2019年3月方法論セミナーへの準備:スレッドNo.148「ホワイトヘッド学会@後楽園」 とNo.157「友愛と正義」を受けて

お世話になります。三月のジョイントセミナーにおいては、方法論研究会の葛城先生より
特に Social Ontology と経済学の哲学という方向から、過去数年の議論をまとめる形
のお話をして頂くことになっておりますが、同時に本 BBS にて昨年秋から議論されてい
る内容にも、これと深く関連するところがあると思われます。

昨秋のホワイトヘッド学会(後楽園)における、守永直幹先生のホワイトヘッドの「命題論」
に向けたお話と、村田康常先生の「遊戯」に向けたお話は、ここしばらくの方法論分科会
にて議論頂いた内容の延長線上にあって、「近代」への alternative としての「学問」の
あるべき姿を問うという観点から、社会科学の方法という葛城先生のお話を含め、これら
全体に深い関連があるのは言うまでもないことですが、今回特に以下の点が重要な鍵と
なるところと、見込まれます。


(1) 葛城先生における「富」概念(余剰:Redundancy)と、村田先生における「遊び」の
関係。

(2) 守永先生における(言語以前の)「命題」論において、そこでの「主体」性について
の問題と、村田先生における「遊ぶ」ことにおける「主体-超主体」の問題。

(3) 葛城先生における「富」、「余剰」の蕩尽問題と「貨幣」の問題、そしてそれらと(塩谷
先生から今回に先立つ問題提起として)バタイユ的な普遍経済との関係。


これまでの、本セミナーで議論されてきたことの多くが、今回のテーマにかなり集約しうる
(まさに議論が収斂しつつある)のではないかと思います。

そこで、今回は三月のセミナーに先立って、昨年秋から暮れにかけて(内々のメールにて)
議論された「遊戯」の問題、守永先生に立てて頂いたスレッド No.148 と No.157 に続い
た議論をまとめる形で、ここに提供させて頂くことにしました。以下の内容は、上記スレッド
の議論内容を更に受ける形で、昨年暮れに、私(浦井)と、村田先生、守永先生、村上先生
の間のメールとして共有されたものです。

これに続く形で、当方と村田康常先生が、しばらく交互に内容をアップしてまいりますので、
宜しくお願い申し上げます。

浦井 憲

浦井 憲 2019/02/09(Sat) 21:13 No.173
12月3日のメール内容(浦井):村田康常先生の守永先生へのリプライ(No.162)を受けて
以下は、昨年12月3日の当方(浦井)のメール内容を、文章整理し直して投稿するものです。
これは、内容としては「友愛と正義」スレッドにおける村田先生の最終リプライ(12月2日No.
162)に対するもので、12月3日の「ホワイトヘッド学会@後楽園」スレッドへのご投稿(12月
3日No.163)の前に書かれています。そちらを受けた議論は、また後にアップさせて頂くこと
になります。

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村田先生、守永先生、村上先生

村田先生のお話(「友愛と正義」スレッドNo.162:守永先生から出された「遊び」という形で
問題を捉えることに向けられた疑問に対してのご返答)、大変興味深く伺いました。守永先生
に向けて、いろいろと明確に論点を整理して下さる中で、全体として私自身からの疑問(「ホ
ワイトヘッド学会@後楽園」スレッドNo.152: コズミックドライブ、真善美の一致問題)にもお
答え下さったところという気が致します。守永先生に向けても、正義と友愛(1)に対して、私か
らも応答すべきなのですが、それよりも前に(というか、それもこちらに含まれたものとして読
んで頂く方が良いかもしれないです)まず、村田先生のコメントに呼応させて頂く形で、意見
を述べさせて頂こうと思います。

> 生死がかかったような真面目で真剣な活動そのものもまた「遊び」概念のなかで捉えるような観点に立つことが、ホイジンガの到達点でありフィンクの出発点だったと思います。

禅で言うところの遊戯三昧との関係も、その視点からであれば納得がいくように思われます。

子供は大人に守られていますが、子供にとって(そしてその遊びにおいて)守られているのか
どうかは問題ではなく、そして大人にしても、その守っているということそのものが、実は遊び
なのではないかという問いそのものが、現在の関心であると思われます。したがって、まさに

> 遊びを成り立たせる秩序自体が成立していくプロセスそのものが遊びだという、そういう観点に立たなければ、ホワイトヘッド宇宙論を遊び概念で論究することはできない

というご意見に賛成です。

> 一切の活動を成立させる秩序の生成する創造活動そのものが、遊びである、ということが、彼らが(ホイジンガは最終的に、フィンクは論究すべき前提として、カイヨワは批判的に、そしてベンヤミンは批判しつつ立ち返るべき原点として)共有している「遊び」理解の大づかみな概観です。

有難うございます。そもそもの「言葉の定義」問題になってしまうかもしれませんが、もしも、
我々がホワイトヘッド的に「置き違え」ということをせざるを得ない運命にあるのだとすれば、
ありとあらゆる「真面目」というのは、何かを「置き違え」た上での真面目でしかなく、その
ような「置き違え」に向けて、絶えず我々の心を導いてくれるものこそ、「遊び」として我々が
捉えるべき、ということになってくるのかなと思います。

> なぜバタイユの蕩尽や遊戯では不十分なのか(なぜバタイユが守永さんにとって遊戯の哲学としても、経済の哲学としても不十分なのか)、その点を論じていただくと、遊戯の哲学とも、またおそらくはバタイユと経済学に関する議論とも、接点が出てくる

この点は、もしかすると、次回(3月…以降)に予定される議論に直結しますね。

> バタイユはさておき、西田はいつかまた正面に据えて論じたいです、私の大学院のときのホワイトヘッド体験はいつも西田哲学とホワイトヘッド哲学の対話という主題をめぐっていたので

この点は、ぜひとも今後ご教示頂けたらありがたいです。当方も勉強していきたい、また一番
明らかにしたい点です。

> 古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ『すべては遊びなり』がのし上がろうと構えている。

「空」あるいは「無」でもいいのですが、それに対して「遊び」という概念を前に出すというのは、
「少し積極的」というよりも、以前から守永さんが幾度も幾度もそこに立ち返るべきと注意を促
して下さっている「主体性」の問題でもあるように、当方には思われます。そうであるとすれば、
守永先生のご関心とも、更なる深みをもって、この話は一致していくのではないでしょうか。その
ような可能性があるようにも思われるところです。

> 「すべてが遊びなり」というホイジンガの最後に提示した積極的観点が、この「世界に満ちている生成消滅の創造活動」を示すメタファーだと理解すれば、これはフィンクの遊戯の宇宙論やニーチェ、ハイデッガーの遊戯の存在論(生成論)にも通じるし、またホワイトヘッドの宇宙論にも通じると思います。

西田においては「自覚」に向けた統一という問題と、宗教の意義(それに向けたあくまで哲学的
議論という、無限の入れ子状況はあるのですが)ということに通ずるのではないかと、思っており
ます。

> 守られた遊びや作られたルールや整えられた環境や所与のシステムの中でのゲームといった意味での「制約され、管理されている現代の遊び」の蔓延(子どもの生活のなかにも大人の生活においても、個人の趣味的活動においても社会の生死をかけたような真剣な営みにおいても)によって、遊びがもつ想像力と創造性が、「なしくずしに」なっているという危惧があるから

近年 AI ということによって様々な「人間らしさ」までがとらえられようとしていることに向けて、漠
然と持たざるを得ない違和感と、上記の点は通じているように思われます。もちろん我々は神様
や仏様の手の裡にあって、そこで制約され、管理されているのではないかという問題(意識)は
常にある(可能な)のですが、そうではなく、人間の手による何らかの仕組みが、それを実現して
いるということ(あるいは、そう信じられるということ、信じるべきなのかということ、等々)は、実の
ところまったく別の問題なので、そのようなことと、どうやって対峙していくか。それが最も重要な
論点のはずです。(まさしく「主体」性の問題です。)そうしたことが曖昧にされる中で、ともかく整
えられたルールを「頭から受け入れる」ことで「無難に過ごす」、そのような思考が近年目立って
蔓延しているのではないかと思われます。これは学問云々の話ではなく、まさしく現実問題として、
非常に危険な事であるように思います。


