2018年7月15日(土)明治学院大学におけるセミナー『文明と経営』第二回に
つきましては大変お世話になりました。村田晴夫先生のご講演(副題:その研究
の方向)を基調とし、全体討論(「哲学スル」とはどういうことか)を通じて議論
を進めさせて頂く中で、昨年来の多くの問題に整理がなされ、また新たに重要
な課題が提起されたところと思います。皆様方のご協力をもって大変意義深い
会合となりましたこと、感謝申し上げるばかりです。
今回も前回に引き続き、重要な課題の議論を一層深める場としてBBSスレッド
を立ち上げました。
【参考資料】
基調セミナー
村田晴夫 『文明と経営』--その研究の方向 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/AbstMurataHaruo.pdf
全体討論 『「哲学スル」とはどういうことか』
浦井 憲 『司会者からのメッセージ』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/UraiComment.pdf
鈴木 岳 『「哲学スル」とはどういうことか:個人的感想』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/SuzukiComment.pdf
長久領壱 コメント要旨 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/NagahisaComment.pdf
塩谷 賢 コメント要旨 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/ShiotaniComment.pdf
守永直幹 『生成と蕩尽のあいだで』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/MorinagaComment.pdf
村田康常 『経営学史研究の「哲学スル」について』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/MurataYasutoComment.pdf
て簡単な survey を、全体討論の提案者としての立場より、この先に続く問い
かけを交えつつ、以下に書かせていただきます。
私たちは、既に厳然として20世紀の企業文明、そして科学技術の成果の下で
生き、そして日々の暮らしを営んでいます。「哲学スル」=「徹底的に問う」という
ことに対して、村田康常氏が、そのレジュメにおいて「何がそのように徹底して
問うに値するか」と書かれました。そして同時に懸念もされたように、話は大変
深刻で、今日の学問世界においては、「問われるべき問題が問われずに放置
される」というのが現状であるように思われます。なぜ問われないのか。それは
今日の学問が、既に「企業文明」の中にあるから、なのかもしれません。鈴木氏
が強調されたように、自らのイデオロギーやその誤りについては見え難いという
こと、あるい塩谷氏が述べられたように、それは「身体」の問題として、定められ
た sensitivity の問題なのかもしれません。けれどもそういったことを乗り越え
て、なお学問が何かを「問う」ことができるとすれば、それこそが「成り行きでは
ない(守永氏)」学問の「主体」性、自由性、そして根拠と言えるものではないか
と思います。このような学問についての線引きは、同時に学問の限界を与え、更
にその限界の先があるということを、少なくとも学問に知らせるものとなるはず
です。緩くであろうと複数であろうと、線を引かねばならないと私の考える理由
は、学問の根拠のため、即ち学問が学問を学問的に把捉できるためです。
このような学問の位置づけの問題が、まずは皆様に問いたい事柄の第一です。
加えて「老い」と「死」の議論を発端に、三井氏が指摘された「企業とは継続を
前提として造られた装置」という問題。まさしく福井氏がこれにショックを受けて
おられ、また重大な問題と位置づけられたところです。当方は、これはある意味
「救い」の無い問題ではないかと考えます。実際、生命が「生きる」という道を選
ぶということには、善も悪も、美も醜も、おそらく吹き飛ぶこと間違いありません。
これは守永氏が、セミナー前半村田晴夫先生ご講演の最後に問われた事柄、
いわば「企業は善なのか悪なのか」、との問いへの答えとも関わって来るよう
に思います。村田晴夫先生は、「自然のおおらかさ」という表現を用いられたと
