今年度は各回のゼミの内容を、このBBSの方でまとめていきたいと思います。
まずは、4月の第二回目から、5月の中旬まで:
● 4月16日(脇山さん:中国のAI嫁のテーマ)
ゼミは脇山さんによる AI の話でした。まずそのソースは何か(中国共産党
に向けた政治的批判のバイアスが提供側のメディアにありそうな話でした)、
人間存在を道具化して良いのか(AIロボットに嫁の役割をさせるという話に
おいて)とか(もちろん悪いに決まっているのですが良い悪い以前の問題が
あるのもまた事実で…)、労働の役割を代替するだけなら、むしろ良い面も
あるのではとか、では真の幸福とか真の知とは何かとか、その意味で Singularity
とは何か、果てには生命倫理の話などにも結構立ち入ることとなり、それな
りに充実した議論であったような気もします。ただ、経済学方向からの視点
が若干物足りなかったかという気もします。市場の役割、産業の役割という
ものが、若干出たのですが(労働の代替ということならそこに産業が入って
も問題無さそうな話でしかないので)あまり踏み込めなかったですね。産業
が人間を滅ぼす、という話の典型にも成り得るはずですが。
加えて言うと、我々は常に根本から間違っている可能性を捨象できません。
ですから、今一度、人間の幸福とは何か、性とは何か、といったことを問い
直すことは重要であり、そこに産業あるいは企業(今日の文明)ということ
をひとつながりのものとして、考える視点は必要だったかと思われます。
出席者は私と、小林くん、村上さん、森井先生、田中さんで、学部生は新井
くん、古川くん、脇山君と、新三回生の小東さん、池田さんの5名でした。
今年度はこれがマックスかもしれません。しかし医療系のスペシャリストが
2名も入る極めて豪華な布陣ですので、単なるディスカッションに終わらせ
ず、このゼミ活動をきっかけとして、何か特別な展開を持つような、今後に
つながるようなものに、したいと思っています。
● 4月23日(古川さん:長崎大の喫煙者不採用問題)
この日のゼミは、古川くんが、喫煙者を教職員として採用しない長崎大学の
方針についての記事を持ってきてくれました。まずタバコの健康被害につい
ての医学的根拠、活性酸素と抗酸化作用の問題、何か悪い原因を無くせるの
なら無くしていくのが望ましいとしても、そのための戦略として強いて悪者
を作り出し、空気によって社会から排除していくということの是非、その怖
さ(メディアを通したプロパガンダ、あるいは目眩し?)。加えて嗜好品と
してのタバコを愛する個人の権利、そして何事も「ゼロにする」(あるいは
「出来ることからする」)といったことを目的化した場合に生ずるトレード
オフ(できないことも必ず残るわけなので)といった議論が出たように思い
ます。
特に最後の点(このような問題におけるトレードオフについて)は、ここし
ばらくのテーマであった「遊び」ということと「国家」の役割についての重
要な示唆を与えてくれるかも知れません。産業は「真面目」なので必ず「遊
び」を奪いに来るのですが、国家はその「遊び」が必要な国民に回るように
せねばならないので、「そう意図された」政策をもってその実現を図ります。
しかし、そのような「意図」は必ずしも実現されるとは限らないのであって、
それは政策というものが、様々な形で分権化されたメカニズムの中で、そこ
に任された形で投げられざるを得ないからです。分権化されたメカニズムと
は、例えば医療政策に於いては病院というメカニズムであって、従って「病
院経営」というのはそのような「政策」の意図、目標といったものとともに、
「社会のあるべき姿」と調和したものとして、あるのでなければなりません
し、また国家の政策の方も、目標を達成する見通しという広い意味での
second welfare theorem を、いわば青写真として持たねばなりません。(例
えば、医療費を削減したい、とか財政を健全化したい、とかは最終目標では
あり得ず、最終目標は全体の welfare 以外に無いということから、まず考え
直さないといけないということです。)
今回も、小林くん、森井さんといった医療系のプロを交えての話になります
ので、非常に盛り上がりました。
● 5月7日(新井さん:連休の話題とベンヤミン)
この日のゼミは、新井くんがGWの10連休は休みとして長すぎたのではな
いかという話題を持ってきたので、とりあえずどんな休みを過ごしていたか
の話題になりました。それから、ドイツのヴァルターベンヤミンという思想
家の話(マルクス主義フランクフルト学派)になりました。藝術における複
製技術の登場ということを鍵にして、20世紀前半における芸術と大衆の関
