浦井先生、皆さま。
先週は月曜&火曜と、何から何までお世話になりました。あらためてお礼申し上げます。
どんなに筋違いのサーブも危なげなく相手のコートに打ち返し、ラリーをつづける浦井
先生の妙技に感服することしきりです。畏怖の念すら感じました。
追加セッションでの私の発表は、一言でいえば「いかに主体を開くか」でした。議論の
過程で色々と思い当たり、気づかされる点があり、はなはだ意義深い機会となりました。
当日に頂いたコメントを反芻しながら、あらためて自分の考えをまとめ直してみようと
思い立ちました。
当日は、もっぱらバタイユと対比しつつコジェーヴにおける「歴史の終焉」の概念、
およびその独特の法理論を検討し、さらにこれをルソーと比較しました。コジェーヴの
絶対法の理論が浦井先生の理想に近いと聞いて、一同唖然としましたが、どうやらその
冷酷なまでの首尾一貫性が、浦井先生には快感らしい。
ことによると、われわれ凡人とは異なり、そもそも論理というものが浦井先生の眼には
最初からゆるゆるに映っているのかも知れません。絶対法の存在が一向に苦にならない
のかも?それが超ゆるゆるに感じられるのかも?という疑念を持つに至りました。論理
を論理で解体しつつ、かぎりなくゆるゆるの境地をめざす。このように理解するなら、
ゲーデルの不完全性定理が浦井先生の方法論に占める重要性が解るような気がします
(解らないような気も……)。
書いているうちに先日とはまた異なる考えが浮かび、ぐだぐだになってしまいましたが、
いちおうセミナーでの討議を盛り込んだ内容になっています。なにかの参考にして頂け
たら幸甚です。
例によって長くなりましたので、貼付ファイルで失礼致します。
[添付]: 54393 bytes
このGWにようやく仕上げることができました。この遅延ならびに、些か
長々としたものになってしまいましたこと、お詫び申し上げます。
守永先生、三月十八日のセミナーならびにその翌日の追加セッションを踏
まえてのご投稿、まことに有難うございます。また、葛城先生には改めて、
今回のセミナー「無知と富」という形での問題提起に御礼申し上げます。
このテーマを軸として、方法論研究会における過去数年来の議論が大変見
通しの良い方向にまとまりつつあり、また私個人としても、永年の課題で
もあった「学問的立場とは何か」ということについて、その核心に近付い
た手応えがあり、大変有難く感じております。
今回守永先生にまとめて頂いた内容、塩谷先生から提起して頂いた「自己
という名詞とその機能」というヒント、そして先日四月にもまた阪大での
研究会を重ねまして、葛城先生のご報告の本筋要旨と合わせ、私としては
一連の議論を(とりあえず暫定的にではありますが)以下の (1)--(5) の
ようにまとめてみました。引き続き改善していく所存ですが、まずは内容
を共有して頂ければ(特に (1) について)、また不十分なところご教示
頂ければ幸いです。
(1)「遊び」と「真剣」そして「無知」について
村田康常氏と守永氏の遊びと真剣、葛城氏の「無知」、福井氏「豊穣性」、
竹内氏「近代合理性とアステカの聖性」の視点との関連を踏まえ、葛城
氏のお話の本筋をまず整理します。その下で、やはり問題は、極限敵に
「遊び」と「真剣」というテーマに帰着するということについて説明致し
ます。特に葛城氏のスタンスと最も強調したいところに、当日は全体の
議論が十分に至らなかった点がありました。これについては、竹内先生
のご指摘、長久先生の当日レジュメ「「無知」なのは…研究者とも読める
のでは?」とのご指摘、そして鈴木先生からの数学を代表とするような、
いわば「(本当の)科学的な知」ということについてのコメントが、深く
関わると私には思われます。
(2)極限における「真剣」
遊びよりも真剣が大事と言えるのはどのような根拠においてか。先の三月、
2日目の議論を報告します。
(3)極限における「遊び」
それでもなお、残ってくる遊びの重要性とは何か。村田晴夫氏における
真善美の究極的な一致という考え方と、塩谷氏からのアドバイスである
「自己という名詞の機能化」をヒントにして考えます。
(4)極限における「遊び」と「真剣」の一致
以上の帰結としての最も重要な遊びと、最も重要な真剣とは、どのよう
に調和するのか、という話です。