> 常識的に理解された範囲での遊び(秩序・大人・社会のルールなどによって守られて成立する遊び)を遊びの第一の相と呼ぶとすると、その相を成立させるための創造活動もまた、遊びと呼ぶべき活動であり、ひとまずそれを第二の相と呼ぶことにします。第一の相での遊びは、深刻さや真面目さや切実さといった概念と対立する活動ですが、第二の相はそれらをも包摂するような秩序創造という意味での遊び概念ということになります。それは、それ自身と対立するものも包摂するような創造的な活動ですが、そこには、全体として最終的な活動目的となる「何のため」が欠けている。あるいは、かりそめの「何のため」が第一・第二の相において見えていたとしても、その底のところでは、究極の目的も根拠も基盤も安定した大地も秩序もない活動性の大きな渦のようなものが広がっている。それは、なじみのものへの愛着を抱きつつも、それを超え出て「新しさ」を求めていく衝動、としか呼べないような匿名の活動性です。それを「空なるかな」と見るのではなく「遊び」と見る、といういわば第三の相の「遊び」概念、遊びの形而上学的宇宙論

この点、極めて興味深く、経済学(ゲーム理論)的な表現で、改めて述べ直してみたく思います。

第一の相の遊びは、いわばゲーム論的な遊び(いわばゲームのプレイヤーとしての遊び)です。
第二の相は、いわばゲームを作る(あるいはゲーム論を作る)人の遊びです。専門分野としての
学問の遊びと言っていいかもしれません。今日の経済学の理論家がほぼこれで遊んでいるの
はまちがいありません。そして、第三の相の遊びは、これは専門を超えた、co-ordination の為
の遊び、と言えるのではないでしょうか。この co-ordination のための遊びに必要なものは何
なのか、私はそれこそが今「専門家」を含めた学問世界に求められている課題だと思います。

専門家が第三の相に至るには、まず「専門」という枠をはめられた第二層のプレイヤーである
ことの自覚を持ち、その限界を知らねばなりませんが、それ以上に、に「専門」という立場に立
つ限り、この第三相では上からの立場になり得ないことを自覚すべきです。専門家というのは、
上からの立場(第二相における)に立つことを目的として自己を形成したものですから、ここで
下からの力に自らを任せるということは、自己否定でもあります。ここで遊ぶというのは、自らを
投げ出すこと(絶対愛)でもあります。

第三相を最終的な遊び、究極の遊びと呼ぶにふさわしいかどうかはまだ議論の余地があるか
と思いますが、究極の遊びが自らを放棄できるか、という自らの主体性であると言うと、それに
対してアレルギー反応を起こす人が多々いそうにも思いますが、私はそういうことだと思います。
(西田的に言えば、学問の根底に宗教があるということだと思います。)

> ここがおそらく守永先生の「(宇宙の)創造的衝動=秩序(への意志)」という理解と、「(宇宙の)創造的衝動=秩序ないし調和への意欲=遊びの源泉」という私の理解とが重なる点であるとともに、分岐する点でもあるのでしょう。

分岐というか、私には上にも述べた通りで、「主体性」という問題を介して、より深い観点から
綜合可能であろうと感じています。

> 生死の壮絶な営みも、食うか餓死するかの営みも、遊びどころじゃない、というのはその通りなのですが、その言葉は学問の言葉ではなく、生死や食うか飢えるかの局面での言葉です。同じ局面からは、真面目に学問やっているどころじゃない、という言葉だって切実な叫びとして出てくるでしょう。ここで守永さんが遊びを否定する言葉は、そのまま、学問を否定する言葉にもなりえます。

同時に「学問」という概念を、狭く捉えるべきではない、ということにもなるかと思います。遊びと
いう概念は、この第三相に至ってはほぼ「自由」性という概念そのものとして、用いられている
ように思われます。そのように捉えるなら、学問の自由性、あるいは自由性を持った真の学問と
いうものは、遊びを包摂する、遊びとともに、あるのでなければならない、ということになるかと
思います。自由のためなら生死をかけることだって十分にあるでしょう。私は村田さんの「遊び」
を「自由」と読めるのではないか、と思っております。

> もちろん、ここで言う原初的とか(言葉以前の)経験の原初相というのは、決して原始的とか文化以前とか、あるいは禅仏教的な分別知以前といった意味ではありません。
>
> 言葉以前の世界が原初的だといった言い方をホワイトヘッドはそもそも拒むはずと守永先生がおっしゃったのは、ホワイトヘッドに即して言えばむしろ逆で、言葉以前の経験の原初相の豊かさを論究するのがホワイトヘッド哲学の中心的な主題だったと言わなければならない。

禅仏教的な「分別知」以前のところに、自我、自覚、あるいは意識の統一といった概念を絡め
てくると(それは主体性ということに関わりますが)、そのような原初的な命題の世界になるの
ではないかと、私は思っております。そのような観点から、村田さんと守永さんのお話の共通
点を探っていきたく、思っております。

> 守永先生が示されたのは、この自由な創造活動が、単に何かが精緻な法則性を逸脱しながら動き回っているといった「盲目的な」乱舞にとどまらず、まさに秩序を目指し、しかも「新しさ(novelty)」としての秩序を目指した活動である(のはなぜか、またいかにしてか)、という論点です。遊び概念からホワイトヘッドを解釈するとき、ここが急所になる、という問いかけは、私は大事に受け止めて、数年単位の時間をかけて取り組んでいこうと思います。

村田さんが最後にまとめられた事柄ではありますが、この点について、まったくの同感で、私
においてその切り口は、学問の「自由」性、普遍性、ということになるかと思います(なにぶん
数学的な理論家というのは単純が好きなので…お許し下さい)。

村田さんの「第三相」という概念に関連して、私もまた、自身の研究計画に関して、今や遂に
第三ステージに入らねばならない、入るべき時期が来た、と考えております。

引き続き、先生方を何よりの頼りと致しております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

浦井 憲
浦井 憲 2019/02/09(Sat) 21:20 No.174
12月6日のメール内容(村田康常):RE: 村田康常先生の守永先生へのリプライ(No.162)を受けて
村田康常です。
このスレッド「2019年3月方法論セミナーへの準備:スレッドNo.148「ホワイトヘッド学会@後楽園」 とNo.157「友愛と正義」を受けて」は、浦井先生が説明されたように昨年(2018年)12月にスレッドNo.148とNo.157ならびにその後のメールで交わされた議論のうち、みなさまの目に触れないメールでの議論をオープンにし、そこからさらに議論を展開していこうという主旨で浦井先生に立てていただいたものです。
浦井先生の上の記事「12月3日のメール内容(浦井):村田康常先生の守永先生へのリプライ(No.162)を受けて」のもとになった12月3日のメールに私が12月6日に返信したメールを下に(少し手直しして)掲載します。

ここでは、自己が自己自身を創造的に生みだしていくという自由で自立的な創造活動がもっている問題が指摘されます。すなわち、自己が自己自身の主体的な自己創造活動の対象(客体)になり(つまり自己が自己自身を対象化・客体化し)、そのことによって自己の自由な主体性が奪われていくという問題です。

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浦井先生、守永先生、村上先生

浦井先生の12月3日の上記メールと前後して同じ12月3日に私もこのBBSのスレッド「ホワイトヘッド学会@後楽園の感想」に「Re: 構想力と象徴、そして学問というスタンス」という記事を投稿しましたが、これは12月3日の浦井先生からのメールへの応答ではありませんでした。そこで、改めてこの12月3日に浦井先生からいただいたメールに対して応答を試みたいと思います。

浦井先生からのメールでは、私がむきになって守永先生に反論している部分は穏やかに回避して、論旨だけをうまく取り出してくださいました。ありがとうございました。ホワイトヘッドの宇宙論をそのまま遊びの哲学として解釈する際に直面する問題点を守永先生が指摘してくださったことには本当に感謝しています。ホワイトヘッド思弁哲学の方法論としての「想像力の飛躍」が、「遊び」だというだけでは終わらず、同時にそれは「秩序への意志」でもあるということ、そしてホワイトヘッドの思弁哲学の方法論は「想像力」だけでなく「論理体系」あるいは「一般的諸観念の合理的な体系」をめざすものでもあるということが、守永先生の論点でした。それは、私にとって重大な指摘でした。さらに、整合的で十全で「緻密」な論理体系によって表現するというホワイトヘッドのスタイルの背後には、情緒的あるいは実存論的な不合理性(というか不条理というか)を洞察するような直接経験とともに、宇宙に秩序を、社会に法を見いだす倫理的な観点があるという指摘も守永先生の論点でした。

