ホワイトヘッド学会@後楽園の感想
みなさま
先日、中央大学後楽園キャンパスでホワイヘッド学会がありました。
村上先生はまだ数週間しか経ってないの?と驚かれたようですが、
その後、私のほうは色々ありまして、もう数カ月も前の遠い過去の
ことのように感じられます。
その際の感想を浦井、村田、村上3先生に書いて送ったのですが、
掲示板での開かれた議論にしたいという浦井先生のご要望で、若干
手を加え、アップすることにしました。雑な文章で気が引けますが、
時間が経ち、大きく書き換えるのはもう無理ですね。
貼り付けるのも可能でしょうが、かなり見にくくなると思われ、
貼付ファイルでお送りします。
[添付]: 34807 bytes
守永直幹 2018/11/04(Sun) 08:30 No.148
Re: ホワイトヘッド学会@後楽園の感想
守永先生、ご投稿まことに有難うございます。守永先生とは村田、村上先生を合わせて、
後楽園学会後にいくつかのメールのやりとりをさせて頂いておりまして、ご投稿頂いた
内容には、先立ったやりとりがありますので、ここに数点、補足させて頂きます。
(1)守永先生のアップして下さった内容には、当方からの以下のような質問(命題に
ついてと西田について)にお答え頂いたという経緯が含まれております。
> 先日は大変興味深いお話、まことに有難うございました。村田先生のお話
>と合わせて、また掲示板の方で議論を深められたらと願っております。ホワイトヘッド
>の「命題」ということについて、今回守永先生にご教示頂いた中、それは他の概念と
>合わせてホワイトヘッドを理解していく上で中枢となるということ、大変印象深く、この
>先のホワイトヘッド理解において重要な手掛かりになるように思われ、ご教示を大変
>有難く思っております。その場合「命題」というものが、通常いわれるよりも、ずっと奥
>の深い概念になるかと思われます。特に「主語・述語」以前に、それがあるところとも
>思われ、主語、述語といったもの(ごく普通の意味での命題を形成するもの)は、その
>後に出てくるもの(もちろんそれは大変大事で、もう命題が命題として具体的に把捉
>されるにあたっては直ちに出てくるのですが)、というように理解しておりますが、そう
>いった理解でもいいでしょうか。そうだとすると、そのような(奥深い方の)「命題」とい
>う概念は、西田的な、「述語の論理」とも近いのかな、というようにも考えております。
(2)また、村田康常先生のご報告に向けても、上記守永先生のご感想に先立つ形で、以下の
ようなご質問をさせて頂きました。
>村田先生のお話については、先日も少しお話させて頂いた点、「遊戯」において規則
>と村田先生が言われたところ、コズミックドライブということでしょうか。それこそが、
>まさしく今我々が(あともう一歩、明確にしたいと)追い求めている、万人に普遍的な
>知恵につながるところのもの、のように思われます。今現在、BBS の方でなされてい
>る話の続きとして、大変興味深く思います。東洋思想でも、禅的には「大用現前して
>軌則を存せず」ですが、同時に論語的に「心の欲する所に従えども矩を踰えず」とい
>うことからも、そこがどのようにバランス(というと極めて陳腐ですが…)するかが最
>も肝要のように思います。それを幸福(究極的な、真の幸福)ということに求めると
>いうのも決して無いわけではないように思われ、それは決して個人的ということには
>ならなくて、むしろ「愛」というところを通じて、全体的なものになり得る、そうした自由
>と愛の葛藤(村田晴夫先生)の場、まさしくそのような所が、議論の焦点になってくる
>のではないかと、私は思っているのですが。
(3)更に、これは話が若干飛ぶのですが、数理経済学会との共催の方法論研究会の
次回企画においてバタイユを取り上げてはどうかという塩谷先生からのご提案があり、
それに関連して、以下のようなやりとりも先行しておりました。守永先生の今回の
ご発表が「今回のホワイトヘッド学会での発表は、最初の予定から大きく逸脱してし
まい、幸か不幸か、純粋な潜勢体を未来として位置づけるという年来の懸案に1つの
解答を出すことになりました。」という更にそれ以前のやりとりも踏まえたものです。
>いずれにしても、このホワイトヘッド学会を通じて、経済、経営、数学、哲学、専門知識
>を超越して、およそ近代および今日社会に関わる最も重要な問題が論じられている
>ということ、大変素晴らしいことだと思います。
>
>...
>
>思えば、そこに守永先生もパネリスト的に加わって頂くというのも、もし良
>ければですが、大いに考えられる企画ですね。改めて言われてみると、「純粋な潜勢
>体を未来として位置づける」というのは、塩谷氏の「待つ」というファクターを積
>極的に捉えるということと、大きく関係がありそうに思います。本来は無いと考えられ
>ていたところに「待つ」ということを見ることと、絶対的な不確実性の背後に「不安」
>や「怖れ」ということをしっかりと見るということは、とても近いように思われます。
>
>> 本来は経済そのものを主題とし、社会全体ひいては人類全体の課題として取り組む研究者が必要なのですが、なかなか
>
>さすがと申しますか、まさしくその通りであると思います。こういうキャッチフレーズに
>関して、守永先生の表現は常々絶品ですね。まさしく、我々のこのような集まり、研究
>会(勉強会)は、そのようなものを目指していけたら、と常々願っております。
>
>引き続き、何卒宜しくお願い申し上げます。
後楽園学会後にいくつかのメールのやりとりをさせて頂いておりまして、ご投稿頂いた
内容には、先立ったやりとりがありますので、ここに数点、補足させて頂きます。
(1)守永先生のアップして下さった内容には、当方からの以下のような質問(命題に
ついてと西田について)にお答え頂いたという経緯が含まれております。
> 先日は大変興味深いお話、まことに有難うございました。村田先生のお話
>と合わせて、また掲示板の方で議論を深められたらと願っております。ホワイトヘッド
>の「命題」ということについて、今回守永先生にご教示頂いた中、それは他の概念と
>合わせてホワイトヘッドを理解していく上で中枢となるということ、大変印象深く、この
>先のホワイトヘッド理解において重要な手掛かりになるように思われ、ご教示を大変
>有難く思っております。その場合「命題」というものが、通常いわれるよりも、ずっと奥
>の深い概念になるかと思われます。特に「主語・述語」以前に、それがあるところとも
>思われ、主語、述語といったもの(ごく普通の意味での命題を形成するもの)は、その
>後に出てくるもの(もちろんそれは大変大事で、もう命題が命題として具体的に把捉
>されるにあたっては直ちに出てくるのですが)、というように理解しておりますが、そう
>いった理解でもいいでしょうか。そうだとすると、そのような(奥深い方の)「命題」とい
>う概念は、西田的な、「述語の論理」とも近いのかな、というようにも考えております。
(2)また、村田康常先生のご報告に向けても、上記守永先生のご感想に先立つ形で、以下の
ようなご質問をさせて頂きました。
>村田先生のお話については、先日も少しお話させて頂いた点、「遊戯」において規則
>と村田先生が言われたところ、コズミックドライブということでしょうか。それこそが、
>まさしく今我々が(あともう一歩、明確にしたいと)追い求めている、万人に普遍的な
>知恵につながるところのもの、のように思われます。今現在、BBS の方でなされてい
>る話の続きとして、大変興味深く思います。東洋思想でも、禅的には「大用現前して
>軌則を存せず」ですが、同時に論語的に「心の欲する所に従えども矩を踰えず」とい
>うことからも、そこがどのようにバランス(というと極めて陳腐ですが…)するかが最
>も肝要のように思います。それを幸福(究極的な、真の幸福)ということに求めると
>いうのも決して無いわけではないように思われ、それは決して個人的ということには
>ならなくて、むしろ「愛」というところを通じて、全体的なものになり得る、そうした自由
>と愛の葛藤(村田晴夫先生)の場、まさしくそのような所が、議論の焦点になってくる
>のではないかと、私は思っているのですが。
(3)更に、これは話が若干飛ぶのですが、数理経済学会との共催の方法論研究会の
次回企画においてバタイユを取り上げてはどうかという塩谷先生からのご提案があり、
それに関連して、以下のようなやりとりも先行しておりました。守永先生の今回の
ご発表が「今回のホワイトヘッド学会での発表は、最初の予定から大きく逸脱してし
まい、幸か不幸か、純粋な潜勢体を未来として位置づけるという年来の懸案に1つの
解答を出すことになりました。」という更にそれ以前のやりとりも踏まえたものです。
>いずれにしても、このホワイトヘッド学会を通じて、経済、経営、数学、哲学、専門知識
>を超越して、およそ近代および今日社会に関わる最も重要な問題が論じられている
>ということ、大変素晴らしいことだと思います。
>
>...