わりが持つ「政治」への意味みたいなことを論じたので有名な人です。特に
大衆が芸術作品の価値を(個人ではなく)「社会」の価値として、コントロ
ールしていく(ファシズムが国家によるコントロールなのと向きが逆ですが)
というようなことを、いわば藝術の民主化みたいな感覚で、好意的に(いさ
さか大衆に向けて、あるいは産業といったもの、commodity 化といったこと
に向けて、楽観に過ぎるようにも見えますが)捉えた話と言えると思います。
大衆が持つ「実際的」ということ、それは「身体」とか「文化」といったこ
とに直接的に結びついており、そしてそれはそういう意味での確からしさ、
したたかさ、といったものとは共存しているはずですが、果たしてそれを手
放しで肯定して良いものか…。実はファシズムと表裏一体ではないか…。
「開く」遊びの大切さを見失わない、ということと関わるように思うのです
が、ファシズムと逆向きの位相を持つように見えて、実は閉じた「まじめ」
という意味で、政府に閉じるコントロールか、大衆に閉じるコントロールか、
どちらも同じ問題点を孕んでいる可能性があるように思われます。
● 5月14日(池田さん:大学無償化の話題とホワイトヘッド教育論)
この日のゼミは、新しい三回生の池田くんが、低所得者向けの大学無償化法
案の話題と、ホワイトヘッド教育論と題された講演集みたいな本から、大学
教育の役割についての講演録を、資料として持ってきてくれました。
ホワイトヘッドが「過程と実在」を書く2年前1927年の米での講演です
が、大学教育の役割は、単に知識を学生に切り売りすることでもなく教員が
研究を進めることでもない。年をとり経験に富む知識をもった教員と、経験
は浅いが想像力 imagination に富む若い学生との交流において、想像力を
伴った知識が醸成される場であり、またそれを通じて、国家、社会、そして
個々の人生が、真に豊かな営みを実現していくような、そのような機能を持
つものであると、そのようなことを述べていた…ように思います。
学問の(本当の意味での)進展というのは、社会と、それを構成している個
々人の、自由とか愛とか幸福とか、そういう営みと密接に関わるところとし
て、初めてあるのだという、ホワイトヘッドらしい話であると思いますが、
なかなかこれが、言葉の上の理想論的なものに終わってしまって(あるいは
聞こえ良くいいとこ取りだけされたりして…)、推し進めて行くにあたって、
現実的には難しそうです。
教育改革とか、大学改革とか、いろいろ言われるわけですが、そうしたもの
自体が、今日においては企業文明というものに晒されており、そして下手を
すれば全ての学問が「産業の奴隷」となってしまい兼ねない(いや、もう既
に、ほぼ手遅れかもですが)。
しかし、そういう「学問」における「産業の奴隷化」に向け、最も耐性があ
るのは、意外と社会科学かもしれない…という気もして来ます。何よりも、
まず産業と市場の理論そのものでありますから、他の学問に比して、唯一
それを高みから眺めることができます。おそらく数学もそうですから、数理
経済学なんかは(そういう思考の道具として、もしもそういう問題意識をき
ちんと持つならば)最強(笑)かもしれません。
純粋理論よりもデータ科学はどうかと考えると、これは一番気をつけないと
いけないところかもしれません。データというのはデータだけでは何のシン
ボルにもならず、何らかの解釈を伴わないと、あるいは想像力みたいなもの
を伴わないと、いけません。データというのはいつも必ず「なにかの」デー
タなのであって、その「なにか」という概念、ならびに社会における文脈に
依存します。そのような文脈および解釈を伴わない、何か「厳然たる現実と
いう位置にあるデータ」などというものは存在せず、そういうものがあると
信ずるなら、それは、あたかもクワインが否定した経験主義のドグマ(デー
タ還元主義とか意味の検証理論)への逆戻りです。リアリズムというのは、
むしろ「分析性(あるいは同義性)とは何か」といった、一層根本的な問題
の方に、関わるものであり、ホワイトヘッドならば、プロセスにあるとする
はずです。直接的な現前性にあたる解釈前のデータのようなものには、おそ
らく「解釈した途端に置き違える」という位置付けしか認めないはずです。
根本的、極限的な実在、「遊び=真剣」の境地に依るのでなければ、学問を
産業の奴隷化から救出することはできないと思います。
本日の話は、時事問題が1〜3月のGDP速報(公共投資と輸入
減のみでプラス)と消費増税の是非の話でした。常々言う話
ですが、増税が必要という議論のみではなく、むしろ増税が
成長に害を与えるという議論にも、耳を傾ける必要があると