思います。ある意味「救い」の無い問題には、祈るしかありません。では祈るか、
ということになりますが、祈るだけなら宗教になってしまいます。もちろん宗教は
重要です。けれども我々は、今「学問」という立場におります。祈るとはどういう
ことか。「なぜ」祈るのか、祈るとは何なのか、「何のために」祈るのか、我々は
このことについて徹底的に「問う」必要があります。つまり、宗教とは何か(自然
とは何か)、という問題です。(西田の『場所的論理と宗教的世界観』は、まさし
くこの問題を取り扱っていると思います。)「宗教」を問う、という問題にここから
つながっていくのではないかということ。これが皆様に問いたいことの第二に
なります。
今日の学問もまた、少なくとも、その職業専門家集団という意味での組織として
眺める狭い意味においては、明らかに「頭を売り、身体を売り、魂を売ってでもそ
の組織体としての存続を選ぶ」という、ある種「救い」の無い状況にあるよう見
受けられます。けれども職業専門家集団という狭い知見に限定されず、一層巾
の広い視野をもって、学問そのものを眺めるとき、我々はそこに学問が「学問」
そのものを問う、学問の「自由」性を常に垣間見ることができるように思います。
長久氏が最後に挙げられた、経済動学における滅びゆくものの記述というのも
そのような一層広い意味での知性・合理性(あるいは学問の自由性)をもって、
始めて可能となるのではと思います。皆様に問いたいことの第三は、そのような
この先に向けた可能性です。これは21世紀文明を導く(敢えて導くと書きます
が)、21世紀の学問のあり方ならびにその役割ということでもあります。20世紀
に於ける学問の問題点、取り分け「専門性」ということ、専門化され職業化され、
労働化された(そして産業化された)学問ということの問題点とも思います。
以上、学問の「主体」性ということ、「宗教」を問うということ、「専門」性ということ
(あるいは学問の労働化・産業化ということ)、にまとめてみました。どうぞ宜しく
お願い申し上げます。
私達はそれぞれ異なる専門分野におりますが、今回改めて感ずることは、細分化され
たその専門分野の問題についてさえ、その分野における重大な未解決問題といった事
に焦点を当てるならば、極めて似通った、同型の問題に直面しているように思われる
ということです。
例えば、枠組みが経済学理論に役立つとかそういうレベルの話ではなく、経済学理論
における様々な壁そのものも、まさしく「近代に向けたオルタナティブ」という問題、
あるいは組織とは何か、あるべき経営とは何か、といった難問と瓜二つであるという
ことで、およそ今日の学問が総合して取り組むべき共通課題に我々は直面していると
いうような、そのような印象です。
各分野において「哲学スル」というのも、異なるようで実は一つのことなのかも知れ
ないと、そのような気がしています。その意味で「哲学スル」というのは、何も特別な
ことではなく、まさしく各分野において問われるべきことが自由かつ誠実に問われる
ということ、その延長上にあることのようにも思われます。
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7月15日の数理経済学会/日本ホワイトヘッド・プロセス学会の共催セミナーでは、生成とともに消滅が、成長し成熟することとともに老成し老化し衰頽していくことが、上昇とともに没落が、生とともに死が、語られたことは印象的でした。また、この生成消滅や老いの問題が、個々の人間の生涯や生物の営みとしてだけでなく、企業や文明社会について語られた点も重要だったと思います。
経営学史の特徴と意義を村田晴夫は「企業文明の学としての経営学」という観点から論じました。かなり大胆な観点だと思います。
そして、経営学の歴史を徹底して問うという経営学史研究の深い思索を「哲学スル」という言葉で表現し、経営学の歴史を徹底して問うような「学の学」としての「哲学スル」ことにおいて、具体性置き違えの誤謬が何重にも問われることとなりました。まず、経営学における個々の理論がもつ意義がテイラーまで遡ってフォレット、バーナードと続く学史研究によって吟味され、そのことを通して経営学という学問が絶えず具体性を置き違える誤謬を問いかえしながら、人間・組織・社会・自然の具体性を追求してきたことが評価されました。さらに、経営学史の徹底的な吟味を通して、経営学自体もまた絶えずこの誤謬に陥りつつあることが自覚され、そのように自己相対化された視点から、個々の理論の個別的な領域を超えて企業文明そのものの具体性置き違えを徹底して問うような「企業文明の学としての経営学」の視点がもたらされました。企業文明は「具体性を置き違えた文明」になりつつあるという批判が、ウェーバーの(ニーチェ的な末人思想を受けた)「精神のない専門人、信条のない享楽人」という語を引用しながら提示されました。こうして、経営学を学史研究という角度から徹底して問い、そのように問うことで現代文明の歴史を批判的に問い、企業文明の具体性置き違えを自覚させるような「哲学スル」という知の営みが開陳されました。
