「貨幣」についての思想と対談: ビットコインの思想、公共財とコア、信用の生成を巡って
8月3日方法論研究会セミナー(大阪大学)のまとめ
今回セミナーでは、その前半、仮想通貨におけるブロックチェーン技術(分散型台帳システム)
の非集権性が経済学においてどのような意味を持つかということ、そして後半では公共財を
含むコアという問題が、国家の信用の生成という問題との関わりを持って議論されました。
いずれも非常に重要な問題であり、今回の議論はその導入を与えたものに過ぎません。また
「貨幣」の問題は方法論研究会における過去数年の最重要テーマでもあり、この三月にも、
村田康常氏と神谷和也氏のお話を総合する形で「貨幣・価値と事実の関係性」として扱った
ところでもあります。
当初「公共財を含む一般均衡理論」という経済学理論寄りの話に終始するつもりだった今回
のセミナーですが、小川さんがビットコインのお話を、その非集権性という問題に絞って思想
的方向に持ってきて下さったおかげで、方法論研究会のメインテーマに大きく引き戻すことが
できました。これらの問題は、ネット上コミュニティーにおける金融決済というシステム、あるい
は貨幣の発行主体である国家についての「信用」の「生成」という問題が鍵となって、文明と
経営の議論とも深くつながるように思います。そこで、今回の議論についても、ここにまとめの
スレッドを作成します。
【参考資料】
小川 健 『サーベイ論文:非技術/情報系の経済系に仮想通貨・
ビットコイン・ブロックチェーンをいかに教えるか』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/OgawaDoc.pdf
小川 健 仮想通貨技術の持つ「非中央集権性」の経済学における意味 報告スライド http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/OgawaSlide.pdf
浦井 憲・村上裕美 『貨幣についての思想と対談』 http://ethic.econ.osaka-u.ac.jp/seminar/18/20180803UraiMurakami.pdf
的枠組みであると言って過言ではないでしょうが、ビットコインにおけるブロックチェーン技術
(分散型台帳)という話は、そういう「非集権性」を「支持」する「ため」の枠組みというより
一層直接的かつ根源的な内容を持つように思われます。
当該技術は、仮想通貨の信用の保全に不可欠である「正確な台帳の構築」とその「検証」
について、それを「誰か」ではなく、ネット上で万人に公開された情報処理プロセスとして、
実現してしまおうというものです。そのような不特定多数による台帳の検証作業そのもの
がビットコインのマイニング(採掘)作業であり、いわばシステムの運用と管理作業の価値
をそのまま仮想通貨単体の価値として結実させている仕組み(あくまで労働価値説的に
言えばであり、それが他の資産に比してどのような価値を持つかということとは何の関係
もありませんが)とも言えます。
すると、なぜそのような台帳が一般的に公開されながら改竄不可能と言えるのか(PoW
の仕組み)、問題点は無いのか(51%ルール、分岐問題)等、技術的に興味深い面をとり
あえず横に置くとしても、この技術の投げかけている意味が幾分特別なものであることが
分かります。つまり、
1. 「貨幣」あるいは「信用」の「価値」ということが、その「システム自体の保全」という
プロセスにリンクされていること。
すなわち、「貨幣」「信用」「価値」といった対象物が、「取引の成立」「検証」といった作業
プロセスに還元されているということ。しかもそのプロセスは、そのシステムそのものの
保全として、再帰的に(自身に根拠があるもの自由として)作用しているということ。更に
踏み込むと、
2. 「信用」が、「万人に開かれた検証」として把握されていること。
すなわち、ネットというコミュニティーにおける決済の承認、「信用」が、そのコミュニティー
全体に開かれた検証作業として、公開されている。ここでも再帰的な(自身に根拠のある
自由としての)仕組みが利用されているということです。
◆
セミナーにはご出席頂けなかった塩谷先生から一点コメントを頂戴していました。それは、
地域通貨などを考えるに当たって、交換が不在であるということを「待つ」という積極的な
要素として(地域の有機的統合に向けた集約機能として)捉える、との観点、それをネット