(5)「学問」の立場
上記の内容と、「真の学問」と「真の宗教」について、そして再度葛城
氏の「無知と富」の理論、その方法論、可能性について探ります。
以上の内容、かなり長くなってしまいましたので、PDF ファイルにて添付
させて頂きます。
[添付]: 375373 bytes
ご無沙汰しております。あっという間に梅雨入りしてしまいました。
ご返事が遅れ、相済みません。それなりに纏まった応答をせねばと
思いつつも、なかなか手がつかず、すっかり間が空いてしまいました。
というのも、思いがけず5月半ばに時ならぬインフルエンザにかかり、
咳が止まらず、数週間ほど調子を崩しておりました。6月に入って、
ようやく体調は好転したものの、今度は暑くなって……
書き足すにつれ、はなはだ長くなって恐縮です。さすがに7月に入り、
これ以上引き伸ばすわけには参りません。意を尽くさぬ部分は気に
なるものの、このまま掲示板に貼り付けさせて頂きます。
(1)中途半端な主体のために
(2)悲願の哲学――西田幾多郎を読む
(参考)弁証法を超えて
上記3つの論考がありますが、まず(1)から。
[添付]: 52106 bytes
返信が遅れたのも久しぶりに西田を読んでいたせいで、あまりに晦渋な
行文を読むにつけ、どんどん頭が悪くなって行くようでした……
とまれ、この哲学者にいまだ声望の衰えぬ理由が多少なりと理解できる
ような気がしてきました。
[添付]: 43999 bytes
たしか数年前に浦井先生に送った私信で、この掲示板にアップはして
いなかったように思います。
西田幾多郎との関わりで、参考までに挙げておきます。
[添付]: 19428 bytes
多くのお時間を割いていただきましたことに、感謝申し上げるばかりです。
言うまでもなく、哲学を専門としておられる先生方の間で様々にご意見一致し得ないところ
に向け、当方の下手な全体的調和感を(一方的解釈ではないと)強要するつもりも、またそ
のような力も持ち合わせておりませんので、種々ご批判大変有難く思っております。
未だ十分に時間が取れず、頂戴した原稿にざっと目を通させていただいたばかりで恐縮では
あるのですが、何点が気付いたところ、以下に述べさせて頂きます。これは、いくつか誤解
と(当方には)思しきところにつきまして、部分的にでも、解いて頂ければと願ったところ
のものです。色々とご意見頂いたことの全体、詳細にはなかなか及ばず申し訳ないのですが、
引き続き勉強させて頂きたく思っておりますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
1.「緩い論理」
私の申し上げたい「緩い論理」とは、「広い方法」といいましょうか。いわば私と守永さん
の間で、もちろん細部の相違はあるでしょうし、一致できないところは多々あるでしょうが、
その方向性、まだ見えない理想、未来への希望、そういった何かまだ「開いたまま」のもの
に向けて、互いに共振が可能となる、そのような「一層幅広い枠組み」を指しております。
「学問」は、そうした「広い方法」の中にあるのでなければならず、そうした「広い方法」
をその営みの中で「どこまでも創り上げていく」、それこそが、学問の自由であり、学問と
いう営みであり、その最も根源的な姿ではないかと、そのような意味で、この言葉を用いて
おります。
2.「問う」ことと「働きかける」こと
私の言葉の用い方で、とりわけ「学問」ということにおいて「問う」という言葉の持つ印象
から、何かしら学問をする主体において「閉じた」、そのような印象でこの「問う」という
言葉が捉えられているように見受けられます。そのような意味ではなく、ここで問うという
のは、呼応の呼であり、応ずるものに向け、常に広く開かれております。世に「問う」とい
うことです。それは、まさしく世に「働きかける」ことであり、「呼応」ということにおい
て「呼びかける」こと、それは「働きかける」ことと、私はほぼ同義に用いております。
3.「極限」と「幸福」について
究極的、極限的なものがあるのかないのか、あるいは、現実にそれを手にする日が来るのか、
絶対に来ないのかということと、そうした究極的、極限的なものに向けて「期待」できると
いうこと、「期待」するということを、分けて考えた方が良いと、あらかじめ申し上げた方