次に出てくる問いは、当然、そのように「哲学スル」ということ自体もまた、具体性を置き違える誤謬に陥りつつあるという危険性を孕んでいるのではないか、という問いです。
このセミナーに至るまでの議論を通して、特に浦井憲先生のご指摘によって、私たちは、個々の学も、学の学としての「哲学スル」という営みも、総じて「具体性を置き違える誤謬」に不可避的に陥りつつある、という自覚を共有していると思います。そして、このように自覚し自己相対化すること、鈴木岳先生の言葉によれば「自分が無自覚だった先入観(イデオロギー・偏見)を知るということ」によって、自らの理論や言説の限界や出発点・到達点が改めて見えてくるとともに、個々の理論の限界を(少しずつ)超えて、現代社会を問うような徹底した問いの視点に立ち出でるような瞬間を経験していると思います。私はその問いを、ゴーギャンの3重の問い、すなわち私たちは(私たちの文明社会は)いったい何もので、どこから来てどこに行こうとしているのか、という問いと捉えましたが、何もそのように限定することもないかもしれません。何か具体的で切実なものが、社会哲学としての「哲学スル」ことによって問われている、ということだと思います。
そして、現代文明において切実で具体的なものとして徹底的に問われるに値するのは、守永先生が示されたように、生成・成長・自己実現・上昇といった生成論のポジティヴな側面に伴っている影の部分、すなわち、老化・衰頽・消滅・過ぎ去っていくかけがえのない瞬間と、過ぎ去ろうとしない頑固な事実であり、これが社会哲学的な問いにおいては、文明社会の具体性置き違えとして指弾されることになるのだと思います。私たちは、それぞれの専門研究の領域で各自の理論の「具体性置き違えの誤謬」を自覚することによって、個々の理論的で厳密な言説の狭隘さを脱しながら「哲学スル」地平に立ち出でる瞬間を経験することが(たぶん)できます。この貴重な瞬間において、徹底して問うに値するのは、今回の共催セミナーで示されたように、文明の5つの徳である真・美・冒険・芸術・平安に対する虚偽・醜・停滞・気晴らし・戦争によって特徴づけられるような現代文明の現実(守永直幹先生)であり、文明化の頂点で現れる精神のない専門人の機械論的な組織と、信条のない享楽人の末人的で大衆的な気晴らし的な活動の流行であり(村田晴夫)、そして、そのように彼方に(あるいはすぐ足もとに)死を露呈させるような生成消滅のネガティブな側面の開示と自己相対化を通じて(たぶん)開けていくような、自然的・宗教的な深み(浦井憲先生)である、ということ、それが示されたのが、今回のセミナーの達成点であるように思います。
言い換えると、老いや崩壊や消え去っていく出来事と、そのような栄枯盛衰にもかかわらず三井泉先生が示されたようにしたたかに自己を継承させ存続発展させていく活動とを、システム論的・プロセス論的に論じることが、今の時代の主題なのかもしれません。組織の主体性を、その生成・成長と老化・衰頽の両面から問うということでしょう。
しかし、何にせよ、自分のやっていることが具体性を置き違えていたのだと自覚するのは、情けなくて恥ずかしくて、そんなことはないと反論したくなるか、そんなこと分かっとるわいと逆ギレしたくなるような嫌な事態ですね。それを自他に向かってやり過ぎたためにソクラテスは論敵を増やして裁判にかけられ死刑宣告まで行ってしまったのかもしれません。ソクラテスに淵源する「哲学スル」を現代に継承するということは、なかなかたいへんなことなのかもしれません。
村田康常
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村田康常様、皆様
共催セミナーのメーリングリストに加えていただき有り難うございました。今後ともどうか宜しくお願いします。前回のセミナーで、三井泉先生からM.P.Folletの思想を主題とする御著書を頂き、この勝れた「管理の予言者」のテキストに触れる機縁を頂いたことをあらためて感謝申し上げます。