>
>思えば、そこに守永先生もパネリスト的に加わって頂くというのも、もし良
>ければですが、大いに考えられる企画ですね。改めて言われてみると、「純粋な潜勢
>体を未来として位置づける」というのは、塩谷氏の「待つ」というファクターを積
>極的に捉えるということと、大きく関係がありそうに思います。本来は無いと考えられ
>ていたところに「待つ」ということを見ることと、絶対的な不確実性の背後に「不安」
>や「怖れ」ということをしっかりと見るということは、とても近いように思われます。
>
>> 本来は経済そのものを主題とし、社会全体ひいては人類全体の課題として取り組む研究者が必要なのですが、なかなか
>
>さすがと申しますか、まさしくその通りであると思います。こういうキャッチフレーズに
>関して、守永先生の表現は常々絶品ですね。まさしく、我々のこのような集まり、研究
>会(勉強会)は、そのようなものを目指していけたら、と常々願っております。
>
>引き続き、何卒宜しくお願い申し上げます。
浦井 憲 2018/11/04(Sun) 12:18 No.149
Re: ホワイトヘッド学会@後楽園の感想
以下、守永先生の上記ご感想を受けて、再度当方からの応答として、一度私信として書かせて頂い
た内容ですが、若干修正を加え、アップさせて頂きます。
お世話になります。守永先生のご感想、大変興味深く拝見致しました。村田先生のご意見も含めて、
よりわかり易く整理できたらと願っております。そのきっかけになればと、少しだけ書かせて頂き
ます。
◆
> 西田の言う述語的世界観とは、すでにシンボル体系が立ち上ってからの、分節化された世界を前提とする物語ではなかろうか。
シンボル体系が立ち上がって世界が文節化されてしまうと、既に object としての主体も客体も
固まってしまって、そこで「述語」の論理と言っても、それは現代の数理論理学で言うところの
「述語論理」と変わらない、強いて言えばその存在論的コミットメントを固定していない、とい
う程度のものになってしまうかと(それでもそのことだけでも重要だと述べたのが、クワインの
「何があるのか」だったと思っていますが)思います。定数や変数の範囲を固定していないとい
うだけで、「主述」の「役割分担」といったものついては既に明確なものとして固定される、と
いった感じでしょうか。
西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、場合によっては主述の
役割分担ということにまで幅を持たせた、一層立ち入れば「そもそも主語というものを必要とは
しない」そのような意味での「述語的」論理というものを考えているのではないか、とも思われ
ます。
が、その点、いずれにせよ、ホワイトヘッドほど緻密に述べられていないことは疑いないです。
一方で、ホワイトヘッド的に緻密に述べられると、今度は、そのホワイトヘッド的な緻密な立場と
いうもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、これは以前からずっと気になっております。
それはあくまで「学問という営み」の中にあると、私には思われるのですが、そうではなく、そう
いった範疇を越えた、ハムレットの台詞と同じ、感受の誘い lure for feeling というものの中に
ある(それ自体間違いとは思いませんが)ということで、それで終わりにしたい(人もいる)ので
しょうか。我々は、「学問という営み」ということについて、あるいはその線引きということについ
て、拘る必要性を本当に捨ててしまえるのでしょうか。
この点、ぜひともまた改めて、引き続きじっくり、考えたいと思っております。
◆
菱木先生のお話へのご感想、興味深く拝見致しました。
> ホワイトヘッドによれば、宗教的な熱情とは端倪すべからざるもので、それにより人間社会は統合され、文明は発達してきた。とはいえ信仰は得てして野蛮な迷蒙に陥りかねず、私たちはこれを合理化すべく努めねばならぬ。哲学は宗教を概念化することで昇華する。いわば健全で建設的なエネルギーへ変換するのです。
なるほど、そのような観点が確かに菱木先生のご報告内容からは伺えなかった懸念はあります。
どちらかというと、菱木先生のお話は、現存の浄土教の役割意義のプラグマティックな正当性、
という結論に向けてのものだったのでしょうか。なるほど守永先生のご記憶にあった話の流れ
「なぜ浄土教のようなものが出てきたか」という問題意識に終始するということであれ
ば、問題意識としては通っているかとも思われます。
> これは西田にも関わってくることで、彼の哲学においては主語の拘束性と、そこからの自由というモメントへの把握が不徹底です。述語への解放と、情動への再帰はまず何よりも歓喜であるはずなのに、彼の哲学の基層主調は「悲哀」です。この点に疑念を持ち、深入りするのをやめてしまいました。が、アリストテレス→ホワイトヘッドという観点から、その述語論理の意味を改めて考察する必要があるかもしれません。
確かに、「主語の拘束性」という問題の把握は、西田の場所的論理においては不徹底という
か、むしろ範囲外という認識だったのではないでしょうか。私はあまり「悲哀」は感じないの
ですが、「論理」ということに徹底した、ストイックさ(幾分堅苦しさ)でしょうか。「学問」という
範囲に主張をとどめる、一種の固さ、ではないかと理解しております。
◆
ここで、「論理」とか「学問」といった表現を用いておりますが、あくまで営みというべきもの
であって、その内容が何か今我々が受け入れているものとは別様のあり方もあるということを、
決して排除するというような気持ちで、用いているのではないのですが。
◆
村田先生の遊戯問題に関連して:
> 想像力は「構想力」(カント)でもあって、カントはまさに想像力の論理を構築しようとしたのです。ホワイトヘッドは(ベルクソン同様)カントを乗り越えるべく四苦八苦して ...
>
> 遊びにしても、想像力にしても、無―論理ではいささかもない。それどころか、遊びや想像力こそが論理の根底にあって、論理を形成しているのかもしれない。カントの構想力の議論は、まさにそこに関わる。 ...