いうことについて(理論的にはいずれの可能性も十分にある
わけなので、一方のみではなく、双方シミュレーションを重
ねる必要があります)文献購読の方は、今週はドラッカーの
晩年の書物で、イノベーションと企業家精神についての著作
から、既存の企業においてイノベーションがどのような意識
の下でうまくいくか、どのような評価や組織形態が必要か、
というような話を扱った章を流し読みしました。
ドラッカーはアメリカ経営学の「本流」というべきところの
締め的な存在なので、テイラーの後、特に「組織」といった
観点からこれを眺める場合、ホワイトヘッド哲学を背景とし
たフォレット、バーナードといった流れに引き続くところを
読み取ることができるように思います。
既存の事業や管理部門からそれが独立したものであることの
必要性、また同時にそれがその企業内部の、信頼できる意思
の疎通とともに、その企業の得意分野に向けられている必要
があること、そして「全てのその組織の構成員」がその企業
家精神を発揮できることを理想とするといったあたりには、
とりわけそのような色彩を色濃く感ずるところであり、また
必ずしも定量化できないことがらについての、主観的でない
「判断」ということの強調などにおいては、「経営」の役割
と「企業の主体性」という問題の精髄が潜んでいるようにも
思われます。
経営という問題は、企業のみならず病院や学校、国家の経営、
ひいては人間(社会)の経営、加えて言えばその背後で、今、
我々のいる場所、すなわち学問という立場そのものの経営と
いうこと(すなわち学問の方法論)ということまでが含まれ
てくる問題です。
経営学の本流の話は、言わば学問や医療も含めて、今日社会
のありとあらゆる営みが、利潤を求める企業の、産業の奴隷
となってしまうこと、それと戦うには何が必要かということ、
そういったことと深く関わっていると思います。
奴隷というのは主体性の喪失という問題です。経営の主体が、
その主体性をいかに発揮するかということにおいて、表面上
ではなく、その「真の意味での主体性」を、いかに発揮する
か、それをいかに取り戻すか、という問題が残されていると
いうことです。従って、この広い意味での経営の役割を担う
のは、経営のプロなのですが、その経営のプロというのは、
いわゆる「経営の専門家」ということではなく、集団毎に異
なる、その集団における「真の主体性」を知るものとしての経営の
プロ、それは各集団毎に異なるタイプのプロフェッショナル、何らか
の道、方法を、pro 前もって fess 告げるもの、でなければならない
ということになるかと思われます。
言うなれば、大学の経営とか、病院の経営に、利潤企業の経営の
プロを呼ぶといったことをするならば、「根本から間違っている」と
いう話であり、同時に「真の主体性」を知った上で、それを経営に
活かす経営の専門家で無ければならない、片手間や名誉職でや
るべきものでもない、ということになるかと思います。
公共財としてとらえる限り、そしてそれを国家による認可ならびに、
公金の入った産業として眺める限り、その first best 資源配分と、
各事業体における利潤の問題がまず理論的に整理されねばなら
ないという話になりました。(とりわけその利潤の使途について、
private に供給可能な部分と、純粋に公共財として公的にしか
供給されえない部分の関係において。)しかし、公的資金が入る
と同時に、private に経営可能というのは、良く良く考えると非常
に多くの問題を孕んだ概念ではあります…。
前回脇山さんの回に引き続きAIの話題でした。AIは差別を助長する、という資料に
基づいて、AIと同時に、ビッグデータ、数値化、統計化するということそれ自体に
おける偏りといったことが議論されました。
AIそのものは、基本的にはそれ自体が有限のアルゴリズムでしかないと言うべきか
と思いますが、そこに(そのプログラミングにおけるAIに向けた学習のさせかたそ
のものといった中に)隠蔽されてしまう人間的恣意性、偏見、差別、そうしたもの
は、明らかに有限的なアルゴリズムの下、むしろ際立つ形で助長されていくことが
疑われると思います。それは、データが巨大化すればするほど、一層(例えば単純
な確率論的不確実性であれば消去されるかもしれませんが、それが進めば進む程に、
残された、想定外に落ちてしまうものについての、その深刻さを拡大するような)
深刻な形で、つまりは深刻な取り違えとして、我々に課題を提起して来るように思
われます。
我々は完全に、それこそ根本から、間違っているかもしれないわけで、そのことを
何らかの形で忘れさせてしまう、そういった「傾斜」には、常に気を付けねばなら