いずれもその通りで、遊びを幾つもの相に重ねて見たり、遊ぶ主体が遊ばれる「具」にもなっていくという遊びの再帰性を重大視したりするような視座と、守永先生が強調されるような秩序への意志、法の重要性を核にすえる視座とは、相互に否定し合うというよりも、ホワイトヘッド宇宙論を解釈するための(そしてこの宇宙や社会や人間を解釈するための)相補的な観点となるという予感がしています。

遊びは、既存の秩序を成立条件としつつも、新たに秩序を創造するという意味で、創造性の具体的な活動様態だといえます。しかし、遊びには、新しさをめざすという創造性とともに、自らが創り出したものによって自らが制約され条件づけられる、という再帰性も孕んでいます。それが、今回BBSに投稿した浦井先生への応答のなかで論じようとしたことでした。

遊びには、新しさへの創造性とともに、それ自身の存立・展開を条件づけ制約するような再帰性もある、ということ、そこに、浦井先生が守永先生の指摘を再度強調されたような、主体性とその客体化あるいは物象化の問題が生じてきます。

どういうことかというと、遊びにおいては、遊ぶ主体が、その遊びを通して新たな秩序や規則を創り出していくことによって、その秩序や規則がその遊び自体を制約し条件づけて、そのことによって遊ぶ主体が、遊びによって限定され条件づけられるような客体ないしは、遊びの「具」になってしまう、という問題です。

この問題は、有機体の創造活動が自己自身に向けられるときに不可避的に生じます。自己自身に向けられた創造活動は、自己を秩序のうちに限定することで自己から自由を奪っていくという方向に働くおそれがあります。さらに、新たな秩序の創造には、古い秩序を破っていくという解体ないしは破壊もともないます。創造活動がもっている既存の秩序を超え出ていこうとする側面が強くなると、自己の存続に必要な外的・内的な秩序を破壊するという方向にも働くおそれがあります

自己自身が、自己の創造活動の対象(客体)となることによって、この創造活動がもっている秩序への限定性が自己自身を縛って自由を奪ってしまったり、逆に自己の既存の秩序を強く破壊して自己の存続条件を奪ってしまったりする、ということが生じるおそれがあるわけです。

法にも同様のことがいえます。成文法も自然法も、システムが自らを新たに作り出す、という創造性と、そのシステムが、自ら作り出したものによって制約され限定されるという再帰性という問題を孕む、という意味では、やはり遊びの問題と密接にかかわってくるのだと思います。作られたものが作るものを作る、というのは西田幾多郎の表現ですが、それは、「遊び」の活動にも「法」のシステムにも当てはまります。秩序を作る創造的な活動としての遊び、ないしは秩序形成としての法のシステムは、自らの形成活動によって作り出された秩序によって制約されたり、この形成活動によって破壊されたりする。田辺元は歴史的主体の創造活動を「被限定即能限定」と表現しましたが、ここでは順番が逆で、創造性という能限定が、そのまま能動的だったはずの自己に回帰して自己が自己の産み出したものによって条件づけられ限定され、場合によっては破壊されるという被限定に転じる、つまり、能限定即被限定となってします。そこにからむ再帰性は、法システム論においてルーマンが繰り返し取り組んだ問題の一つでした。法体系の歴史をオートポイエーシスとして見る、というのは、ほんのひと昔前には強い輝きを放っていた論題でした。

ホワイトヘッドの有機体の哲学は、そういったシステム論にも強い親和性があります。みずからが創り出し改変した環境によってみずからが制約され条件づけられる、というのが有機体のあり方だ、としたのはホワイトヘッドの『過程と実在』、特に「有機体と環境」の章です。そういう観点からホワイトヘッドやベルタランフィやノーバート・ウィーナーを読む、ということは日本でも盛んにおこなわれていました。

浦井先生は今回のメールで、私が仮に分けた遊びの3つの相、という思いつきを丁寧に拾い上げて、そこから学問とは何か、というご自身の問題に関わる思索を展開されましたが、この遊びの3つの相という仮の分類はまだまだ不十分で、そこに遊びの再帰性ないしは自己回帰性という問題を重ねることが重要になってきます。

守永先生とのやり取りのなかで浮かび上がった「自由と限定性」の問題も、この創造性と再帰性(ないしは回帰性)の問題に関わってきます。というのも、自由な創造活動にとって最も厄介な問題が、ここであらわになってくるからです。自らが存続し活動するための外的・内的な環境を作り出していくという有機体のあり方は、自己言及的であるだけでなく、自己の自由な創造活動によって自己自身が限定され、その自己限定によって自己の自由が失われていくという自家中毒的なあり方になるおそれもあるからです。自己の自由で創造的な活動(の産物)によって自己自身が制約され限定されて自由を失っていく、ということが、創造されつつ自らを創造するという自己創造的被造物としての社会システムや法や秩序や人間を含む有機体の宿痾となるような問題です。

自らの自由な創造活動がこの活動の主体に対して再帰的に働くことによって、主体の活動が新たに秩序づけられるのですが、そのような創造性とともに、この自己への再帰性によって自己の活動は自己自身の産み出した秩序によって限定され制約されていきます。この自己限定の側面が創造性よりも強くなってくると、自己の創造活動の本来の自由が失われて、自己が自己の産み出したはずの秩序によって限定されて創造性を失い、同じ秩序を反復的に保持するような活性の低いあり方へと堕していくいきます。これは「創造性」と「秩序」とのバランスが崩れて、「新しさへの創造的な前進」よりも「同一的な秩序の反復」が優勢になり、有機体が死に体になっていくという問題、ホワイトヘッドの別の言葉で言えば「自由」と「限定性」のコントラストが崩れるという問題です。

遊びの創造性は、このような問題を孕んだ再帰性ないしは回帰性と結びついています。ホイジンガは、遊びの創造性について次のように言っています。

「遊びは秩序を創造する。遊びイコール秩序である。不完全な世界と雑然とした生活の中で遊びは一時的で条件つきの完全さを実現する」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、講談社学術文庫、31 ページ)

この遊びが創造する秩序が、その遊びの創造活動自体を存立させる秩序となり、その創造活動を限定し制約する条件となっていきます。この遊びの再帰性という問題は、ベンヤミンが指摘しています。さらにベンヤミンは、遊びの再帰性には規則性やリズムがあるということを示唆しています。

「あそびの世界が個々の規則やリズムをすべて支配している――この大法則、つまり繰りかえしの法則こそ、あそびの理論が最後に研究しなければならないものだろう。子どもにとって繰りかえしがあそびの基本であり、「もう一度」というときがいちばん幸福な状態である、とわたしたちは知っている。……じじつ、どんなに深い経験であっても、すべて、あきることなく最後の最後まで、繰りかえしと回帰をのぞみ、出自の場である原=状況の回復をのぞむものである。「二度やれるものなら/なんでもすばらしくなめらかにできるのだが」。このゲーテの箴言どおり、子どもはふるまう。ただし子どもにとって重要なのは、二回ではなく、何回もであり、百回も千回もである。……おなじことを繰りかえす、これが、そもそも共同ということではないか。「かのようにふるまう」のではなく、「繰りかえしやる」こと。このうえなく心をゆさぶる経験が習慣へと転じること。それがあそびの本質である。/ほかならぬこのあそびこそ、ありとあらゆる習慣の産婆なのである。」(ヴァルター・ベンヤミン『教育としての遊び』丘澤静也訳、晶文社、64 ページ)

遊びにふける子どもは、その瞬間が絶えず新しく生起することを、しかも同じ瞬間が何度でも永遠に回帰することを欲しているといえるでしょう。再帰性を欲する無垢な意欲が子どもの遊びの根底にあることを、ベンヤミンはあたかもニーチェを思わせる口ぶりで次のように表現しています。

「ずっと昔から子どもは、あらゆるものが永遠回帰する、ということを知っていた。」(ベンヤミン『この道、一方通行』細見和之訳、76 ページ)