上の異なるコミュニティーとそこでの取引、という形で当該問題(仮想通貨)にも向けられ
るのではないか、ということでした。
大変貴重な観点で、貨幣について停滞している種々の議論に必要不可欠な視座であると
思います。
コミュニティーの有機的統合とは、経済学系の理論で言えば非協力ゲーム(ナッシュ)から協力
ゲーム(コア)への連絡、個人から企業あるいは組織形成に向けた統合的視座、すなわち
組織の「生成」の問題に連携させて貨幣の問題を捉える、ということかと思います。(経済学理論で
は、かつてそのような視点から貨幣が捉えられたことはありません。それは当然で、スタン
ダードな経済学理論にとって組織の「生成(および消滅)」の問題は、最大のネック(もうこ
こ数十年、放置されてきた一般均衡理論の壁)です。このようにコミュニティー(その信用)
の統合と生成問題と考えれば、今回のテーマであるビットコインの思想と公共財とコアの
問題は密接につながります。それらをつなぐのは「生成」という観点です。
「貨幣」については、その Medium of Exchange と Standard of Value という、大きく
分けて二つの側面があり、経済学理論では後者をアタリマエのこととして、後者について
のみ語るのが、スタンダードです。ケインズはかつてこの後者がアタリマエではないという
ことを指摘して、マクロ経済学を打ち立てた偉大な功績がありますが、それでも、「それで
は Standard of Value の価値はなぜ、どのように、決まるのか」という問題に関しては、
「本質的な不確実性」(美人投票の例に代表される)として、それ以上に踏み込むことは
しなかったと言えます。もちろんケインズにとって(General Theory としてのマクロ経済
学を打ち立てるという目標に対して)は、それはそれで良かったのですが、それでも問い
がそこで終わるわけではありません。そして更にもう一歩問いを進めると、政策への含意
といったことにおいて、場合によっては単純なケインズ的施策と逆の主張が導かれること
にもなりかねません。
これは、2013年頃、当研究会の初期の頃にさかんに議論していた「超越論的」貨幣を
考えるという問題、あるいは「交換と信用(贈与)の分離」という問題でもあるかと思います。これら
を分離して述べてきたことが、実は「成り行く」ものとしての「信用」と「貨幣」の統合的な
把握を困難にしてきたところであり、そこにいかに光を当てるかということが重要な問題だと
考えております。一つには、その「生成」に光を当てることが鍵であると思います。塩谷先生が「待つ」
という「積極的な」ファクターに見出しておられるところも、そこなのではないかと当方は捉
えております。
◆
今回のテーマでは、その後半に取り扱おうとしたことが、貨幣の「生成」ということに
当たります。国家による「貨幣」あるいは「信用」の生成について、「国家が公共財を
提供し、その便益を普く国家全体に行き渡らせる目的から、例えば福祉、ベーシック
インカムの供給、といった形で貨幣を供給する」というように捉えたいという、その
ような話です。
今回は時間の限界から、公共財とコアの話の基本モデルへの導入でほぼ時間を費やして
しまったのですが、引き続きこのテーマは取り扱って行きたいと考えています。
従来の経済学理論における公共財の取扱いは、公共財を供給するにはコストが必要で、
それをどのように経済の構成員から徴収するかということに終始しています。そうではな
く、その公共財は、それがどのような意味で必要なのか、ひいては国家は提携として必要
なのか、そのような一段階上の枠組みから、国家と公共財と、そして国家による購買力の
供給、即ち貨幣の発行を捉えようというのが、最終的な目標です。
塩谷先生的なタームで言えば(間違っていたら申し訳無いですが)、国家というコミュニ
ティー(コアリション=提携)の統合形成において、そこで始めて可能になる「公共財」の
供給ならびにその下で始めて可能になる好ましい資源配分状態について、それを「待つ」
という積極的ファクターとして捉えつつ、政府の発行する「信用」すなわち法定不換紙幣
の生成(財政収支均衡の呪縛からの開放)を捉える、ということになるのではないかと思います。
◆
このように信用の「生成」ということを捉えるならば、上述したビットコインの思想の背後
に、おそらく塩谷先生が指摘されたように、ネットというコミュニティーの統合形成、という
ようなことが要素として加わらなければならないようにも思われます。即ち、仮想空間に