>
> ... むろんそれは単純素朴な論理主義とか理性中心主義ではあり得ず、もっと曲折に富む、しなやかな論理でなくてはならない。私としてはイメージやシンボルの論理として、これを追求しているつもりです。
極めて、我々にとって共通の、一貫した道筋が見えているような気が致します。守永先生の言われ
る「イメージやシンボルの論理」は大変興味深く、私としてはその基礎がどのような形で「厳密に」
提示され得るのか、そこにかかっているように思われます。
村田先生の今回のご報告は、前年来とりわけこの三月以降を含めて、ここまでの様々な議論
をまとめて頂く意味で当方には大変有難く、また練り込まれた素晴らしい文章には、感嘆する
ばかりでした。当然というか、さすがというか、これはもちろん皆さんなのですが、やはり文学
系の方の論文は文章表現から違うなと、感じ入るばかりです。
村田先生が今回(これは実は学会後の飲み会の席で、更に話を突っ込んで伺った際)コズミック
ドライブと言われたこと、ポアンカレが「規約? Yes 恣意的? No」と言ったこと、そしてこれは
7月末のBBSでの「万人が認めるということ、万人における普遍性」という問題、そしてまさに
そこで村田先生も言われた「全体主義的ではなく、全体的、一般的」な知の根源、ということ。
それが果たして何なのか、あるいはそうしたものと、どう付き合っていくべきなのか、という事
が、私としては最も明らかにしたいことです。それが全てと言って過言ではないです。
万人が(ほぼ)受け入れる(かにみえる)普遍的な今日の「専門家の蛸壺状況」を作った責任
から、カント哲学は逃れられるのでしょうか。そこを一歩間違えると簡単に、結局はカントと
同じ、あるいはそれ以前まで、戻ってしまいそうな気がします。守永先生の言われる「しなやか
な論理」に対しても、もしそれを「厳密」に、あるいは普遍的に、明確に、提起できないとすると、
そこに感ずる一抹の不安が、あります。しなやかでも、何か、どこかで一本、明確に通ったものが
あるのでなければ、蛸壺化するおそれがあると思います。
西田は「場所的論理」に「宗教的世界観」をペアでくっつけて述べたところで、そしてそこで
の「宗教的」とは、「善悪」レベルの判断を越えた存在論の根源を与えるものとして、位置付
けられているわけですが、私としては今のところ、そのようにして捉えられる、自覚、自由、
そして絶対愛といったことから、遊戯三昧については、考えてみたいと思っています。
> ドゥルーズはどこかで「哲学とはキャッチフレーズを作ることだ」と述べていました。これは、より正確には「命題」を提起することであり、未来の来たるべき法の基礎を提供することだと私は思います。
なるほど、素晴らしいです。要するに、つまりは「問うこと」の根源性でしょうか。
た内容ですが、若干修正を加え、アップさせて頂きます。
お世話になります。守永先生のご感想、大変興味深く拝見致しました。村田先生のご意見も含めて、
よりわかり易く整理できたらと願っております。そのきっかけになればと、少しだけ書かせて頂き
ます。
◆
> 西田の言う述語的世界観とは、すでにシンボル体系が立ち上ってからの、分節化された世界を前提とする物語ではなかろうか。
シンボル体系が立ち上がって世界が文節化されてしまうと、既に object としての主体も客体も
固まってしまって、そこで「述語」の論理と言っても、それは現代の数理論理学で言うところの
「述語論理」と変わらない、強いて言えばその存在論的コミットメントを固定していない、とい
う程度のものになってしまうかと(それでもそのことだけでも重要だと述べたのが、クワインの
「何があるのか」だったと思っていますが)思います。定数や変数の範囲を固定していないとい
うだけで、「主述」の「役割分担」といったものついては既に明確なものとして固定される、と
いった感じでしょうか。
西田に関しては、もっと、命題の起源に入り込んだ主張なのではないか、場合によっては主述の
役割分担ということにまで幅を持たせた、一層立ち入れば「そもそも主語というものを必要とは
しない」そのような意味での「述語的」論理というものを考えているのではないか、とも思われ
ます。
が、その点、いずれにせよ、ホワイトヘッドほど緻密に述べられていないことは疑いないです。
一方で、ホワイトヘッド的に緻密に述べられると、今度は、そのホワイトヘッド的な緻密な立場と
いうもの、それ自体が一体何なのだ、ということが、これは以前からずっと気になっております。
それはあくまで「学問という営み」の中にあると、私には思われるのですが、そうではなく、そう
いった範疇を越えた、ハムレットの台詞と同じ、感受の誘い lure for feeling というものの中に
ある(それ自体間違いとは思いませんが)ということで、それで終わりにしたい(人もいる)ので
しょうか。我々は、「学問という営み」ということについて、あるいはその線引きということについ
て、拘る必要性を本当に捨ててしまえるのでしょうか。
この点、ぜひともまた改めて、引き続きじっくり、考えたいと思っております。
◆
菱木先生のお話へのご感想、興味深く拝見致しました。
> ホワイトヘッドによれば、宗教的な熱情とは端倪すべからざるもので、それにより人間社会は統合され、文明は発達してきた。とはいえ信仰は得てして野蛮な迷蒙に陥りかねず、私たちはこれを合理化すべく努めねばならぬ。哲学は宗教を概念化することで昇華する。いわば健全で建設的なエネルギーへ変換するのです。
なるほど、そのような観点が確かに菱木先生のご報告内容からは伺えなかった懸念はあります。
どちらかというと、菱木先生のお話は、現存の浄土教の役割意義のプラグマティックな正当性、
という結論に向けてのものだったのでしょうか。なるほど守永先生のご記憶にあった話の流れ
「なぜ浄土教のようなものが出てきたか」という問題意識に終始するということであれ
ば、問題意識としては通っているかとも思われます。
> これは西田にも関わってくることで、彼の哲学においては主語の拘束性と、そこからの自由というモメントへの把握が不徹底です。述語への解放と、情動への再帰はまず何よりも歓喜であるはずなのに、彼の哲学の基層主調は「悲哀」です。この点に疑念を持ち、深入りするのをやめてしまいました。が、アリストテレス→ホワイトヘッドという観点から、その述語論理の意味を改めて考察する必要があるかもしれません。
確かに、「主語の拘束性」という問題の把握は、西田の場所的論理においては不徹底という
か、むしろ範囲外という認識だったのではないでしょうか。私はあまり「悲哀」は感じないの
ですが、「論理」ということに徹底した、ストイックさ(幾分堅苦しさ)でしょうか。「学問」という
範囲に主張をとどめる、一種の固さ、ではないかと理解しております。
◆
ここで、「論理」とか「学問」といった表現を用いておりますが、あくまで営みというべきもの
であって、その内容が何か今我々が受け入れているものとは別様のあり方もあるということを、
決して排除するというような気持ちで、用いているのではないのですが。
◆
村田先生の遊戯問題に関連して:
> 想像力は「構想力」(カント)でもあって、カントはまさに想像力の論理を構築しようとしたのです。ホワイトヘッドは(ベルクソン同様)カントを乗り越えるべく四苦八苦して ...
>
> 遊びにしても、想像力にしても、無―論理ではいささかもない。それどころか、遊びや想像力こそが論理の根底にあって、論理を形成しているのかもしれない。カントの構想力の議論は、まさにそこに関わる。 ...
>
> ... むろんそれは単純素朴な論理主義とか理性中心主義ではあり得ず、もっと曲折に富む、しなやかな論理でなくてはならない。私としてはイメージやシンボルの論理として、これを追求しているつもりです。
極めて、我々にとって共通の、一貫した道筋が見えているような気が致します。守永先生の言われ
る「イメージやシンボルの論理」は大変興味深く、私としてはその基礎がどのような形で「厳密に」
提示され得るのか、そこにかかっているように思われます。
村田先生の今回のご報告は、前年来とりわけこの三月以降を含めて、ここまでの様々な議論
をまとめて頂く意味で当方には大変有難く、また練り込まれた素晴らしい文章には、感嘆する
ばかりでした。当然というか、さすがというか、これはもちろん皆さんなのですが、やはり文学
系の方の論文は文章表現から違うなと、感じ入るばかりです。
村田先生が今回(これは実は学会後の飲み会の席で、更に話を突っ込んで伺った際)コズミック
ドライブと言われたこと、ポアンカレが「規約? Yes 恣意的? No」と言ったこと、そしてこれは
7月末のBBSでの「万人が認めるということ、万人における普遍性」という問題、そしてまさに
そこで村田先生も言われた「全体主義的ではなく、全体的、一般的」な知の根源、ということ。
それが果たして何なのか、あるいはそうしたものと、どう付き合っていくべきなのか、という事
が、私としては最も明らかにしたいことです。それが全てと言って過言ではないです。
万人が(ほぼ)受け入れる(かにみえる)普遍的な今日の「専門家の蛸壺状況」を作った責任
から、カント哲学は逃れられるのでしょうか。そこを一歩間違えると簡単に、結局はカントと
同じ、あるいはそれ以前まで、戻ってしまいそうな気がします。守永先生の言われる「しなやか
な論理」に対しても、もしそれを「厳密」に、あるいは普遍的に、明確に、提起できないとすると、
そこに感ずる一抹の不安が、あります。しなやかでも、何か、どこかで一本、明確に通ったものが