自己に回帰することが新しさを意欲することといかに結びつくか、というとき、システム論的な秩序の理論は、ベンヤミンが示唆するような遊びの理論を参照する必要があるでしょう。遊びにおける自由意志は、自らに回帰することを意欲し、自己が自己の活動によって限定されることを意欲する、しかもこの自己限定のうちに自由がある、というかたちで、遊びは自由と限定性のコントラストを描き出し、このコントラストを強めながら展開していきます。創造的かつ再帰的、能限定即被限定、自由にして自己限定的、という有機体や社会や宇宙の創造活動の在り方を論究するには、秩序への意志論とともに、遊び論が相補的に展開される必要があるでしょう。

どうやら、一生懸命浦井先生の応答に再応答しようとしているうちに、守永先生への応答になってしまったようです。改めて、この部分を深めながら、次にどこかでこの遊び論を発表することを目標に、考察を進めたいと思います。

浦井先生、守永先生、よい刺激と問いと導きをありがとうございます。

村田康常
村田康常 2019/02/10(Sun) 00:32 No.175
12月6日のメール内容(浦井):RE:12月6日のメール内容(村田康常)
以下、直前に投稿して頂いた昨年12月6日の村田康常先生のメール内容を受け、当方(浦井)が返信した内容(いくらか文章を整理しました)です。

****************

村田先生、守永先生、村上先生

引き続き、大変興味深い考察、応答をいただき、大変有難うございます。BBS では12月3日に
ご投稿頂いた村田先生の内容(「ホワイトヘッド学会@後楽園」スレッド No.163)を含めて、
お返事を書かせて頂いていたところなのですが、本日(12月6日)頂戴したメール内容も含め
て、改めて書かせて頂いております。

本日(12月6日)頂いた内容から:

> 自己に回帰することが新しさを意欲することといかに結びつくか、というとき、システム論的な秩序の理論は、ベンヤミンが示唆するような遊びの理論を参照する必要があるでしょう。遊びにおける自由意志は、自らに回帰することを意欲し、自己が自己の活動によって限定されることを意欲する、しかもこの自己限定のうちに自由がある、というかたちで、遊びは自由と限定性のコントラストを描き出し、このコントラストを強めながら展開していきます。創造的かつ再帰的、能限定即被限定、自由にして自己限定的、という有機体や社会や宇宙の創造活動の在り方を論究するには、秩序への意志論とともに、遊び論が相補的に展開される必要があるでしょう。
>
> どうやら、一生懸命浦井先生の応答に再応答しようとしているうちに、守永先生への応答になってしまったようです。改めて、この部分を深めながら、次にどこかでこの遊び論を発表することを目標に、考察を進めたいと思います。

遊びということの自由性を、再帰性ということとともに論じて下さったのが、今回の
要点と思います。再帰性というのは、今日の経済学がちょっと忘れてしまったところ
のものでもあり、そして時々悪戯のように思い出すこともあるところのものなのです
が、そういう社会の科学における、最も重大な案件でもあります。とても重要な点を
補完して、ご指摘下さったと思います。

先の第一の相、第二の相のお話を、私が今日の学問のあり方という問題に強いて
援用させて頂いたところをもって、仮に第一層、第二層と(言葉を変えて)呼ばせて
いただくならば、まさしく第三の相を実現するための第三層は、学問をする専門家
の自己回帰、即ち学問の「自由」性を、そして学問の主体性を取り戻す、「再帰」の
層でなければならない、ということになってくるかと思います。また、そうなるときに、
初めてこの話は一つの閉じた(自分に戻ってくる話の)体系として、完成してくると
いうふうにも思われます。

自由ということは、自ら根拠付けることでありますから、正しくそれは主体性であり
ますし、また自らを自らが根拠付けるということは、再帰性という表現を通じて、今回
村田さんが最も遊びと結合させることを強調された概念でもありますので、このよう
に考えさせて頂いて、問題無いのではないかと思います。


月曜日(12月3日)の BBS にアップして下さった表現(No.163)を通じて申し上げ
ますと、まさしく問題となっておりますのは、

> 遊びが創造性を具体化した活動だという見解が最終的に向き合わなければならないのが、遊びを通して創造される世界は調和的な秩序、友愛と優しさと愛情の世界を実現しているのか、という問い

という問いでありますし、そのことに向け、少なくとも「遊び」というキーワードから
見えつつある状況について、

> 「世界の遊び」が「平和」を実現するとすれば、それは、対立するものを一つの原理、一つの形式、一つの生き方、一つの理想のもとに統合するような「画一化の福音」ではなく、多様性と冒険を許容し、多様な諸要素が多様なままでコントラストにおいて調和するような「調和の調和」の実現によってだろう、といったような答えになっていくだろうと思います。多様性とは何か、画一化とは何か、対立とは何か、そして調和とは何か、対立するもののコントラストにおける一致とは何か、また、いかにしてか、といった山のようにたくさんの問いが出てくると思いますが、

というのは、極めて十全な言葉を尽くして下さったものと感じます。

そして、そこに今回の再帰性(単なる繰り返しではなく、自由性、主体性と絡めた
概念として)が加わりますと、まさしく「遊び」に「自由」と「主体」が加わった形で、
いよいよ問題の核心に迫っていくことができる準備が整いつつあるように思われ、
とても期待します。


再度本日(12月6日)頂戴したメールの内容に戻しますと、

> 遊びは、既存の秩序を成立条件としつつも、新たに秩序を創造するという意味で、創造性の具体的な活動様態だといえます。しかし、遊びには、新しさをめざすという創造性とともに、自らが創り出したものによって自らが制約され条件づけられる、という再帰性も孕んでいます。それが、今回BBSに投稿した浦井先生への応答のなかで論じようとしたことでした。
>
> 遊びには、新しさへの創造性とともに、それ自身の存立・展開を条件づけ制約するような再帰性もある、ということ、そこに、浦井先生が守永先生の指摘を再度強調されたような、主体性とその客体化あるいは物象化の問題が生じてきます。
>
> どういうことかというと、遊びにおいては、遊ぶ主体が、その遊びを通して新たな秩序や規則を創り出していくことによって、その秩序や規則がその遊び自体を制約し条件づけて、そのことによって遊ぶ主体が、遊びによって限定され条件づけられるような客体ないしは、遊びの「具」になってしまう、という問題です。


再帰性の中で、翻弄される、という問題が残っているように思います。この点につい
て、一言私が上で「三つの相」をあえて「三つの層(ステージ)」と言い換えたことと
合わせて、意見を述べさせて下さい。

上述されたような「具」になるという問題、主体が客体になると言う問題は、主体の
主体性が喪失することによってのみ生ずる問題として、「成り行く」ものが主体性を
もって「問い直し」を続ける限りにおいて、「層」の異なる問題として排除されること
が、期待できるのではないかと思います。もちろん、思考停止してしまえばそこで終
わってしまうのですが、我々には幸いにして記憶というものがあり、必要に応じて、
そのかつての経験を乗り越えることができます。というか、否、実は同じ事に向けた
繰り返しへの郷愁をいくら募らせたとしても、全くの同一繰り返しなどは、実際には
不可能であり、いくら「もう一回」と願っても、それは無理だということを、必ず子供
も知ってしまいます。

そして子供は大人になっていくという…悲しいけれども、それは皆が経験して来た
事柄でもあると思います。

この悲しみは、ダイレクトに「消滅」とか「死」ということと関わっていると思いますが、
そうした永劫の悲しみが根底にある限り、上記の「問い直し」は、続けられざるを得
ないものであると思います。加えて言えば、そのような「悲しみ」こそ、最も普遍的に
「共感」されるものの候補の一つではないか、と思います。「死」ということ、「孤絶」
ということが、いずれ「遊び」ということも「永遠の楽しい時間の繰り返し」などという
ものも、完膚なきまでに破壊してしまいます。そしてそうであるからなお一層、我々は
生のせつなの喜びを、遊びを、大切に思い、永遠の繰り返しへの憧憬をもち、郷愁
を募らせる、またそこへの憧れと、届かぬものへの悲しみを、共感しようとするので
はないかと思います。友愛ということもまた、そうしたものの中で、生まれてくるもの
であるように思います。

遊びの「真の」主体性、自由性というのは、そのようなところを根源にしているので
はないでしょうか。私は、西田が、ありとあらゆるものの根源になければならないと
述べる「宗教」というのを、上のような内容にかかわるものとして、把握しているの
ですが。