ないと思われますし、同時に、本当にそれに気を付けることができるのか、という
ことも脳裏をよぎります。それは恐怖でもあります。
そもそも「学問的立場」というものには「論理」への「傾斜」(これもやはり傾斜
と言われるとそうかもしれないと言う他なく)を持ってしまうことを考えれば、あ
る意味最終的に諦めねばならない種類の傾斜というものもある(一種の学問的立場
におけるコギト的なものとして)と考えられますが、同時に「関係」性というもの
には、「対象物」性というものを、常に昇華して行けるということを期待すること
もできます。いわば学問的立場が、自らの傾斜に気付くことができるための装置と
して、緩やかな論理、緩やかな方法、それらに加えて「自らの傾斜に気付ける」と
いう目的を果たすための道具として、我々には学問の本質を一層研ぎ澄ます必要が
あるということではないかと思います。
例えばAIということを考える場合、有限性というものが、不確実性を(単純な確率
論的に)消去しているかに見えて、実の所より根源的な不確実性のようなものに、
我々を導いて行くに相違なく、その時我々にとって(我々と言うのはおそらく学問
的立場に期待する者に限定されるかとは思いますが)期待できることというのは、
関係性や作用ということへの着眼というものが、そういう一層深い不確実性に我々
が気付くための道となり、またその中で歩いていくための一つの緩やかな型を提供
し、いわば、学問の方法と学問の「限界」を明らかにしてくれるという、そのよう
なことです。
そのような限界が明らかであれば、有限的な計算のアルゴリズムもまた、人間性を
ある意味研ぎ澄ますための、調和的な道具として(一層深い不確実性の問題へと、
我々の判断の必要性を導くことにおいての)、役割を果たしていると言えるのでは
ないか。そういう残された、一層深淵なる人間的判断の必要性に、我々を導くこと
で、アルゴリズム的な有限性もまた、真の意味での人間的な無限性と、調和しうる
のではないか。
私自身は、そのような期待を「関係性」といったものに託しつつ、学問を方法(即
ち広義の論理)を研ぎ澄ませていくべき、という立場ですが、皆さんはどうお考え
でしょうか。
コンビニエンスストアの24時間営業義務化の是非についての問題でした。
どのようなシステムにおいても完全ということはなく、いずこにも欠陥とい
うものがあります。フランチャイズ契約というビジネスモデルにおいても、そ
れは同じことで、ともかく契約を盾に取って本社側が最大に儲けようとす
るならば、単にそれだけのことが、加盟店に向けた非道なことも辞さない
ということになり、逆にまた加盟店側が単に儲けようとするならば、単純に
それだけで本社側と対立することになるという、およそシステムが本来意
図せざる対立を招いたというのも、宿命的と言えることかと思われます。
どこかで折り合いをつけないと、システム全体が崩壊してしまい、コンビニ
というのが今日では社会的インフラとしても重要な意味を持つことを考え
るならば、これは今日全ての人にとっても重大な問題です。
24時間営業の義務化をはじめとする本社側の規制は、一方では契約と
して、そもそも違法的でも何でも無かったとしても、本来そのシステムが
意図せざる形で、例えば加盟店の店長が「労働者」として長時間労働を
事実上要求されるようなものとなったとすれば、それはシステムそのもの
の欠陥として、単なる法的問題としての決着を超えて、むしろそのような
システムの存続を守るための社会的要請措置としての、公的な介入が、
あるいは調停、指導が(例えばロイヤリティフィーのあり方などにおいて)
望まれるところになるように思われます。
参加者:小林さん、新井さん(4回生)、伊藤さん、小東さん(3回生)、池田さん(3回生)、古川さん(4回生)、村上さん
6/11 のゼミは新井さんの資料で、ヴィーガン(動物愛護的主義主張と
結びつきの深い菜食主義)とアンチヴィーガンの間の対立についての
話題でした。いずれも根底にあるのが全く異なる種類の大事にしたい
事柄(例えば動物愛護と食事の楽しみのような)であり、その根底に
あるところを曖昧にしたまま結論のみぶつけ合うと、行き過ぎた主張
と対立構造しか生まないものとなるように思われます。仲間を愛する
ことと食事を楽しむことの間で、実のところ論争をする必要など全く
無いわけですから、対立構造を変に強調するのはやめて、早々に合意
できるところに議論を持ち込む(方向づける)ことが、大切な事柄で
あり、本問第の解決への道であると言えると思います。世の中に
議論すべきことは沢山ありますが、単なる対立は結局のところ何も生