M.P.Folletを読んだ私の印象は、一言で言えば「ホワイトヘッドの「統合体の哲学philosophy of organism」の精神ー創造的経験と統合的プロセスーを社会的実践の場面で活き活きと分かりやすく展開している」というものでした。
統合作用integrationは、差別distinctionや隔離segregation の壁を乗り越えて、異質な他者との創造的共生(creative coexistence) を志向します。多様性を消し去るような静的な「統一」ではなく、動的な統合作用による創造的革新が、多様な世界をさらに豊穣化するということが、FolletとWhitehead に共通する主題であると言えましょう。
晩年のホワイトヘッドは「我々は消滅しながら不滅なのだから、as we perish we are immortal 我々が現にあるところのものが限りなく重要である」こと「存在ー生成ー消滅」の三位一体を理解することが「過程と実在」の要の思想であると語っています。(Science and Philosophy p.125, Philosophical Library, 1948, 邦訳著作集十四巻138頁)
ホワイトヘッドの最後の講演を聴いた鶴見俊輔は「耄碌も創造性の内にある」と云って亡くなりましたが、これは私の好きな言葉です。
田中 裕
浦井先生が「全体討論司会の立場から今回のまとめ」というご投稿の終わり近く、下から2段落目で書かれていた、学問の専門性あるいは専門領域への分化・細分化が問題となるような時代状況を問題とされたコメントを拝読し、共催セミナーで話題になったマックス・ウェーバーの「精神のない専門人、心情のない享楽人」(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年、366ページ)が思い浮かびました。そこで、少し長くなりますが、考えたところを述べさせていただきたいと思います。
ウェーバーの「精神のない専門人、心情のない享楽人」が大衆のあいだに広く生まれてきてしまったことこそ、企業文明が具体性を置き違えた文明であることを示している、と言うのが、村田晴夫の主張だったと記憶しています。この告発は、浦井先生が学問の専門性とその具体性置き違えの誤謬について問われていることと重なってくると思います。浦井先生は学問論・科学論あるいは科学哲学の問いとして、一方、村田晴夫は文明論あるいは経営哲学の問題として、同じ方向で問いかけていると思います。
ウェーバーのこの言葉は、20世紀初頭、産業化を推し進めるアメリカ型の近代社会が宗教的・倫理的意味を失った営利活動の熾烈な競争のなかで「精神のない専門人、心情のない享楽人」 を産み出すだろうと述べている箇所です。同所でウェーバーは「精神のない専門人、心情のない享楽人」をニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で語られる「末人」に比しています(「末人(der letzte Mensch:おしまいの人間、最後の人間)」については、ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』第一部「ツァラトウストラの序説」の第5節を参照)。ここに、具体性を置き違えた企業文明の病理があり、その問題は現代まで継承されてグローバル化(アメリカ化)の波によってますます深刻化しているという村田晴夫の告発と、そこで学問には何ができるのかと問いかけて、学問もまた諸学の専門分化の流れの中で、この具体性を置き違える誤謬に不可避的にはまっていっているのではないか、と問われる浦井先生の問いは、同じ問題圏を共有していると感じます。浦井先生はさらに、専門化が進む中で学問自身がこの誤謬を自覚し、この誤謬の中を進んでいくしかない、むしろ、そこに希望を見いだすよう努力するべきだという態度を示されています。悲観論に陥ることのないこの積極性も村田晴夫と同質と感じます。