学問、倫理、そして遊びの根底には(西田的に言えば)宗教(あるいは「死生観」の
ようなもの)がなければならぬ…ということでしょうか。

浦井 憲

P.S. ホワイトヘッド的には、おそらく宇宙論そのものなので、そのものが死生観も
含んでいるのでしょうね。「遊び」についても、それは死生観までをも含んでいるの
だ、と言うことは可能でしょうね。すべては戯れであると。でもそうすると、主体性や
自由性について述べたとしても、翻弄は翻弄されるで終わってしまうような…嫌い
がありますね。なるほど。すみません、これら一人合点ですが、メモ的なものとして、
どうかお許し下さい。
浦井 憲 2019/02/10(Sun) 03:33 No.176
12月8日のメール内容(村田康常):RE: 12月6日のメール内容(浦井)
村田康常です。浦井先生の上のメール(No.176の記事「12月6日のメール内容(浦井):RE:12月6日のメール内容(村田康常)」)を受けて応答した返信メールを掲載します。
ホワイトヘッド哲学を「遊びの哲学」という観点から読解するという今の私の主題に沿った応答ですが、読みかえしてみると、浦井先生の問うている近代の学問の専門分化の問題、あるいは学問における自由性や主体性の問題、さらには「具体性を置き違える誤謬」にまつわる問題圏に触れていく議論のなかの1場面となっているように思います。

----------------------

浦井先生、守永先生、村上先生

これまで主に浦井先生と交わしてきた議論は、私の関心にひきつけて言えば、ホワイトヘッド哲学を遊びの哲学の観点から読むという方向の核心部分に徐々に迫っているのかもしれません。とはいえその接近はまっすぐな線ではなく、大きく螺旋を描きながらその軌道がゆっくりと焦点に向かって迫っていくような感じがします。再帰性あるいは自己回帰性、遊びのリズムと秩序、遊びの主体性とその客体化、という議論まで来て、浦井先生が12月6日のメール(上のNo.176の記事)において生成と消滅、あるいは生と死、そして永遠への憧憬ないしは恒常性の希求あるいは過ぎ去ったものが回帰することを求めるといったところまで議論を深め、とうとう遊びの楽しみと悲しみが交錯するところ、遊びの歓喜と悲哀という問題圏が見えてくるところまで来たようです。ホワイトヘッドの言葉で言うと、現実世界のアクチュアリティを新しい唯一的な価値の実現という創造性のうちに見るだけでなく、その価値創造の興趣(zest)に必然的にともなう価値の享受(enjoyment)あるいは価値の客体化と、その価値が永劫に過ぎ去っていく(perpetually perishing)という価値経験における主体的直接性の消滅とが、いよいよ問題になってきたということだといえるでしょう。この最後の一文で用いた語はほぼすべてホワイトヘッド哲学の最重要のキーワードです。

そこで、ホワイトヘッド哲学が、この生成と消滅について語る際に、主体(subject)の客体化(objectification)あるいは主体的直接性(subjective immediacy)の消滅と客体的不死性(objective immortality)の獲得という言葉とともに語るのが、「自己超越体(superject)」あるいは「主体-自己超越体(subject-superject)」という語です。このsuperjectという語の日本語訳は、「自己超越体」という語が一般的ですが、「自己」という語をとって、「超越体」といった表現でもいいと思いますし、守永先生は「超体」という訳語を試みています(ここでは、主体の客体化を自己回帰性とからめた議論と対照させるために、客体化する主体が自己回帰するだけでなくむしろ自己を超え出ていく、という意味で、あえて「自己」という語を残したままにして、「自己超越体」という従来の訳語を使いたいと思います)。

ホワイトヘッド哲学に照らしながら、「遊び」における主体性や客体化を議論する際に、再帰性や自己回帰性とともに、遊びにおける自己超越性についてもより突っ込んだ考察をしなければならないと思われます。というのも、ホワイトヘッド哲学では、「主体(subject)」という語は常に「主体-自己超越体(subject-superject)」を意味するとされているからです。

自己が自己であるということは、自己が自己自身を限定するということ、そのような意味での自律であるとともに、また、自己が自己自身を超え出ていき、自己自身の制約や限定性や生成消滅の有限性を超え出ていくという意味での自由でもあります。自己はただ自己に由るという意味での自由とともに、自己を超え出ていくという意味での自由もまた、主体性に含まれています。自由と限定性のコントラストというホワイトヘッドの議論は、このような意味も含んでいると解釈できます。ホワイトヘッドは、主体の生成消滅のプロセスにおける主体の客体化を主体-自己超越体と表現していると解されてきましたが、主体の客体化だけでなく、主体がそれ自体へと生成していくことも自己限定であるとともに自己超越であるという意味で、主体-自己超越体を理解することもできると思います。言い換えると、自己への生成と生成した自己の主体的直接性の消滅の両方にわたって「自己超越体」だと考えることが可能だということです。

難解に読まれてしまいがちなこのホワイトヘッド哲学の核となる洞察と理論にアプローチするために、自己超越性/自己回帰性のコントラストや自由と限定性のコントラストを「遊び」という概念で解釈してみることは大きな可能性をもっているのではないかと感じます。

このところ毎夜、帰宅してから浦井先生や守永先生の言葉を読みかえすということをしながら、特に最後に浦井先生からいただいた言葉に刺激を受けて、自己超越体としての主体の自己限定と自己超越ということのうちに遊びの本質があるのではないかというような考えが徐々に浮かんできているようです。想像力の飛躍によって活性化されるのが遊びであり、したがって、遊びは自己の条件となる秩序を創出するという活動性であるとともに、同時に、自己を超え出る活動性でもある、ということがいえるのではないかと思われます。浦井先生は上の12月6日のメールのなかで「実は同じ事に向けた繰り返しへの郷愁をいくら募らせたとしても、全くの同一繰り返しなどは、実は不可能であり、いくら「もう一回」と願っても、それは無理だということを、子供も知ってしまいます。」(No.176)と書かれていますが、自己も、自己が馴染み、愛着し、求めているような他者や環境も、全く同一の繰り返しなどは不可能だということが、この主体と客体化と自己超越体という論題にからんできます。言い換えると、自己の自己自身への回帰性とか反復とかに対して、自己の自己自身に対する差異ということがからんでくる。そのために、同一物の永遠回帰ではなく、自己への回帰が自己の差異化でもあるという仕方で、生成消滅する出来事とその出来事たちによって織り成される世界の創造的前進プロセスは、円環的ではなく螺旋的に進んで行くということが言えると思います。

いろいろ刺激をいただいて、感謝いたしております。まだ固まってきていませんので、もう少し考えてみます。
村田康常 2019/02/10(Sun) 10:50 No.177
12月10日のメール内容(浦井):RE:12月8日のメール内容(村田康常)
12月のメールのやりとりとしては以下が最後になります。ここでは「主体」性ということに向け、
ホワイトヘッドの「主体-自己超越体」という問題に関連させつつ話が展開しているところです。
前年三月頃にも超越論的な主体ということについての話が出ていた と思います。今回はそれ
がいよいよ問題の鍵となって、現れて来ているのではないかと、個人的にはそのように感じて
おります。主体が自己を超越するという、そのような主体のあり方についての議論が、いわば、
「遊び」における主体性とは何か、という問題として、富、Redundancy, 遊びを含めた一連の
テーマに重要な切り口を与えてくれるのではないかと、期待するところです。


**************************
村田康常先生、守永先生、村上先生

ご連絡有難うございます。村田先生が、遊びの「楽しみ」と「悲しみ」の交錯ということを通じ、
ホワイトヘッド哲学の大変難解な部分を、これほどに身近な問題として導いて下さったこと、
感謝申し上げます。

> 現実世界のアクチュアリティを新しい唯一的な価値の実現という創造性のうちに見るだけでなく、その価値創造の興趣(zest)に必然的にともなう価値の享受(enjoyment)あるいは価値の客体化と、その価値が永劫に過ぎ去っていくという価値経験における主体的直接性の消滅とが、いよいよ問題になってきた

すべて、ホワイトヘッド哲学のキーワードということで、今後の読解に役立てたいと思います。
有難うございます。

> ホワイトヘッド哲学が、この生成と消滅について語る際に、主体(subject)の客体化(objectification)あるいは主体的直接性(subjective immediacy)の消滅と客体的不死性(objective immortality)の獲得という言葉とともに語るのが、自己超越体(superject)あるいは主体-自己超越体(subject-superject)という語です。

