************************************************************ ●『倶胝(ぐてい)、指を竪(た)てる』 「倶胝一指頭の禅」、これは禅の公案集として名高い『無門関』に も『碧巌録』にもとりあげられている有名な話。昔、唐時代の禅者 に倶胝和尚という方がおられた。この方はおよそ禅の詰問(きびし い質問)にあっては、常々それに応ずることただ指を一本立てるの みであったのだが、それでいて、誰もなかなかこれを打ち破ること ができなかったという。この倶胝和尚のところに童子がいた。ある とき外で「こちらの和尚はいかにして仏の教えを説いておいでか」 と問われたもので、この童子は和尚を真似て指を一本立てて見せた。 帰ってこれを師に話すと、倶胝は刀でもってその童子の指を切り落 としてしまった。叫び声をあげてそこから走り去ろうとする童子。 その時、倶胝が一声「おい」と童子を呼びとめる。思わずそちらを 振り向く童子。と、すかさず倶胝は指を一本すっと立てて見せた。 童子はそのとたんに領悟した(深遠なる悟りをはたと得てしまった) とのこと。 時折この話を学生にすると、まず大抵は狐につままれたような反応 である。指一本で悟るとか何やら人を馬鹿にしたような話であると、 そういった感想を頂戴する。まあ多かれ少なかれこの手の話は雲を つかませるようなところがあってそれでなんぼであるから、しばし 我慢をしてくれと、ところで自分はこう思うのだがと重ねて問いを 続ければ、そのうち何かしら意を得た感のある表情を、いくらか引 き出すことができる。「指一本で悟るというのがとんでもない話と いうならば、それでは指何本ならば、納得するか。」 私の恩師が、よく次のようなことを言っておられた。「需要曲線と 供給曲線、2本あれば何でも言えるのに、何を面倒な道具を次々に 持ち出す必要があろうか」と。「一指頭」ならぬ「2本線」である。 もう十年は前の話になるけどれも、当時そういった話をそれほど違 和感なく伺いながら、同時に自分の頭の中ではそれと全く逆のこと を考えていたような気がする。ある道具で足りなければ次の道具を、 それでも足りなければまた次の道具を、そうやって作り続けていく ことに何の問題があろうか。否、問題があるどころか、そういう絶 え間ない構築と、結果の蓄積ということを除いて、いかなる意味に おいても学問の進展など有り得ないのではないか。もちろんこれは、 実のところ「学問の進展」なる言葉の定義それ次第の問題でもある。 極端な話「学問の進展」というのがそういう蓄積であると認めつつ、 同時に「学問の進展」には意味が無い、と言い切ることだって可能 なのであるから、実はその違いは言葉の上に見えるほど隔たりを持 つものでは無かったのかもしれない。問題は「学問とは何であるの か」ではなく「学問の意義」そのものにある。その意味で、自分は 恩師の言葉をかなり真摯に受け取っていたように思う。 何もこれは「高校生でも知っている需要曲線と供給曲線の話をした だけでそれで経済学は十分だ」とか、「部分均衡分析だけで一般均 衡などは必要ない」とか、そういう話では全くない。例えばケイン ズの一般理論は、供給側の企業家の決意の状態を、いわゆる45度 線議論に見る形に、いわば『不動点的に』反映させて、有効需要 C+I つまりは需要曲線1本で社会状態を記述するのであるから、つ まりは「2本線」どころか「1本線」の経済学、「一指頭」の一般 均衡理論である。需要曲線と供給曲線、2本あれば何でも言えると いうのは、現在にして未だ自分にはいくらか遠い境地ではあるけれ ども、決して誇張でも何でもなく、常々心に置くべき戒めであると 思っている。 数学は今日、その「厳密な言語」という特徴をもって、経済学理論 と言わず学問全体における非常に強力かつ重要な道具となっている。 代数的手法、位相的手法、そして微分的手法にせよ、確率論的手法 にせよ、それらは厳密な立場からその公理的基礎を持つ道具であり、 また同時に我々が世界を見るための一つの重要な視点を与えるもの ですらある。