱していく方向で活動を展開する。そこでは、秩序よりも創造性が主導的です。
反対に、秩序が先にたって創造性が背後に退くような局面では、同一の秩序の反復のなかでの活動性として、頽廃とか麻痺とか退屈とかばかり生まれてきて、そういう宇宙は柔軟性を欠いて固まってしまって新しさがなかなか出てこない。ホワイトヘッドはあちこちで、そういう疲労したり頽落したりした宇宙や生活への危惧を表明しています。
確かに、守永先生が言ったような「宇宙の秩序が確保されて、初めて遊びが許される。決してその逆ではない。」といった遊び概念(第一の相での遊びの理解)でもってホワイトヘッド宇宙論を解釈することはできないでしょう。ホイジンガもカイヨワもフィンクもそういった遊び概念は認めはしますがあまり重視していませんし、むしろそのような遊びが遊びとして派生してくるより一般的な活動を遊びとして論究することが彼らの主題でした。彼らが探求したのは、秩序をめざす宇宙の衝動としての遊びであり、秩序が確保されて許される遊びという第一の相は、このような根源的な相における遊びから派生してくる嫡子にすぎません。ですから守永先生の言葉は逆で、宇宙の遊びとしての創造性があって、初めて秩序が生成する。決してその逆ではない。そう考えないと、創造的衝動/秩序への意志と言っても、その言葉が描く秩序ある宇宙としてのコスモスは固まってしまって、結晶化した宇宙しか見えてこなくなるように思われます。
あたかも時計仕掛けに見える広大な宇宙のなかで、地球の生命圏のように、ほんとうにほんの一部にすぎないような領域であっても、生命が生きる場を拓いていくためには、どうしても根源的な相での遊びが、つまり時計仕掛けの法則性や厳密な因果的限定性の束縛を脱するような自由な創造活動としての遊びが、必要です。そこを論究するためにこそホワイトヘッドは緻密な論理性と、美的な感性との両方を必要としたのだと思います。そして、規則や秩序や論理性や緻密さも十分に重要なのですが、ホワイトヘッドにとっては美的な感性において宇宙が開示されるという側面の方がはるかに重要だったのだろうと思います。
ホワイトヘッドは緻密さを重視する論理家でありつつも、その本性はむしろロマンティストです。近代科学の席巻した時代、プリンキピア・マテマティカによって自分が切り拓いた現代論理学が哲学を乗っ取った時代に、この美的世界の実在を表現するのは韻文の詩とともに緻密な論理体系だという確信をもって、緻密であっても汲み尽くすことのできない探求美的形而上学的宇宙論を無理を承知で緻密でかつ開かれたままの論理体系によって暫定的に表現することを目指したのです。その探求を彼自身が「ロマンス」と呼んだのでした。
守永先生が、
> かれの哲学が緻密かつ精密で、複雑極まりないように見えるのは、言語以
> 前の次元で作動している身体を介した世界との関係、その象徴体系を明示化
> せんとしていたからだと私は思います。そうすることでインド=ヨーロッパ
> 語族的な主語―述語論理を突き崩そうと企てた。それは論理を貫徹するよう
> な形で遂行されるほかなかった。
とおっしゃっているのは、まさにその通りです。ベルクソン的な「しなやかな動作」をホワイトヘッド哲学において論究するためには、象徴理論、命題論、身体論を読み解いていく必要があります。
守永先生にいただいたご指摘はとてもありがたく、自分の議論がどういう問題をもっているのか、どういう理解のされ方があるのか、はたまたどんな可能性が内蔵されているのか、いろいろと勉強になります。
最後に、ホワイトヘッドの「命題」について。
命題論は、私も発表原稿にして学会発表したことがあります。2015年に立正大学で開かれた「アメリカ哲学フォーラム」で命題論をメインにして、言葉以前の命題の成立と多世界論というのをテーマにシンポジウムで発表しました。要するに今回守永先生にリクエストしたテーマです。しかし、あの学会は学会誌がなく、論文にはなっていません。しかも私は、守永先生のとは違う切り口で、先行する世界の物的抱握とそこに例示された永遠の客体あるいはそこに例示されたものとコントラストや関連性のある永遠の客体とを抱握するハイブリッドな抱握として、価値や意味をもった事実の事柄が成立する、という切り口で命題論を論じていて、その主眼点は、価値や意味の内在する事実の世界の論究にありました。主語―述語の形式で言葉が発せられていく以前のところで命題を論じるという点では、あの発表は守永先生と同じ問題意識をもっていました。
今は、想像力あるいはイメージと、象徴作用あるいはシンボルという対比を、命題・言葉・意識が成立していくプロセスの原初相から補完相まで貫く遊びの創造性といった観点から考えたいと思います。問題圏は重なりますが、守永先生は、ベルクソンの図式論や多様体論も視野においた命題論を論じられる可能性をもっていますし、ホワイトヘッド解釈の最大の問題点の1つでもある善・悪(と真や美とのからみも)を論じるという主題もあります。ですから、いつかお時間ができたときでいいですから、ぜひ、お願いします。
ここまで不十分にしか答えられず、申し訳ありません。説明不足の部分は、今後の課題といたしますが、わずかでも参考になる可能性があるものとして、遊びの哲学関連で最近私が書いたものが、Cinii ArticlesとかGoogle Scholarで検索すると、名古屋柳城短期大学の機関リポジトリに載っています。ここでの議論に関係する主題をホワイトヘッドやホイジンガやフィンクやベンヤミンやベイトソンとからめて書いていて、一部は答えになるものもあるかと思いますので、もしお時間があれば(とっても忙しそうですが)、見てみてください。
村田康常 2018/12/02(Sun) 01:21 No.162