それぞれの専門性の中でタコツボ化していくことで具体性を置き違える誤謬にますます深くはまっていきながら、他方で、絶えずそのことを反省し改善を試みることで各自の専門分野の狭隘さを少しずつ超えるような視座に立って自己相対化しつつ文明社会を問うこと、そこに、それぞれの専門領域で学問をすることの希望があるということ、お2人の言葉を聞いているとそのように思われてきます。そうやってこの誤謬の中を歩みながら、この誤謬に自覚的になることで、それぞれの専門領域の内側ばかり見ていた目が少し外に向けられて、自分たちは何ものでどこから来てどこに行こうとしているのかをそれぞれの専門領域から問いかけていくような視界が開けていく。そこに希望が見えてくるのではないか、そして、浦井先生が育てて下さっているこの学際的な研究会は、そういう「脱専門性の対話」の機会の一つとなっていくのではないか、と感じます。
ホワイトヘッドも『科学と近代世界』の最終章「社会進歩の要件」の中で、「専門化」が現代文明社会の大きな問題の一つだということを指摘しています(SMW 196-198, 204-205. 松籟社著作集第6巻262-264, 273-274)。
その箇所は、「現代が当面しているいまひとつの大きな事実は、専門家養成の方法が発見されたことである」(SMW 196. 邦訳262)という言葉ではじまります。学問の専門化を要請するのは技術革新によって急激に「進歩」する近代の産業化社会であり、「ここでの実際に役立つ知識とは、専門的知識であり、この知識に従属する有益な題目だけに通暁していることによって支えられている」(SMW 197. 邦訳263)という、専門化の弊害が語られます。専門化の進展によって、学問から広い視野が失われていくという弊害です。そして、「このような状態は危険を蔵している。それは軌道にはまった精神を産み出す。……ところで精神的に軌道にはまっているとは、与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮らすことである」(SMW 197. 邦訳263)と続けられて、専門化にともなう具体性を置き違える誤謬の深刻化が示唆されて、ウェーバーにも共通するような専門人の精神的危機が指摘されます。さらに、次のような告発によって、専門化を問題視するホワイトヘッドの議論は頂点を迎えます。「社会の諸機能は分化したかたちでますます立派に行われ、ますます進歩するが、全体として進むべき方向ははっきりした目標をもたない。細部に偏した進歩は、結び整える仕事の低調なために生じる危険を増大するだけである。」(SMW 197. 邦訳263)
ここで「結び整える仕事」と訳されているのは、coordinationという語です(2つ目の"o"は"oウムラウト")。のちにホワイトヘッドの著作からこの言葉を拾い上げたバーナードが、彼の経営学の中心となる語として彫琢していく語です。経営学では「協働」と訳すのが一般的です。専門化が進み、「細部に偏した進歩」によって具体性を置き違える文明の病理が深刻化していくときに、必要とされるのは、各分野をコーディネートして諸活動を統合する働きだということです。人間のさまざまな専門的活動を一つにコーディネートする働きを、のちにバーナードは「経営」(management)の中心的な働きとしました。専門化が進み、その具体性を置き違える誤謬の深刻化が懸念される現代文明において、「文明の学としての経営哲学」という大胆な構想を村田晴夫が掲げるのは、専門化され細分化されタコツボ化された諸領域を統合するコーディネートの働きをバーナードが経営の中心的な働きだとしたからでしょう。(……問題は、バーナード以来、経営学においては、このコーディネートには「目的」あるいは上でホワイトヘッドが言っていた「全体として進むべき方向」「はっきりした目標」の設定が必要とされるということです。しかし、文明社会の目的を専門化された現代知識人の狭い視野から安易に1つの方向に設定して諸活動を統合するような智恵のないコーディネートの仕方しか現代人にできないのではないかというおそれがあります。それは、全体主義の恐怖、機械論的な組織の恐怖の再来を感じさせます……)
このくだりの少し先のところで、ホワイトヘッドは、「現代では、専門化ということが進歩と密接に結びついているのである。世界は今や、世界が止めることのできない、独りでに発展する、ひとつのシステムと対峙している」(SMW 205. 邦訳274)という言葉で、科学研究の進展が技術革新と結びつくかぎり、学問がさらに専門化され細分化されていく流れを止めることはできないと指摘します。専門的知識はますます増大し、細分化され、精緻化されますが、しかし、「智恵(wisdom)」は深まらない、とホワイトヘッドは言います(SMW 198. 邦訳264)。サラッと出てくるこの「智恵」という語が、どのような意味なのかは詳述されていません。