あるのでなければ、蛸壺化するおそれがあると思います。
西田は「場所的論理」に「宗教的世界観」をペアでくっつけて述べたところで、そしてそこで
の「宗教的」とは、「善悪」レベルの判断を越えた存在論の根源を与えるものとして、位置付
けられているわけですが、私としては今のところ、そのようにして捉えられる、自覚、自由、
そして絶対愛といったことから、遊戯三昧については、考えてみたいと思っています。
> ドゥルーズはどこかで「哲学とはキャッチフレーズを作ることだ」と述べていました。これは、より正確には「命題」を提起することであり、未来の来たるべき法の基礎を提供することだと私は思います。
なるほど、素晴らしいです。要するに、つまりは「問うこと」の根源性でしょうか。
浦井 憲 2018/11/04(Sun) 13:04 No.150
命題の立ち上がる言語以前の遊戯世界
日本ホワイトヘッド・プロセス学会中央大学後楽園キャンパス大会(2018.10/13-14)の後も、学会を振り返りながら守永直幹先生、浦井憲先生のメールでの対話が続く中、私の方は学務に戻って日々あたふたしながら過ごしていました。学会後にポオの『ユリイカ』を久しぶりにまた読みはじめたのですが、ほとんど読み進めることができないほど、朝から晩まで学務に追い立てられています。
それでも、守永先生とは問題圏が重なりつつあるのを感じ、まず、守永先生を主な宛先として、浦井先生、村上先生にも宛てて、上の浦井先生が投稿されたメールの後で、次のようなメールを返しました(一部修正しました)。この文章のおわりには、ホワイトヘッドの「命題論」に取り組んでいる守永先生に、命題論と多世界論の絡み、というテーマをリクエストしました。
☆ ☆ ☆
守永先生と私のあいだで重なってくるテーマというのは、イマジネーションとシンボリズム(あるいは言葉と命題)の問題だといえるでしょう。私はこの問題圏を、厳密な学としての科学の専門化と、遊びとしての思弁哲学の越境的な想像的飛躍、という方向で考えてみたいと思います。言い換えると、守永先生が問われている命題が立ち上がってくる場所あるいはプロセスを、私は、言葉以前から開けている遊戯世界という風に見てみよう、ということです。遊びは、言葉以前からあって、言葉が発せられ交わされる中にもあって、言葉が語り尽くされたあとにもあります。遊びの哲学というのは、面白いですし、今の私の職場(短大の保育科)で求められる教育内容にも、「遊びと言葉」というテーマは合致してきます。「遊び」「子ども」「言葉」「想像力」といったテーマで、この夏、いくつか論文を書き散らしました。あまりにも急ごしらえだったため、書き直したいものばかりですが、いやいやながら書いていくうちに、次第に、「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました。
言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこにすでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉以前の世界です。守永さんがおっしゃるように、そこを論究する際には、カントとの対決(とある種の深い和解)は避けて通れないでしょう。守永さんが注目されている三木清も構想力を主題にしてすでにこういう対決と和解を試みていますし、彼の『人生論ノート」の「娯楽について」という小文も面白いですが、九鬼周造も魅力的です。ただ、三木にも九鬼にも、合理的な論理への意志がホワイトヘッドほどには感じられません。ホワイトヘッドには、美的プロセスとしての宇宙をいかに論理的に(中期には特に数学的に)記述するか、という問題意識が強くあって、これがシラーやホイジンガやカイヨワやフィンクや、あるいは三木や九鬼の遊戯の哲学や想像力の哲学とホワイトヘッドの思弁哲学の大きな違いだと思います。遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。
ポオを再読しようと思っているのは、もしかすると『ユリイカ』には、たとえばフィンクの遊びの哲学よりも深くホワイトヘッドの思弁哲学に共鳴する美的洞察があるのではないかと思っているからです。
「わたしが語ろうとしているのは、物理学的、形而上学的、数学的宇宙について――物質的ならびに精神的宇宙について――その本質、その起原、その創造、その現状、その宿命について――である。」(ポオ「ユリイカ」第3段落)
人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても、学会後に大学に戻ってから私がやっているような追い詰められて毎日あたふたしている事務仕事ですら、もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようとしているのです。この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。この創造的衝動に満ちた根源的な遊びの世界から人間の活動を際立たせ切り離していく方向が、特定の抽象観念のセットに習熟するという専門化であり、その方法が、教育の3段階のリズム「ロマンス−精緻化−一般化」の真ん中にある「精緻化」あるいは「規律訓練(discipline)」です。
遊びの反復性が、厳密な規則性だけでなく偶発性や一回性あるいは歴史性といった再現不可能な細部を含んだ、いわば大雑把な反復性であるのに対して、専門化された科学によって追究されるのは再現可能で厳密な意味で規則的な反復性です。ホワイトヘッドは、そういう徹底した合理性の追求は学問にとって必要不可欠だと認めながらも、世界の活動性はむしろそうした厳密に規則的な反復性や斉一性ではなく、遊びのような偶発的で一回性の強い「大雑把な反復性」を特徴とする、絶えざる「新しさへの創造的前進」だとしています。
まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出すことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それがホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。遊戯的な宇宙、創造的に前進するこの宇宙には、一方で秩序や規則性への強い志向があり、また他方でそれを常に逸脱していく創造的な躍動があります。だから、その活動性を記述する学問体系は、常に、自分の体系を完結したものとして提示しつつ、そこには汲み尽くせないような実在がいつも余剰としてあるのだということを自覚しておかなければなりません。「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておくべきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった「余剰」も、何世代か先には体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そうなったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。
☆ ☆ ☆
最後に、守永先生に1つリクエストを。
ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界とのあわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえたかもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしまう、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャルとしてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界が広がっているように読めます。それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み方ができそうなところが少しだけ出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていくようなところがあります。
守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとのことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、ぜひ。
それでも、守永先生とは問題圏が重なりつつあるのを感じ、まず、守永先生を主な宛先として、浦井先生、村上先生にも宛てて、上の浦井先生が投稿されたメールの後で、次のようなメールを返しました(一部修正しました)。この文章のおわりには、ホワイトヘッドの「命題論」に取り組んでいる守永先生に、命題論と多世界論の絡み、というテーマをリクエストしました。
☆ ☆ ☆
守永先生と私のあいだで重なってくるテーマというのは、イマジネーションとシンボリズム(あるいは言葉と命題)の問題だといえるでしょう。私はこの問題圏を、厳密な学としての科学の専門化と、遊びとしての思弁哲学の越境的な想像的飛躍、という方向で考えてみたいと思います。言い換えると、守永先生が問われている命題が立ち上がってくる場所あるいはプロセスを、私は、言葉以前から開けている遊戯世界という風に見てみよう、ということです。遊びは、言葉以前からあって、言葉が発せられ交わされる中にもあって、言葉が語り尽くされたあとにもあります。遊びの哲学というのは、面白いですし、今の私の職場(短大の保育科)で求められる教育内容にも、「遊びと言葉」というテーマは合致してきます。「遊び」「子ども」「言葉」「想像力」といったテーマで、この夏、いくつか論文を書き散らしました。あまりにも急ごしらえだったため、書き直したいものばかりですが、いやいやながら書いていくうちに、次第に、「遊び」や「想像力」や「言葉」と「思弁哲学」とが絡んでいく領域が開けていくように感じられて、とても面白いテーマだと実感するようになりました。
