************************************************************ ●山水経 東洋的なモラル、我々がどのように生きていこうとしているか、そ のことが西欧的な「合理性」という概念からきわめてかけはなれて いるとしたら、経済学は今日何をなすべきなのだろう。 そもそも合理的なものの考え方というのを分かっていないのは悪い ことだから、少し無理をしてでもその何たるかを教育してやるべき だろうか。あるいはその非合理的な思考に特有の動物的習性でも調 査して、パラメター化でもしてやるのがよいか。 表現としては悪いが、まさしくそうした見解は、今日的な経済学の 正論の一端を形成しているように思われる。一方、あくまでも合理 性にしがみつきながら非合理性を処理しようとするとき、日本人と しての我々はいつも大切な何かを捨ててしまったような後ろめたさ を感じ、言い訳じみたものにすがりついているかのような感覚にも とらわれてしまう。我々が本当の意味で合理的であろうと欲し、そ れを追い求めようと考えれば考える程、その行く先には実のところ 東洋的な知が超然と横たわっているのではないか。どうにも私には そんなふうに思えて仕方がない。それは単に私が東洋人だからだろ うか。 ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で「語りうることを 明晰に描出することによって、語りえぬことを指し示す(4.115)」 と述べるとき、そして「いわば、梯子をのぼり切った者は、それを 投げ捨てなければならない(6.54)」と述べる時、明らかにそれら は、我々がその表層意識の下で言語を持ってとらえる事のできる知 を超えた、究極的な知の重要性について述べている。あるいはクワ インが経験主義の2つのドグマとして攻撃した、「分析と綜合の明 瞭な区分」を危うくする「認識論上の価値判断」という問題(例え ば分析的という概念それ自体が明晰に語り得ないという問題 ---パ トナムが epistemic values と呼んだもの)もまたそういう知の1 つである。人間精神にとって、「語り得ない」タイプ(その周辺と いう意味を含めて)の知がいかに重要かという問題は、より明確な 数学的命題の範囲に置いてさえ存在する。その代表例はゲーデルの 不完全性定理(公理系がそれ自らの整合性の証明という問題を解決 し得ないという問題)であり、ゲーデル以降はそうした問題を単純 に形而上学的と分類することさえ、許されなくなった。勿論そうで なくとも、そういう問題意識を持たないような精神が、すでに人間 精神と呼ばれるものでないことは、むしろ明白な事実と言うべきで あろう。 こうした語り得ぬ知、知を乗り越えた知とでもいうべきものが、人 間精神にとって最も重要な真の知であるという考え方は、明らかに 古くから東洋のものである。 『荘子』の雑篇、庚桑楚篇に「学ぶ者は、其の学ぶ能わざる所を学 ぶ。行う者は、その行う能わざる所を行う。弁ずる者は、その弁ず る能わざるところを弁ず。知は其の知る能わざる所に止まれば、至 れり」とある。学ぶというのは本来その学ぶことのできないところ の何たるかをまさに学ぶのであり、それが実は最高の知なのだとい うことである。斉物論篇では「夫れ道は未だ始めより封あらず(道 というものはそもそも無限定なものであり)、言は未だ始めより常 あらず(言語というものはその意味が一定しない)。… 分かつと は分かたざるあり(分類するというのは分類できないものを残すこ とであり)、弁ずるとは、弁ぜざるあり(区別するとは、区別でき ないものを残すことである)。… 故に、知は其の知らざるところ に止まれば、至れり」である。 言葉や意識下の知識というものが、道、すなわち最も重要な世界の 本質をとらえる上で完全ではないこと、そしてその役割を限界とし てきちんと把握すべきことが、東洋では古来から最も重要視されて きたことであった。よって「言は意を在るる所以なり(言葉は意味 本質をとらえるためのものである)。意を持って言を忘る(意味が 得られたなら、言葉は捨ててしまって良い)。」(外物篇第十三) ということになる。道とは、まさしく東洋的な人間精神(モラル) の真髄であるが、そこに至るに大切なのは(ウィトゲンシュタイン 流に言えば)梯子をのりこえてしまって、後は捨て去ることなので ある。心が心に還らないで、言(知識)に頼って外に向かって行く ことが危うい「心の殉に於けるや殆うし」(徐無鬼篇第二十四) というのである。 老荘的に述べられる道が、仏道、禅に至ればまた一層深遠なものと なる。そこでは、単に心が外に向かう危うさの指摘にとどまらず、 いかになすべきかという実践が問われてくる。理会(りうい:理を もって会得すること)は決して放棄されない。理会の実践「理会路」 を重視するがゆえに、個々の分別知が単なる一偏見にすぎないもの として批判されるのである。道元の『正法眼蔵』山水経に、有名な 「水の水をみる参学」というのがある。先の言葉で「心が心に還る」 とはどういうことかを述べたものである。我々からみれば水は流れ る対象物であり、川であり、海であって、宮殿でも無ければ大気で もない。しかし魚の立場で見れば、それは我々の宮殿にもなれば大 気にもなる。様々な立場があれば、それに応じて様々な水への見方 があり、それは一定しない。しかし様々な立場が様々に水をみると しても、究極的には水が水の立場でもって水をみるということには 及ばないというのである。水の立場や言葉(そんなものがあるとす れば)でもって水自身を語るという場合、それは水が自らの由でも って自らをみる(これが「自由」という言葉の本当の意味である) ということであり、そのとき本来のもち前としての水の何たるかが はじめて現成するのだという。ゲーデルの定理はさしずめ「論理が 論理をみる」とき、はじめて論理が「自由」を得てその真の姿を見 せた、というところであろうか。このように、東洋的概念の「自由」 とは、単に制約が無いということではない。自らの由でもって、自 らの真の姿をこの世界に現すということなのである。 我々経済学者は「理会」をもって「人の人をみるの参学」たる社会 科学に身を投じていると考えられるが、この時、はたしてどれほど この本来の「自由」から、従って真の人間精神(モラル)から、遠 ざかってしまったと言うべきなのだろう。今日、経済学にモラルが 欠如していると言われるが、それはまさしくこの意味、「自由」の 喪失、においてと言うべきなのである。はたしてこのことを、どれ だけ我々は自覚し、自問して来ただろうか。人間精神とはいかなる 目的関数の最大化でもない。限られた意味での合理性はもとより、 例えばそれに対して、習性とでも呼ぶべき不合理性など、多少なり と取り込んで形を整えたりしたところで、本質的にはいかなる問題 解決にもなってはいないと、そういうことなのである。それは本質 的に「自由」であり、活動であり、構築であり、強いて言えばその 方法であり、運行そのものなのである。 「青山常運歩」禅では山でさえもが歩くということになっている。 山水経に道元曰く。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもい まだしらざるなり、と。 (2006.2.28 Ken URAI)--- 2007.11.24 ************************************************************