2021年3月31日(水)ジョイントセミナーのまとめ

2021年3月31日(水)数理経済学会方法論分科会・春季ジョイントセミナーのまとめスレッドです。

・守永直幹 氏(宇都宮大学) 『社会契約から自然契約へ--ジャン=ジャック・ルソー問題をめぐって』

・三井 泉 氏(日本大学) 『経営学(マネジメント理論)の方法論: 経営現象のリアルと経営学のリアリティー』

について、また当日の全体討論

『Realism for Methodologies of Social Sciences 社会諸科学の方法としてのリアリズム』

の内容も含めて、ここでそのまとめと、引き続いての議論、ならびに資料の補足を行います。

浦井 憲 2021/04/28(Wed) 01:03 No.344
長久先生からのコメントと応答
当方がまずまとめねばならないところ、長久先生から先にコメントを頂いてしまいました。
長久先生のコメントに便乗(?)乗せて頂く形で大変恐縮ながら、当方のまとめを、以下
に挙げさせて頂きます。

● 守永先生のご報告に向けて、ともかく、ルソーの一般意思の位置付けが、お陰様を持ち
まして、自分としては初めてしっくり来るお話でした。後からも述べるところですが、
これはつまり、真如というべき位置付けですね。

● 三井先生のご報告に向けて、学問の方法という問題に関連させて、クワインの「二つの
ドグマ」および徹底したプラグマティズムの意義を、自身改めて見直すことができたお話
でした。経営学と同様に、経済学でも昨今は「本流」が、「主流」から、すっかり離れた
ところを流れているような印象がありますが、村田晴夫先生も言っておられましたように、
やはり「本流」というのは、結局のところ本当に良いものでありますので、何と言っても
最後は残るというか、それこそ(上の)真如にかかわる形で、何かを見せてくれている、
そういうものであると思われます。経営学のリアリティ(appearance ではないもの)
は、およそその「本流」が捉えているものの中に、ひっそりとしっかりと隠れていると、
故に「本流」であると、そのように当方には感じられます。経済学のリアリティ(と
当方が考えるところ)は、「その意味での」経営学のリアリティと、かなり近いような
気がします。そのようなことを考えさせて頂いております。

当方と致しましては、いずれも極めて有益な知見となりました。心より御礼申し上げます。

2021.5.13.


長久領壱氏(関西大学)から守永氏および三井氏に向けられたコメント(4月20日):

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/21/NagahisaComment.pdf

守永氏からの応答(4月21日):

xxx (ご本人からの承諾後リンクを貼ります)

三井氏からも同日、メールでの応答があった。

以下は浦井からの4月21日のメール応答である(掲載に当たり一部の抜粋。)


当方先のジョイントセミナー後のまとめをするべき立場なのですが、まだできておらず、
申し訳ありません。守永先生には(先にご連絡も頂き、添付もして頂いたところですが)
先日の発表後に再度原稿の訂正を頂戴致しまして、以下にもアップロードしております。

http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/seminar.html

… 中略 …

長久先生のコメントを受けて、2点ほど、述べさせて頂きます:

1. 長久先生からの、ロールズを基調とした、先日の守永先生的解釈のルソー論に向け
てのコメント、とても興味深く拝見しました。社会選択論、第一人者からのコメントと
して、大変貴重なものと考えます。ありがとうございます。

当方は(長久先生のコメントの方向性から少し外れるようではありますが)、守永さん
の報告においては、むしろルソーの「一般意思」をどう捉えるか、の部分で、これ以上
の明解な捉え方は無い…と思えるところに、大変感銘を受けました。

つまるところ、守永流のルソーの一般意思の捉え方は、例えば仏教的に言えば阿耨多羅
三藐三菩心のようなもので、捉えられるようで捉えることのできない、それでいて皆が
それを目指す、唯一の希望のようなものという、そのような位置付けのところに持って
行こうという(塩谷さんは、それは「空っぽ」と言われ、また田中先生はそれを「0」
と呼ばれるところ)、そのような把握として、大変得心の行くものでありました。

個人的には、学部学生の頃から、ルソーには(取り分け「一般意思」には)辛い思いを
してきたような気持ちのあるところなので、この解釈には本当に救われたような気持ち
です。


2. 三井先生の問題提起に関連して長久先生のコメントにありました「数学」と「経験」
について、あるいは「分析」性についてですが、これは当方にとりましても非常に重要
なテーマで、もう分析とか経験という言葉自体を何とかしないと議論にならないように
も思う(クワインの2つのドグマも分析性ということの定義の困難さについて長い部分
を費やしていると思います)のですが、良い機会なので、付け加えさせて下さい。

少なくとも素朴な自然数論(小学校2年生くらいまでの算術、足し算と引き算、整数の
掛け算、加法の単位元0、乗法の単位元1、程度の算術)と、あとは論理式を定義する
のに必要な、いわゆる「再帰的定義」のあり方、そのあたり、つまりは「有限の立場」
と呼ばれるところのものですが、それが数学者--少なくとも数理を元にして語ることの
意義を重要と考えるもの--にとっては共通の信念(それを経験と呼ぶか、分析的と呼ぶ
ことができるかはさておき)であると思っております。私自身もそのあたりを、何度か
「普遍的な言語(論理)」というような言い方で述べて来たように思います。Bourbaki
などの立場は、そのあたりを「変数」あるいは「代入」という概念で、更に詳細に基礎
づけようとしているように見えます。カテゴリー(圏論)といったことに当方が拘るの
も、その気持ちからです。
浦井 憲 2021/05/12(Wed) 22:51 No.345
処理 記事No 暗証キー

- JoyfulNote -