言葉以前の原初的な世界とか原初的な経験を思弁することはとても魅力的で、そこにすでに横溢しているのが生成消滅の遊びの世界だと思います。言葉が生まれてくる言葉以前の世界です。守永さんがおっしゃるように、そこを論究する際には、カントとの対決(とある種の深い和解)は避けて通れないでしょう。守永さんが注目されている三木清も構想力を主題にしてすでにこういう対決と和解を試みていますし、彼の『人生論ノート」の「娯楽について」という小文も面白いですが、九鬼周造も魅力的です。ただ、三木にも九鬼にも、合理的な論理への意志がホワイトヘッドほどには感じられません。ホワイトヘッドには、美的プロセスとしての宇宙をいかに論理的に(中期には特に数学的に)記述するか、という問題意識が強くあって、これがシラーやホイジンガやカイヨワやフィンクや、あるいは三木や九鬼の遊戯の哲学や想像力の哲学とホワイトヘッドの思弁哲学の大きな違いだと思います。遊びの宇宙を、その美的ないしは詩的な本性を散文的に思弁するだけでなく、論理的な構図へと体系化しようとしたのがホワイトヘッドだったのだと思います。
ポオを再読しようと思っているのは、もしかすると『ユリイカ』には、たとえばフィンクの遊びの哲学よりも深くホワイトヘッドの思弁哲学に共鳴する美的洞察があるのではないかと思っているからです。
「わたしが語ろうとしているのは、物理学的、形而上学的、数学的宇宙について――物質的ならびに精神的宇宙について――その本質、その起原、その創造、その現状、その宿命について――である。」(ポオ「ユリイカ」第3段落)
人がやっていることは、経済活動にしても組織の活動にしても個人の娯楽にしても、学会後に大学に戻ってから私がやっているような追い詰められて毎日あたふたしている事務仕事ですら、もともとのところでは遊びという根源に根ざしているはずです。経済学も経営学もスポーツ科学だって、もともとは遊びに根ざしていたはずの活動を「科学的に」論究しようとしているのです。この根源的な遊びの世界は、原初的な創造への衝動、要するに、何のためという問いを意識する以前にとにかく新たに創造しようという衝動、つまり創造への宇宙的な衝動(cosmic drive)に満ちた活動性といっていいと思います。この創造的衝動に満ちた根源的な遊びの世界から人間の活動を際立たせ切り離していく方向が、特定の抽象観念のセットに習熟するという専門化であり、その方法が、教育の3段階のリズム「ロマンス−精緻化−一般化」の真ん中にある「精緻化」あるいは「規律訓練(discipline)」です。
遊びの反復性が、厳密な規則性だけでなく偶発性や一回性あるいは歴史性といった再現不可能な細部を含んだ、いわば大雑把な反復性であるのに対して、専門化された科学によって追究されるのは再現可能で厳密な意味で規則的な反復性です。ホワイトヘッドは、そういう徹底した合理性の追求は学問にとって必要不可欠だと認めながらも、世界の活動性はむしろそうした厳密に規則的な反復性や斉一性ではなく、遊びのような偶発的で一回性の強い「大雑把な反復性」を特徴とする、絶えざる「新しさへの創造的前進」だとしています。
まるで混沌にしかみえない世界や領域に、普遍性のある秩序や反復的な規則性を見出すことが、知性の働きであり学問の営みですが、世界はそれほど単純に秩序だっているわけではなく、世界のどの領域でもどんな活動でも揺らぎだの遊びだの美的な要素だの偶発性だのと形容するしかないようなものが、その領域や活動の根源に満ちている。それがホワイトヘッドのいう「創造性」であり、「宇宙的衝動(cosmic drive)」であり、彼はあまりこの言葉は使いませんが、その活動性は要するに「遊戯」なんだと思います。遊戯的な宇宙、創造的に前進するこの宇宙には、一方で秩序や規則性への強い志向があり、また他方でそれを常に逸脱していく創造的な躍動があります。だから、その活動性を記述する学問体系は、常に、自分の体系を完結したものとして提示しつつ、そこには汲み尽くせないような実在がいつも余剰としてあるのだということを自覚しておかなければなりません。「私たち体系的でなければならない。しかし、自分たちの体系を開いたままにしておくべきだ」(MT. 6)とホワイトヘッドは言っています。今の体系では記述できなかった「余剰」も、何世代か先には体系内で記述できるようになるかもしれません。しかし、そうなったとしても常にその先には、新たな「余剰」が、おそらくはより深い問題を孕んで、広がっているでしょう。しかし、そうやって知は、そのつど暫定的な体系を提示しつつ、その限界も示しながら、その限界を超える体系を目ざして新たに前進していく。そんな風にホワイトヘッドは考えていたのだと思います。
☆ ☆ ☆
最後に、守永先生に1つリクエストを。
ホワイトヘッドの「命題論」は、「多世界論」とか「可能世界論」として読めると、常々思っています。想像されただけの世界と現実世界との境界が、「命題論」の議論の中で一瞬、希薄になって、有ったかもしれない世界・有りえた世界と、実際に有った世界とのあわいがぼやけて消えていくところがあるように思います。言い換えると、頑固な事実としての実際に有った世界、リアリティの世界と、有りえたかもしれないさまざまな可能性が腹蔵されているポテンシャルな世界とが重なってしまう、重ねてしまうようなところが、ホワイトヘッドの議論の中にあるように思います。無数の多数の世界が、現実の世界と重ね合わさって、現実でもなくピュアなポテンシャルとしてでもないく、時間的世界と永遠の客体の世界とのあわいに架空のさまざなま世界が広がっているように読めます。それはとても面白いのですが、そんな風に「多世界論」とか「可能世界論」のような議論を読みこめるところはホワイトヘッドのいろいろな議論の中でも「命題論」だけのように思います(思弁哲学と想像力を論じた『過程と実在』の第1部第1章にも、そういう読み方ができそうなところが少しだけ出てきますが)。要するに、「命題論」には、物的抱握と概念的抱握の混成というかたちで「想像力」が世界そのものを構想する方向に展開されていくようなところがあります。
守永先生はちょうど「命題論」に取り組んでいて、アリストテレスも読まれているとのことですが、こういうホワイトヘッドの「命題論」の不思議な特徴について、守永先生に切りこんでいただきたい、というのがリクエストです。きっとライプニッツの可能世界論とかベルクソンの図式論とも関係してくると思います。勝手なお願いですみませんが、ぜひ。
村田康常 2018/11/04(Sun) 19:16 No.151
構想力と象徴、そして学問というスタンス
村田先生、ご投稿有難うございます。村田先生と守永先生の問題意識の重なりに向けて、
当方の問題意識もかなり明確になって参りました。
構想力(イマジネーション)と象徴(シンボル)、そして「命題」の立ち上がる、言語
以前の「遊戯」という問題に向けて、非常に感銘を受けつつ、同時に、次のように考え
ております。(この問題意識は、学の普遍性、つまり真という問題でもあるかと言えば
そうなのですが、これからの学問的立場のあり方、という意味ではより一層、善という
ことに振れているのかなと思います。)
cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どうい
う位置にあるのか。その点が、私にとっての問題意識の中心にあります。これは「真」
という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味からしてもです。言い換えれ
ば、「幸福」ということについて、ということです。(ちなみに、経済学的に言えば、
これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくるかと思います。)
それが、先日の後楽園学会でのやりとりでは、菱木先生の問い、そのような遊戯が、
どのように「例えば美ということとして成り立つとしても、世における善といったことと
調和するのか」という問いであったと、私の中では整理されております。(つまり、行為
的善ということではなく、結果としての善、つまり幸福の実現ということとして、捉えて
おります。それに向けて、もし「遊戯にもルールがある」(だから調和あるいは幸福実現
が期待できる)と答えていくことになるのであれば、そこに対して、「遊戯に規則など無
いのではないか」というのが、正当な問いとして出てくることになるのは必定と思います。
(仏に会えばこれを殺しはあくまで悟りに至る教説の受け入れに向けた比喩でありますが、
大用現前して軌則を存せず、仏の道が示されるようなところにむけて、前もって知られる
ようなルールのようなものは無い、ということは、考えておかねばならないことではない
かと思います。)
そしてもし、そういったやりとりを少し横に置いて、少なくとも専門性といったことに
偏ってしまう今日の学問あるいは「理性」の位置づけに対して、それを戒める意味が
あるのだという(いわば3月にご報告頂いた際の「研究者の倫理」的な解釈)に話を