みません。ヘーゲル的な正反合というのは、正と反がそのままの水準
で、そのままの次元で、解消されるのではなく(そのようなことは起
こり得るはずも無く)、これはその一段高い次元の視座から、相互の
調和を目指す道筋というものがあるという、そういうことではないか
と思います。まあ、いずれにせよ、ヘイトにしても、LGBT+ にしても、
あるいは老人差別にしても、一般に民衆間に対立構造を持ち込む議論
には、常々気を配らなければならないと思います。統治ということに
おいてその最も簡単な方法が、民衆の分断ということであるというの
は常に意識せねばならないと、そのような気がします。
今回は特に多く、小林さん、村上さん、森井さんといういつものメンバー
に加えて、留学から戻って来ている守屋さん、院入試準備中の田中さん、
そして未登録ながら昨年度メンバーの高添さんなどが、学部生メンバー5
名に加わり、大変賑わいました。
資料は高齢者ドライバーの話と、読み物としてホワイトヘッド哲学と西田
哲学の関係についてのものです。
高齢者ドライバーの問題については、まず一つには自動運転という今日の
産業側の思惑が見え隠れしています。高齢化問題というものは、既に何十
年も前から問題となっていた先進国の中で、近年になって高齢者の運転の
問題が特に騒がれており、またデータとしては、果たして本当に高齢者に
事故が多いと言えるのかどうか、全ての事故の中での高齢者の事故の比率
と、全ドライバーに占める高齢者の比率といった形でさえ、きちんと提示
されていないのでは、といったことが問題として指摘されました。また、
高齢者ドライバーに向けた政策面での対策は極めて迅速であり、産業と絡
んで政治側においても、非常に扱いやすい問題となっているのではないか。
また、先日のヴィーガン問題と同様に、若年層と高齢者の間における、い
わば民衆の分断を煽るようなスローガンとして、こういう問題が強調され
すぎることにも、懸念が必要です。(政治的意味において)統治側には常
に民衆の対立を煽ることに、統治の意義を強調するというメリットがあり
ます。
しかし同時に自動車というのは(先日のコンビニ24時間問題と同様)今や
インフラとして、我々の生活に欠くことのできないものにもなっています。
特に都市部ではないところでは生活に必須のものでもあります。そうした
中で、テクノロジーの進歩による解決が、文明という観点から極めて魅力
的なものであるということにも疑いはありません。そのこと自体に疑いは
ありませんが、そうであるとしても、おそらく科学技術の進歩が、およそ
全てのリスクをあたかもゼロにしてしまうかのような、そうした意識操作
は(かつての環境問題における原子力発電原発技術の宣伝のなされかた、
ペットボトルのリサイクル、最近ではプラスチックごみの注目のされかた
にも似たような懸念を感じますが)、むしろ一層危険な社会的問題の出現
ということをこれまで導いて来たという現実にも我々は意識的にならざる
を得ません。この問題の本質は、我々が社会的なリスクをどこかできちん
と引き受けねばならないということであり、その本質的問題を隠さないと
いうことが、今日我々に求められているもっとも大切なことではないかと
思われます。
政治的問題をお上に棚上げしてしまうこと、環境問題をテクノロジーに丸
投げすること、引いては難しい問題を専門家に任せ、自分の頭で考えない
こと、そういったことこそが「近代」共通の問題点として、同根のものと
して、今日我々に突きつけられていると思います。
ホワイトヘッドと西田哲学の問題については、時間的にまだ途中となって
しまい、次回以降に引き継ぎです。
当面、真理ということに関するものとして、まずホワイトヘッドの知覚論
における話、それは因果効果という身体論みたいなところが(主語的に)
先立って、そこに関連付けされていない知覚与件のごとき呈示的直接性と
いうものが(反射プロセス的な意味で述語的に)乗っかっており、それら
を関連付けて一つの知覚に統合するのが象徴連関であるというような話が
なされて、まずはそのあたりまでです。
(上の「述語的」という表現は、恐らく西田を意識したものと思われます
が、私はかなり引っかかったのですが、とりあえずは「どこまでも述語的」
という西田的には究極的な意味での述語的ということではなく、プロセス
が object 化された、「述語」という「語」的にという意味で捉えている
のかなと思い、当面納得しておこうと思います。例えば、「甘い」という
感覚的なデータにおいて、「甘さを感ずる」というのは、確かにプロセス
ではありますが、西田が「述語的な論理」といった言い方で、指し示そう
としているものとは、本質的に異なり、またホワイトヘッドにおける実在