が良かったかもしれません。もちろん、現実に絶対に手にすることができないものを「期待」
するというのは、(表面的命題としての)論理矛盾ではあります。主体が自己の、そうした
命題的レベルにすぎない論理にどこまでも執着するならば、そこには絶望しかないわけです。
けれどもそのような絶望を超えて、「期待」「できる」ことが「喜び」につながる、それを
本当の意味での幸福と考えるべきではないか、ということです。そのような営みにおいては、
私達には何かしら諦めなければならないものが出てくると思います。言葉の上だけの話では
なく、実際にそれが可能となるために、愛という問題が、あるいは悲願が、関わるはずです。
(そういう命題レベルの矛盾を強調しつつ、その先の意義を表現するために「即非の論理」、
「絶対矛盾的自己同一」といった表現が、通常西田などでは用いられると言うべきかと思い
ますが、実際そうした言葉だけ眺めていても、西田や大拙は良くても、他の人は困るので、
どうしようもないので、そのような言葉と、その先の意義の間をとりもつものが必要になり
ますから、それを指して菩薩とか、中間的なもの、中途半端なもの、そういったものの大切
さが強調されるべきという話であるならば、当方も同意です。)
以上です。また近々、お会いしてお話できる機会があればと願っております。取り急ぎ。
早速の応答、まことにありがとうございます。以下、若干のコメントを
付させて頂きます。むろん先の論考の意図は浦井先生を批判しようとか、
責めようとか、イジメようとか、そんなことにはありません。
先生の投稿がかなりまとまった形で「極限」の問題に触れ、西田幾多郎
の名を出して学問と宗教の一致とか、真・善・美の一致を論じていたため、
どうしても反応せざるを得なかった、という側面があります。
というのも極限とはベルクソンにおいて「純粋持続」に他ならず、それ
は果たして1か多か、というドゥルーズが定式化した重要な問題がひとつ
あります。
また純粋持続の境地に私たちが達し得るや否や、あるいは達したと潜称し
得るや否やというのはバタイユが苦しみ抜いた問題でした。
というわけで、この問題系は私ども哲学関係者の琴線に触れる、というか
場合によっては「逆鱗」にすら触れるところがあります。
私自身はこの件について自らの哲学的見解を確立するのに半生を費やした
と言っても決して過言ではない。当然ながら自らの持論にかなりの自信を
持っている。ゆえに一言コメントするつもりが、書き始めるや色々と想念
が湧き起こり、法外に長々と書く羽目に陥りました。途中で、西田を読み
返したのもまずかった......
>何かまだ「開いたまま」のものに向けて、互いに共振が可能となる、
>そのような「一層幅広い枠組み」を指しております。
ここらのことは重々承知の上でして、どちらが「ゆるゆる」かは言わば
冗談のごときものです。ただその「広い枠組み」が、西田的な意味での
《1》に収斂されてしまうなら極めてまずい、という老婆心が働いたと
いう次第。
>「どこまでも創り上げていく」それこそが学問の自由であり、学問と
>いう営みであり、その最も根源的な姿ではないか
先の投稿では「どこまでも創り上げていくこと」と「どこまでも問うこと」
の違いを詳述しました。両者の差違と懸隔を鋭く意識し続けるのは肝要か
と思います。何ごとであれ、頭から否定するのは忌むべきですが、内実の
異なるものを区別し、差異化するのは知性の役割です。
>ここで問うというのは呼応の呼であり、応ずるものに向け、常に広く
>開かれております。世に「問う」ということです。それはまさしく世に
>「働きかける」ことであり、「呼応」ということにおいて「呼びかける」
>こと、それは「働きかける」ことと、私はほぼ同義に用いております。
若干誤解を与えるような書き方をしてしまったかも知れません。と申し
ますのも、こうした哲学的な文脈で「問い」の言葉を耳にすると、瞬時に
ハイデガーの「存在への問い」が念頭に浮かび、自動的に反論を始めて
しまう悪い癖が私にはあるようなのです。
いわばゴルゴ13が後ろに誰かの気配を感じるや否や、いきなりパンチを
繰出すような自動反応です。同様の反応は「否定」という言葉を耳にした
際にも生じます。