それは、ばらばらに分化しタコツボ化していく学問の専門領域と、そのために見えなくなっている全体の方向性について、20世紀前半に人類が経験したような全体主義的な統合、あるいは機械論的なシステム化、という解決の道を採るのではなく、専門領域の狭い精緻な知識を超えた、なにか曖昧で形而上学的で一般的・全体的な知のあり方を含意しているのではないかと思います。初期の教育哲学でホワイトヘッドは、智恵(wisdom)を「知識より漠然としてはいるがより偉大なもので、その重要性においてはより優勢な要素」(AE 30. 松籟社著作集第9巻46)と呼んで、古代ギリシアにおいて希求された知(Σοφια)を読者に想起させるような書き方をしています。現代の専門化の進行が学問と文明における具体性を置き違える誤謬を促進させているとすれば、必要なのは、各専門領域に分化して増大する知識ではなく、より漠然としているが、生きるアート(art of life)を導くような「智恵」だといえるでしょう。そして、哲学スルとは、そのような知恵(wisdom:Σοφια)を希求することだと思われます。
近代の学問における「専門」性という点についての詳細なコメントを頂戴致しまして
まことに有難うございます。ご教示頂いた内容が、かなりの事柄を尽くして下さって
おりまして、もうほとんど何も付け加えるべきものが無いのですが、一点その極めて
重要な問いかけに向けて、少しばかりここに追記させて頂きたく存じます。
専門性の抱える問題については、まさに引用して頂いたホワイトヘッドの表現
「このような状態は危険を蔵している。それは軌道にはまった精神を産み出す。……ところで精神的に軌道にはまっているとは、与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮らすことである」(SMW 197. 邦訳263)
に尽くされているように思われます。この「与えられた一組の抽象的観念を眺めて暮
らす」という指摘こそ、まさしくそれ自体『永遠に「眺めて暮らす」に値する』、重要な
指摘であると思います。
今日のあらゆる理論家はそれこそ胸を張ってこの作業に勤しんでいます。この作業に
勤しみ埋没しない限り、いわゆるアカデミックポストは無いと言っても過言ではなく、そ
してそこに「具体性を置き違える誤謬」の深刻化の要因を見るというのであれば、およ
そ今日の「専門化」された学問における「結び整える仕事の低調なために生じる危険」
(SMW 197. 邦訳263)の増大は、自明かつ避けがたいものであるとしか言いようが
ありません。
ここでその「結び整える仕事」である co\"{o}rdination (2つめの o はウムラウト) と
は何か。真実の知、知恵(wisdom:Σοφια) ということと合わせて、このことは極
めて深く、問い直され続けねばならないことであると思います。これが安易に誤って
捉えられると、いっそ専門バカしかいない大学を経営の専門家に任せてはどうか、と
いうような話になりそうで、事実昨今はそうなりかけており、恐るべき話です(大学人
だから言うのではなく、「専門化」の弊害末期的症状として申し上げています)。
真実の知、知恵(wisdom:Σοφια) とは何か、というのが難しいのと同様に、真実
の「経営」とは何か、coordination とは何か、このことも永遠に問い直され続けねば
ならないことであるはずですが、そのことを怠り、それこそ安易に「専門家に投げる」と
いうことで、「結び整える仕事」さえもが、「専門」化されるとき、まさに村田康常先生の
危惧される問題「専門化された現代知識人の狭い視野から安易に1つの方向に設定
して諸活動を統合するような智恵のないコーディネートの仕方 ... 全体主義の恐怖、
機械論的な組織の恐怖の再来」が生じてくるように思われます。
そして、そう考えると、我々はこの coordination の困難さという問題から、逆に一筋の
光明を得ているようにも思われます。
つまり、「専門化」の弊害に立ち向かえるのは、専門家ではない、という示唆です。専門
家ではないというのは、素人という意味ではなく(それこそ恐怖です)、何でも良いと
いうことでもなく(それでは単なる「成り行き」になってしまいます)、それは万人が認
めるということ、万人における普遍性ということでなければならないと思います。まさに
村田康常先生も言われた「全体主義的ではなく、全体的、一般的」な知の根源、そこに