実は、まったく偶然なのですが、私もこのところ、いわば「超主体的」ということについて、この
先(近代の超克という意味で、学問、技芸広く全体に渡って)鍵となる、少なくとも、そのため
の手がかりとして、極めて重要であるという気がしてしかたがなかったところなもので、大変
興味深いです。

> 再帰性や自己回帰性とともに、遊びにおける自己超越性についてもより突っ込んだ考察をしなければならないと思われます。というのも、ホワイトヘッド哲学では、「主体」という語は常に「主体-自己超越体」を意味するとされているからです。

> ホワイトヘッドは、主体の生成消滅のプロセスにおける主体の客体化を主体-自己超越体と表現していると解されてきましたが、主体の客体化だけでなく、主体がそれ自体へと生成していくことも自己限定であるとともに自己超越であるという意味で、主体-自己超越体を理解することもできると思います。

なるほどです。そのように「主体」性を捉える立場が、我々が通常「主体」性として、自覚、自己
認識といったことを行っていることと、ダイレクトに翻訳可能かどうか、また翻訳するためには
どういう前提が必要か、そういったところを詰めていかねばならないとは思うのですが、とても
重要なことがらと思われます。

引き続き、しっかり考えたいと思います。

加えてですが、「遊び」「主体性」「自由」と、3つが連なると、何かそこに「希望」(と呼ぶのが
良いのかどうか幾分不安ですが…)があるような気がします。

自由も、主体性も、確かに良い言葉なのですが、もしかすると、場合によっては、本当に疲れて
しまったとき、精神が疲弊しきっているとき、そこから我々は何も導き出せなくなりそうな、そこで
窮地に陥ってしまいそうな、そんな堅苦しさがあるような気がするのですが(特に自由=根拠
と言ってしまうと、その分その方向の力が強まりますよね)、しかし、そこに、それは究極「≒遊び」、
と並んでくれると、何か一気に、希望が出てくるような気がします。そういう(いわば、そういう
「論理的」というか、「学問的」というか、「哲学的」に支えられた)希望が、我々には必要である
ような気がします…。

> 自己も、自己が馴染み、愛着し、求めているような他者や環境も、全く同一の繰り返しなどは不可能だということが、この主体と客体化と自己超越体という論題にからんできます。言い換えると、自己の自己自身への回帰性とか反復とかに対して、自己の自己自身に対する差異ということがからんでくる。そのために、同一物の永遠回帰ではなく、自己への回帰が自己の差異化でもあるという仕方で、生成消滅する出来事とその出来事たちによって織り成される世界の創造的前進プロセスは、円環的ではなく螺旋的に進んで行く

ここでの「差異」について、それは子供の頃には、場合によっては「成長」としての喜びに
も関わっているでしょうし、そして、まあ年を経れば「老い」としての悲しみにも、関わって
くるのでしょうか…。もちろん、そういった「成長」を悲しみに、「老い」を喜びにも、変えて
いける、そのようなところに、先にあった「subject-superject な(真の、超)主体性」が関
わっているのでしょうか。そんなふうに、思われます。


Lou Reed が(すみません…以下通じなかったら、どうかお許しの程) Berlin の Ending
において、

I'm gonna STOP WASTING my time ...

(もう時を無駄にするのはやめよう)と、過去の自己を超えて歩き出しつつ、それをもって、
なおかつ、

... Sad Song ...

(悲しい歌だぜ…)と、天使の歌声のごときコーラスに混じえて、それこそ「超主体的」な
歌声で繰り返す、あの心境に、重なるように思います。

死んで生きること、生きながらにして死んでいるようでもあること、禅なら、そのような境地
とも重なるのではないかと、そんなふうにも思います。

引き続き、しっかり考えていきたいと思います。取り急ぎ、御礼申し上げます。


浦井 憲
浦井 憲 2019/02/10(Sun) 17:01 No.178
3月18日方法論セミナーに向けての問題提起
現時点での企画は以下の通りです。(3月18日(月)大阪大学:14時頃からの予定)

基調講演 『無知と富の経済哲学 -経済存在論試論-』 葛城政明氏(大阪大学) 90分
全体討論 『富・無知・合理性・Redundancy・遊び・貨幣、そして命題と主体性を巡って』 90分


葛城先生のお話は、富≒余剰≒Redunduncy ということが、「無知」(これは後にも
述べますように本質的で避けられないタイプの無知と言うべきものかどうかが問題
となると思いますが)とあいまってもたらすところ、すなわち、「必然」ということに近く
ても結局は「戯れ」に過ぎないそのようなものの引き起こすところが、実際には文明
における極めて重大な決定要因と言える(Social Ontology的に)という、そういう
お話と理解しております。


このお話は、まずここしばらく塩谷先生がご関心をお持ちであるところの「貨幣」の話
と密接に関わっていると思います。つまり、貨幣というものを、交換手段として眺める
視座、予め価値が定まったものどうしの交換という(通常の貨幣を捉える)視座に対
して、むしろ価値など未だ考えられていない遊びの部分(≒Redundancy)に向け、
それを積極的に見出していく、という視座に、深く関わっています。偶然ですが、私と
村上さんがここしばらくやっている satiation economy(選好が飽和的な構成員の
存在する経済)における貨幣的一般均衡(dividend equilibrium)の問題も、それと
同方向の貨幣を取り扱う話であり、いくらか運命的なものを感じます。

経済学方向に話題を限った前回(8月)のセミナーでは、ビットコインの話を絡めて、
公共財と貨幣の話を取扱いましたが、これも「フリーライドできる公共財」という、言
わば「政府が持つ余剰」に向けて、それを積極的に「取りにいく」ことを許す「政府の
貨幣発行」という問題意識でした。(地域貨幣などにも、同じ側面があると思います。)
この側面は政府で言うと赤字財政(建設国債)「が良い」という話になるので、若干
注意は必要ですが、純粋理論的にも議論が残されているのは間違い無さそうです。

現実社会を眺めていても、市場とか、競争と言いながら、結局は公金に群がる状況
がどこの国でも見られますが、それはすなわち強制的に集めた余剰(+貨幣発行権)
という、国家の余剰(≒Redundancy)の奪い合いとも見ることができ、(葛城先生
の言われる無知と富が今日も変わらず)経済を「動かす」最も大きな要因であると
いうのは、決して否めないこととも言えるように思います。(近代社会で言えば、即ち
それは「政府の力」であり、その力を強調する学説の代表がケインズ経済学と言え
ると思います。)

そのような現実の動学という観点からすると、市場における交換と最適な資源配分
という問題には、当然政府の役割という問題が絡んでくるわけです。大きな政府と
小さな政府という言葉を用いるなら、主義の問題になってしまいますが、純粋理論的
に申し上げても「スミスの見えざる手」が働くということについては、「政府の信用」が
入り込んだモデルだと(言えるとしても)かなり限定的なものになります。

(例えばモデルの設定次第で、弱い意味での最適 weak Pareto くらいなら言える
かもしれませんが、実はその下で satiate している人がいるとすれば、いかなる配分
も weak Pareto であったりするので、インパクトはかなり弱くなります。)

このように「信用」と「貨幣」の問題が今回のテーマにおいては「余剰」ということを
媒介にして密接に関わって来ると思います。そこをもって言い換えれば、富と無知の
問題はバブルの問題の一般化とも言えますし、またバブルが必然であることの証左
の問題とも言えるかと思います。すべてはバブルである、ということです。

(そして多分それは正しいです。これは以前議論された、岩井克人の貨幣論の話と
も密接に関わります。岩井克人氏は「超越論的」に「貨幣」を位置付けますし、そして
それはそれで正しいのですが、問題はそんな「貨幣」は「現実には絶対に存在しない」
ということの方だということです。すべてはバブル≒虚構である、その可能性を排除
できないことにこそ、真の問題が存在しているのだということです。もっともこの真の
問題ということと、現実的な経済政策ということもまた、別の問題です。)



さて、貨幣と絡めてバブルという問題で表現してしまうと、葛城先生のお話は「遊び」
≒「余剰」の持つ、負の側面だけを強調してしまうように思います。それは、「遊ぶ」と
いうことの「主体性」ではなく、以前の投稿で村田先生の言われた、遊びに「翻弄」
されるという、主体性の喪失場面。そのような側面のみが、強調されているということ
になります。