ただ繰返し申すなら、問うこと、創ること、働くこと、働きかけること、
ひいては呼びかけることは、それぞれ内実を異にする。べつだん哲学的に
ではなくとも、区別するのは大事かと思います。
>絶望を超えて「期待」「できる」ことが「喜び」につながる、それを本当
>の意味での幸福と考えるべきではないか。そのような営みにおいては私達
>には何かしら諦めなければならないものが出てくると思います。言葉の上
>だけの話ではなく、実際にそれが可能となるために、愛という問題が、
>あるいは悲願が関わるはずです。
なるほど幸福について考えるには何かしら「あきらめること」すなわち断念
が深く関わってくるに違いない。これを「犠牲」と言ってもいいでしょう。
西田の悲願には、そうした悲哀を介して大歓喜に至るようなダイナミズムが
ない。いちばん肝心な場所に弁証法がない。
歓喜への弁証法はさておき、一般的に言って欲望の断念として幸福があるの
は事実でしょう。また欲望とは異なるものとして「期待」はあるはずです。
その時の断念は(ブランショが説くように)忘却と関わることになりそう
です。それは時間という軸から考えねばならない。
とまれ、これらの問題はあまりに大きく、人により信ずるところも違うので、
軽々に論ずべきではないかも知れません。具体的な文脈に即した議論が必要
でしょう。
またいずれ、あらためて。
万人にとって、生涯かけて悔いの無いテーマですね。西田にその肝心
の弁証法が「ない」のか、ぽっかり大口を開けて、まさしくそこが開
かれた形で、むしろありありと指示されていると言うべきなのか、私
の感覚としては何とも言えないのですが…
ただ、そうしたダイナミズムのための鍵が、少なくともどこに「ない」
かということは、今や幾分明らかになっているのではないかと、その
ように思います。
まずそれは、唯物論的な左翼の考え方(これはその唯物論的な論理の
限界という意味で)にも、排他主義的な右翼の考え方(これは他に開
かれた受け入れを拒否するというダイナミズムの消失において)にも、
ないということが、明らかです。
今日社会における閉塞感は、既にそのようなところに顕著に見られる
ように思われます。今日の社会には様々な意味での分断が行き渡って
おります。産業化は分断です。我々が本来は信用(純粋にその言葉の
ままに)をもってなすべきところを、契約とその履行、処罰を持って
置き換えます。学問においては専門性もまた分断です。政治における
代議制も分断であり、司法、立方、行政も分断です。そもそも分業は
分断であり、コトバは分断であり、概念は分断です。その上では真偽
二値の論理もまた分断に加担する役割しか果たしません。分断された
我々は、それぞれのモードの中で閉じた話しかできなくなり、そして
分断された中で、単純な指標、カネ、数値化された目標、等々で評価
され、また競い合います。管理する側とされる側の分離、経営学とい
うことの本流もまた、そのような分断を乗り越えて、いかに「組織」
が成り行くものとして、その活動を維持すべきかということにあると
聞き及びます。
閉じたモードでのうわべの同調ではなく、真の意味で協調すること、
協和し共振し調和すること。閉じた世界の中ではそれができません。
そこには評価が無いからです。評価されないと、何もできません。自
らを包むモードに依拠し、そのモードの外に身を置くということを、
ほぼ「倫理的」とも言える感覚で、忌避することになります。これが
「人間」主義ということが、現状規範に依拠せざるを得ないことを通
じて、いわば「近代」における深層部で生ずる、弊害というべきでは
ないかと思われます。
個々の人々が、真の意味での協調、協働。協和し、共振し、調和する
ということ。それこそが今日最も求められていることではないかと思
います。そのためには、具体的には、肯定否定の二値にのみ囚われた
主語的な論理からの脱却。そして種々可能性を留保すること。それは、
取りも直さず、一つの、極限における遊びでもあり、宙ぶらりんを楽
しむということではないかと思います。そして、そのような「緩やか」
な論理の場こそ、中途半端な主体の活躍の場と言うべきなのではない
かと、そのように思います。その上でなお、我々は「論理」すなわち
「学問の方法」について、論ずるべきであろうかと、そのように考え
ております。