しかしこうした道具が果たして我々にとって、とある 学問的議論を行うにあたっての「最小の道具」、いわば「一指頭」 と言うべきものとして整えられ、用いられて来たかというと、少な くともそういう意図を持って眺められて来たものであるかというこ とさえ含めて、かなり疑わしいと言わざるを得ない。もちろん理論 というのが定理の蓄積であり、理論の発展というのがそうした言語 的所産の蓄積であるという一面を否定する気持ちは全く無い。しか しそうした蓄積がある程度無条件に価値を持ち得るのは、あくまで (まず当初に深めるべき価値の見出された)「一つの体系化された 理論」に関して限定的に述べられた場合なのであって、次々に生み 出され、立場の異なる新しい理論・理屈の総体が、それこそ無条件 に持ち得るいわば学問的特権的地位のようなものが存在するという ような、そういう話ではないと思う。単に「指一本」を「指十本」 「百本」にしたところで、そのこと「だけ」に頼って「学問の意義」 を見出すことは困難である。 ここで再度明らかにしておきたいが、今話をしているのは、学問と は何であるか、何であるべきか、という問題ではなく、学問の意義、 その社会的意義という問題である。倶胝和尚は臨終に際し「自分は 天竜和尚より一指頭の禅を得たのだが、一生かかってもそれを用い 尽くすことはできなかった」と言い、指を竪てて息をひきとる。 「一指頭」にすぎぬ道具を、それでも「用い尽きない」というとき の「用いる」ということの意味である。加えて誤解無きよう言って おくが、ここでは「用いる」と言っているけれども、それによって 自分は「純粋理論」と「応用理論」の話をしているのでは全くない。 我々研究者が、「学問をもって生きる」というレベルの話を、学問 の意義と絡めて述べているのである。この段階では、いわゆる純粋 理論と応用理論の区別など大した差異ではない。更にもう一つ付け 加えれば、自分は世にあふれかえる道具を批判しているのでさえな い。批判しているものがあるとすれば、それは「単純に道具を増大 させることによって世界の真実に漸近する」という「信仰」である。 そしてその「信仰」無くしては学問の意義を見出せないという極端 の考え方である。 「学問」をもって我々が「生きて」いるという事。その我々の「生 きている世界」が、我々の本当の世界であるということ。その事実 の前には、倶胝の「一指頭」と学問的「最小の道具」に本質的な違 いは存在しないと思う。現実社会、そこでは我々が生き様を実現し、 時に悔やみ、時に潔く、真実のあるべき姿を求めているのであり、 社会科学はそのような真実を学問的真理として把握することを目指 しているものだからである。倶胝が絶妙なる機をとらえ指を竪て、 童子が自らの思いもよらぬ事態と他から計り知れないところに基づ きながら、そこに悟りを見出す。学問が「真実なるものを有ると信 じて」それを追求しその行いを全うすることと、学問的に真実が、 実際に学問的真理として得られる(得られている)こととは、実は 何の関係も無く、また関係ある必要も無いのである。突き立てられ た指一本は世の真実でも何でもない。それは真実を「指し示して」 いるかもしれないが、それ自体が世の真実のその「意味」をそのう ちに持っているものでは無い。学問とはそういうものであっていい のではないか。否、学問とはそういうものに他ならないのではない か。学問どころではない。そもそも言語とは、そういうものなので はないか。そして社会科学にとって数学的真理とは、学問的真理と は、本当にそこにある真実という意味ではなく、本来はとらえよう のない真実を「指し示す」ための、倶胝の「一指頭」と本質的に異 なるものでは有り得ないのではないか。少なくともそういう考え方 が、経済学という学問の社会的意義を低めるものになるとは私には 「全く」思われないし、またそれによって低められると思われる何 らかの価値があるとすれば、まずその価値の方を疑ってみるべきな のではないかと思うのである。 『無門関』の編者、無門慧開(むもんえかい)は言う。「倶胝なら びに童子の悟処、指頭上には在らず。」 (2007.10.31 --- 2007.11.24 Ken URAI) ************************************************************