とも、根本的に異なるものであって、むしろ宿命的に「取り違え」に過ぎ
ないところと、考えられるべきものであると思われます。)
現在読み終えている部分は、上記の話に、さらに歴史観という話が加わり、
円環的、直線的、そしてホワイトヘッドの螺旋的歴史観、「画」期的、と
いうような話題にまで進んでおり、次回はその辺からです。
話をしていて、少しここと関わることがあったので、以下に記しておきます。
最近の高校生の現代国語について、これは学生側にも教員側にもなのですが、
いわば言語と論理を表面的に用いて済ませる状況が極めて顕著であり、これ
は例えば教える側においては、特に「詩」について、教える努力が欠如して
いることなどに特徴的である、といった話になりました。詩というのは、言
わば比喩的な、アレゴリー的な、緩やかな論理とでも言えるかと思います。
特にこのことが問題となるのは、表面的な言葉の使用が表面的な結論の乖離
にだけ短絡的に結びついてしまうことで、そうしたことが対立を生み、相互
理解の妨げとなる方向にのみ作用する傾向が、近年とみに顕著であるという
ことです。(ちょうど、先日のヴィーガンの話と被っています。)
そもそも論理というのは表面的なものと言わざるを得ませんが、同時にそれ
は「目的」に束縛されない「媒介」としての特別な場を提供しているもので、
それは個々の立場の相違や、信条の相違を「拡大(差異を強調)」するため
にあるのではなく、「調和(相互の差異の尊重)」のためにあるのであって、
そのためにこそ緩やかな論理を、我々の共通の道として、媒介として、用意
する意義があるのだと、言えるのではないかと思います。
様々にあり得る、あり得た、我々(つまり「成り行く」ものの)その共通の
歩き方としての論理、それは「調和」すなわち「団結」のための道具であり、
形式なのだということです。
「緩やかな」論理と、様々にあり得る解釈を、より「多くの人々の調和」に
向けて発信できること、それが本当に評価されるべき、最も重要な現代国語の
能力ではないかと、そのような話になりました。
6月25日
資料小東さん。ビルゲイツ、アップル以外のOSの話。元来が CP/M という
OSのパクリを横から出てきて IBM に売ったのが MS-DOS ですが、それで
大儲けしただけの企業であり、夢とかビジョンとかそうしたものとは無縁
のビルゲイツであったと思います。そういう人物が、人生の終わり際に、
Linux もパクっておけば良かったなどと、厚かましいことを言っているな
という印象です。
7月2日
古川さんが、その場の思い付きで「ふるさと納税」の話題をふって下さり、
それを元にして、地方に回された徴税権に基づいて、そうした徴税競争が
生ずることの是非(そもそも税金は必要か、そうした権限が行政にあると
いうことの是非、地方にせよ、国にせよ、等々)について議論されました。
同時に話は、医療の問題について、医療費と健康保険収入との乖離のワニ
の口はどうしてワニの口ではいけないのか。打出の小槌は無いとかいって
実はあるのではないのか。問題はワニの口ではなく、公共財でないものを、
公共財と偽るところそのものにあるのであって、それ以外のことでは無い
のではないか。
といった極めて本質的な問題が議論されました。また、時間を過ぎてから
も、自治医大、保険所の所長、WHOとは何かといった話に花が咲きました。
7月に入って後藤さんが加わりました。
7月9日
学部ゼミは3回生が二人とも欠席で、4回生新井くん、古川くん、脇山
くんとOBが、小林くん、後藤さん、村上さん、守屋くんとやはり多数
を占めている状況なので、学部生に向けては、ちょっと寂しい状況です。
テーマは、古川くんが香港デモについて、新井くんがJASRACの潜入調査
の話でした。
香港デモは、もうこれは1960年代の日米安保の頃からと同様で、米
国の民主化基金(議会、国務相、NED、かつては CIA)が絡んだもので
あることは既に今日公然というか秘密でも何でもなくなってしまってい
ます。民主化という言葉の背後にある、政治的な背景に目を向けるべき
です。
一方JASRACの方ですが、これは既にこういった20世紀の団体のビジネス
モデルが、今日社会の技術の中で成り立たなくなっており、そのような
組織が生き残りをかけると、どのようなことでもするという(その意味
では、企業的な組織の生と死という問題にかかわる深い話でもあります
が)そういう問題と分類すべきかと思われます。元来芸能的な活動の上
前をはねるのはやくざと相場が決まっていますが、JASRACの場合もそう
なのでしょうか。そうであると言われないよう、カネさえ儲かれば良い