限定してしまうならば、それはカント的な話、つまり理性というものにはやはり有限的
な限界があるのだから、それをわきまえるべきという話に、どれだけ一歩踏み込んだ
ことを言っているのか、という点が問題になって来ると思います。
事実、カントの批判哲学が、それこそ、逆にその戒めさえ心に刻んでおれば蛸壺に
専門化していても良いのだ、という、免罪符にしか、事実上ならなかった…というの
が今日の実状ではないかと私には思われますし、それに向けてはヘーゲルやフーコー
のダイレクトなカント批判の方が、ずっとしっくり来ます。ホワイトヘッドの立場は、
村田先生も言われる「合理的な論理への意志」や「体系を完結したものとして提示」
することへの拘りの中に、あともう一歩、踏み込んだものを与えているに違いなく、
そこのところをぜひとももう少し考えてみたい気持ちが、当方にはあります。学問の
スタンスとは何か、学問の営みとは何か、という問題です。
話を戻せば、この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和する
のか、ということになるようにも思われます。そして、その問いに対しては、現在私に
おいてもっとも納得のいく答(?)に近いものは、村田晴夫先生の「真善美の究極的な
一致を期待できること」こそが、真の「幸福」なのである、という(話が一種の逆転に
はなりつつも、むしろ幸福の definition がそれである)という立場ですが、それが答
になるのかどうか(近いものであるのは疑いないと思うのですが)、これについては、
ぜひ村田康常先生のご意見を、お伺いしたかったところなのです。
また、以後も引き続き、議論が深まりますことを、こころより願っております。
当方の問題意識もかなり明確になって参りました。
構想力(イマジネーション)と象徴(シンボル)、そして「命題」の立ち上がる、言語
以前の「遊戯」という問題に向けて、非常に感銘を受けつつ、同時に、次のように考え
ております。(この問題意識は、学の普遍性、つまり真という問題でもあるかと言えば
そうなのですが、これからの学問的立場のあり方、という意味ではより一層、善という
ことに振れているのかなと思います。)
cosmic drive ということ、つまり宇宙的衝動ということが、万人において、どのように
調和するのか。つまり、それは「万人にとっての普遍性」という問題について、どうい
う位置にあるのか。その点が、私にとっての問題意識の中心にあります。これは「真」
という意味でもそうなのですが、同時に「善」という意味からしてもです。言い換えれ
ば、「幸福」ということについて、ということです。(ちなみに、経済学的に言えば、
これはアダムスミスの、神の見えざる手という問題になってくるかと思います。)
それが、先日の後楽園学会でのやりとりでは、菱木先生の問い、そのような遊戯が、
どのように「例えば美ということとして成り立つとしても、世における善といったことと
調和するのか」という問いであったと、私の中では整理されております。(つまり、行為
的善ということではなく、結果としての善、つまり幸福の実現ということとして、捉えて
おります。それに向けて、もし「遊戯にもルールがある」(だから調和あるいは幸福実現
が期待できる)と答えていくことになるのであれば、そこに対して、「遊戯に規則など無
いのではないか」というのが、正当な問いとして出てくることになるのは必定と思います。
(仏に会えばこれを殺しはあくまで悟りに至る教説の受け入れに向けた比喩でありますが、
大用現前して軌則を存せず、仏の道が示されるようなところにむけて、前もって知られる
ようなルールのようなものは無い、ということは、考えておかねばならないことではない
かと思います。)
そしてもし、そういったやりとりを少し横に置いて、少なくとも専門性といったことに
偏ってしまう今日の学問あるいは「理性」の位置づけに対して、それを戒める意味が
あるのだという(いわば3月にご報告頂いた際の「研究者の倫理」的な解釈)に話を
限定してしまうならば、それはカント的な話、つまり理性というものにはやはり有限的
な限界があるのだから、それをわきまえるべきという話に、どれだけ一歩踏み込んだ
ことを言っているのか、という点が問題になって来ると思います。
事実、カントの批判哲学が、それこそ、逆にその戒めさえ心に刻んでおれば蛸壺に
専門化していても良いのだ、という、免罪符にしか、事実上ならなかった…というの
が今日の実状ではないかと私には思われますし、それに向けてはヘーゲルやフーコー
のダイレクトなカント批判の方が、ずっとしっくり来ます。ホワイトヘッドの立場は、
村田先生も言われる「合理的な論理への意志」や「体系を完結したものとして提示」
することへの拘りの中に、あともう一歩、踏み込んだものを与えているに違いなく、
そこのところをぜひとももう少し考えてみたい気持ちが、当方にはあります。学問の
スタンスとは何か、学問の営みとは何か、という問題です。
話を戻せば、この問題は、結局のところ、美ということと真と善がどのように調和する
のか、ということになるようにも思われます。そして、その問いに対しては、現在私に
おいてもっとも納得のいく答(?)に近いものは、村田晴夫先生の「真善美の究極的な
一致を期待できること」こそが、真の「幸福」なのである、という(話が一種の逆転に
はなりつつも、むしろ幸福の definition がそれである)という立場ですが、それが答
になるのかどうか(近いものであるのは疑いないと思うのですが)、これについては、
ぜひ村田康常先生のご意見を、お伺いしたかったところなのです。
また、以後も引き続き、議論が深まりますことを、こころより願っております。
浦井 憲 2018/11/05(Mon) 19:00 No.152
Re: 構想力と象徴、そして学問というスタンス
守永先生の「友愛と正義」へのレスに続く長文の連投となり、失礼します。村田康常です。
浦井先生からいただいたご質問、「美・善・真」の問題は、学会では菱木先生とともに、花岡先生からもいただいた質問(ホワイトヘッドの文明論で言われるような「平和ないしは平安(Peace)」と、遊び、ないは「遊戯三昧」とがいかに関わるかという問題)にも関わってくることがらであると思いますが、これらの論題はホワイトヘッドの議論を読み解きながら、少しずつ答えていくべきと思います。
たとえば、巨大な「世界の遊び」に巻き込まれている私たちは、この世界の遊びのなかでは遊ぶ主体というよりも、しばしば、遊ばれるというか弄ばれる存在になっています。この文明社会において、私たちの諸活動、たとえば、経済、学問、余暇……などなども、遊びと真面目のリズムのなかで繰り広げられるような、広い意味での遊びであり、森羅万象が遊びだという遊びの宇宙論に立てば、生・老・病・死のそのつどそのつどの切実で真剣な営みもまた、根源的には、自由と限定性のコントラストのなかでの遊びだといえるでしょう。ここまで遊び概念を拡大、深化させてしまって、遊びを「何でもあり」の営みとしてしまったような観点から、いったい何が言えるのかというと、ここでの関心に照らしてみると、私たちは、絶えず遊び戯れる活動の中にいて、遊んでいるのだということ、真面目に、真剣に、生死をかけ、愛着や反抗や鑑賞や実践を繰り返しつつ、遊んでいるのだということ、そして、そのように遊びつつ、私たちは、自分たちがこの生のアートとしての遊びを通して作りだしてきたものによって、遊ばれているのだということ、そういう遊びの再帰性というか渦動というか、(あまりうまい表現ではないですが)遊ぶ主体が遊ばれる客体でもあるといったようなことが、言えるようになるのではないかと思います。
ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』のなかで、プラトンの『法律』から「人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです」という言葉を引用しています(高橋英夫訳、中公文庫、54ページ。里見元一郎訳、講談社学術文庫、47ページ。プラトン『法律』第七巻803C-D)。私たちは、真摯に厳粛に遊びつつ、私たちを超えた何か巨大なものの遊びの中に巻き込まれて、遊ばれている。巨大な遊びに巻き込まれた駒のような弱小の存在にとって、この遊びは、守永先生もおっしゃったように、遊びだなどととは言っていられない、生死にかかわってくる深刻な事態です。しかもその私たちの日々の活動としての遊び、あるいは生活の諸活動としての遊び、ホワイトヘッドの言葉で言えば「生きるアート」としての遊びが、そういう巨大な世界の遊びを生み出しています。自分たちが生み出しているものに、自分たちが巻き込まれて、しばしば犠牲にもなっている、という意味での遊びの再帰性が、現代の文明社会の恐ろしい特徴で、そこには、上述の遊びの第一、第二、第三の相という見方をもう少し精緻にしなければ見えてこないような、再帰的で複合的な事態があると思います。しかしこういう事態も(バタイユとは別の意味で)遊戯という概念で見てみることで、何かがもう少し見やすくなるのではないか(その代わり、何かがもう少し混乱して見えにくくなるかも)、という予感があります。
プラトンが『法律』で、人間は神々の遊びのための具(玩具)となるよう創られた、と言った箇所は、遊びと平和(と戦争)について、真面目さや真摯さと遊びを対比させながら語っている箇所です。そこには、花岡先生が出された、遊びと平和とは一致するのか、という問いへの(プラトンによる)答えがあります。プラトンの答えは、戦争は平和のための闘いである、という前提に立った上で、遊びは平和を実現するための神々への奉献や歌い踊りにおいて、真剣に取り組まなければならない、つまりそのような意味で、遊びは平和を実現する、というものです。