依るところのもの、ということでなければならないと思います。
村田康常先生は「生きるアート(art of life)を導くような「知恵」」という言葉を用いられ
ました。アートというのは表現として、オブジェクトとして、様々ではありますが、そこにも
「表現」という「はたらき」としての、つまりは「技芸」としての、「型」があると思います。
もちろんここでいう型というものは、その art における「自由」性と結びついておらねば
なりません。そうした「型」にはまりながらもそれに縛られないところを許容していく、そ
のような大らかさが、およそ「型」そのものの中に、その「自由」性として根源的に組み
込まれておらねばなりません。これが技芸の技芸たる所以であり、必然的に伴われる、そ
のようなものです。
学問もまた、そのような「技芸 art」としての「型」があると思います。それは「最も広い意味
での」論理とか、ホワイトヘッドであれば coherency とか呼んだものを含んでいると思い
ます。ここで、昨年5月の第一回文明と経営セミナーにおいて塩谷氏の言われた
「具体性」を間違えるのではなく、「具体性の置き場所」を間違える
のだという問題提起が思い起こされます。今回の結論と絡めれば「間違えざるを得ない」
のは具体性というよりも、具体性の「置き場所」であり、それが misplaced ということで
はないか、ということです。今回私は何度も「問う」ことの根源性ということについて言及
して参りましたが、
具体性を置くこと = 問うこと
と考えてみたいと思います。「問い」や「答え」は、それぞれ subject として、また object と
して、具体的なものとはなり得ないわけで、従ってその意味では我々は「置き違え」は必然
と諦めねばならない(通常論理の objects と subjects に依存する限り)「間違えざるを得
ない」わけですが、それでも、具体性を諦める必要は無い。それは「問う」こと、また「応える」
こと、そのような「型」の中、幾分誤解を恐れず言えばそのような「呼応」の中に、あるのか
もしれないということです。そのようなものを、学問の「主体」性、「自由」性として把握する
ことが、先の coordination の困難さという問題への一筋の光明であるように思います。
『永遠に「眺めて暮らす」に値する』具体性を諦める必要は無い、否、そこのところこそ、明
確にせねばならない(曖昧ではいけない)のではないか、ということです。そうでなければ、
「具体性の置き違え」という問題に立ち向かって行くことが、そもそも無意味(成り行くこと
=成り行き)になってしまうのではないでしょうか。
自身としては、今回「問う」ことの根源性ということに拘りましたが、おかげさまをもって、少
し見通しが出てきたような気が致しております。引き続き考えていきたいです。
今回事後のやりとりをしておりまして、鈴木先生が今年度「政治哲学」を開講され、それが
大変盛況であったと伺いました。各分野においても、専門を踏まえ、その学問を俯瞰しつつ、
更にその専門を超える形でその問いを深めていく姿勢こそ、まさに今必要とされていること
なのではないかと思われます。私などはそうは言いつつも、ついつい自身の専門に逃げて
しまうところがあり、しかしそれは上で述べたような姿勢と矛盾しており、いけないことだと、
見習わねばと反省致しております。
ご無沙汰しております。はっと気づけばもう秋で、じきに学校も始まります。
なのに10月の学会発表の準備が手につかず、焦燥の日々を送っております。
7月の白金の研究会当日、炎天下に駅から明学まで歩いて汗が止まらなくなり、
どうやらそれが熱中症の引き金を引いたらしく、体調を崩し、夏風邪を引いて
しまいました。
自分は九州男児だ、夏男だ、夏に風邪を引くようなやつは軟弱者だと信じてきた
のですが、その自信は木っ端微塵に打ち砕かれ、高熱で臥せる羽目に。
夏の風邪は冬の風邪以上に辛く、なかなか熱が下がらない。そもそも37℃の熱が
あるのは自分の体なのか、外の空気なのか。いや内も外も37℃を超えていたように
思います。結局、体調が戻るまで2週間ほど要し、そんなことが2度もあり、茫漠と
した日々を送って、ふと気づけば9月です。
朦朧とした頭で、だらだらミシェル・セールを読んでいたのです。
『パラジット――寄食者の論理』(法政大学出版局、及川馥/米山親能訳、1987年)
Michel Serres, Le Parasite, Pluriel, 2014(1980).