というような考え方を捨て、綺麗に消えていくことができるのか、でき
ないのか。死という問題にかかわる、組織論の重要なテーマと思います。
7月16日
この日のゼミは、4回生の脇山君の資料で、匿名加工情報を用いること
への理解を多くの人に浸透させることの意義、それと関連付けた場合の
AIの意義、ということが議論されました。この話は意外にも多くのこと
と関連しており、まずは匿名化以前に、情報に値段がつくことそれ自体
の経済学的問題性があります。これはあまり取り沙汰されない話ですが、
情報の非対称性どころの話ではなく、情報が売買されるわけですから、
おそらく市場による効率性も最適性も何もあったものではなく、経済
学理論の根幹はほぼ崩壊すると言っても過言ではありません)。情報
を国家が管理し、政策等に役立てることには良い面もあります。本来、
唯物論的な左派は合理性を重んじ、宗教的な保守層は非合理性を重視し
ますから、中国などでは国家による情報管理は公然となされるところが
あり、米などでは逆に嫌われるところがありますが、日本ではどちらか
というと右派が国家主義的観点から国家による情報管理を主張し、左派
が反国家主義的にそれを拒否するという幾分倒錯した状況が見られます。
そういう合理対非合理の対立を乗り越え、真の合理性を行使してくれる
主体として、国家、あるいは大きな組織を期待するというのは、あり
得る選択ではあります。もちろんそうしたものを国家や組織に期待する
のではなく、あくまで個々人が引き受けるべきとする考えもあり得ます。
その話の延長線上に、AIを位置づけるのは、面白いかもしれません。そ
うした真の合理性の行使者としてAIに期待するというのは当然あり得る
選択です。対して、同じくそれは人間の責任逃れというべきものであり、
あくまで個々人が(万一AIに及ばなくても)取るべき責任を放棄しては
ならない、という考えもあり得ると思います。
ゼミ後は、8時過ぎまで8月7日のセミナー「医療と国家および財政」の
準備をしました。
共通テーマ「医療、国家、財政」に向けての、議論の方向付け
資料提供 池田さん、小東さん、海野さん
今回は小林さんが参加できず、後藤さんも風邪とのことで、不参加となった
のは残念だったのですが、海野さんが人権のテーマを持って参加して下さい
ましたので、今学期の最終、とても良いまとめの議論になったと思います。
池田さんのお話は、韓国で面接試験でのAIの利用について、小東さんのお話
はリビングウィルをクラウド上でデータ管理するビジネスモデルについての
ものでした。これに海野さんから障碍者のインクルーシブ教育を中心に人権
の問題が、今回の医療、国家、財政の問題に向けて提起されました。
■
最初の池田さんのお話である AI による面接判断という問題には、人物評価
という、いわば最も総合的な判断の代表ともいうべき部分に、強いて機械的
なものを持ち込む功罪としての、責任の放棄、あるいはそこからの解放とい
う視座があると思います。これは場合によっては、古い(20世紀的)意味
での人間とか人権という枠組みを、乗り越えていく視座にも成り得るところ
ではないかと思われます。同時に、人間が責任を放棄する一層重大な問題を
呼び起こすことにもつながるかと思います。(例えば選挙において集計機械
を利用することは、手作業での集計に比べてその管理者における責任放棄に
つながり、システムのバックドア等、一層重大な不正の温床を提供している、
といった問題が事実としてあると指摘されています。)
小東さんのお話はリビングウィルに関するものですが、この問題はそれ自体
がそもそも極めて重要です。生き方(死に方)という、個人の判断において
はおよそ究極の問題についても、それを前に一つ、それが持つ公共性あるい
はその選択が持つ他者への影響を排除しえない難しさに起因する(故に契約、
法的根拠、強さ等々が問題となる)そのようなものであるという問題があり
ます。けれども、最終的には苦痛や信念といったものは、個における自覚の
統一(及び孤絶)に帰するものであると考える限り、我々は(その情報に誤
りがないことをもって)個の意志を尊重するということについては(その他
の選択肢よりも優先されること、その普遍性等々について)格別な位置づけ
が与えられるということに、多く意見の集約するところではないかと思われ
ます。個が全に向けて、いわばその絶対的な尊厳を示し得るところとしての
「死」という問題提起は、極めて重要です。
これらの事柄も、特に海野さんの提起して下さった人権という問題に結び付
けて考えるならば、特に得るものが大きいように思われます。森井さんが言
われたように、障碍者のインクルーシブ問題は、無知のヴェールの問題でも