おける何らかの価値の問題が、ネットというコミュニティーにおける「信用の移転」という
まずは「関係性」の問題に変換され、更にその関係性をネットというコミュニティーが、そ
の参加者万人に開かれた検証という手段で承認する。いわばコミュニティーの信用を、
その統合された全体コミュニティーが支える、「自己創造(オートポイエシス)的」な側面
が、そのシステムの核を成しているということかと思います。(統合されたコミュニティー
の主体性の問題と言うべきかもしれません。)
◆
そしてそのような視点からすると、ビットコインの思想の問題も、更に「コミュニティー」の
営みという問題として、広く、「文明と経営」の問題とも絡んでくると思われます。
ブロックチェーン技術の核心、上記の 1 および 2、取り分け 2 は、統合コミュニティーでの
「信用」が、そのコミュニティーにおける「普遍性」とともにあること、つまり、信用の手段で
あるシステムの検証が、一層の信用の構築に再帰するとともに、「万人に開かれた」検証
ということが、いわば「全体主義的でない普遍性」を実現している、ということです。
そうすると、ブロックチェーンの思想を塩谷先生のターム的にコミュニティーの統合生成として
解釈し、更にその核心を一般化して、文明と経営あるいは今日の学問のあり方、といった
問題に適用してみると、また面白いことになりそうです。
分析哲学の一つの限界は、ダメットやパトナムにおける「真理とは検証のプロセスなのだ」
という(おそらくは正しい)命題が、ではその検証とはどのようなものなのかという(具体性
を「置き違え」ざるを得ない)命題によって、覆い隠されてしまうところにあったのではない
かという気が、そこはかとなくしています。ビットコインと分散型台帳の思想が示唆するの
は、真理というようなコトバ(主語・目的語)を、そのコミュニティーそれ自体の成立(信用
の生成)ということとともに、そこでの「関係性」の問題(例えば共感、よりシンプルには
相槌を打つこと、のような)として考えるべきなのではないかということ。そしてまたその共感が
「万人に開かれた」、「普遍性」とともにあるべきということになってくるように思います。
学問という知のコミュニティー全体が、専門性という形で分断されている現状に対して、そ
の「置き違え」られた「主語」「目的語」に捉われることなく、全体を形成するところの「普遍
的共感(信用)」というプロセス(述語)に向けた、coordination ということこそ、必要な
ことなのであるという、そのような示唆が得られるように思います。
物理学者はこう言い、数学者はこう言っている。経済学者はこう言い、文学者はこう言う。そ
れだけでは Knowledge ではあっても、Wisdom にはならない。Wisdom であるためには、
「普遍的共感」がなければならない。(では普遍的共感とは何か。これについては上の示唆
では当然不十分であり、また別に機会を設けて、慎重にじっくり考えるべき事柄でしょうが。)
◆
もう一点、「信用」ということばを「共感」と重ねて(貨幣と信用という話を、学問と真理に重
ねたことを通じて)上で用いたのですが、そのことも踏まえて、「信用」という言葉を用いた
中で、少し考えてしまったところがあり、付け加えさせて頂きます。
信用というのは、もし疑ったことすら一度も無い、というのなら、単なる受け身であり消極性
ですが、信用というのは不信を放棄する(裏切りがあることを知りつつ、自己を投げ出して
それを受け入れる)という「積極性」とも考えることもできるように思います。
真理あるいは価値をどのようなコトバ(対象・名詞、貨幣、資本---それは「取り違え」を免れ
ない)に向けて置いてしまうのか(投資するのか)ということは、個が生きる上での個性、即
ち個別の主体性の問題であると思います。そのような主体性の下での信用(共感)は、上述
した「普遍的共感」とは区別されねばならないと思います。しかしながら、「普遍的共感」と
いうものを、手の届かないものとして、上では捉えてはおりません。
◆
このように、今回のビットコインのテーマは、文明と経営セミナーの方で問題としていること
に向けても、また当然ながら貨幣の(価値基準の生成)問題に向けても、全体をつなぐ非常
に良いテーマになったと思われ、小川さんに感謝申し上げます。
引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。