セールの書きぶり自体がもや〜っとしているので、もやついた夏の頭にはちょうど
良いように思ったのですが、ますます意識が遠のいただけだったように思えます。
話がやたら飛ぶし、私ごとき浅学の徒には付いて行くのがなかなか難しい。5百
ページにも満たない本なのに、やけに時間がかかり、もやもやっと読み終えました。
以下、このところずっと研究会等で問われてきた主体性の問題を、この著作を繙き
ながら取り上げ直してみたいと思います。添付するファイルは3つに分かれます。
(1)ミッシェル・セールにおける第3項排除の問題
(2)協働体としての主体
(3)寄生から共生へ
(1)はいわば総論で、思いがけず長くなりました。授業でも使おうかと思います。
(2)は村田先生へのご質問を発展させたもの、(3)は三井先生からのご質問に
私なりに応えたもので、比較的短い。後期の開講を控え、皆さまお忙しいでしょう
から、余裕のあるときに目を通して頂ければ幸いです。
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ここしばらく、当該BBSへのスパム投稿が続きまして、自動配信させて頂いている先生方には、大変ご迷惑
をおかけしております。申し訳ございません。現在は投稿禁止ワードを増やすなどして迷惑投稿の排除に
努めておりますが、あまりに続くようでしたら、抜本的な対策も考えておりますので、今しばらく様子を
見させて頂きたく、どうかよろしくお願い申し上げます。
守永先生からのご投稿には、まだざっと拝見したばかりながらも、7月の議論を更に発展させるところと
して、またその問題意識をしっかりと引き継いで継続するところとして、非常に貴重な問いを頂戴したと
思います。一方では経営学に向けて、あるいはより一層大きな視野からは、今日までの「企業文明」を越
えていくための、全ての主体に向けた問いかけとして、守永さんの言われる
「美も醜も、善も悪も、真も偽も切り離すことなく包摂せんとする営み」
として位置付けられた「愛」を、どのように我々は見出し得るか。Wisdom は、そのことに向けて答えね
ばならないと思います。そして学問は、そのことに向けてあらねばならないと思います。
先日の投稿で「ハーフなんて存在するのか?」という問いを立てて
みましたが、その直後この件を見事に解決する言葉をツイッターで
読みました。以下ご紹介しておきます。テレビなどでよく見かける、
イラン出身のサヘル・ローズさんのツイートです。
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私は純外国人ですが、昔、ふたつの国籍をもっている友人に教わった
大切なこと。ぜひ、皆様にも。
『ハーフ』ではなく『ダブル』と。
彼等は半分ではない、2つのアイデンティティーがある。だから、
半分じゃない。
9:24 - 2018年9月22日
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私たち日本人は島国という環境に縛られ、つい限界のある一定の場所
や集団を脳裏に思い描き、これを観念的に2分割し、甚だ無神経にも
「ハーフ」などという言葉を用います。
しかるに、そんな限定を外して考えれば、2つの故土、2つの国籍、
2つの民族、2つの性を持つ者は「ダブル」なのです。
違うものを分割し、排除するのではなく、分割された2つながらに
肯定する。これはベルクソンの多様体創成の理論であるとともに、
ご紹介したM・セールの第3項の包摂の理論だとも言えます。
ハーフではなく、ダブル。
イランから来て日本語を学んだ女性に、大切なことを教わりました。