ありますが、障碍を持つ人が、広く社会の中で活力を持って生きていけると
いうこと、それ自体は無知のヴェールの問題と見る以上に、そういう「社会」
の契約的設定、あるいは「社会」成立の、それ以前の問題として、つまりは
「成り行く」ものとしての「社会」の変革を、逆に「人権」側からスタート
させるような「希望」として、まさに障碍者を囲む周囲こそがそれを支えに
生きていくという、そのような視点があるようにも思われます。
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残念ながら「人権」という言葉は今日既に20世紀的な意味で使い尽されて
しまったような感があり、逆にそこに向けた「人間主義」的なニュアンスに
警戒心すら抱いてしまうところもあるのですが(実際障碍者が「利用される」
といった言葉で警戒されるのは、そのようなニュアンスではないかと思われ
ますが)、結局のところそうした批判に向けて我々が解放されるのは、我々
一人一人が、自らの判断で、「自分が生きる」ということにその問題を引き
戻して、「人権」という問題を考えられた場合においてのみ、なのではない
かと思います。
実際、我々は社会の中で、何らかの活動を行うにあたって(それはもう何ら
かの発言を行うにあたってというレベルにおいて)、その「社会」における
「権力」と無関係では有り得ません。医学ということも、そして学問という
ことも、何らかの(現代社会における)権力を持ち、それは言うまでもなく
個々の権利と対峙し、それに制限を与えています。およそ、そういった社会
の権力を行使することなくして、個の権利を主張することさえ困難であり、
我々は往々にして否定すべきものの上に立って、話をすることしかできませ
ん。否定すべきものの行使を我々が肯定し得るのは、我々一人一人がそれを
個の孤絶した生において受け入れた場合のみであり、そうでなければ、我々
はそれを自信として、真の幸福の自覚としては受け入れられないのであり、
それを受け入れるということが、すなわちそれと対峙する境位の無い、絶対
に於ける矛盾的な自己調和(同一)ということです。
そのような覚悟とともにこの問題が我々に開かれているということが、ここ
での鍵になって来るかもしれません。近代的な「人権」がある意味、「近代
社会」における一般的概念として捉えられている限りにおいて、例えば無知
のヴェールという問題も、展望された様々な条件への確率論的問題になって
しまい、場合によっては「血塗られたルソー」にもなってしまうのですが、
一人一人の個が、人権という問題を、それぞれの個に引き寄せて考える、そ
のように人権という問題を関係性として、個の問題に再度開放しえた場合、
無知のヴェールもまた、その全体性、定義域性、ドメイン性を固定しない、
未知の可能性に開かれた、個における希望として、個の真の幸福として、捉
えることができるようになると、そのようなことが考えられます。
医療、国家、財政の問題にこれらをもって関連付けるとすれば、終末期医療
の問題、抗癌剤治療の問題、向精神薬、人工透析、様々な具体性において、
その「公共」生の何であるかをまず明らかにし、また個々人がどれだけその
「公共」財を欲しているのか、そのためには、国家が何をせねばならないか。
これを展望し得る「経済学モデル(一般均衡モデル)」を構築することが、
今必要とされていると思われます。今回、村上さんと構築しているのは、そ
のようなモデルのプロトタイプです。
経済学理論的に純粋な公共財というのは、消費における競合性も、排除性も
持たないものと言えますが、経済学的にはそのような財についても、仮想的
な市場メカニズムの下で、最適な資源配分を実現することができます。言う
なれば、公共財の入った世界の second welfare theorem で、一般均衡理論
的には、いわゆるリンダール・フォーリー均衡と呼ばれるものです。これは
利潤の取扱い、私企業の存在、satiation の問題等々で、多く改良の必要が
あります。
社会科学的には、こうした一般均衡理論的モデルを通じて、医療の公共性と
は何かを、まず明確に記述する必要があります。
その下で、医療の問題を、社会の問題、そして人権の問題として眺め直して
いくこと、そして、社会の中で、社会を変えていく問題、それを自己の問題
として、自己の生き方(死に方)として、一人一人の個々の人が、その問題
を引き戻していけるような道を提供すること、それが学問の役割です。森井
さんの老衰という問題意識、死とどのように向き合うか、という問題意識も、
そのような学問の役割、筋道の中で整理し直していけるのではないかと考え
ています。