全てがバブルであるとしても、すべてこの世がゆめまぼろしであるとしても、我々は
そうであるからといって生きることを止めはしませんし、(本当の意味で)良く生きる
ということについての考え方を、放棄しようとは思わないはずです。「学問の方法」と
いうのは、そういうことに向けて、開かれているのでなければなりません。

葛城先生は、ここで「Social Ontology」の問題として、新たな経済学の哲学を打
ち立てようとされるところと理解しております。そして私自身の関心は、その立場に
大きく賛同しつつも、しかしそこからの話(学問としての立場・方法論ということ)
になります。言わば、その具体的内容に関わってくると思います。

それは「富」ではなく、むしろ「無知」と関わります。「無知」とは何かということです。
裏から言えば、むろん「知」とは何かということでもあります。

ケインズは確かに本質的な不確実性を問題としました。けれども、その本質的な不
確実性(真の無知)を、単なる合理的ではない消費関数(一つの特殊な無知)、と
固定してしまったら、それは一つの合理的な説明としての IS-LM 分析でしかなく
なります。そして新古典派総合となって、行き着く先はルーカス批判です。今日では
行動主義経済学という名前で繰り返そうとしている学問的状況が、まさしくそれと
同じことです。Social Ontology に依拠する方法論は、そういう(「特殊な無知」
に基づくケインズ理論のような)ものを支持してしまう危険性を常に孕んでいるの
ではないか、というのが私の危惧です。Social であっても、ontology である限り、
それは宿命ではないか、という問題が、そこで提起されると思います。

ここで大事になってくるのは、無知という言葉の裏側にある、真の知とは何か、と
いうことだと思います。真の知の前ではすべてが無知です。ということは、無知とは
何かといえば、「全て」ということになります。それはある意味正しくて、今日社会も
また無知だというのは、間違いありません。

ではどうすれば良いのか、何を「学問」の立場として、方法論の根源に見出すべき
なのか。そこで、問題は「主体性」ということに突入せねばならないのではないか
ということです。

ここからが、守永先生の「命題」と「主体」性の問題、そして村田康常先生の「遊び」
と「主体-自己超越体」の問題と関わるところになります。



「学問」とは何か、学問という立場、その役割と可能性、今日の学問の専門性という
あり方。これは今、こうして話をしている我々がまさしく乗っかっている立場でもあり
ます。そこに関して、再帰性のある問題です。今回の葛城先生のお話は、それが広く
「方法論」のお話であるということを通じて、守永先生、村田先生のご関心と深く関
わるところになると考えます。

専門科学としての経済学というのは、村田康常さんの表現で言えば「第一の相」
の遊びになります。そして、それを俯瞰する立場というのも、已然として「第二の相」
の遊びという域を出ません。

いわば村田先生の言われた遊びの第一の相、第二の相あたりで、この話を止める
のではなく、第三の層に進まなければならないということです。そこでは、良いとか
悪いとか以前の、その前段階において「遊ぶ」ことの主体(subject-superject)
性ということが問題になります。そこを問題とせねば、「方法論」の話は完結しない。
村田さん、守永さんのお話を、そこに関わるものとして「方法論」の話に取り入れた
い、というのが、私の問題意識になります。

主体という問題は、ちょうど昨年の今頃にも、鈴木先生、守永先生をはじめとして、
とても話がはずんだところですが、まさしくその話の続きにもなります。とくに、守永
さんはずっとこの意味での「主体」性が鍵になるということを、私に伝え続けて下
さったと(私は)思っております。もちろん鈴木先生のお話であった(超)「主体性」
とも、この問題は直接的に関わっている(学問成立させるための)と思います。ここ
ではそれを「超越論的」主体ではなく、「主体-自己超越体」(ホワイトヘッド)として
見ようという立場の違いはありますが。

(「超越論的主体」の話というのも、この「主体-自己超越体」の話の特殊ケース
として見ることができるのではないかという気がしているのですが…すみません、
これは不完全で、まだ自分でも煮詰められていない見解です。)

守永さんがこの秋に「言語以前の命題」という表現とともに、そしてそれ以前にも
「共振」といった表現とともに、そして「友愛と正義」という言葉を用いて BBS で
も訴えられた問題の「背後」に、学問のための「遊びの第三の相」とは何であるか
ということのヒントが隠されている。そのように考えています。

簡単に言い換えれば、学問を「俯瞰する」にしても、その根拠は何か。その場所とは
何か。根拠や場所という表現が良くなければその媒介は何か。そういうことに問題
は降りてくるかと思います。

学問のあり方(方法論)ということから考えると、そこが最も大事なはずです。そこは
まさしく遊びの「第三の相」という、村田先生が言われたところと、具体的、現実的
にはどう向き合うのかという話(加えてそもそも向き合えるのかということも含めて)、
そういう話になると思います。

村田康常先生の言われる「遊びの第三の相」を、学問のあるべき方法として考えて
みるという話(これは村田晴夫先生の「文明と経営」延長線上の話として、学問の
あり方、学問するということの意義、といった話でもあると思います)は、すでに BBS
のこの投稿に先立つところでまさしく提起されているところですが(お時間あれば
眺めていただければと思いますが)、ここではそれをまとめて、少し発展させた形で、
簡単に再提起させて頂こうと思います。

「遊び」という表現で、この段階の学問のあり方を捉える場合、メリットは「楽しい」と
いうこと(幾分誤解を恐れず申し上げれば)ですが、デメリットは「遊んでる場合では
ない」という批判(これも誤解ですが)に晒されるということです。後者は特に深刻
ですが、禅における「遊戯三昧」(仏に会えば仏を殺し)といったことの真の意味等
と合わせて、その意味を訴えることで、ある程度、誤解は防げるのではないかと思い
ます。

論理も含めて、広く我々を共振させるもの。それは音楽とか、絵画、情景、詩、様々な
イメージ、頭 mind の働きだけではなく、広く身体それ以上を含めて訴えてくるもの、
それを広い意味での「命題」と呼ぶことにします。すると、我々が、もし主体として、そ
の中で我々に自由があるとするならば(これもそのような自由があるのか無いのか、
我々は共振するだけで、それに翻弄されているだけかもしれないので、分からない
のですが、それは自由があると思っているならそれでいいということで、どちらでも
いいので)、そのような「命題」に突き動かされる、共振を求める衝動に、より素直で
あるかどうかという、その程度のことなのかも知れません。

そこで、そのような最終的判断を、「遊び」というワードで捉えるとすれば、まずは、そ
の「主体」が「楽しむ」べき、ということになるかと思うのですが、この場合の「楽しみ」
というのは、感性による、至高の判断という段階にある、 本当の喜びでなければなり
ません。それによって、本当の(真の)幸福(善)による、至高の判断(美)というもの
を期待できるという、そういうものになり ます。よって、このような捉え方は、「真善美
の究極的な一致(即ち調和)を期待できるということ」こそが、本当の幸福であると
いう村田晴夫先生の定義と整合的かつ補完的なものになると(私は)思います。

更にこの「主体」というのは、単なる「主体」ではなく、「どこまでも問う」、「徹底的に
問う」、そのような主体でなければなりません。その意味で、「自己に再帰してくる」
ような主体。自己をどこまでも超越していくような主体、subject-superject 的な
主体でなければならないということがあります。

昨年7月の「哲学スルとはどういうことか」(どこまでも徹底的に問うことである)に
おける問題意識が、今再びここで活きてくるように思われます。そこに依拠すること
で、「遊ぶ」ということの「主体」性、そして真の喜び(善)による至高の判断(美)と
いうことを期待でき、また「問い続ける」ことができる。それが「学問」の場所であり、
そして最も広義の「方法」と言えるのではないか、ということです。

村田晴夫先生的な「真善美の究極的な一致」問題と、この学問の「方法論」問題
を綜合していくところでは、守永先生、村田康常先生には、また異なった考え方が
あるかもしれません(おそらくあると思います)。そのあたり、ぜひとも議論できたら
と思っております。

以上、今回の葛城先生のテーマと、それに関連する形でのこれまでの当セミナー
の議論をまとめるものとして、今回の全体討論『富・無知・合理性・Redundancy・
遊び・貨幣、そして命題と主体性を巡って』、開始前の、準備としての問題提起と
させて頂きます。

引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 (浦井 憲)
浦井 憲 2019/02/18(Mon) 19:33 No.179
追記: 3月18日方法論セミナーに向けての問題提起
連投になってしまって申し訳ありません。

先ほどの投稿の第三部の真ん中あたりで「超越論的主体」との関わりで述べさせて頂いたところ:

>(「超越論的主体」の話というのも、この「主体-自己超越体」の話の特殊ケース
>として見ることができるのではないかという気がしているのですが…すみません、
>これは不完全で、まだ自分でも煮詰められていない見解です。)

について、少しだけ思うところがあったので、付記させて頂きます。

「主体-自己超越体」というものが「何らかの主体のあり方に対してそれを超える」という意味を
もって、それを言わば「写像」と捉えるのであれば、「超越論的主体」というのは、その写像の
不動点(とあるタイプの学問を成立させるためのという限定条件を付けた上で)という位置付け
になるのではないかと思います。写像と不動点の関係は、関係性と対象物の関係の、中間に来る
ように思います。これは現実の学問の流れ(現実的に用いられた方法論という意味で)の中でも
例えば経済学だと「ルーカス批判と合理的期待均衡」のような形状で、随所に現れているように
思います。実際には「関係性」であるところのものを、とりあえず「不動点」として見るという
のは、極めてあちこちで見られる方法であると(それだけに罪深いのかも知れませんが)改めて
感じ入ったところです。

連投でした。すみません。  (浦井 憲)
浦井 憲 2019/02/19(Tue) 00:36 No.180
3月方法論セミナーに向けて幾つかの概念の整理
お世話になります。浦井@大阪大学です。先々週になりますが、阪大にて二月度
の方法論研究会がありました。

福井先生からのコメントを中心に三月の葛城先生のご講演内容に向けての討論の
準備が行われました。そこでの内容を含めて、何点か更なる概念の整理をさせて
頂きます。(箇条書きにしますので、ご自身の論点と無関係と思われるところは、
どうか適宜、飛ばしてお読み下さい。)


(1)先の浦井投稿 No.179 における◆印の第三部で以下のように書きましたが:

> 論理も含めて、広く我々を共振させるもの。それは音楽とか、絵画、情景、詩、様々な
> イメージ、頭 mind の働きだけではなく、広く身体それ以上を含めて訴えてくるもの、
> それを広い意味での「命題」と呼ぶことにします。すると、我々が、もし主体として、そ
> の中で我々に自由があるとするならば(これもそのような自由があるのか無いのか、
> 我々は共振するだけで、それに翻弄されているだけかもしれないので、分からない
> のですが、それは自由があると思っているならそれでいいということで、どちらでも
> いいので)、そのような「命題」に突き動かされる、共振を求める衝動に、より素直で
> あるかどうかという、その程度のことなのかも知れません。

この後半で述べたことは、現在の問題をいわゆる「自由意志」の有無という問題
からは独立させ得るということの、単なる確認です。「遊び」における「主体性」
の意義を考えるにあたって、そこに「神の導き」のようなもの、cosmic drive
のようなものが有るとしても無いとしても、問題ではなく、大事なのは「主体性
の役割」であって、そこにおける「自由性の存在(ひいては「主体」性の最終的
な存在)」では無いということです。

更に一段落置いて、次のように書きましたが:

> 更にこの「主体」というのは、単なる「主体」ではなく、「どこまでも問う」、「徹底的に
> 問う」、そのような主体でなければなりません。その意味で、「自己に再帰してくる」
> ような主体。自己をどこまでも超越していくような主体、subject-superject 的な
> 主体でなければならないということがあります。

ここで「問う」というのは、最もプリミティブには「聞く」(もちろん関心を持
ちながら)ということかも知れないと考えています。それは「共振する」という
こと(例えば理解するということを含めて)を求める、極めて根源的な探索行為
と言えるのではないかと、そのように思います。


(2)葛城先生の立脚点の一つである Social Ontology と、塩谷先生の近年暫く
ご関心のある中動態の話は、いわば「信念」故に存在する社会的実体という意味
から極めて隣接する概念であるように思います。従って、そこから先の話という
ことが必要になる際、「主体性」とは何か、という話がそれプラスということで
重要になるように思います。

経済学的には貨幣(通貨・法・公共政策を含む)の問題、貨幣的合理的一般均衡
(特に世代重複や選好飽和的な経済における、富の余剰によってドライブされる
信用のバブル)の問題が、それと密接に関わると思います。


(3) 主体性の問題のポイントは:「(例えば数学的に)表現している」こと
と「表現されたもの」との相違が解消され得ない(時折、されたかに見えるよう
ではあっても、それは関数 f を f の不動点で代用しているようなもの)という
ことにあると思います。加えて「学問」という営みにおける「主体-自己超越体」
性とは、「真の喜びに基づく至高の判断による真をどこまでも問う(絶対愛)」
というような形で、No.179 では村田晴夫先生的な「真善美の一致(調和)」の
問題として述べさせて頂いたのですが、もちろんこれは(とりわけ「学問の方法」
という観点からすれば)そのような「真善美の一致」というものが、どのような
意味で「偽である」かということを指摘するということの方に、あると思います。


(4)閉じたシステムと知:知はある意味閉じさせる(ストーリー化する)作業
であると思いますので、そういう意味では、知は全て無知です(無知という葛城
先生の用語については、無知→啓蒙、と言いたくなる嫌いはありますが、どちら
かというとソクラテス的な「無知の知」というニュアンスで、無知という言葉を
用いておられると思います)。

無知でいいのか、無知ではだめなのか。良い悪いではなく、主体性の問題。そこ
で出てくるのは「どこまでも問う」ということ、「問う」ことの根源性の問題で
はないか、という方向に議論を進めるのが良いのではないか、と思っております。


(5)2月の方法論研究会にて福井先生が強調されたことに、「開かれた豊穣性
を持つシステム(普遍経済における真の動学)」を取り扱うキーワードとしての
「進化論」ということがありました。

「宙ぶらりん(不確実性)」を楽しむ(遊び)ことと、進化(適応)戦略として
の豊饒性の重視(普遍経済における真の動学)ということが、その主旨です。

そういえば、守永先生がここしばらくずっと「進化論」と言及して来られたこと
を思い出し、私はそこにはちょっと距離を置いてきたのですが、福井先生と守永
先生のタームがつながったように思います。上述のような主旨であれば、私にも
理解できますので、またご教示願います。


(6)普通は、政府(ケインズ)v.s. 市場(ハイエク)という構図なのですが、
今回の問題に関しては、用語上微妙にややこしいことが生じているように思われ
るので、整理します。

葛城先生のお話(プラス福井先生の用語)では、

 希少性(経済学) v.s. 豊穣性(普遍経済学)

という対立構図があって、その背景に本当に横たわっているのは、
 
 知 v.s. 無知

という構図です。そしてその下で、話の具合によって、

 小さな政府(官僚)&静学的市場 v.s. 大きな政府(市民)&動学的市場

となって来ます。こうなると非常にややこしいのです。政府と言いつつ官僚を
指す場合と政治家(市民の代表)を指す場合では、まったく逆の敵同士になり
ます。市場もまた、ハイエクの市場などは(無知)と関わりますので、むしろ
普遍経済の動学的市場と分類すべきです(もちろん小さな政府ですが、官僚で
はなく市民(政治家ではなくあくまで下からの力としての市民)と組になって
います)。ケインズは、蓋然性の意味からも大きな政府の意味からも当然右側
ですので、今回の話の中ではしばしばハイエクとは敵ではなく、味方同士です。

貨幣についてもまた、ハイエクと同様に二面性があります。例えば世代重複の
貨幣はオープンシステムでの信用と関わりますが、サーチの貨幣はクローズド
システムにおける交換の問題なので、どちらの意味で貨幣という言葉を使うか
で、話がややこしくなります。今回の話と関わる貨幣は、オープンシステムで
の信用、従って、右側とかかわる貨幣です。


(7)カント的立場との関わりについて:第一批判としての真、第二批判とし
ての善、第三批判としての美と分けるならば、既にそこに専門化の罠が入り込
んでくるという気がします。知ること science を分かること、分けられると
いうことにしたのは rational 割り切れることを知ということの最高位に置く
ことと極めて全体的に相性がよいわけですが、しかし、切り分けることと、切
り分けられたものとの差異は、常に残ります。学問の方法という立場から考え
ると、学問内から生ずる自己批判が、学問の中に再帰する経路(学問における
「主体-自己超越体」性)が欠落してしまうということではないかと思います。
浦井 憲 2019/03/04(Mon) 14:25 No.181
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