************************************************************ 趙州至道無難(じょうしゅうしどうぶなん)  中国、北宋時代に編纂・加筆された『碧巌録』という禅の教科書 中の話。  趙州という名高い禅僧が聴衆に向けて云く、 「悟りに至る道というのは、難しいものではない。唯だ揀択(けんじゃく :比較選択の分別)というのが良くない。語言をもって何かをとら えたとすればそれは即ち揀択に他ならず、それ自体また明白な概念 対象となり、更なる揀択の対象となって、人はそれにとらわれてし まう。優れた僧はそういった明白さの裏(うち)に安住したりはし ない。そのようなものを後生大事にしているようではいけない。」 ここに一人の僧が出て来て問う。 「明白さの裏には存在していないような、いったい何ものを大事に できるというのか。」 これはするどい質問であるが、趙州ためらわず、 「我も亦た知らず」 と答える。僧は更に問う、 「知らずして、どうして『明白さの裏に在らず』などと言えるのか。」 先程にも増してよい一拶であるが、趙州答えて云く、 「その質問は大変上出来である。礼拝して退がってよろしい。」  あれこれ言語を弄して知識に頼ったところで、人間にとって生き るために最も大切な真理へと到達することはできまい。日本人の中 にかなり広く、そういった心理が根付いているように思う。私自身、 根拠云々はさておき、そういう考え方の方がそもそも好きだし、昔 から漠然と、きっと本当はそうに違いないと思っている。しかしな がら、社会科学という分野に研究の身を置くものとして、この考え 方は下手をすると自己否定になりかねない。さわらぬ神に... と思 いながらも、どうもこのところ「この問題は『好き嫌い』で横に置 いておける類のものでも無いのでは」という気がしはじめている。  分析哲学の大家ヒラリー・パトナム氏のごく最近の著作に The Collapse of the Fact/Value Dichotomy and Other Essays というのがある。 これは表題のまま、事実判断と価値判断の2分法(それらを明確に 分かつ基準のようなものが有り得るのか)という問題である。この 問いが重要であるのは、それが(学問の明らかにすべき)「事実と は一体何であるのか」、ひいては我々が「何に基づいて何を明らか にしようとしているのか」という問題に他ならないからである。 かつて論理実証主義という立場は、分析的判断(トートロジー)に 基づいてなされる事実への判断という形でこの問題を位置付け、そ れに対するクワインの批判『経験主義の2つのドグマ』によって、 20世紀の哲学は大きく揺れ動いた。クワインの批判の一つは、 「分析性とは何であるか」ということに関する、究極的に価値判断 に他ならないものが、いずれどこかの過程において(根拠なき信念 として)入り込まざるを得ない、というものである。分析性という 概念そのものに入り込む上記の価値は、分析性の下でなされる事実 判断に対する価値の介入を、従ってクワインの分析/綜合的という 2分法への批判は、同時に事実/価値判断の2分法への批判を意味 することになる。  今日の経済学の研究者が、社会科学という言葉を用いるとき、そ れは人間の何たるかについて、「語言」を用い「明白」さに訴え、 語ることを(おそらく普通は)意味していよう。実はこのとき、大 変困ったことが2つ、必然的に生じているように思われる。第1は、 描かれた人間と描いている人間が必然的に異なっているという問題 である。直感的に言えば、描いている我々というのは常に描かれて いる我々よりも、(記述されるとすれば)構造的に1段階超越した 階層に位置しており、そのギャップは我々が言語を用いて厳密な議 論を行う限り、無くならないという事である。第2は、何かを決め て行くための価値判断と、決められ叙述された価値とが必然的に異 なるという問題である。直感的に述べれば、社会を叙述する問題に おいて価値判断そのものが叙述の対象とされたとき、その価値判断 自体が一つの概念対象となり、再びその価値判断の対象とならざる を得ないことから、価値判断と事実判断の境界が宿命的に明確たり 得ないという問題である。  第1の問題は、合理的な主体または社会科学におけるミクロ的基礎 づけという概念(方法論的個人主義)を否定し、第2の問題は事実 に対する判断を下す学問的立場(論理実証主義的立場)を危うくす る。もちろんそれらが「方法論上の思想として」語られるのは目新 しいことではない。それが「好き嫌い」の問題であれば、横に置い てやっていけば良い。しかしながら、それが「数理経済学的結論と して」出て来るとすれば、話は全く別である。まさしく「揀択」を もって「明白さ」のうちにもとめようとする限り、人間とは何か、 いかにあるべきかという答への到達は有り得ない、すなわち「至道、 唯だ揀択を嫌う」は、全く論理的、数学的命題なのである。  先のパトナムに話を戻すと、興味深いことに彼は事実/価値2分法 の崩壊という問題を、とりわけ経済学との関わりで論じている。彼 が引きあいに出すのが Ethics and Economics をはじめとするアマルティア・セン の著作および主張である。パトナムの興味はそもそも2分法の崩壊 よりも、崩壊を前提とした上でその2概念の違いを現実の中で生か すということにある。従って、センのように、規範的立場と事実に 対する記述的立場が互いに独立ではないことを前提にして、倫理学、 規範的経済学等をとりこんだ主体の記述的分析といった中に学問的 発展を見出そうとする主張には、強く共感を覚えるのかもしれない。  個人の合理性についての功利主義的な立場からの脱却と事実判断と 価値判断についての見直しを与えようとするセンのプログラムに限 らず、社会を叙述する試みは、今後ますます質的な多様性を帯びて くるだろう。しかしながら、そういったありとあらゆる試みにおい ても、それらが「明白さ」の裏の「揀択」に他ならないという事実 は、常に忘れるべきで無いように思う。「至道」が「難きこと無し」 かどうかは知らないが、「唯だ、揀択を嫌う」はZF相対的に真で あり、社会を言語で語る限り避けることのできない問題なのである。 「明白さの裏には存在していないような、何ものを大事にせよと言 うのか。」 圜悟克勤(えんごこくごん)の著語(じゃくご:短評)。至道難き こと無し、(難に非ず、易に非ず。) (2002.12.7 Ken URAI) --- 2007.11.26 *************************************************************