アテーナイの人 私をして言わしめるなら、真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。ところで、最高の真面目さをもって事を行なうだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して、まえにも言いましたが、人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです。これこそが人間の最良の部分ですね。だから人は、男も女もそういうあり方に従って、最も美しい遊びを遊びながら、いままで考えていたのとは正反対の考えで生きてゆかなければいけません。
クレイニアス それは、どのようにするんですか。
アテーナイの人 いままで人びとは、真面目なことも遊びのためでなければならないと思っていますね。たとえば、戦争は真剣なことで、平和のためにうまく済まさなければならないと思っています。しかし、戦争のなかには、われわれが最も真摯、厳粛であると呼ぶに足るような遊びも、教育も、ありはしません。昔もなかったし、これからもありますまい。そこのところが一番大切なのだ、とわれわれは言うのですよ。で、人は平和の生を最も重要な、よいものと考えなくてはなりませんね。すると何が正しい道なのでしょう。奉献の式をするときも、歌い踊るときも、遊びをしながら生きてゆくのです。そうすれば人間は神々の御心を和らげ宥めて恩寵をうけ、敵を防ぎ、闘っては勝つことができるのですよ。(プラトン『法律』第七巻803C-D)
この箇所を、平和を実現するための闘いにおいて敵を防ぎ勝つことを目ざして、神々に捧げる奉献や歌や踊りという儀式において真摯に厳粛にこれらの儀式を遊ぶことが正しい道だ、という風に読むとすれば、この答えは、現代においては換骨奪胎されなければならないでしょう。つまり、確かに遊びは平和を実現するだろうが、それは、神々への讃美としての遊びを真摯に執り行うことによってでもなく、また、戦争に勝利することとしての平和を実現することでもないだろう、といったような答えになっていくと思います。では、遊びによって私たちは、どのような意味での平和を、どのようにして実現するのか。ここで遊び概念や平和概念をしっかり論究しないと、平和が実現してはじめて人は(子どもは)遊べるのだ、つまり遊びは平和を実現するのではなく平和を享受するのであり、そのような意味においてのみ遊びは平和と一致するのであり平和を象徴するのだ、といったような答えになってしまいます。これは確かに遊びに関する一定の見方ですが、遊びを秩序や調和の享受の面だけで見るというのは表層的な理解です。
遊びのより深く重要な理解は、秩序や調和のなかで自らを享受(enjoy)するという面と、そのような秩序や調和をも新たに創り出そうとする面とのコントラストに関わります。
そして、遊びが創造性を具体化した活動だという見解が最終的に向き合わなければならないのが、遊びを通して創造される世界は調和的な秩序、友愛と優しさと愛情の世界を実現しているのか、という問いです。守永先生はホワイトヘッドが友愛を論じていないとおっしゃっていますが、『科学と近代世界』の最終章や『観念の冒険』の最終章では友愛や愛情が論じられています。『科学と近代世界』の最終章では、「憎悪の福音」「力の福音」「画一化の福音」に対して、成功する有機体は互いに助け合うように自分たちの環境を創り直す、いかなる有機体も、激しい変化から身を守り、必要なものを獲得するために、友とともにある環境(environment of friends)を必要とする、ということが述べられて、敵対と友愛の対比が示されます。『観念の冒険』の最終章は文明社会における「平和/平安(Peace)」が論究されますが、このPeaceという概念を導入する際、ホワイトヘッドは愛情や優しさ、と言いかけて、それらの語がおそらくはあまりにもパーソナルな響きをもっているために「狭い」と切り捨てて、少しためらったのちに、「平和/平安(Peace)」と言い直しています。「世界の遊び」が「平和」を実現するとすれば、それは、対立するものを一つの原理、一つの形式、一つの生き方、一つの理想のもとに統合するような「画一化の福音」ではなく、多様性と冒険を許容し、多様な諸要素が多様なままでコントラストにおいて調和するような「調和の調和」の実現によってだろう、といったような答えになっていくだろうと思います。多様性とは何か、画一化とは何か、対立とは何か、そして調和とは何か、対立するもののコントラストにおける一致とは何か、また、いかにしてか、といった山のようにたくさんの問いが出てくると思いますが、今はまだそれらに答えるようなところまで進められていません。
遊びは、そのつどの個々の活動においては目的があるのに全体としては目的や「何のため」を持たないという活動を示す概念でもあり、活動における自由と限定性のコントラストも含意する言葉でもあるという点でも、経済を遊びという概念で捉えることに、いくつかの可能性があるように思います。
そして、こういう遊びの経済学といったような観点は、個々の遊び活動が集まって巨大な世界の遊びが成立していくという点で、多が集まって一となるというホワイトヘッドの『過程と実在』での「有機体と環境」の前後の議論から切り込むべき問題だと思いますし、また、遊びの活動を通じて、意味や価値が生成していくというイマジネーションや創造性の議論に関しては、文明社会が実現する価値としての「真的美」としての「アート」あるいは「冒険」や「平安」または「調和の調和」といった議論を展開している『観念の冒険』第4部の文明論を参照できる問題だと思います。もちろん、いずれの議論も、ホワイトヘッドの他の議論全体を念頭に置かなければならないですが、それはホワイトヘッド研究者として私自身が取り組まなければならない課題ですし、この浦井先生の問いにはじっくり答えを探すつもりです。
答えるというより、問いをますます問い進める、疑問がますます疑問を生む、といった体になってしまうと思いますが、それが哲学するということなのでしょう。
真・善・美と文明社会、あるいは人間の生といった問題圏では、参照する文献をすぐには思いつかないですが、ずいぶん前に出た『ホワイトヘッドと文明論』(プロセス研究シンポジウム、行路社、1995年)、特にそこに収録された村田晴夫の論文と山本誠作の論文は参考になると思います。また、『プロセス思想研究』(遠藤弘編著、南窓社、1999年)の両者の論文も、その続編として重要です。この2冊は、90年代の日本ホワイトヘッド・プロセス学会の中心メンバーが、学会活動を通して出版した論文集で、1つはシンポジウムで発表し討論したものをもとに論文化したもの(『ホワイトヘッドと文明論』)、もう1つは科研費をとって、学会の主要メンバーによるオールスターズで論文集を企画したもの(『プロセス思想研究』)です。今は入手が難しいですが、90年代の学会の主要メンバーによる集大成の2冊です。この後で、こういう学会の企画としては、『理想』のホワイトヘッド特集(2014年)まで飛びます。文明論で私が書いたものは、2004年の立教大学キリスト教学会『キリスト教学』第46号の「逆説としての世界の善性」という論文があって、これは自分が書いたもののなかで一番よく書けている(そして比較的短い)と思っている論文です。ネットでは全文見られませんが、どこかで見つかったら読んでみてください。必要であれば、時間のあるときに手もとに残っている分をPDFにして送ることもできると思います。
浦井先生からいただいたご質問、「美・善・真」の問題は、学会では菱木先生とともに、花岡先生からもいただいた質問(ホワイトヘッドの文明論で言われるような「平和ないしは平安(Peace)」と、遊び、ないは「遊戯三昧」とがいかに関わるかという問題)にも関わってくることがらであると思いますが、これらの論題はホワイトヘッドの議論を読み解きながら、少しずつ答えていくべきと思います。
たとえば、巨大な「世界の遊び」に巻き込まれている私たちは、この世界の遊びのなかでは遊ぶ主体というよりも、しばしば、遊ばれるというか弄ばれる存在になっています。この文明社会において、私たちの諸活動、たとえば、経済、学問、余暇……などなども、遊びと真面目のリズムのなかで繰り広げられるような、広い意味での遊びであり、森羅万象が遊びだという遊びの宇宙論に立てば、生・老・病・死のそのつどそのつどの切実で真剣な営みもまた、根源的には、自由と限定性のコントラストのなかでの遊びだといえるでしょう。ここまで遊び概念を拡大、深化させてしまって、遊びを「何でもあり」の営みとしてしまったような観点から、いったい何が言えるのかというと、ここでの関心に照らしてみると、私たちは、絶えず遊び戯れる活動の中にいて、遊んでいるのだということ、真面目に、真剣に、生死をかけ、愛着や反抗や鑑賞や実践を繰り返しつつ、遊んでいるのだということ、そして、そのように遊びつつ、私たちは、自分たちがこの生のアートとしての遊びを通して作りだしてきたものによって、遊ばれているのだということ、そういう遊びの再帰性というか渦動というか、(あまりうまい表現ではないですが)遊ぶ主体が遊ばれる客体でもあるといったようなことが、言えるようになるのではないかと思います。
ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』のなかで、プラトンの『法律』から「人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです」という言葉を引用しています(高橋英夫訳、中公文庫、54ページ。里見元一郎訳、講談社学術文庫、47ページ。プラトン『法律』第七巻803C-D)。私たちは、真摯に厳粛に遊びつつ、私たちを超えた何か巨大なものの遊びの中に巻き込まれて、遊ばれている。巨大な遊びに巻き込まれた駒のような弱小の存在にとって、この遊びは、守永先生もおっしゃったように、遊びだなどととは言っていられない、生死にかかわってくる深刻な事態です。しかもその私たちの日々の活動としての遊び、あるいは生活の諸活動としての遊び、ホワイトヘッドの言葉で言えば「生きるアート」としての遊びが、そういう巨大な世界の遊びを生み出しています。自分たちが生み出しているものに、自分たちが巻き込まれて、しばしば犠牲にもなっている、という意味での遊びの再帰性が、現代の文明社会の恐ろしい特徴で、そこには、上述の遊びの第一、第二、第三の相という見方をもう少し精緻にしなければ見えてこないような、再帰的で複合的な事態があると思います。しかしこういう事態も(バタイユとは別の意味で)遊戯という概念で見てみることで、何かがもう少し見やすくなるのではないか(その代わり、何かがもう少し混乱して見えにくくなるかも)、という予感があります。
プラトンが『法律』で、人間は神々の遊びのための具(玩具)となるよう創られた、と言った箇所は、遊びと平和(と戦争)について、真面目さや真摯さと遊びを対比させながら語っている箇所です。そこには、花岡先生が出された、遊びと平和とは一致するのか、という問いへの(プラトンによる)答えがあります。プラトンの答えは、戦争は平和のための闘いである、という前提に立った上で、遊びは平和を実現するための神々への奉献や歌い踊りにおいて、真剣に取り組まなければならない、つまりそのような意味で、遊びは平和を実現する、というものです。
アテーナイの人 私をして言わしめるなら、真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。ところで、最高の真面目さをもって事を行なうだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して、まえにも言いましたが、人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです。これこそが人間の最良の部分ですね。だから人は、男も女もそういうあり方に従って、最も美しい遊びを遊びながら、いままで考えていたのとは正反対の考えで生きてゆかなければいけません。
クレイニアス それは、どのようにするんですか。
アテーナイの人 いままで人びとは、真面目なことも遊びのためでなければならないと思っていますね。たとえば、戦争は真剣なことで、平和のためにうまく済まさなければならないと思っています。しかし、戦争のなかには、われわれが最も真摯、厳粛であると呼ぶに足るような遊びも、教育も、ありはしません。昔もなかったし、これからもありますまい。そこのところが一番大切なのだ、とわれわれは言うのですよ。で、人は平和の生を最も重要な、よいものと考えなくてはなりませんね。すると何が正しい道なのでしょう。奉献の式をするときも、歌い踊るときも、遊びをしながら生きてゆくのです。そうすれば人間は神々の御心を和らげ宥めて恩寵をうけ、敵を防ぎ、闘っては勝つことができるのですよ。(プラトン『法律』第七巻803C-D)
この箇所を、平和を実現するための闘いにおいて敵を防ぎ勝つことを目ざして、神々に捧げる奉献や歌や踊りという儀式において真摯に厳粛にこれらの儀式を遊ぶことが正しい道だ、という風に読むとすれば、この答えは、現代においては換骨奪胎されなければならないでしょう。つまり、確かに遊びは平和を実現するだろうが、それは、神々への讃美としての遊びを真摯に執り行うことによってでもなく、また、戦争に勝利することとしての平和を実現することでもないだろう、といったような答えになっていくと思います。では、遊びによって私たちは、どのような意味での平和を、どのようにして実現するのか。ここで遊び概念や平和概念をしっかり論究しないと、平和が実現してはじめて人は(子どもは)遊べるのだ、つまり遊びは平和を実現するのではなく平和を享受するのであり、そのような意味においてのみ遊びは平和と一致するのであり平和を象徴するのだ、といったような答えになってしまいます。これは確かに遊びに関する一定の見方ですが、遊びを秩序や調和の享受の面だけで見るというのは表層的な理解です。
遊びのより深く重要な理解は、秩序や調和のなかで自らを享受(enjoy)するという面と、そのような秩序や調和をも新たに創り出そうとする面とのコントラストに関わります。
そして、遊びが創造性を具体化した活動だという見解が最終的に向き合わなければならないのが、遊びを通して創造される世界は調和的な秩序、友愛と優しさと愛情の世界を実現しているのか、という問いです。守永先生はホワイトヘッドが友愛を論じていないとおっしゃっていますが、『科学と近代世界』の最終章や『観念の冒険』の最終章では友愛や愛情が論じられています。『科学と近代世界』の最終章では、「憎悪の福音」「力の福音」「画一化の福音」に対して、成功する有機体は互いに助け合うように自分たちの環境を創り直す、いかなる有機体も、激しい変化から身を守り、必要なものを獲得するために、友とともにある環境(environment of friends)を必要とする、ということが述べられて、敵対と友愛の対比が示されます。『観念の冒険』の最終章は文明社会における「平和/平安(Peace)」が論究されますが、このPeaceという概念を導入する際、ホワイトヘッドは愛情や優しさ、と言いかけて、それらの語がおそらくはあまりにもパーソナルな響きをもっているために「狭い」と切り捨てて、少しためらったのちに、「平和/平安(Peace)」と言い直しています。「世界の遊び」が「平和」を実現するとすれば、それは、対立するものを一つの原理、一つの形式、一つの生き方、一つの理想のもとに統合するような「画一化の福音」ではなく、多様性と冒険を許容し、多様な諸要素が多様なままでコントラストにおいて調和するような「調和の調和」の実現によってだろう、といったような答えになっていくだろうと思います。多様性とは何か、画一化とは何か、対立とは何か、そして調和とは何か、対立するもののコントラストにおける一致とは何か、また、いかにしてか、といった山のようにたくさんの問いが出てくると思いますが、今はまだそれらに答えるようなところまで進められていません。
遊びは、そのつどの個々の活動においては目的があるのに全体としては目的や「何のため」を持たないという活動を示す概念でもあり、活動における自由と限定性のコントラストも含意する言葉でもあるという点でも、経済を遊びという概念で捉えることに、いくつかの可能性があるように思います。
そして、こういう遊びの経済学といったような観点は、個々の遊び活動が集まって巨大な世界の遊びが成立していくという点で、多が集まって一となるというホワイトヘッドの『過程と実在』での「有機体と環境」の前後の議論から切り込むべき問題だと思いますし、また、遊びの活動を通じて、意味や価値が生成していくというイマジネーションや創造性の議論に関しては、文明社会が実現する価値としての「真的美」としての「アート」あるいは「冒険」や「平安」または「調和の調和」といった議論を展開している『観念の冒険』第4部の文明論を参照できる問題だと思います。もちろん、いずれの議論も、ホワイトヘッドの他の議論全体を念頭に置かなければならないですが、それはホワイトヘッド研究者として私自身が取り組まなければならない課題ですし、この浦井先生の問いにはじっくり答えを探すつもりです。
答えるというより、問いをますます問い進める、疑問がますます疑問を生む、といった体になってしまうと思いますが、それが哲学するということなのでしょう。
真・善・美と文明社会、あるいは人間の生といった問題圏では、参照する文献をすぐには思いつかないですが、ずいぶん前に出た『ホワイトヘッドと文明論』(プロセス研究シンポジウム、行路社、1995年)、特にそこに収録された村田晴夫の論文と山本誠作の論文は参考になると思います。また、『プロセス思想研究』(遠藤弘編著、南窓社、1999年)の両者の論文も、その続編として重要です。この2冊は、90年代の日本ホワイトヘッド・プロセス学会の中心メンバーが、学会活動を通して出版した論文集で、1つはシンポジウムで発表し討論したものをもとに論文化したもの(『ホワイトヘッドと文明論』)、もう1つは科研費をとって、学会の主要メンバーによるオールスターズで論文集を企画したもの(『プロセス思想研究』)です。今は入手が難しいですが、90年代の学会の主要メンバーによる集大成の2冊です。この後で、こういう学会の企画としては、『理想』のホワイトヘッド特集(2014年)まで飛びます。文明論で私が書いたものは、2004年の立教大学キリスト教学会『キリスト教学』第46号の「逆説としての世界の善性」という論文があって、これは自分が書いたもののなかで一番よく書けている(そして比較的短い)と思っている論文です。ネットでは全文見られませんが、どこかで見つかったら読んでみてください。必要であれば、時間のあるときに手もとに残っている分をPDFにして送ることもできると思います。
村田康常 2018/12/03(Mon) 23:08 No.163